ご挨拶

IMG_0250_1.bmp子供たちは未来からの使者である、といいます。その子供たちがどんな社会を生きていくのか、現状を分析し未来を洞察し、必要な能力を身につけさせてやることが、教育者の務めだと思います。現状の子供たちを一番よく知っている皆様が、未来を生きる子供たちのあるべき姿を描き、現状とのかい離すなわち「教育ニーズ」をしっかりつかみ、学校の在り様を考えていただくことが、今一番大事になってきていると考えます。

そこで、この閉塞感あふれる日本社会をどう理解すればいいのか、という視点から私が蓄積してきたことを、皆様に情報としてお伝えし、考えるきっかけにしていただけたらと思い、この教育コラムマガジンを立ち上げました。 

7年間、岩手県の高校で民間人校長として勤務し、先生方との交流をした経験を踏まえた上で、経済や経営、政治や社会、教育や文化など、折に触れて小文を書き、情報提供していきます。

学ぶ姿勢・考える習慣を先生方自身が身につけ、経営品質賞の考え方を生かして、上意下達の指示待ちではなく、現場から発信し、教育委員会や文科省を動かしていただきたい。

志のある当サイト読者の方々のお役に、少しでも立つことを念願しております。

最新コラム

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2016-05-31機能的財政論を考える(3)

機能的財政論者の関心は、国家予算の数字の上での健全化にではなく、国民経済の健全化に向かっているのである。


2016-05-29 機能的財政論を考える(2)

管理通貨制の下では、不換紙幣の信用度は、国家の信用がすべてである。


2016-05-28 機能的財政論を考える(1)

日本国債というのは、自国通貨建ての内国債なのである。価格が下落し、金利が急上昇、ということになれば、日銀が買い取ればいいだけの話である。


2016-05-25 外国人から見た日本社会

どういう社会が、いいとか悪いとかの問題ではない。歴史と伝統により、長い年月をかけて育まれた社会なのである。それぞれ違っていて、当たり前である。


 

読者の集いのお知らせ

第13回三木(さんもく)会を 下記要領にて開催しますので お知らせします。

日時  6月16日(木)18時00分〜20時00分 フリートーキングの後、懇親会をしています。

場所  ザ・コミュニティ会議室(東京都杉並区天沼3−7−3荻窪法人会館3F JR荻窪下車徒歩7分)

要領  当日テーマアップしたいコラムをコピーしてご持参ください。

           世の中のことに正解はない、という前提で,他人の話をじっくり聞く会です。

会費  会場使用料及び懇親会費として、2000円申し受けます。

その他 初めての方は、一言を添えて、メールにてご連絡ください。多様なご意見を歓迎します。

機能的財政論を考える(3)

経済160511

主流派経済学には、国家という概念がない。だから、内国債も外国債も区別をつけない。どこの通貨で起債するかも、無頓着である。こんなマクロ理論は、現実を正確にとらえていない。主流派経済学では、ヒトは単なる一生産要素に過ぎない。しかし現実は、住み慣れた土地に愛着を持ち、社会のお役に立ちたいと願うものである。ヒトを単純に「経済合理性」だけで説明できるものではない。もう実証済みである。

中国をはじめとする新興国で、債務問題が問題となっているのは、多くはドル建てで起債しているからで、自国通貨が暴落すると、借金の重みが一気に増す。資源価格の下落で、新興国の経済は、どこも青息吐息であるが、中国をはじめロシアもブラジルも、借金の質が、日本とは根本的に違う。6月にアメリカ連邦準備銀行が、利上げに踏み込むと、資金がアメリカに還流するに違いない。「1ドルは1ドルに過ぎない」といえるアメリカの経済覇権は、軍事覇権以上に、強力である。

