経済気象台コラムより 経済120510
朝日新聞に、「経済気象台」という小さなコラムがある。識者が、ペンネームで、持ち回りで記事を書いている。時々は、反発を覚える文章もあるが、共感する記事も多い。
特に、私は「啄木鳥」さんのファンである。触発されて、それを下敷きにしてこのコラムを書いていることもある。
5月17日のこの欄に、ドラ氏が「国風化」と題した文章を寄せている。これが大変面白い。
制度いじりの好きな政・官・学の開国派を、歴史の教訓を生かしていないとして、痛烈に皮肉っている。
制度には、伝統や文化、精神風土が合致して初めて、その機能が果たせるのである。
そういうことを理解しない短兵急な改革は、すべて失敗している。
ドラ氏のいう「改革は、社会や文化という根底から考えなければいけない」とする結論は、諸手を上げて賛同する。
考えてみれば、社外取締役なんて機能するのだろうか。マイケル・ポーターの指摘を待つまでもなく、企業は外部環境によって、その組織風土が変わる。
組織風土の違う企業の指導など、一般化してできるものだろうか。確かに「質問力」を発揮して、気づきを誘発することはできる。しかし、月に何度か会議に顔を出すぐらいで、それ以外に何ができるのだろう。
不祥事防止の機能といっても、そういう意欲を持っている人は、煙たがられて、敬遠されるのがオチである。日本人の習性として、仲間になれる人しか寄せ付けない。
各県の教育委員も、誠に人格円満な人が多い。ところが、見識という点では、疑問符がつく。さらに、彼らは非常勤である。それで何ができるのか。現状は、名誉職と成り果てている。事務局も、その方が有難いであろう。仕事が増えなくて済む。
社外取締役の多く入った取締役会は、おそらく教育委員会化するだろう。即ち、株主の期待通りには機能しない、ということだ。
執行役員制というのも、事業部の収支責任を負わされているケースが多い。これなども、短期的利益ばかりを追い求める結果になっていないか、心配になる。
競争が激烈でスピードが要求されることもある。しかし大抵は、土壌にしっかり肥やしをやっていると、自然に花開くものである。
ソニーに限らず、アメリカナイズした企業の収益悪化が、最近目立つ。
各ステークホルダーに万遍なく気づかいをする、長期的視野に立って経営する、従業員を育てることに熱心に取り組む、強みにさらに磨きをかける、といった「日本的経営の良質な遺伝子」を放棄し、資金効率ばかりを指標にして、攻め立ててはいないのか。
国際化と称して、制度仕組みを、アメリカ式というローカル・ルールに強引に変革した会社は、反省をすべき時期が来ているのではないか。
制度ばかりいじくって、社会の生態系に考えが及ばない。教養のない「やり手」に率いられた組織は危ない。優秀な人から辞めていき、あらゆる組織内で、軋みが発生している。
これは、一企業のみならず、日本全体にも言えることである。
国民年金の納付率は最低を記録したとか、生活保護世帯が最多になったとか、暗いニュースが、最近は多い。こんな社会を主導してきたリーダーたちの見識を、私は疑う。
そして、そういうリーダーしか育たなかったということは、教育制度や教育内容に、何か欠けたものがあったのではないか。
自分たちの価値観を再確認し、百年の計、教育の原点から見直す必要があるように思う。
斉藤隆夫のこと 政治120509
「評伝 斉藤隆夫」松本健一著 東洋経済新報社版 を読んだ。戦前の政治や経済の環境を、現代に似ているような気がして、重ねてみたかったのである。
副題に、孤高のパトリオット(愛国主義者)とある。彼に関しては、精々、「粛軍演説」ぐらいしか知られてはいない。
立憲政治を完美たらしめることを生涯の目標に設定し、憲政の常道を追求した人物である。その彼が孤高にならざるを得ない時代背景と、彼の思想を、松本が幾多の資料をひも解き、論評を加えている。「対支21か条の要求」(1915年)を、日本の失敗の契機にしているのは、全く同感だ。
欧米の植民地支配からのアジア解放、大東亜共栄圏の理想は、お飾りと化し、結果的に列強と同じ道を歩んでしまった。折からの経済恐慌は、単なる遅れてきた帝国主義国に過ぎなくしてしまった。
1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐって、野党政友会の犬養毅や鳩山一郎が、浜口内閣に対し、「統帥権干犯」として政局に持ち込んだ。
「族父統治と天皇機関説」を上梓し(1908年)、加藤弘之を批判していた斉藤は、もともと天皇機関説論者であった。
1935年(昭和10年)、これが国体に合わないとして問題にされ、美濃部達吉は排斥され、政府は「国体明徴声明」を出して事態を収拾した。
こういう時代背景にあって、立憲政治の正常化を試みたのが、斉藤隆夫である。
1936年(昭和11年)の2・26事件の後、行った「粛軍に関する質問演説」は、5月事件や10月事件、5・15事件(1932年)などの軍事クーデターや未遂事件の処罰を徹底しなかった軍当局への批判であり、聴く人を感動させる内容だったという。
しかし、1939年(昭和14年)の「シナ事変処理に関する質問演説」では、「聖戦の美名のもとに・・・」という部分が軍部を冒涜するものとされ、衆議院議員を除名された。
斉藤は、リベラルだと思っていたが、実はそうではない。保守主義者、現実主義者だ。
彼が書いた「大東亜共同宣言の将来」(1943年)では、「5,6千年の世界史における国家民族興亡の史実を見ても、強国が興って、弱国が滅び、強国は弱国を侵略し、弱国は強国に侵略さるる」と言い、「侵略さるるのを厭うならば、なぜに強くならないか。」と言っている。歴史におけるパワーポリティクスを肯定しているのである。
彼は、右翼、軍部,「革新」官僚からすれば、反軍部、天皇機関説論者、であり、左派、リベラリストからすれば、右翼反動、保守主義者、と映るのである。
彼の思想そのものが、当時の左右両派から「反時代的」とされ、孤立せざるを得なかったし、没後も評価されない理由である、と松本は書いている。
この本を読んで、彼のような教養ある保守政治家を、現代は求めている、と改めて思う。
やたら「改革」を叫ぶ輩(やから)、軽薄な新自由主義思想を振り回す輩ではないことだけは確かである。
政治と宗教 文化120508
倫理法人会という経営者の早朝勉強会で、「道徳と倫理」と題して講演をした。
道徳も倫理も、同じく個人の行動規範ではあるが、道徳は共同体規制という面が強いのに対して、倫理は内面的な、譲ることのできない一線という意味でより昇華した概念である。
両者の相違が如実に表れるのは、組織の方向性と自分の考えに相違が生じた場合である。そこで、宮台真司の定義を紹介した。
「自分の属する共同体の行動規範に従うことを道徳的と言い、共同体のメンバーから抹殺されようとしても、内なる声・自分の良心に従うことを倫理的と言う。」
そして、いくつかの事例を紹介した。
なによりも私が訴えたかったのは、こうして言葉の定義を自分なりに明確にして、なぜという問いを繰り返す深堀思考である。そういう習慣は、経営者なら大切なはずである。
