ご挨拶

IMG_0250_1.bmp子供たちは未来からの使者である、といいます。その子供たちがどんな社会を生きていくのか、現状を分析し未来を洞察し、必要な能力を身につけさせてやることが、教育者の務めだと思います。現状の子供たちを一番よく知っている皆様が、未来を生きる子供たちのあるべき姿を描き、現状とのかい離すなわち「教育ニーズ」をしっかりつかみ、学校の在り様を考えていただくことが、今一番大事になってきていると考えます。

そこで、この閉塞感あふれる日本社会をどう理解すればいいのか、という視点から私が蓄積してきたことを、皆様に情報としてお伝えし、考えるきっかけにしていただけたらと思い、この教育コラムマガジンを立ち上げました。 

7年間、岩手県の高校で民間人校長として勤務し、先生方との交流をした経験を踏まえた上で、経済や経営、政治や社会、教育や文化など、折に触れて小文を書き、情報提供していきます。

学ぶ姿勢・考える習慣を先生方自身が身につけ、経営品質賞の考え方を生かして、上意下達の指示待ちではなく、現場から発信し、教育委員会や文科省を動かしていただきたい。

志のある当サイト読者の方々のお役に、少しでも立つことを念願しております。

最新コラム

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2016-12-07 文化という価値

大事なことは、文明はマネできますが、その中の文化は簡単にはマネできない、ということです。

長い歴史の中で育まれた伝統や生活慣習の中に織り込まれ,知らず知らずのうちに、「民族の価値観」として刷り込まれるからです。


2016-12-04 国づくり名人・日本

要は、日本の国柄をもう一度想起し、日本に相応しい資本主義、すなわち自由や平等や博愛といった日本人の倫理規範や価値観になじむ体制に戻さなければ、今後の発展はない、ということです。


2016-12-01 韓国に関わるべからず

韓国社会には、構造的な問題があり、その由来は文化に起因するので、日本人にはいかんともし難く、関わらないという方針を貫くことが賢明です。


2016-11-30 外国語を学ぶ意義

国際化が避けられない時代だとするならば、外国語を学ぶことにより彼我の違いに習熟し、日本文化を発信できる人物になってほしいと思います。21世紀の世界理念は、日本の精神文化であると考えるからです。


 

読者の集いのお知らせ

第19回三木(さんもく)会を 下記要領にて開催しますので お知らせします。

日時  12月15日(木)18時〜20時

場所  港区立生涯学習センター(新橋3−16−3桜田公園内)JR新橋駅烏森口改札を出て歩3分

要領  当日テーマアップしたいコラムをコピーしてご持参ください。

           世の中のことに正解はない、という前提で,他人の話をじっくり聞く会です。

会費  会場使用料及び懇親会費として、1000円申し受けます。

その他 初めての方は、一言を添えて、メールにてご連絡ください。多様なご意見を歓迎します。

文化という価値

教育161203

「その民族の生活様式を形成する知恵の集積を文化といい、文化を含め、政治・経済・社会・科学技術などに裏付けされた生活実態を文明という。」

これが、文化と文明の、一般的な定義です。そして大事なことは、文明はマネできますが、その中の文化は簡単にはマネできない、ということです。

長い歴史の中で育まれた伝統や生活慣習の中に織り込まれ,知らず知らずのうちに、「民族の価値観」として刷り込まれるからです。

こうした文化という「原点」を持つこと、それがアイデンティティの基本です。

そして、このアイデンティティが失われると、社会が混乱し、国家が崩壊してしまいます。ようやくそういうことが分かりだした民衆が、政治の世界の流れを変えようとしています。

 

日本は、古くは中国から、近年は西洋諸国から、文明の諸遺産を学び、導入してきました。しかし、日本の文化になじまない諸要素は、切り捨ててきました。

中国から律令制度は導入しましたが、纏足や宦官の制度は入れていません。

明治の改革では、立憲君主制がふさわしいとして、市民革命を経て成立した英米仏の政治体制を見習ってはいません。

それは、すべて、日本の文化的基盤を考慮して、ときの為政者が判断したものです。

「和魂洋才」が常に意識されていました。明治憲法と前後して「教育勅語」が世に出ます。「朕思うに」で始まるこの文章は、憲法との整合性をとるために、意識して個人的見解として、発表されました。価値観を上から押し付けることを避けた日本人の知恵でした。