アバ・ラーナーの機能的財政論を、中野剛志氏の『国力とは何か』に準拠して、まとめておこう。

国債は、国内で消化される(自国民が購入する)「内国債」である場合には、その金利は、国民の負担とはならない。なぜなら、国債の償還金の支払い先は、国民だからだ。例えば、政府が、納税者たる自国民から徴収した税金によって債務を返済するとしても、その税金は国債保有者たる自国民に支払われる。マネーが国民の間で移転しているだけであって、国の外には流出しないのである。ラーナーは、これを「右ポケットの小銭を左ポケットに移しているようなもの」とたとえている。

内国債の累積によって財政破綻を心配する健全財政論者は、空になった右ポケットだけを見て、小銭がなくなったと騒いでいるようなものだというのである。ラーナーの機能的財政論については、最近国際連合経済社会局が再評価し採用している。

したがって、内国債の場合、政府が財政破綻することはあり得ない。仮に将来の課税によって公的債務を返済しない場合ですらも、政府は借り換えを続けていけばよいのであって、全額返済して債務をなくす必要はないのである。なぜなら、政府(国家)は、民間企業や個人とは異なり、永続してなくならないと想定されているからだ。

また、政府は、通貨を発行することで債権者に支払いをすることもできる。政府が通貨発行権を有するということが、国債の返済能力を究極的に担保しているのである。この点もまた、政府の債務と、私企業や私人の債務との性格の違いを決定づけている。

債務と債権とは、言うまでもなく対概念である。債務があるということは、債権がある。内国債の場合、政府の債務が増大したということは、裏を返せば、国民の債権が増大したということである。したがって、政府の債務の増大をもって国富が減ったと考えるのも、反対に、国民の保有する債権の増大をもって国富が増えたと考えるのも間違っている。

真の国富とは、マネーそれ自体にではなく、その国の「住民の技術と勤勉さ、天然資源とこれらを結合させる設備にある」とラーナーは言う。こうしたことから、内国債の場合、政府の債務を、企業の負債や家計の借金と同じように考えるのは間違っている。

この内国債と外国債の違いをもたらしているものこそ、「国民」の概念にほかならない。民問企業や個人の負債や(外貨建ての)外国債とは違って、財政破綻のリスクから自由であるという特権を内国債に与えているのは、国民なのだ。もし国民経済という単位が観念できないのだとしたら、内国債と外国債とを区別する理由は確かに見出せなくなる。

国家の財政状態が適切であるか否かの判断は、債務の絶対額ではなく、国家財政が国民経済にどのような影響を及ぼし、どのように「機能」しているかを基準とすべきである。

健全財政論は、国家財政は、企業や家計と同じように、支出に当たっては、それに見合う財源が必要であると考える。これに対して、機能的財政論は、政府の財政活動(課税、国債発行、政府支出、資産売却など)を、あくまで民間のマネーの保有量の調整手段と考えるのである。もし、財政の機能によって、物価の安定と完全雇用が達成できない場合には、金融政策によって調整する。機能的財政論では、財政政策が主であり、金融政策が従なのである。

例えば、経済がデフレにある場合、企業は投資と負債を控えるため、貯蓄過剰、すなわち民間がマネーを過剰に保有している状態に陥る。この状態を是正するためには、民間部門の貯蓄を減らし、政府が投資を拡大する必要がある。

この場合に求められる財政の機能は、国債を発行して民間部門に滞留するマネーを吸い上げ、公共投資として需要拡大に振り向け、国民経済の需給を調整して、物価の継続的な下落を食い止めることである。

逆に、経済がインフレによって悩んでいる場合には、民間部門に流通するマネーが過大であるということであるから、政府は、増税と政府支出の削減によって、民間部門のマネーの保有量を減らすという措置を講ずればよい。

つまり、財政が適切であるか否かは、政府の累積債務が大きいか小さいかではなく、デフレや過度なインフレに苦しんでいるか否か、失業率が高いか低いか、長期金利が高いか低いかなど、国民経済の状態を示す指標によって判断すべきだというのが、機能的財政論の基本的な考え方である。