そして、倫理法人会というからには、内面的な良心から出ずる譲れない一線を持とうではないか、という提言をした。私の場合、それは日本的経営の良質な遺伝子である。
知行一致とはいえ、私の不器用な生き様を披露しながら、講演を終えた。
この団体、大変気持ちの良いメンバーが揃っている。講演後、共感や激励のメールやお葉書を大勢の方からいただいた。こうして反応をいただくことは、講師にとって有難い。
現代経済史を勉強していると、時代時代の政府の経済政策についての批評が避けられないので、どうしても政治に関して無色ではいられない。
倫理の問題も宗教に通ずる。政治と宗教の周辺を論ずるのは難しい。
ビジネスの世界でも、政治と宗教の話はタブーである。越えがたい溝があるから、そんなことで熱くなっては本業に差し障りが出る。
公務員の世界は、政治的中立などということを言われる。これまた、立法府の作った法律の基づいて行政を行うという建前、首長という政治家の下で仕事をする立場からすると、当然制限があってしかるべきである。
そこで、現役の時の言動は限定される。組織の中で、鬱々とした日々を送っている人が多いに違いない。退職して、少し私はタガを緩めている。
エートスの基盤となる共通の価値観である宗教を日本人は持たない。その代替としての、共同体規制=道徳については、ある程度教育されている。場の空気まで読む民族である。
こういう民族の特徴の、負の面ばかりが目立っているのが、我が国の外交である。世界が国際化する都度、日本人の辺境意識が頭をもたげる。内向きになり、情報入手を怠り、相手の意図が読めない。
それで、追いつめられるまで、国益を考えての自己主張ができない。核心的利益を多用する隣国と対極をなす。
政治も宗教も正解のない世界である。後世の人たちの評価はあっても、今ここでの正解はない。
しかし、国際化社会を生きていくためには、「私の正解」は持つべきだと思う。両者とも、エートスや精神風土に関係し、深く文化に根ざすものである。
いろいろな文化に接し、彼我の違いを認識することは、世界観を広げる。
国際社会で唯一尊敬される資産は文化である。文化は、決して経済的な余剰といった位置づけであってはならない。
カルタゴは、文化を軽視することで滅亡したという説が有力である。(月尾嘉男ブログ参照)
考えるきっかけになる基礎知識だけは、時間的に余裕のある学生時代に読書によって獲得すべきだろう。高校までは、授業という形で教育しづらい分野であるので、学校ではせめて「寄り道」のススメをしたいものである。
十年一昔 経済120507
旭硝子を51歳で退職して丁度10年になる。今は、OB会へも出席し旧交を温めているが、そこで得られる情報は、心配していた通りのものが多い。
アメリカの戦略にハメられて、後輩たちは苦労している。商慣習まで挙げ足を取られて、妥協に妥協を重ねた結果である。
1990年代、社内では「フリー・フェア・グローバル」が合言葉であった。GEの中興の祖ウェルチの資金効率第一主義の改革が、お手本として、もてはやされていた。
文化に対する認識もなく、社会の生態系に思いを致すこともなく、ひたすらアメリカナイズしていく姿に失望して会社を辞めた。
今では、カンパニー制、執行役員制、社外取締役制などが導入され、社内監査制度が充実している。配当性向と社長の年俸だけは上がったが、業績は低迷している。
すでに、大株主の1,2位が外資となっており、こうした国際化に堪えることのできる体制を整備してきた、ということだろう。リターンだけを求める外資に何を遠慮しているのか。日本の企業だから、日本式経営をしている、で何が悪い。
こういう体制で、付加価値を創造できる企業になっているとは思えない。
経済戦争に負けたアメリカが、国家戦略策定のためにプロジェクトまで組んで分析してくれた「日本企業の強み=日本経営品質賞の理念」を、ことごとく放棄しているからだ。
まさしくアメリカの思うツボではないか。
一企業に留まっているだけならまだしも、日本全体でアメリカの国家戦略にハメられていることが、いかにも悔しい。
また、それに未だに気づかない「お人好し」が多いことに、少々苛立ちを覚える。
国際標準という美名のもとに、アメリカのルールに同調させられてきた。こんなに卑しくて、かつ持続不可能な資本主義体制にしてどうするのか。マネーゲームは、即博打だ。
こういう社会の現実を学校でどう教えろというのか。
もう結果は出ており、日本人は、この20年で学習してきたはずだ。それが未だに国民の間で、コンセンサスになっていない。
かつて日経新聞記者の取材を受けたことがある。私の史観を話したら「陰謀説ですか。」と一笑に付された。何も陰謀と言っているわけではない。各国とも国益を中心に動いており、日本には国益を確保するための戦略がない、と言っているのだ。
マスコミなども、本当に勉強していない。
会社も国家も、環境変化に対応していくことは大事である。しかし、そこには不易の経営理念があるはずだ。国家主権があり国家戦略があるはずだ。自分が不利となる環境変化を、呼び込むことはない。ノーと言えばいいのである。それが言えない。
日本の「核心的利益」とは何か。為替がもう少し円安で安定し、世界情勢が落ち着くことであろう。緩やかなインフレになり、企業家に国内への投資意欲が湧いてくることだろう。そういう条件さえ整えれば、もともと高度成長を成し遂げた優秀な勤労者が揃っているのである。技術も資金も豊富にある。自然と成長路線に戻ることができるはずだ。
ところが、円高の先行きが不透明、デフレがいつ止まるのか不透明、国内需要は高齢化・少子化でパイは縮小予想・・・となると誰も投資をしない。雇用が国内から消えていき、優秀な中小企業群が崩壊すると、日本の強みが消失してしまう。
そういう事態を回避するための戦略が見えてこない。TPPなど真逆の売国行為だ。
食糧をどうするのか。エネルギーをどうするのか。かつてのような元気な中間層をどうやって再生するのか。
ASEANプラス3(または6)の自由貿易協定の方を急ぐべきだ。その方が、日本にとってメリットが大きい。
日本は、覇権を争う両大国に挟まれている。一方で、双子の赤字を垂れ流し輪転機を回し続ける国家があり、片方では、人治主義に留まり、法治の及ばない国家がある。そういう国家と、経済は緊密につながっているのだ。そして、パワーポリティクスという現実を見据えなければならない。是々非々で、彼らの力を活用することだ。
知的生産技術とは 教育120506
肉体労働でも、うまく仕事をこなすにはコツというものがある。これは、五感を使って、体に浸み込ませるものでしょう。技能の世界も、くりかえし作業の中で、どうすればうまくいくか、という問題意識だけは持っている必要はあります。
問題意識があれば、考えながら作業するので、工夫が生まれる。うまくゆけば、それが成功体験となって、更に改善するようになる。また、そうした職場改善に努力した者がリーダーとなって、後輩を育てる。
そういう良い循環ができている職場は、いつしかどこにも負けない生産性を達成します。基本は、学ぶ意欲と考える習慣を、ひとり一人が持つことです。
個人プレーの職場においても、練達者の技能を「盗む」ためには、学ぶ意欲と考える習慣は、最低限必要になってくるはずです。
