ご挨拶

IMG_0250_1.bmp子供たちは未来からの使者である、といいます。その子供たちがどんな社会を生きていくのか、現状を分析し未来を洞察し、必要な能力を身につけさせてやることが、教育者の務めだと思います。現状の子供たちを一番よく知っている皆様が、未来を生きる子供たちのあるべき姿を描き、現状とのかい離すなわち「教育ニーズ」をしっかりつかみ、学校の在り様を考えていただくことが、今一番大事になってきていると考えます。

そこで、この閉塞感あふれる日本社会をどう理解すればいいのか、という視点から私が蓄積してきたことを、皆様に情報としてお伝えし、考えるきっかけにしていただけたらと思い、この教育コラムマガジンを立ち上げました。 

7年間、岩手県の高校で民間人校長として勤務し、先生方との交流をした経験を踏まえた上で、経済や経営、政治や社会、教育や文化など、折に触れて小文を書き、情報提供していきます。

学ぶ姿勢・考える習慣を先生方自身が身につけ、経営品質賞の考え方を生かして、上意下達の指示待ちではなく、現場から発信し、教育委員会や文科省を動かしていただきたい。

志のある当サイト読者の方々のお役に、少しでも立つことを念願しております。

最新コラム

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2016-09-30 仏教思想の復活(3)

仏教思想の原点と言えば、なんといっても「17条憲法」だろう。立憲主義などという概念がなかった時代に、見事に国の基本と権力者の心構えを説いている。


2016-09-28 仏教思想の復活(2)

死に方は、その人の生き方にもつながるわけですから、高齢化社会を迎えて、身に迫る課題としてとらえる方も多いはずです。


2016-09-26 仏教思想の復活(1)

日本の現状を見てみれば、この仏教思想を復活させることが、いま求められているのだ、と感じます。


2016-09-23 馬淵睦夫『和の国・日本の民主主義』の書評より

最近、アンチ・グローバリズムの観点からの論評が多くなった。結構なことである。


 

読者の集いのお知らせ

第17回三木(さんもく)会を 下記要領にて開催しますので お知らせします。

日時  10月20日(木)18時00分〜20時00分 フリートーキングの後、懇親会をしています。

場所  ザ・コミュニティ会議室(東京都杉並区天沼3−7−3荻窪法人会館3F JR荻窪下車徒歩7分)

要領  当日テーマアップしたいコラムをコピーしてご持参ください。

           世の中のことに正解はない、という前提で,他人の話をじっくり聞く会です。

会費  会場使用料及び懇親会費として、1000円申し受けます。

その他 初めての方は、一言を添えて、メールにてご連絡ください。多様なご意見を歓迎します。

仏教思想の復活(3)

文化160913

仏教思想の原点と言えば、なんといっても「17条憲法」だろう。立憲主義などという概念がなかった時代に、見事に国の基本と権力者の心構えを説いている。

改めて確認する意味で、金治勇著『聖徳太子のこころ』から、現代語訳で振り返っておきたい。いまにも通ずる内容である。 

引用: 聖徳太子の17条憲法

一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。だから近隣の人たちともうまくいかない。しかし、上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、自ずから物事の道理にかない、どんなことも成就するものだ。

 

二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。

どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理を尊ばないことがあろうか。人には甚だしく悪い者は少ない。よく教えるならば正道に従うものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心を正せるだろうか。

 

三にいう。王(天皇)の命令を受けたならば、必ず謹んでそれに従いなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。

かくして、四季が正しくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうした整った秩序は破壊されてしまう。

 

四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民を治める基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪を犯す者が出てくる。だから、群臣たちに礼法が保たれているときは社会の秩序も乱れず、庶民たちに礼があれば国全体として自然に治まる。

 

五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。このごろの訴訟に携わる者たちは、賄賂を得ることが常識となり、賄賂をみてからその申し立てを聞いている。すなわち、裕福な者の訴えはたやすく受け入れられるのに、貧乏な者の訴えは容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者はどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