例えば、現在の日本は、政府の累積債務が国内総生産の200%近くにまで達しているが、他方で長期にわたるデフレ不況にある。こうした中で、機能的財政論者は、デフレを問題視して、財政出動がむしろ足りないと判断するだろう。機能的財政論者の関心は、国家予算の数字の上での健全化にではなく、国民経済の健全化に向かっているのである。

機能的財政論を考える(2)

経済160510

管理通貨制の下では、不換紙幣の信用度は、国家の信用がすべてである。

アメリカの信用も高いが、財政も貿易も、膨大な赤字を抱えている。これを軍事力に裏打ちされたドル基軸体制で、ごまかしているだけだ。飛びぬけた純債務国であるにもかかわらず、各国にドルをばらまいても、それでやっていける。

しかし、ドル基軸体制が崩壊すると、覇権そのものの崩壊につながる。イラク戦争を仕掛けたのも、石油をユーロでの決済にしたフセインが許せなかった、という説が有力である。 

中国は、過剰設備=過剰債務を抱えて、金融システムがもう持たないところまで追いつめられており、共産党統治が、近々揺らぐことは必至である。

ユーロも小康を保っているが、いずれ国家ナショナリズムに火がついて、崩壊の危機を迎えるであろう。難民問題は、その前兆に過ぎない。通貨発行権を放棄した国家は、政策選択の余地が限られ、選挙のある民主主義国家では、不適合となるであろう。

そう考えると、まともなのは、日本だけではないのか。

我が国の国債は、なおその9割以上が内国債となっている。我が国では、機能的財政論が有効となる前提が満たされているのである。これに対して、アメリカやドイツの内国債の比率は5割程度であり、財政破綻したギリシャは3割以下であった。こうした国々では、機能的財政論は成立しない。特にユーロ加盟国では、各国政府が通貨発行権をもたないので、機能的財政論は全く封印されてしまっている。

ただ、日本の弱みは、外交力が不足している点だ。欧米と強調していかざるを得ないがゆえに、欧米の我田引水の論理に引きずられる傾向がある。

かつて、BIS規制にしても、日本と欧米との融資システムは、大いに違っていた。日本は、不動産担保を取って、フル担保の融資が基本になっていたはずだ。それを一律の自己資本比率にしたがために、日本の銀行の資金効率が悪化して、国際競争力を喪失してしまった。

間接金融で十分金融システムが機能していたのに、ハゲタカファンドのために、直接金融市場を整備した。いまや、株式市場の70%は、外資の売買で占められている。

誰がこんなバクチ場を作り出し、ゼニにのみ価値を置く、卑しい社会にしてしまったのか。 

BISもIMFも、はたまた格付け機関も、欧米の利益誘導団体である。財政を拡大させると、日本を押さえつけるために、日本国債の格付けを下げ、市場の声を聴け、と脅しに来る。やっかいだが、スティグリッツやアバ・ラーナーを引き合いに出して、反論していくしか方法はない。欧米にも、良心的な経済学者や歴史学者は、数多くいる。

戦争で、財政が破たん状態になった例は、歴史上枚挙にいとまがない。しかし、財政再建できたのは、例外なく名目成長率の上昇である。インフレを伴う経済成長による財政健全化である。緊縮財政で財政再建した例を、私は知らない。 

終末医療の適正化や予防診療へのシフトなど医療の適正化にも取り組めばよいが、まずは、

インフラ老朽化への対応、貧困への対処、子育て環境に整備、は待ったなしの課題である。欧米に遠慮することなく、財政出動し、成長モデルを提示することである。こんなに安い資金を利用できる時期は、滅多にないのだから。 

機能的財政論について、さらに勉強したい方は、ぜひ中野剛志著『国力とは何か』講談社現代新書をお読みください。日本における多数派を占める財政再建論者の過ちについて、懇切丁寧に解説してくれている。機能的財政論に立脚していかないと、いつまでたっても、日本の経済は、デフレから脱却できず、相対的地位の低下が止まらない。