この学ぶ意欲と考える習慣は、知的生産技術の基底部分をなしています。
学校教育では、この学ぶ姿勢と考える習慣を涵養するのは、勉学においてのみではありません。部活においても、勝つという目的のために、生徒たちは学び、そして考えているはずです。多少勉強が苦手でも、部活などで学ぶ姿勢と考える習慣のできた人たちが現場を支え、その現場力が、忠誠心とあいまって、日本企業の強みの源泉でした。
知的労働の場合はどうでしょうか。前例を覚え、組織内の掟に従うのは当然ですが、それだけでは満足してもらえないのが通常です。何か新しい発想を盛り込まなければ評価されない。考え抜くと同時に、ヒントになるものを探します。
独創力とは、つながっていない知識をつなぎあわせて、できてくるものです。無から有は発生しません。ここで必要になってくるのが「編集する」あるいは「組み合わせる」という行為です。私は、この「編集する」「組み合わせる」という行為が、知的生産技術の真髄だと思っています。
ただし、そのためには、教養が予めある程度身に付いていることが前提です。
「今ここでの問題解決のために、時間軸・空間軸を拡大して考えられる知識」という定義をした「教養」です。
現代は、本当に便利な世の中になりました。パソコンで検索すれば、大抵の言葉は解説されています。情報リテラシーさえあれば、取捨選択する能力さえあれば、いろいろと編集できます。オープンになっている資料は,出典を明示して、使わせてもらえばいいのです。
ところが、この情報リテラシーを含めた教養に欠ける人が多くなっている、と感じます。前々回コメントした「たて糸と横糸」の両方が十分準備できていない。歴史観も世界観も不十分なまま、リーダーに登りつめた人が多い。こういうリーダーに率いられた組織は、必ず衰退しています。今の日本がよい例です。
手前味噌で恐縮ですが、このブログで取り上げている、パワーポリティクスを感じる力、国際経済への理解力、日本文化に対する造詣、などはエリートには必須項目だと思います。
大衆に迎合することなく、戦略的に、組織を、会社を、国家を、導いていくには、やはり志と胆力だけでなく、それなりの知識が必要です。
それを生涯にわたって維持し更新していくためには、学ぶ姿勢と考える習慣、そして集積した知識を編集する力、この二つの力から成る「知的生産技術」を磨く必要があります。
そうして磨かれたものが、大人の知恵となり、経営理念や人生哲学になっていきます。
エリート教育に関しては、話題になっている、中等教育でのボーディングスクール(全寮制学校)なども含め、根本の教育制度から見直す必要があると感じています。
読み書き計算 教育120505
4つの積み木のなかで、一番下に積む「人間としての基礎基本」については、もうコメントしました。今日は、その上に積むべき「読み書き計算」の能力について言及します。
教科でいうと、国語と数学(算数)です。特に義務教育段階でのこの2科目はこれからの長い人生においても、決定的に大事です。
国語力は、いわゆる学力の基底部分です。日本語をしっかりと読みこなすことができないと、情報を入手できません。必要な知識を、生涯にわたって身に付ける必要のある現代人には致命的です。また、正確な日本語で、情報発信することは、社会で協働していくには必須です。
言語というのは、それで思考するわけですから、即思考力に繋がります。深く考える力は、それだけ日本語での概念の幅や厚みがなければなりません。語彙が豊富ということは、単なる知識のレベルを超えて、思考力にも影響するものです。
国語力をつけるには、とにかく文章を読むことです。高校の国語の教科書は、さすがに名文が揃っています。引用されている文章は、文庫本を購入し全文を読むとよいと思います。
算数は、小学校3,4年生から、小数や分数が出てきます。マイナスの概念も出てきます。この辺りから、落ちこぼれる子供たちが出てきます。抽象的な概念についていけなくなるのです。中学になって、文字式などが出てくると、もう完全にアウトになる子が多い。
数学は積み重ねですから、高校段階で、義務教育レベルの数学がわからなくなると、非常に辛い思いをする。それが、不登校の遠因になったりします。
抽象化してものを考えるという力は、とても大切です。社会人になって、役職が上がるにつれて、今までの経験を抽象化して概念化する、というスキルが必要になってきます。
モノを考えるという営為は、個々の事案を抽象化して、法則性を追求することです。
経営理念や経営哲学を構築していくには、そういう考える作業をしなければなりません。専門用語で、コンセプショナルスキルといいますが、ベースになるのは、数学で鍛えられた論理的思考力です。
国語も数学も、受験という意味では、若干のテクニックがありますが、それを超えて大切な教科です。それで、私はあえて4つの積み木のひとつに抜き出しているのです。
この積み木は、教え込むという教える側の姿勢が肝要です。知らないから、しっかりわかるまで、繰り返し教えるという忍耐が、先生方に求められます。
今の若者を見ていて、小学校で英語の時間をつくるより、国語と算数の時間をもっと増やせ、と言いたくなります。
橋下市長が義務教育段階でも留年をさせると言って話題になっていますが、まず、指導体制をしっかり取った上での議論にしなければなりません。
岩手県では、5教科500点満点の高校入学試験を実施していましたが、成績分布の現状は、正規分布ではなく、もう「高原型」「ふたこぶラクダ型」になってしまっています。
まずもって、教育委員会としては、学力の底上げに全力で取り組むべきでしょう。
岩手県では、地域全体で折角教育振興運動というすばらしい取り組みをしているわけですから、これを狭義の学力向上に切り替えてみてはどうか、と提案してきました。
いなかの子は、先祖の遺影のある住環境で育つのです。友達を大切にしなさい、と親から言われて育つのです。身近に自然があるのです。一番下の積み木は、積みやすい環境にあります。不足しがちなのが、18歳の壁をクリアする狭義の学力です。
その学力をつけるための、最善の努力をしているとは言えません。
履修主義とか習得主義とかの議論は、そうした努力をしたあとの話です。
たて糸とよこ糸 教育120504
役に立つ布を織るには、たて糸とよこ糸が必要です。同様に、我々の価値観の形成にも、たての線とよこの線を縦横に交差させる必要があると考えています。
たての線とは、歴史観です。よこの線とは、世界観です。これらが相まって、正しい価値基準が出来上がるのだと思います。
そのためには、歴史の教訓を学ぶと同時に、現在の世界にアンテナを張り、情報を収集しなければなりません。
私たちは、それができているでしょうか。どうも不十分なような気がしてなりません。
彼我の違いを認識するという経験をどれだけ体験したでしょうか。
興味を持って、史実に当たった経験がおありでしょうか。
国際化の時代です。学習指導要領にも、これからは「知識基盤社会」になり、「生涯学習社会」になる、と書いてあります。私はこれらの時代認識は正しいと思います。
しかし、果たしてどれだけの人が、それを実感しているでしょうか。