(「三種の神器という不易の形」政治151006〜07参照)

 

ところが、中曽根政権以降、日本の文化基盤を無視した政治が行われてきています。

中曽根康弘という人物は、軍隊で主計をやっていた人物で戦争の悲惨さがわからないのでタカ派になりやすい、と佐高信は語っています。

しかし、私はむしろ、カネという普遍的な価値尺度を扱っていたがゆえに、文化といった違いを感じる分野に疎くなり、グローバル化になじみやすくなったのだ、と考えます。

レーガンに同調して、新自由主義的政策に走り、国鉄民営化などの構造改革に着手しますが、この路線は、日本が日本でなくなる道筋を歩む契機となりました。失敗の原点です。

日本本来の寄合民主主義が、どんどん株主民主主義に変化していく契機となりました。

(「3つの民主主義」社会161003参照)

 

私の実感では、MBA取得者や財務官僚など経理に強い「有能な人物」にグローバル化礼賛論者が多いように感じます。彼らの欠点は、文化的な視点が持てず、彼我の違いを意識する発想が、ほとんどないということです。したがって、世界観・歴史観・価値観といった、リーダーに必要な資質が涵養されずにいるのです。

こうした人物をリーダーにした組織の行き詰まりが、いま民間企業でも目立っています。

(「日本企業の劣化が止まらない」経営160403参照)

 

カーライルの文明批評に触発された夏目漱石は、日露戦争後の日本の行き末を案じ、小説という手段で、警鐘を鳴らします。その姿勢を、佐伯啓思氏が取り上げ、「エリート・漱石の苦悩 西洋的理論がもたらす分断」という表題で、朝日新聞11月29日「異論のススメ」に書いています。

「グローバル化へ向けた社会変革を説く専門的学者や官僚、ジャーナリズムなどのエリート知識層は、西洋発の学問や知識を母体にした合理主義で社会を「進歩」させようとしてきた。」

「学者の態度は、対象から身を引き離して、それを観察し形式論を立てるに過ぎない。」

「人間や社会を対象とする実証的科学が、その対象とする人間や社会の実際とはかけ離れてしまう。」と、経済学者の研究態度を批判しています。

 

資本と人の自由な移動などという経済学の前提が、そもそもの過ちであるにもかかわらず、そんな経済学の理論で政策を推し進めるから、矛盾が拡大し、限界が来てしまうのです。

公益資本主義という伝統を忘れ、資金効率ばかりにとらわれた経営手法を導入するから、組織がささくれだし、目的が達成されないのです。

 

人は生まれ育った地域に愛着を持ち、できることならそこで職業を持ち、一生を終えたいと希望するものです。豊かな社会に住む日本人なら、そういう希望を持って当然です。

集団の目標に向けて悪戦苦闘する中にも、その一員であることを誇りにしていくことに、働く喜びを感じる民族なのです。「公の精神や和の精神」は、日本の文化的基盤です。

こうした「山の国」が本来の日本であり、エリートたらんとして「海の国」に居を移した人々が、自分たちの狭い世界で、日本全体を差配しようとするから、おかしなことになる。

そういうこともわからないエリート知識層を作ってしまったことに対して、教育界も反省をしなければならないように感じています。もっとしっかりと自虐史観からの脱却を図っておくべきでした。日本人としての教養、「リベラル・アーツ」を、鍛えておくべきでした。

今後、他民族がマネできない文化的基盤を大切にする方向で、教育を考え直す必要があるのではないでしょうか。このブログの標題が「先生の学校」である所以です。

国づくり名人・日本

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歴史を紐解くと、日本という国家は、本当に国づくりの名人だということがわかります。近代の理念は、フランス革命の自由・平等・博愛で象徴されていますが、日本の場合は、建国の時から底流にこの3つの要素が含まれています。ただ、そうした言葉が存在しなかったので、概念が明確に意識されなかっただけであるように思います。

 

自由を尊重していたことは、多くの古典と言われる文学が存在することで証明されている。自由がなければ、「源氏物語」のような作品は存在しなかったに違いありません。

平等を尊重していたことは、神道や仏教の普及だけで、説明する必要もないでしょう。

博愛とは、キリスト教理念で日本人にはわかりにくいでしょうが、寛容と忍耐と置き換えてもよいでしょう。これも、和の精神を訴えた「17条憲法」の時代から、浸透しています。

 