アメリカに毒された、主流派経済学者、財務省官僚、経団連幹部、自民党幹部、マスコミ幹部などを断罪し、反省させ、改心させないと、日本はよくならないという信念は、近年ますます強くなる一方である。

機能的財政論を考える(1)

経済160509

世の中には、返さなくてもよい借金というものがある。私人ではありえないが、国家には、特別に認められた権利である。これを「通貨発行権」というのであるが、それを知る人は少ない。国家と政府を混同し、国民一人当たり800万円の借金などという表現が、まかり通っている。だから、増税が必要とか、無駄遣いを減らせ、などという議論に直結する。

 

1万円札がある。これは、私の資産である。同時に、日本銀行という政府の子会社の負債である。誰かの資産は、必ず、誰かの負債である。

私は、千葉県の一戸建てに住んでいる。この不動産は、私の資産である。これも、売却すれば、なにがしかの金銭に代わる。従って、これも潜在的には、日本銀行の負債である。

 

経済主体というのは、家計と企業と政府しかない。家計や企業の資産は、政府の負債なのである。家計や企業が豊かになれば、その分、政府に負債がたまる。当たり前である。

複式簿記を知っている人なら、誰にでも理解できるであろう。借方に資産を計上すれば、貸方には、その資金の出所を記載し、貸方と借方は、必ず金額は一致する。

国家というのは、家計と企業と政府で、構成される。日本政府は、莫大な負債を抱えているが、国家としては、300兆円を超える「純資産国」なのである。世界一の金持ち国だ。

 

国家は、通貨のほかに、公債という利子がつく債権も発行する。通貨を家計や企業から、税によって集めるが、足りない時に、公債を発行し、通貨を集める。そうしないと、予算が組めないからである。公債の大部分は国債である。

国債の取引価格は、長期金利の指標にもなり、値下がりは、長期金利の上昇、値上がりは、長期金利の下落を意味する。

国家の信用が下落すると、国債の取引価格も下落する。従って、金利が急騰する。誰も買わなくなったら、予算も組めない。国家が、そういう状態に至ることを「デフォルト」という。日本語では「国家破たん」という。

民間資本の集積が不十分で、政府が国債を発行したときに、買い手が国内にいない場合は、海外の資本を当てにせざるを得ない。日露戦争の時に、高橋是清がイギリスで苦労した話は有名である。この場合、外国通貨建ての外国債になる。

しかし、現在の日本では、1700兆円にも及ぶ家計の金融資本の蓄積があり、これを預かる銀行は、その資金運用に苦慮しているのである。海外から資金調達する必要など、さらさらない。さらに、貿易依存率も、GDPの15%前後なのだから、内需依存国だ。

 

日本国債が、1000兆円を超えた、という事実を前に、もう国家破たんに近い、という危機感をあおる議論がある。また、それが、消費税率を上げる根拠にもなっている。

私に言わせると、これほどアホな議論を、いつまで続けているのか、ということになる。

大新聞の編集委員などが、トンチンカンな社説などを書いて、国民を混乱させている。

 

日本国債というのは、自国通貨建ての内国債なのである。価格が下落し、金利が急上昇、ということになれば、日銀が買い取ればいいだけの話である。供給システムが破壊されていない限り、ハイパーインフレなど起こるはずがない。

現在は、利子率が悪いのに、信用があるので、海外ファンドが、安全資産として100兆円以上も購入している、という。そりゃそうだろう。世界一の純資産国であり、毎年20兆円もの所得収支の黒字国なのである。それだけ、日本国に信用がある、ということだ。

外国人から見た日本社会

社会160508

中国人から見ると、日本は「社会の空気」が支配する国と映るらしい。この空気が、人を手なずけ、社会の秩序を保つが、一方で「村八分」という言葉からも分かるように、人を抑えつけるものにもなる。