岩手県では、震災前で毎年1万人の人口減少が見られました。県民所得が、右肩下がりで減少していました。こういう事実を、誰も問題にしない。ましてや、グローバリゼーションと関連付けて考えない。
校長協会の進路指導部会では、「地産地就」という造語まで作り、進学就職について、地元志向へ舵を切っていました。
縮みゆく日本をますます縮ませる考え方であると、警告だけはしてきました。
先生方の集団は、本当に、子供たちのことを考えている集団なのか、地域のことを真剣に考えているのだろうか、と疑問に思いました。
地方分権が叫ばれています。ヒモつき補助金など使い勝手が悪く、無駄の温床となっている制度改革は必要でしょう。しかし、現状での地方分権には、もろ手を挙げて賛成するわけにはいきません。なぜなら、地方に人材が足りていないからです。
私は、教養を「今ここで、の問題解決のために、時間軸・空間軸を広げて考えることのできる知識」と定義してきました。
そして、社会人には「知的テイクオフ」が欠かせない、と言ってきました。興味を持って物事に取り組む欲動です。
これらを併せ持つ人財を、もっと地方に厚く配置するシステムが必要です。なんやかんや言っても、中央省庁の人たちは優秀です。文科省でのヒアリングに参加した際、それを感じました。あれだけ私がかみついたにもかかわらず、ホームページにそれを載せている。その一事だけでも、懐の広さを感じています。
(平成23.11.9 第1回高校教育の在り方に関するヒアリング 議事録及び配布資料参照)
こうして私が、一つの視点から情報発信しています。経験に基づき、それなりに蓄積してきた想いを吐露しています。是非、考えるきっかけにしてください。
教育現場の在り様について 教育120503
国立大学も法人化されて、随分締め付けがきつくなり、大学教授も、ご苦労されていると聞く。そして、より自由な研究環境を求めて、海外への頭脳流出が続いている。
ここにも、改革の負の一面が表れている。そして、何よりも私が言いたいのは、その改革の思想そのものが、新自由主義な発想によるものであることだ。何でもかんでも競争原理に晒し、アメリカ流をまねることで、日本という国家の枠組みが崩壊しようとしている。
(実際のアメリカは、想像以上に多様性に富む国家である)
何事によらず、アカウンタビリティが大事である、とされる。説明責任などと訳されて、目に見える効果を発揮しなければ、肩身の狭い思いを強いられる。
費用対効果といわれ、近視眼的な研究が重視されるようになる。あるいは、スポンサーがつくような研究が中心になってくる。こうなると、国際競争に晒されているにもかかわらず、大学のレベル低下は必至である。
やってみないと効果がわからないからやってみるんだ、などと居直る先生にはさぞ居心地の悪い環境になっていることだろう。
私が現役の時も、教員の不祥事があるたびに、コンプライアンスを徹底されたし、という趣旨の文書が回っていた。そんな言葉を鸚鵡返ししたところで、全く効果がない。一体、教育長は「コンプライアンス」という言葉の語源を知っているのか、といつも思った。
アカウンタビリティもコンプライアンスも、株主資本主義の国の、株主が経営陣を企業統治と称して、支配するための言葉である。こういう言葉を頻繁に使用するようになってから、日本は衰退の一途である。それが未だに各界のリーダーたちは理解していない。
日本人なら、「恥を知れ」「卑怯なことはするな」「足るを知る」で、すべて用が足りる。
むしろ、その方が趣旨が伝わる。
アメリカの戦略を読めもせず、ひたすらグローバル化への対応と称してアメリカナイズしてきたことの反省を、日本全体ですることが必要だ。日本が不利な方向へどんどんルールが変更されているのに、それを認識できていないウスラトンカチばかりが増えている。
ここ30年にも及ぶ弱腰外交の、その依ってきたる精神構造にメスを入れるしかあるまい。
軽薄な思想に染まり、文化や伝統をないがしろにしてきた民族は滅びる。
教育現場では、教える側と教えられる側の接触の質と量がすべてである。
その品質を確保することに全力を上げることが、管理者がすることのすべてである。
日本人は真面目である。外部からの余計な心配は無用であると7年間の経験で確信を持った。
ただ、学校経営品質の確保という点で、先生という人たちに「外の風に当たる」という体験をさせてやればよい、だけの話である。
そうしないと、目先の仕事に追われている先生方は、一歩退いて俯瞰することができない。大きな枠組みでものを考える、戦略思考が苦手な民族だということを銘記すべきだ。
そういう訓練が、日本の教育に欠落している。そのためには、時間的・金銭的なゆとりが学校側に必要なだけだ。日本経営品質賞というノウハウも揃っている。
繰り返し言う。経済効率ばかりを追い求め、文化を大切にしない民族は滅びる。
カルタゴの轍を踏むことは、何としても避けなければならない。
憲法記念日に寄せて 政治120502
日本国憲法が発布されて、今年で65年になります。毎年、この日は、改憲派と護憲派の集会が開催されています。
公務員になったときに、この憲法を遵守します、という誓約をさせられました。なるほど、こういう形で、公務員としての意識付けをするんだと思いました。民から官へ移ることは、官の世界ではやはり「登用」だったのです。
統治される方から、統治する方に回ったからこその憲法遵守なわけです。
ところが、その肝心の憲法の法律体系における位置づけが明確になっていない人が多い。
人類が永年にわたって積み重ねてきた、普遍的な価値観で権力者を縛るというのが、憲法の制定趣旨です。
国家の理念を明確にし、国民の側から、為政者=権力者に縛りをかけるという法規ですので、国民を縛る他の法律とは、根本的に制定趣旨が違うのです。
民主的な選挙で多数派になっても、国民は白紙委任状を渡したわけではないのです。
日本国憲法は、象徴天皇制、基本的人権の尊重、平和主義、などの特徴を持っています。
改憲派の、この憲法はGHQに押し付けられたもの、という議論や有事の際米軍との協力関係に支障をきたす、という議論は、一定の説得力をもっている、と思います。
しかし、昨今の政治状況や社会の現状を踏まえたときに、改憲論議は非常に危険を伴うものと感じます。
占領下の憲法改正は無効だという一部の議論は差し置いて、一番の論議の的となっているのは、第9条の関係でしょう。
集団的自衛権の問題や有事の際の現実対応の難しさが、憲法改正を主張する人たちの主な論拠になっています。それならば、有事を具体的に想定し、極めて地域を限定し、ケースを限定するのであれば、改憲してもいいのかもしれません。しかし、非常に危険な一面を持っているということだけは、国民共通認識にしたいものです。
一つはアメリカの事情、もう一つは日本の事情です。
アメリカという国は、軍需産業が盛んにロビースト活動をしている国です。政治まで市場原理が導入されています。「軍産複合体」という言葉があるぐらい官民連携が進んでいます。定期的に戦争しないと、産業として持たなくなっており、非常に好戦的な国家になっています。日本は、こういう国と安全保障条約を結んでいるのです。