こうした伝統的な価値観は、欧米の植民地支配に苦しむアジアの同胞をそこから解放するというアジア主義の理念に結びつきますが、第1次世界大戦後、国際協調を志向する中で、日本もだんだん帝国主義化せざるを得なかった、というのが私の歴史観です。また、1919年のパリ講和会議以降、黄禍論が言われ、台頭する日本を主なターゲットとする人種差別が蔓延していったことも事実です。

台湾・朝鮮・満州と、いわゆる「植民地」を運営しますが、いずれも欧米の植民地支配とは一線を画しています。収奪のシステムを作るというよりも、未開発地域を近代的な地域へと、国づくりの基礎作りにまい進したのです。

1人当たりの国家予算の配分額で、戦前の日本は、いかにこれらの通称「植民地」を優遇したかがわかります。

 

大東亜戦争で占領した地域では、行政組織の末端に町内会を作り、自治活動をさせたことが、後の民族独立運動に力を与えました。欧米列強の植民地支配の手伝いをしていた多くの華僑たちが、日本の進駐により逃散したからです。日本の敗戦で、欧米列強が復帰したにもかかわらず、手足がいないので、統治がままならなかったのです。

そのことが、結果的に、アジア独立を成功させる原動力となりました。これは、まさしく、1943年11月開催された「大東亜会議」の趣旨に合致した動きです。そこには、八紘一宇という博愛の精神が謳われておりました。

 

戦後も、GHQの指導下で国家再建をしていきますが、GHQの指導原理は、少なくとも経済政策においては、戦前、北一輝の唱えた国家社会主義と通底するものがあります。

そこでも、自由と平等のバランスを考慮して、経済運営がなされます。

財閥を解体、農地解放をして自作農を増やし、競争環境を整備する中で、自由に市場を通じて競争する、という資本主義の常道を歩むことになります。

一方で、教育や医療、インフラについては、平等を旨とし、社会主義的に運営することとしました。

これを混合経済体制といいますが、日本人の倫理観になじみやすく、勤勉な国民性の下で、その後の高度成長を達成するのです。

もちろん、東西冷戦下にあって、日本をアジアの反共の防塁にしたい思惑のあるアメリカの、寛容な政策のおかげでもありました。

ところが、アメリカには、順調な成長を遂げた日本を押さえつける必要が出てきました。貿易摩擦です。個別業界の交渉では埒が明かないので、プラザ合意へと進みます。日本の産業は、急速に国際競争力を失っていきます。

後は、「失われた30年」になっているのですが、それは幾度も書いているので割愛します。

要は、日本の国柄をもう一度想起し、日本に相応しい資本主義、すなわち自由や平等や博愛といった日本人の倫理規範や価値観になじむ体制に戻さなければ、今後の発展はない、ということです。

新自由主義という、間違った教義から、それこそ「自由」にならなければなりません。

韓国に関わるべからず

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韓国が混乱しています。朴槿恵のスキャンダルを中心に報道されていますが、韓国社会には、構造的な問題があり、その由来は文化に起因するので、日本人にはいかんともし難く、関わらないという方針を貫くことが賢明です。

「感謝」という言葉を知らない民族に、いくら肩入れしても、裏切られるだけです。

漢字を捨て去った国ですから、歴史をたどることもできません。言葉が単純だから、思考が深まらない。儒教の悪影響で「序列」ばかりを気にする国民性です。それが、アメリカの弱肉強食社会を、近年見習っているものだから、始末に負えないのです。

歴代の国のリーダーたる大統領のレベルを見れば、そのお粗末さに呆れかえるばかりです。前大統領の李明博も、国連事務総長の潘儀文も、お粗末を絵に描いたような人物です。

 

日本統治時代のことを、恨んでいるようですが、曲がりなりにも近代国家に近づけたのも、その時代に教育・医療・電気・水道・農業等のインフラが整備されたからではありませんか。日本統治時代に、朝鮮半島の人口は3倍近くにもなっています。

韓国が言うような「植民地支配」を受けていたなら、そんなことになるはずがありません。

それにもかかわらず、慰安婦を「性奴隷」とする国定教科書で、教育しようとしています。彼女らは間違いなく売春婦です。それは、アメリカの調査で明らかになっています。そうしたねつ造までして、歴史を平気でゆがめる民族です。

貧困という社会悪は、その時代、何も朝鮮半島だけの問題ではありません。日本の農村でも、娘の身売りが社会問題になっていたのです。日本人は、そういう理不尽に対してでも、声高に口の端に乗せるようなことをしません。「恥」を知る民族だからです。