そのうえで、日本と中国で大きく異なっている点は「社会と個人との力関係」だという。国家―社会―個人というレベルでの力関係をみると、中国が「凹型社会」なのに対して、日本は「凸型社会」だというのだ。つまり「国が強く、社会が弱くて、個人が強い」のが中国。極端な個人主義が特徴で、今や拝金主義が横行している。そして、政府は共産党幹部による強権政治がまかり通り、腐敗の温床になっている。

一方の日本は、立憲主義により、政治権力者は憲法に縛られており、選挙により主権在民が確保されている。そして、中間組織(会社・官庁・自治会・業界団体・経済団体・宗教団体・教育団体・社会福祉団体など)の共同体規制が強く、個人の自由が制限されがちになることから、「国が弱く、社会が強くて、個人が弱い」という意味で凸型なのだという。

アメリカから見れば、彼らの社会は、法による支配と民間での契約により、成立しているから、日本の、目に見えない「共同体規制」などというあいまいなものには、前近代的な遺物を感じるのであろう。キンシップという血族意識が強固に張り巡らされ、異邦人にとっては、入ってはいけない不自由さを感じるようだ。

どういう社会が、いいとか悪いとかの問題ではない。歴史と伝統により、長い年月をかけて育まれた社会なのである。それぞれ違っていて、当たり前である。

そういえば、岡田英弘という歴史学者が、戦後、東南アジア諸国が独立できたのは、分断して統治するという欧米の植民地主義は、華僑を統治手段に使っていたが、日本の占領地で、町内会組織を持ち込み、自治をさせたことにより、華僑がいなくなって、再び植民地経営ができなくなったという影響が大きい、という説を書いていた。面白い見方である。

日本が、すべていいと言っているわけではない。個人の個性が生かしにくい社会であることも事実であるし、大きな流れができると、それに抵抗することが極めて難しくなる、という致命的欠陥を持つ。強力な中間組織は、ボスが君臨する組織であるので、センゲの言う「学習する組織」にはなりえない。選挙によって民主主義が確保されているとはいうものの、中間組織の規制が強いということは、利益誘導と裏腹の関係があるということだ。その選挙にしても、与えられた情報は、ビジネスとして成立しているマスコミからであり、フィルターがかかっている、と見るべきである。われわれは英米系の情報操作の下にいる。

外交においては、デファクトスタンダードを取りに行くなどということは、皆無に近い。ルールは決めてもらうものであって、おのれの動きやすい方向へ、有利な方向へ、諸国を誘導するなどということは、おそらく考えたことなどないであろう。政治もスポーツも、欧米基準に甘んじている。自信がないから、何でも受け身なのだ。特に、われわれ戦後世代は、自虐史観をGHQに刷り込まれている「腰抜け世代」であったことを反省したい。

米中とも、これから激動期に入るだろう。日本社会は、冷静に議論が成立しずらい社会であるからして「いつか来た道」にならないように、努力していかねばならないのである。過去の失敗を、中間組織内で、議論できないのであるから、当然の帰結なのであるが、そういうことすら、口の端に乗らないように、あいまいにしておくのが「和の国・日本」の流儀なのだ。

ただ、国益がぶつかり合う外交では、「あなた方とは違う」から始めなければならない。一時、外圧を利用して構造改革をする、などという議論がマスコミを賑わしたが、それに乗っかって改革を進めた橋本や小泉の新自由主義的改革で、日本はすっかりデフレが定着してしまった。既得権益退治に目くじらを立て、競争政策をアメリカに強いられ、すっかり全体感をなくしてしまった。今や、日本全体が、需要不足であえいでいるではないか。

戦後も全く戦前と同じ失敗をしているにもかかわらず、マスコミは、そういう視点の報道は一切ない。グローバル化は、アメリカの覇権維持の手段であった、ということは、日本ではおそらくタブーなのであろう。アフガン戦争でアルカイダを生み、イラク戦争でISを生み、日本との経済戦争で共産中国を台頭させたアメリカの失敗を、報道できない事情があるに違いない。

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