伝統的に南下政策を取るロシア、核心的利益を振り回す中国が近隣にあるわけですから、アメリカの軍事力を背景に持ち、身を守るのは理にかなっています。
しかし、アメリカは一極覇権主義の国で、国内に巨大な軍需産業を抱えていることを忘れてはなりません。平和主義の看板は決して降ろしてはならないと考えます。
次に言いたいのは、日本側の事情です。国民に、情報リテラシーが十分育成されていないと思います。それを育成する教育制度になっていません。
高校では、世界史でも日本史でも、第2次世界大戦ぐらいまでしか習いません。
また、政治経済や現代社会では、歴史的な背景は捨象されています。
私が、社会人になってから独学してきた近現代経済史から、現在を考えるということは、とても大切なことですが、社会科学系の大学以外は勉強しないでしょう。
現代日本人には、私のような論点は、いわば空白地帯となっています。
マスメディアも非常にお粗末です。テレビは視聴率競争をしているせいか、低俗番組オンパレード状態です。コメンテーターのレベルも、司会者のレベルも低すぎます。
新聞は、情報源が偏っています。国際社会=アメリカという発想が強すぎます。
日中戦争から太平洋戦争へと進む昭和初期の歴史を,われわれは、もう一度想起する必要があります。あの当時も、新聞各紙は売らんかなの姿勢で、センセーショナルにいろいろな事件を取り上げました。国民は、中国人を蔑視し、それを応援する米英を鬼畜と称して、敵愾心を煽りました。良心に従って発言する国民を非国民と罵り、治安維持法で検挙していきました。
今は、言論・表現・結社の自由は確保されていますが、国民の情報リテラシーのレベル、マスメディアの知的レベルは、当時に比べて一向に進歩していないと感じています。
議論することは結構ですが、こういう状況下での第9条の改憲は、非常に危険を伴うという認識だけはお互い持っておきましょう。そして、310万人にも及ぶ尊い犠牲の上での今日であることだけは、語り継ぐ必要があると感じています。
金融資本主義の起源と現状 経済120501
資本主義は、商業のレベルから工業(産業)のレベルを過ぎ、今や金融のレベルにまで達している、と言われています。それを資本主義の高度化と称していますが、本当に高度になっているのか、疑問に思っています。変質してきただけなのではないのかと思います。
お金は、価値尺度や交換手段として発生してきましたが、今や蓄財された巨額のファンドが、実物経済を支配するかのようです。
すでに、東証一部上場企業の株式の20%以上は外資が握っており、売買総額の6〜7割が外資によるものといいます。為替市場においては、その8割以上が実需に関係のない投機筋の売り買いであるといいます。まさしく、マネーゲームの場所になっているのです。
お金がお金を生むという卑しい資本主義が、私にはどうしても好きになれません。ゼロサムゲームであり、そこに付加価値が発生しているはずはないからです。
確かに将来の不安の中を生きていかなければいけない人間にとって、蓄えがあることは大事なことではあり、その資金が目減りしないようにすることは大切ですが、現状のようなばくち打ちがはびこる世の中が、本来の姿ではないはずです。
しかも、それはアメリカという覇権国家のローカル・ルールに過ぎません。
例えばイスラム教は、人間の不平等を生むということで金利という概念を否定しています。
日本でも、「三方よし」の理念や「浮利を追わず」という哲学が浸透していました。
歴史を紐解くと、旧大陸で迫害を受けた人たちが、自由を求めて移住してきたのがアメリカの始まりです。ネイティブ・インディアンから土地を奪い、フロンティアを求めて、西へ西へと鉄道網を整備しながら、拡大させた国がアメリカです。公債を発行し、これを売りさばく業務から発展したのが、投資銀行です。
メキシコを蚕食し、ハワイを併合し、フッリピンを植民地化し、軍事力で支配した後に、民間人が富を収奪する仕組みを構築していきました。黒船来航もその一環です。
さすがに、フィリピンに戦争を仕掛けた辺りから、(1898年)我々の建国の理念は何なのか、という反省の声が上がり、セオドア・ルーズベルトは、軍事力を前面に押し出すことを控えて、金融支配という収奪システムを通じて、目的を達成しようとします。
これが、今も続くアメリカ流の金融資本主義の始まりで、もう100年以上の歴史をもっています。IMFや世界銀行など、アメリカ財務省と一体となった世界経済運営システムが構築されています。
イギリスのポンド危機のときに、ジョージ・ソロスは何兆円もの利益を上げていますし、アジア通貨危機や南米・ロシアの経済の混乱は、ファンドが仕掛けたものであることは、広く知られています。
日本でも、8兆円もの公的資金を投入した日本長期信用銀行がわずか1000億円余で、米系ファンドに買収されています。また、100兆円にも及ぶ日本の外貨準備は、売るに売られず(売るとますますの円高になってしまいます)円高で目減りさせられています。
要するに、双子の赤字を放置するアメリカの、でたらめ経済政策に強制的に協力させられているのです。
こういう覇権国家の枠組みに組み込まれることが、国際化だと思っている人が多いのが、日本の現状です。TPP賛成論者は、皆この類です。
しかし、もうアメリカ経済の矛盾が、限界に近づきつつあります。財政赤字・貿易赤字に加え、最近では、家計の赤字までもが止まらなくなっています。こういう経済が持続可能なはずがありません。
先進国は、いずこも不況対策に、金融緩和をしていますが、そのなかでもアメリカのQEといわれる金融緩和は度を越しています。各国ともアメリカの経済運営にあわせて自国の経済運営をしていかないと、どこも自国通貨高にされ、国民経済が持ちません。さしずめ先進国どおし、自国通貨安戦争といった形相です。
いずれ、ドルの崩落となるはずです。BRICKSを中心に、基軸通貨を別なものにする動きが出てくるでしょう。
そうした動きを止めることのできない状況になったときが、アメリカ一国覇権時代の終焉だと思います。そのとき、日本がアメリカと心中することだけは御免蒙りたいものです。
カルタゴの歴史 文化120416
ローマ帝国に滅ぼされたカルタゴの歴史を知りたくて、文献を漁ったことがあります。どんな交易品目を扱っていたのか、どうして戦争にいたるほどローマと利害が反するようになったのか、フェニキア人は、カルタゴ滅亡後、どうなったのか、ということが知りたかったのです。
アメリカの論理に押しまくられ、アメリカの枠組みに追い込められ、優位性を削ぎ落とされる日本という国が、昔、世界史で習ったカルタゴの歴史と重なって見えたからです。
しかし、悲しいもので、敗者の歴史というものは、あまり残らない。それで、ほとんどがローマ史の一環としてのカルタゴの歴史であり、通り一遍の記述しかお目にかかれない、ということでした。
これなども敗戦国として、中国や韓国、はたまたアメリカに、勝手放題に歴史をつくられている現状を見るにつけ、なるほどそういうものかと、悔しい思いに苛まれます。
近隣に迷惑をかけたのは事実としても、帝国主義の時代、日本は日本でそれなりの理念をもって戦っていたのではないでしょうか。