 

六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行を見たらかならず正しなさい。

へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民を滅ぼすするどい剣である。また、こびへつらう者は、上には好んで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗するものだ。これらの人たちは、君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

 

七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。

世の中には、生まれながらに、すべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られれば必ず治まる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば、豊かに、のびやかな世の中になる。

これによって国家は長く命脈を保ち、危うくならない。

 

八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方遅くなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日中かけてもすべて終えてしまうことが難しい。従って遅く出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのでは必ず仕事をし残してしまう。

 

九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

 

十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情に出さぬようにし、他の人が自分と異なったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。

そもそもこれがよいとかよくないとか、誰が定めるのだろう。お互い誰も賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。

相手がいきどおっていたら、むしろ、自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見に十分に耳を傾けなさい。

 

十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それに見合う賞罰を、必ず行いなさい。

近頃の褒賞は、必ずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。

 

十二にいう。国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって天皇だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものであろうか。

 

十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは、自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。

 

十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いは果てしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。

 

十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律を破る人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。

 

十六にいう。人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。

 

十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論が得られよう。 (引用おわり)

 

仏教思想の復活(2)

文化160912

仏教は、死ぬために生まれてくるような苦労の絶えない人間世界を見て、どうすれば救済されるのか、というテーマに向き合います。死に方は、その人の生き方にもつながるわけですから、高齢化社会を迎えて、身に迫る課題としてとらえる方も多いはずです。
20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは、晩年に『歎異抄』を読んで、こう書き残しています。

「今日、はじめて東洋の聖者親鸞の『歎異鈔』を読んだ。もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にいたことを知ったら、 自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。 日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中に広めることを生きがいにしたであろう。遅かった。」

ハイデッガーをそこまで感激させた親鸞の説く中心概念は「無碍の一道」(むげのいちどう)ということでしょう。ネットでその解説文を探しました。

引用:

どんなに栄華を極めた人間にも、死は訪れます。この死の大問題を解決した世界を、700年前の「歎異抄」には、『無碍の一道(むげのいちどう)』と記されています。

「碍」とは、さわりということです。「無碍」とは、そのさわりがない、ということです。「道」とは世界、「一」とはたった一つの。ですから、「一道」とは、絶対の世界です。
人生のいろいろな苦労があるわけですが、それらのさわりが、「無くなる」のではなく、一切のさわりが、さわりとならなくなるのです。そういう心境に至る、ということです。
つまり、試験に合格したり、病気が治ったり、お金が儲かったりするのではありません。
さわりがさわりのまま、さわりとならなくなる、そんな世界が『無碍の一道』です。
死の大問題が解決されたなら、どんな人でも必ず「無碍の一道」に出られます。この世界を「絶対の幸福」と呼んでいます。

そのためには、人生の諸問題の根元である死について、真っ先に解決することが重要です。この「無碍の一道」絶対の幸福の身になることこそ、このすべてが滅びる諸行無常の世の中で、生きているうちに解決法を見出さなければならない唯一の課題、人生の最優先課題だ、と仏教で教えられているのです。

生死の問題を先に解決して、死が来ても崩れない絶対の幸福になることが、本当の生きる目的だということです。

そのための人生指針として、六度万行の実践を上げています。

六度万行と、理解を深めるためにその反対語を、あげてみましょう。
1布施(親切)←──→慳貪(ケチ)
2持戒(言行一致)←→破戒(約束を破る)
3忍辱(忍耐)←──→瞋恚(いかり)
4精進(努力)←──→懈怠(なまける)
5禅定(反省)←──→散乱(心が散り乱れている)
6智慧(修養)←──→愚痴(恨んだりねたんだり人のせいにする)

廃悪修善を心がけ、善いことをすればするほど、(相対の幸福に恵まれると同時に)自分の欲や怒りや愚痴の心が見えてきて、本当の自己のすがたが知らされてきます。(引用おわり)

 