 

自分たちが過去、どのような血で血を洗うような政争に明け暮れし虐殺を繰り返してきたのか、他民族に対してどのようなひどい仕打ちをしてきたのか、猛省する必要があります。

良いことはみな、日本が関係しています。漢江の奇跡は、どこのカネで達成されたのでしょうか。国家予算の2倍もの支援金で、近代国家の礎を築けたのではないですか。

通貨危機の後も、リーマンショックの後も、日本の援助で一息つけた現実は、完全に忘却しています。こんな得手勝手な民族である、ということを肝に銘ずるべきです。

 

こんな国と通貨スワップを結ぶことに、私は反対します。お人好しもいい加減にせよ、と当局に言いたい。

韓国政府による正式なスワップ再開の提案があったのは2016年8月。ソウルで開催された第7回日韓財務対話の場です。韓国政府から二国間の経済協力を強化すること、双方同額の新しい通貨スワップ協定の締結の提案があり、両国政府は通貨スワップ協定について、議論を開始することに合意した。

韓国側の事情として、韓国のスワップの半分を占める中国元が、2017年10月に満期を迎えるのです。両国政府は延長には合意しているが、韓国が要請する規模拡大に中国側が難色を示している。韓国のTHAAD配置決定以降、中国との関係に亀裂が入ったからですが、反日を国是としているのに、よくもまあ、こんな厚かましくふるまいができるものだ。

本来、アメリカと米韓スワップを結べばよいではないかと思うが、これは目途すら立っていない。破たんに近いような韓国経済を、支配する銀行を通じて知悉しているアメリカは、何の得にもならない協定を結ぶとも思えない。

 

たとえ、北朝鮮との間で軍事衝突があっても、アメリカに任せておくことです。北朝鮮に統一されたとしても、中国にお任せしましょう。そこまで腹をくくることです。

朝鮮半島に関わってロクなことはない。歴史の教訓を生かすことです。戦争に巻き込まれ続けた歴史ではないですか。しかも、近代国家建設に協力してきたのに何の感謝もない。

 

「ヘル朝鮮」と言われるぐらい、経済は傷んでいます。状況は絶望的です。

若者の失業率は二けたに達し、家計の負債は、100兆円を超えるレベルになっています。

輸出依存であるにもかかわらず、その担い手の財閥が、中国経済の停滞や昨今の不祥事でボロボロになっています。もう、ガラガラポンをすること以外に、社会を正常化する方法はありません。革命なのか戦争なのかわかりませんが、それは彼ら自身が決めることです。

根本的には、彼ら自身の手で、文化水準を上げていくことしかありません。民度を上げて社会に根付く「属人主義」や「階層意識」を解消していかない限り、中国と同じで、易姓革命ばかりを繰り返すことになるでしょう。彼らに必要なことは、自らの歴史をもう一度、冷静に見直すことです。民族に染み付いた「事大主義」を卒業することです。そして日本にいかに迷惑をかけてきたか、を振り返ることです。

 

ただ、在日が49万人いるそうですが、この人たちに、ヘイトスピーチを浴びせたりすることは止めるべきです。彼らも多種多様です。日本をしっかりと理解できている人もいます。

冷静な現状分析をして、われわれ日本人の力ではどうすることもできないので放置する、という方針を出せばいいだけの話です。関わってはいけません。また感情に任せて、行動することは、厳に慎まなければなりません。品位を保ち、違いを見せつけてやりましょう。彼らとの関係は、そういう彼我の違いをハッキリと認識をさせることからスタートです。

外国語を学ぶ意義

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浄土真宗本願寺派僧侶でありながら、通訳や翻訳も手掛ける大來尚順氏による連載『訳せない日本語〜日本人の言葉と心〜』に面白い文章があるのでご紹介します。外国語を学ぶことで、深く日本文化に親しむことが、これからの国際派日本人の必須要件だと思います。国際化が避けられない時代だとするならば、外国語を学ぶことにより彼我の違いに習熟し、日本文化を発信できる人物になってほしいと思います。21世紀の世界理念は、日本の精神文化であると考えるからです。アメリカ主導のグローバリズムのほころびが顕著になった現在、そういう志のある若者の出現を期待しています。

引用:

「しょうがない」という言葉は、通常英語では「It can’t be helped.」と表現されます。直訳すると、「それは、助けられない/避けることができない」という意味になります。これは日本語の「しょうがない」の対訳としてもよく知られる英語の表現で、私も当初はよく使ったフレーズです。しかし、あるときふと気がついたことがありました。それは、ネイティブの人々はめったに「It can’t be helped.」というフレーズを口にしないということでした。

私なら「It can’t be helped.」と口にするタイミングで、ネイティブの方は、「That’s life.」(それが人生だ)「That’s the way it goes.」(そうなるようになっているんだ)という表現を使っていました。共に何かを「あきらめる/あきらめさせる」という意味には変わりないのですが、どうも私が意図する「しょうがない」とネイティブの方々が意図する「しょうがない」では、少しニュアンスに違いがあるように思えました。それではこの違いとは何なのでしょうか。

ニュアンスの違いを明確にするために、日本語の「しょうがない」の語源を考えてみましょう。国語辞典によると、「しょうがない」は元来「仕様がない」と書くそうです。「仕様」とは「手段・方法」を意味します。つまり、「しょうがない」は「手段・方法がない」という意味から「あきらめる」という意味になりました。これはもう打つ手がなく、自分ではどうすることもできないという境地を感じます。

よって、「It can’t be helped.」という「手立てがなく、助けられない/避けられない」という意味を表現する英訳は、日本語の「しょうがない」の意味に合致するように思えます。しかし、これはやっぱり日本語の観点から英語に翻訳した表現であり、実際の英語では違和感のあるもののようです。

一方、実際にネイティブの方が「しょうがない」という気持ちを英語で表現するときは、「That’s life.」「That’s the way it goes.」などのフレーズを使います。よく英語を分析してみると、これは「誰か」によって定められたというニュアンスを感じます。その「誰か」とは、おそらくキリスト教の「神」だと推察できます。つまり、「神」によって運命が定められているのだから、「それが人生だ」「そうなるようになっているんだ」と言い聞かせて、物事をあきらめざるを得ないということになるのだと思います。ここに改めて、英語というのは、西洋文化・思想の中から生まれた言葉であることを感じます。

この比較によってわかるのは、日本語の「しょうがない」も、ネイティブの方が英語で表現する「しょうがない」も、結果的には共に「あきらめる」という意味になることは同じです。しかし、その結果に至る過程がそれぞれ異なるということです。ネイティブの方が表現する「しょうがない」という英語の表現は、人に物事を納得させるために何かしらの超越的な力や存在を用います。ある意味、強制的なニュアンスを感じます。

しかし、日本語の「しょうがない」は、もう打つ手がなく、自分ではどうしようもないという、事実を自然と受け入れる姿勢を感じます。つまり、任意的なニュアンスです。このニュアンスの違いが、私の中で微妙な違和感を生じさせていたのです。

「あきらめる」という行為に任意的なニュアンスを持つ日本語の「しょうがない」という言葉ですが、西洋とは異なるニュアンスを持つ背景には、仏教の教えがあるように思えます。その教えとは「諦」です。これは通常は「あきらめる」と読み、意味は「give up」として使われています。しかし、仏教ではこれを「たい」と読み、「さとり」「真実」を意味します。(「明らめる」と読み、「明らかになる」という意味も持ちます)

では、その「さとり」「真実」は何かというと、それは「物事は思い通りにならない」ということです。この意味から派生して「諦」が今日の「give up」の意味を持つようになったのです。そして、それをその真実に逆らい、できないものを思い通りにしようとするからこそ、人は苦しむのです。

物事は常に変化し、その自然な流れを思うようにコントロールしたり、逆らうことはできません。これは私たちにはどうすることもできず、ただ変化の中に身を任せるしかないのです。この真実の理解が、「しょうがない」という言葉に含まれる「あきらめる」という行為に任意的なニュアンスを生んだのだと思うのです。

これらすべて踏まえたうえで、西洋の方々にも理解してもらえる表現として日本語の「しょうがない」を英語にするとき、「Let it go.」(そのままで)「Become to be.」(なるようになる)という表現ができるかもしれません。しかし、これらもまた、さまざまな意味や過程を捨象したものであり、理解されるかは、また別の問題かもしれません。この言葉を深く考えることで、物事の流れに逆らわない自然な姿勢を大切にすることは、楽に生きる方法の一つだと改めて学ばせて頂きました。 (引用おわり)

 

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