ヨーロッパの大国ロシアを負かした日本は、植民地化に苦しむアジアの人たちからすれば、希望の星だったのです。事実、孫文をはじめとする革命家は、日本を頼り、当時の気骨ある人々は、そういう革命家に、有形無形の援助を与えています。
南下政策を取り続けるロシア、中国に利権を確保しようとするイギリス、フランス、ドイツ、そして日本を牽制しつつ新たにフロンティアを求めて利権に絡んでいきたいアメリカ、こうした国々と、丁々発止の外交戦をしていたのです。
もちろん、外交と表裏一体となって軍事力がありました。植民地化して富を収奪するというのが常套手段でした。それゆえの帝国主義時代です。日本も植民地化こそ免れたものの、不平等条約に苦しみました。今の平和な日本の感覚で歴史を見ると間違います。
また、加害者としての面もありましたが、在留邦人の虐殺事件なども頻発し、当時の新聞もセンセーショナルに報道していた、という事実もあります。
熱しやすく冷めやすいという国民性からして、軍部に期待が集まるのも自然の成り行きのように、現代日本の姿を見て、感じています。
マッカッサーも、アメリカ議会で、太平洋戦争は日本の自衛戦争だ、と証言しています。それだけ、石油禁輸などの措置が、日本を追い詰めたということです。各国が国益を確保するため、ルールを自国に有利なように策定しようとするのは現在も変わりません。
GHQの日本改造計画のなかに、罪扶植化計画というのがありました。アメリカにとっては、東京大空襲で10万人を焼き殺し、広島・長崎に相次いで原子爆弾を投下するというジェノサイトをやってのけたわけです。何とか後世に「正義の戦争」へと導きたいと考えるのは当然でしょう。そのためには、極悪人をつくらなければなりません。
東京裁判史観という表現がありますが、われわれは、これによる歴史教育を受けていたことを自覚しなければなりません。
日米構造協議などでの、ふがいない外交交渉をつぶさに見聞きし、改めて日本人の精神的独立の必要性に、思いを致すようになりました。いかにふがいなかったか、については「日米構造協議 板ガラス分野」で検索すれば、日米合意文書が読め検証できます。
読者諸兄で、カルタゴの歴史について、詳しい先生がいらしたら、アプローチ方法など、ご教示ください。
内田樹の講演から 教育120415
内田樹が、「大学における教育―教養とキャリア」と題して、ある大学の周年行事で、講演している。講演の概要は次のとおりである。
・新聞の紙面評価委員をしているが、「大本営発表」ばかりが目立ち、本当に知りたいことについての記事がない。日本人の横並び主義が極まっている。
・世界最強国のルールを、グローバルスタンダードなどと呼んでいるが、歴史の浅い国のローカルルールでしかない。
・英語が世界標準語のように文科省は認識しているが、歴史的に見れば、ごく最近の傾向にすぎない。むしろ、そうしたルールは、アンフェアだという認識からスタートしなければならない。その上で、現状を受け入れ、どう対応していくかの議論にならなければおかしい。世界の大勢は、日本の属国根性を指して、日本人は国際性がないと言っている。
・キャリア教育にしても、社会の理不尽さやアンフェアネスを受け入れた上で、現実に適応する術を教えることが必要だ。
そのためには、雇用環境がどのように変化してきたかの歴史認識を持たせることが重要である。そして、労働とは何か、市場とは何か、資本とは何か、文化とは何か、共同体とは何か、国家とは何か、といった問題に、基本認識がなければならない。
・91年の大学設置基準大綱により、1年次から専門教育ができるようになったが、これにより、自分が何を知っており、何を知らないか、何を知らなければならないか、といったことを俯瞰できる力が不足してきている。それゆえ、組織の中で、コラボレーションする能力が低下している。いわゆる教養が不足しているということだ。
(80年代90年代の教育改革は、すべて失敗だったと私も思うー「臨教審の失敗」参照)
・言葉を変えれば、教養とは、知性を活性化させるための技術である。知的なブレイクスルーを経験し、前のめりの欲動を持つことである。それが、人間を自由にすることから、リベラルアーツと呼んでいる。
・新聞記者諸君は、このリベラルアーツが不足している、知性が活性化されていないから、自分のアタマで考えない。それで新聞の紙面が面白くないのだ、と考えている。
「日本辺境論」の延長線上の論理構成で、ズバッとマスコミ批判しているところが小気味よい。相変わらずの内田節である。教養の定義は、私と若干違うが、主張は概ね賛同する。
教養とは「今ここでの問題を解決していくため、時間軸・空間軸を拡大して、考えられる知識」であると、私は定義している。歴史観や世界観,それに根拠を置く価値観が大事である。政・財・官・学・マスコミをはじめとする国のリーダーたちが、しっかりとした価値観を持ってさえいれば、こんな閉塞状態の日本にはなっていなかった。エートスの欠如は致命的である。
彼の言う「前のめりの欲動」を私は「知的テイクオフ」と呼んでいる。そして、現役時代、先生方にこの「知的テイクオフ」にまで至る授業を訴えてきた。
余程準備し工夫しなければ、目からうろこの落ちる体験など、生徒にさせられない。
岩手県の子供たちは、本当に素直だった。先生方の反対を押し切って(勤務評定に繋げないという前提で)授業評価をしたが、ほぼ前評判通りの結果であった。
授業には、習得―活用―探究の3段階ある。興味をもって自発的に勉強しようとする意欲を引き出すレベルまでの授業を、期待したい。
一教科でもいいから、そういう体験をしておくことが、その後の生徒たちの人生に影響してくる。少しわかれば、どんどん疑問が出てきて、学問の奥深さが認識でき、人間を謙虚にするものだ。
もちろん、先生と生徒の相性というものがある。実際、風采の上がらない先生が、指導の難しい子供のハートをしっかりつかんでいるケースもあった。
教育効果なんてものは、後からじんわりと表れてくるものだ。だから、教育の場は、おおらかに、のびやかに、が肝要なのである。
優秀な校長は、校内人事のうまい人が多いという現実も見てきた。先生は、評価のない世界と世間はいうが、そんなことはない。校内人事で、きっちり人事評価している。処遇への反映度が極端に少ないだけだ。
一般社会をまねた人事管理をすることは、労多くして効少なく、生産的なものとは、絶対にならない。人事の専門家として、それだけは確信を持って言える。混乱の続く、東京や大阪の教育委員会の皆さんに伝えたいものだ。
考えるという営為 文化120414
吉岡知哉立教大学総長が、大学院の卒業式で、含蓄のある送辞を述べています。ネットで紹介されている文章を、かいつまんで転記してみます。
大学は、考えるという営為のために、人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言える。大学は、あらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考えるということにおいて、人間社会から認知されてきた。