親鸞によれば、本当の自己の姿に目覚めることのなかに「絶対の幸福」が存在するのです。

他者の存在を意識することでこそ、自分という存在が輝くのですが、そうはわかっていても、人間、なかなか我欲からは自由になれない。そこには、矛盾もある。

例えば、人間はその営みの中で、殺生も姦淫もせざるを得ないわけです。そうした矛盾を背負いながら生きている。そうしないと、食べることも命をつなぐこともできない。

「我欲」にまみれたおのれを自覚する人を、親鸞は「悪人」と呼んでいます。

そして、そうした「悪人」こそ、仏は積極的な救済の対象にしている、と説いています。

学問をすればするほど、わからないということがわかり、自分の限界を悟り謙虚になる、というものです。限りある命を自覚し、大海の一滴どおし、むつみあうことの大切さを教えています。そこに、親鸞の神髄があるのではないでしょうか。

仏教思想の復活(1)

文化160911

日本人のものの考え方の底流には、仏教思想があると考えています。日本の現状を見てみれば、この仏教思想を復活させることが、いま求められているのだ、と感じます。

グローバル化対応をすることが、さも社会の進歩のように勘違いし、規制緩和して競争政策を導入、何もかも市場経済化を図ってきたこの30年ですが、どういう結果を生み出してきたでしょうか。もう結果が出ているではありませんか。

教育の世界に身を投じて以降、様々な子供たちに接してきました。勉強のできる子、できない子、運動の得意な子、苦手な子、精神的にタフな子もいれば、ガラスのハートの子もいます。それぞれに長所もあれば、課題も抱えています。

いろいろな子供たちが、その能力に応じて、社会の中で居場所を見つけて、人たちのお役に立ちながら、心豊かに生きていくことのできるようにすることが、公教育の目的です。

日本の公教育はいろいろな問題もありますが、基本的に世界に冠たる制度と思っています。

それを図式化したのが、私の「4つの積み木」教育理論ですが、その考え方の根拠・背景に、空海の説いた曼荼羅思想を据えたい、と思っています。

最近、インクルーシブ教育などという言葉がありますが、この曼荼羅思想の具現化とも言えるのではないか、とも考えます。

浅学菲才の身ですから、深遠な仏教思想を解説することはできませんが、なんとなく似た感覚があるように思います。

曼荼羅思想について、解説文章がありましたので、引用してご紹介します。

このブログ全体を通読いただくと、共通点があると思うのですが、いかがでしょうか。

 

引用:「真言宗の世界観」空海の思想

曼荼羅は、多面的な価値観の象徴です。
21世紀のいまの社会は、何かにつけて一元的な価値観が最優先されます。
グローバリゼーションというのは、まさにそれでしょう。
邪魔者は切り捨てろと言わんばかりに、一つの目標に一目散に突き進んでいるわけですが、
曼荼羅の世界観はその真逆です。
欠陥品や余計なもの、邪魔なものを集めてきて、一つの社会をつくる。
一つひとつを見れば欠点が多くても全体を支える掛け替えのない分担者であり、それらが集まって完璧な全体をつくり上げる、というのが曼荼羅の世界です。
この考え方は、人間一人ひとりのよさを生かし、理想の世の中をつくる上では非常に大事な思想だと思います。(引用おわり)

 

世の中に正解はない、と言いながらも、自分の視点はしっかりと持つ。そのための努力は、死ぬまで行う。その生きざまが周囲の人に、少しでも影響を与えるならば、それこそ最澄の言う「一隅を照らす、これ国の財なり」につながるのでしょう。

「なぜ生きるのか」を問い続けた仏教は、東洋哲学に流れ込み、脈々とその底流に存在しているように思います。

そうした日本人の価値観を忘却し、得か損か、好きか嫌いか、の物差しばかりが先行し、正邪の物差しをどこかに置き忘れてきたような世相を見て、原点回帰が必要と常日頃感じています。日本が日本であるために。