既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには、既存の価値や思考方法に拘束されてはならない。
大学の自由とは、考える自由なのです。大学は、考えるという営為を、社会から信託されているのです。
考えるという営みは、既存の社会が認める前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に、反時代的・反社会的な行為です。
徹底的に考えるという営為において、自分が、社会的な「異物」であることを選び取った存在だということです。
どうか、徹底的に考えるという営みを、これからも続けてください。そして、同時代との齟齬を、大切にしてください。
なんとも激しい檄文である。因みに、吉岡総長は、フランス革命に影響を与えたルソーの研究者だそうだ。おそらく、今回の原発事故などを想起して、すぐにムラ社会を形成したがる日本人の性癖を考慮し、これから研究活動に入る若手に対して、孤立を恐れることなく、より根源的に疑うという姿勢を堅持しながら、研究活動をしてほしい、というメッセージだと思う。
学問の場では、大いに「異物」になり、学界を刺激し活性化してもらいたいものだ。
しかし、一般社会で「異物」になることは、日本では極めて困難を伴う。
「イヤなら辞めろ」と堀場雅夫さんは言うが、労働の流動性のない我が国では、特に子供を抱えた中高年は、余程慎重にコトを運ばなくてはいけない。崩れつつあるが、終身雇用を前提とした社会の生態系ができている。人間の意識や社会の制度・慣習なんてものは、一朝一夕には変わらない。
新自由主義思想に基づいた金融資本主義を受け入れることが、国際化対応の正しい選択だ、として、アメリカに同調していこうとするのが、世の中の主流のようである。
これに掉さすことは、守旧派・保守派とされ、世間ではどうも風向きが良くない。
私は、アメリカが覇権を維持するために仕掛けたルール変更であり、国民経済の観点からして、同調すべきではない、と言ってきたが、理解する人は少数派である。
反時代的とされても、どちらが本来「異物」なのか、と私は問い続けてきた。
多くは、そういうことに思いを致すこともなく、アメリカナイズすることを改革と呼び、改革と叫ぶ人に期待を持ってしまう。
マスコミへの露出に応じて、親近感を持ち、共感度を上げていくようだ。
しかし、この20年の社会経済の動きを振り返って考えてほしい。
経済は成長せず、雇用は海外に移転し、地方は疲弊している。いろいろな指標が示す通り、何もかもが悪い方向へ進んでいる。にもかかわらず、「ゆでがえる状態」の人が多い。
政府支出を増やし、大不況を阻止してきたが、それも貿易収支が悪化してきたので、限界に近づいているのかもしれない。(資本収支は年10兆円の黒字を維持している。)
国際収支(貿易収支+資本収支)が赤字になると、国債残高の多い日本は、危険である。ハゲタカに襲われると、金融機関が持たない。
こうしたマネー資本主義の下で、何よりも心配なのが、モノづくり現場である。技能伝承システムや「育てる文化」が崩壊すると、日本も三等国に成り下がるであろう。
私は、「同時代との齟齬」を、この20年言い続けてきた。
どうもこの日本、異端を異端とする正統もなく、思想を価値観の軸でプロットする座標軸もなく、長いモノに巻かれろ式の思考停止集団になってしまったのではないか。
私の認識が主流になる時代が、日本の夜明けであるという確信がふつふつと湧いてきたがゆえに、こうしてブログを開設し、情報発信をしている。元より甚だ微力ではあるが、警鐘を鳴らすことぐらいしか、世のため人のために役立つこともないと思うからである。
自立と自律 文化120413
自立と自律、会社員のとき、部下育成で常に考えていた二大テーマである。部下の成熟度により、仕事を割り振り、その成果を確認する。そうしたときに、この2つの「じりつ」の大切さをいつも考えていた。
学校教育でも、この二つの「じりつ」は、大切な要素である。
自立とは、社会的・経済的に独立することである。
然るべき時期になれば、子供たちは、職業人として、一本立ちをしてもらわねばならない。いつまでも、親のスネをかじってもらっては困る。誰しも考えることである。
ところが、社会人として、もう一つ職業人の自覚に欠ける若い人に手を焼いた。積極性に欠けるのである。「指示待ち族」という言葉が一時流行したが、自身で考えるという習慣が出来ていない若者である。
こちらも中間管理職として忙しいのである。先輩指導員を付けて、時々「アクセルを踏まれるような奴はダメだ」と発破をかけたりせざるをえなかった。
仕事には、自発的に取り組むものだ。
特に最近は、デフレでなかなか収益が上がらず、職場は多忙になっていることだろう。
いつの時代でも、先輩・上司の懐に飛び込んでくる積極性が評価される。
自律とは、自分の欲望を制御することである。
だんだん仕事に慣れてくると、少々独断に走る傾向のある部下が表れる。上司としては、詳細は任せるにしても、少なくとも方向性はオーソライズしてほしいものである。
その辺のさじ加減が読めないものは、評価されない。常に「分」を弁えて、報告連絡相談することが大事である。それが、他者と協働するということである。
日本的経営の特徴のひとつは、どこの会社も「育てる文化」があるということだ。
最近は、ちょっと厳しく鍛えようとすると、パワハラだと言うのがいるそうだけど、若者は逃げないで、上司に向かってきてほしい。まともな上司なら、そういう態度を期待しているはずだ。
職務記述書といった明確な仕事範囲の指定がない、ということも日本的経営とされるが、それをカバーしているのが、この「自立と自律」である。
少なくともこの両方の「じりつ」だけは、社会人の前提なので、それを踏まえて先生方は子供たちの生活指導を心がけてほしい。
社会の生態系 社会120412
社会主義計画経済が、うまくいかないことは、歴史が証明してくれた。それは、複雑系の社会を、机上でうまく処理しきれないからだと思う。基本的には「市場」の機能を活用することに対して、誰も反対しないであろう。
しかし、その市場にも限界がある。資本主義の発達史のなかで、一方の社会主義陣営を意識しながら、いろいろな工夫がなされてきた。政治形態としての民主主義は、裸の資本主義を受け入れようとしなかった。修正が加えられ、社会との親和性が確保されてきた。
そして、そこには一種の生態系が出来上がっている。伝統や文化といった面を織り込みながら、日本独自の生態系ができることは、自然な流れである。
殊に、人間を扱う分野は、そう簡単に変われない。資本の論理で、切った張ったが好きな新自由主義者でも、そこのところは認めざるをえない。
労働市場は、家庭内福祉と企業内福祉に負うところが多かったにもかかわらず、彼らは、そういう認識を欠いていた。文化や社会、国家の概念を捨象した空論を弄んだ。
戦後の日本では、日本人の価値観に従い、分野によっては社会主義的な形態を採ってきた。
社会インフラ、医療、教育、介護福祉、・・・金融や農業も純然たる資本主義とは言い難い運営をしてきた。混合経済体制という。
ところがある時期から、こういう体制はすべて、不公正、非効率の温床であるかのような議論が主流となってきた。アメリカの影響である。
国民経済とは、生産性の良い分野も悪い分野もあって、一体経営すべきものである。効率ばかりを追い求めると、究極には、おカネがすべてという卑しい資本主義が出来上がる。
いささか怪しげな心情の持ち主が、変革をキャッチフレーズに「上からの改革」を試みた。それが、ここ20〜30年の出来事である。結果は、申すまでもないことだろう。
私は、アメリカの戦略が読めないリーダーたちの、歴史認識や精神構造に興味を持った。結果、欧米にコンプレックスを持たざるを得ない戦後教育の影響としか私には思えない。アメリカに追従した中曽根や小泉などは、国賊だと思うのであるが、誰もそんなことを言わない。
企業経営者も、国際化のなかで、アメリカ流経営手法を採り入れたところが多い。不見識だと思うが、業績悪化しても、誰も失敗を認めない。時代の流れなどという、意味不明の言語を使用して責任回避を行う。
マスメディアも「改革主義者」に焦点を当て、異議を唱える少数派に、ほとんど光を当てない。登場する識者は、ほとんどが「改革」が中途半端に終わっており、現状の不具合だけをまくし立てる。
改革をすべて否定するわけではないが、余程バランスを考えてやらないと、社会の生態系を壊しかねない。単なる矛盾の転化になってしまう。
本当に、日本のリーダーに、日本文化にも精通した、自信に満ちた重厚な人物がいなくなった。
一方で、国際化の波を感じない、現下の経済状況を単なる不況と認識している大衆がいる。確かに、所得減と人口減という現象は、一般の不況と変わらない。
しかし、本質は円高によるデフレである。デフレは、資本主義の病気である。死に至る病である。
なぜ、デフレなのかを理解するには、国際経済に関する基本知識が必要だ。さらに、国際政治の変化にも目を向ける必要があるが、そんなことには心が到らない。
しがらみ(絆ともいう)と馴れ合い(思考停止ともいう)のなかで、平穏を願い、お上の善政を期待しているだけである。マスメディアも、政治に力強いリーダーシップを期待する。危険な兆候である。追いつめられて「いつか来た道」へ進むのだけは勘弁してほしい。
私は、この分断をつなぐのは、教育しかないと思う。
エリートには、伝統や文化、社会の生態系といったことがわかる教養を授けなければならない。そして、一身独立を目指す、志ある有為の人材を育成しなければならない。
また、文化国家を担うためには、一般大衆も含めて、学力の底上げが肝要だと考えている。
お問い合わせに答えて その他120411
読者のお一人から、朝日新聞投稿記事に関しての問い合わせがありました。東京本社版なので、テリトリー以外の地域には掲載されていないのかもしれません。
改めて、ご紹介させていただきます。平成23年11月9日の声欄です。
TPP 交渉力の落差は歴然
板ガラスメーカー社員だった私は15年前、業界団体事務局に出向中で、日米協議の内実をつぶさに知る立場にいました。スーパー301条をちらつかせ、日本に根付く商慣習を非関税障壁と決めつける米国流の交渉術に閉口し、日本の弱腰外交に切歯扼腕したものです。米国は、国際ルールより国益を優先し、堂々と内政干渉してくる国です。
今の米国の緊急課題は輸出拡大であり、それによる雇用の拡大です。そんな状況で日本の環太平洋経済連携協定(TPP)参加は、まさに飛んで火に入る夏の虫。米国の国益に沿う形を強いられることは必定です。
現在の日本の外交力をもってTPP交渉に参加したところで我が国益を確保する勝算があるとは思えません。あの時と同様に押しまくられ、不平等な条件をのまされるでしょう。
先に米国と自由貿易協定(FTA)を結んだ韓国でも懸念が広がっているではないですか。
TPP問題の本質は、貧富の差の拡大を招く市場原理主義的米国型資本主義の是非にあります。米国主導の資本主義では、何度も金融危機を繰り返し、格差社会を拡大することは誰の目にも明らかです。
この際、対米追従を脱し、日本独自の資本主義を構築し、むしろ新興国と米国との懸け橋として日本が存在感を出す道を模索すべき時です。
以上、原文のまま記載しました。
随分多くの方に取り上げていただき、共感のお便りをいただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。
日本は悪くない 経済120410
「日本は悪くない。悪いのはアメリカだ。」下村治著(文春文庫)を読んだ。
1987年に書かれた本だ。それが、2009年に復刻され、私が買ったのは、その第3刷だ。時代を超えて、読まれているのは、それだけ本質を突いているからにちがいない。
不明にして私は、この本の存在を最近まで知らなかった。やはり日本には、しっかりと事実を見ている優秀な人がいるもんだ。
下村治(1910〜1989)池田勇人内閣の所得倍増計画の理論的支柱となった、官僚出身のエコノミストである。
レーガノミックスといわれる経済政策に失敗したアメリカは、その攻撃の矛先を当時輸出が急増していた日本に向ける。そして、1985年のプラザ合意や、後の日米構造協議につながるのであるが、そのときの政府の対応や前川リポートを批判している。
減税と政府支出の拡大で、国内に供給体制もないのに、需要を急拡大させたならば、輸入が増えるのは当たり前だ。日本はそれに巻き込まれただけだ、と言っているのだ。
想定したように税収が増えず、財政赤字に困ったレーガンは、誰か犯人をこしらえなければならない。その犯人に仕立てられたのが、日本というわけだ。
日本社会の閉鎖性を言い募り、市場をこじあけようとするのは、主客転倒している。
更に、現在の金融資本主義の欺瞞性や、エコノミストの国民経済という観点の欠如、そして、国民の精神性のゆるみまで指摘しており、警世の書、予言の書として再評価されているのも頷ける。
後ろ向きの議論を仕掛けているのではない。因果がしっかりと把握できなければ正しい対策が取れない。
総じて、私の「基本的考え方」と軌を一にしており、今わたしは、さわやかな読後感に浸っている。
森嶋道夫が「なぜ日本は行き詰ったか」(岩波書店)で指摘した、エートスの欠如と相通ずるものを感じる。
同じく、本ホームページでも取り上げた立花隆の「いささか怪しげな心情の持ち主」にも相通ずるものがあると思う。昭和ヒトケタから団塊の世代にかけての集団に投げかけられた言葉である。
みんな、戦後教育で育ったリーダーたちの、芯のなさを憂いているのだ。アメリカにちょっと脅されただけで、ヘナヘナしてしまう信念や哲学の欠如を憂いているのだ。
そして、時代の流れといった曖昧模糊としたものに便乗し、改革ばかりを言い募る風潮に警鐘を発し、原点を見つめ直す必要性を説いている。前々回取り上げた「理財論」も、王道を行く大切さを説いている。
確かに、政治も経済も難しい選択を迫られている。しかし、原点は「一身独立し、然る後に国独立す」の国民の気概である。肝心のところが、いささか怪しくなっている。教育の出番である。
この本の解説で、水木楊が言っている。ご存命なら、下村さんは、「成熟した文化の上に立った、落ち着いた、大人の国をめざせ。」というだろう、と。
私が、思い描く「みずほの国」である。