馬淵睦夫『和の国・日本の民主主義』の書評より

その他160910

私は、90年代に日米構造協議に出くわし、そのときの日本側交渉団の腰抜けぶりを間近に見て憤慨、同調圧力の強い日本の組織に嫌気がさして転身し、教育の世界で「自立した個人」の重要性に鑑み、現場主義の日本的経営での学校改革を訴えてきた。

しかしながら、理念先行の上からの改革の流れは止まらず、結果、学校現場は混乱し、日本経済はすっかりデフレになり、日本社会を「海の国」と「山の国」に分断してしまった。

理念先行の設計主義で国家運営してうまくいった例はない。市場原理主義の新自由主義イデオロギーというグローバリズムに、すっかり日本社会は狂わせられた。

 

天下の素浪人となってから、誰に遠慮することもなく、こうしてブログで、情報発信しているが、何の影響力も発揮できなかったので、次世代の人々へのお詫びのつもりで始めたものだ。時間の経過とともに、わが見識に自信を持つのであるが、所詮「負け犬の遠吠え!」

世間に何ほどの影響力もないままに、現在に至っている。

まことにもってわが人生、むなしい気がするのであるが、そこは先賢の説く「仏教思想」などに慰められて日々を過ごしている。

それでも、時折の「同志」からの励ましのメールや、わが意を得たりと思う文章に出会うことは、無上の喜びとなる。そして「終わった人」になるものかとの気概を持って、老骨に鞭打ち、文章をしたためている。

 

最近、アンチ・グローバリズムの観点からの論評が多くなった。結構なことである。そのなかで、馬淵睦夫氏の『和の国・日本の民主主義』(KKベストセラーズ)は、私と同じ視点からの記述が多い。書評を引用して紹介する。少数者を排除しない寄合民主主義という伝統的民主主義や,利他の心を大切にしてきた日本精神の復活を願っている。

 

引用:

日本は別にアメリカから民主主義を教わったわけではない。戦後、日本人はまったく洗脳されてアメリカが民主主義国家だと思いこんできた。トンデモナイ誤解である。
日本こそ、世界最古にして最先端の民主国家である、と馬淵氏は力説する。
いうまでもなく「民主主義」と対立するのが「全体主義」だ。それは結局、イデオロギーであり、一神教(宗教)であり、排外的なナショナリズムの狂気である。

生存への不安、焦燥、恐怖がある日、飢えや死から逃れようとして狂気の行動を取るのだ。
1917年のロシア革命、1945年の中国共産革命は、大量の流血を伴って、全体主義国家を産んだ。
その影響はソ連の衛星国(東欧、モンゴルなど)と中国共産党の衛星国(ラオス、カンボジア)などを産んだ。

そして全体主義=共産主義の悪政ウィルスは、世界にばらまかれ、あちこちに愚行が繰り返され、悲劇を産む一方で、植民と経営に失敗した欧米列強は、皮肉にも、被植民地からの移民を大量に受け入れ、ナショナル・アイデンティティ喪失の危機にさらされ、歴史の報復を受けている。
この点、日本は海洋国家であり、単一民族であり、多神教であるがゆえに、ユーラシアが体験した全体主義とは無縁でいられた、歴史の僥倖に恵まれたとも言える。
だからこそ、日本的経営の復活、そして日本精神の再武装がいまの日本に求められている。でなければ「グローバリスム」という「新しい妖怪」に滅ばされてしまう。
そして、一度は破産したはずの共産主義あるいは社会主義運動が、ソ連崩壊以後は「グローバリズム」の隠れ蓑に本質を隠して、世界をグローバリズムという一神教的思考で統一しようとしている。クローバリズムという妖怪も一種全体主義的である。 
その破産が世界中で現れ、米国にトランプ現象、英国のEU離脱、ドイツの新党運動も、いやイタリアもオランダもフランスも、政権与党を窮地に追い込むか、敗北させている。これが現代世界である。全体主義との戦いは、まだまだ続くのである。(引用おわり)

 

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