ご挨拶

IMG_0250_1.bmp子供たちは未来からの使者である、といいます。その子供たちがどんな社会を生きていくのか、現状を分析し未来を洞察し、必要な能力を身につけさせてやることが、教育者の務めだと思います。現状の子供たちを一番よく知っている皆様が、未来を生きる子供たちのあるべき姿を描き、現状とのかい離すなわち「教育ニーズ」をしっかりつかみ、学校の在り様を考えていただくことが、今一番大事になってきていると考えます。

そこで、この閉塞感あふれる日本社会をどう理解すればいいのか、という視点から私が蓄積してきたことを、皆様に情報としてお伝えし、考えるきっかけにしていただけたらと思い、この教育コラムマガジンを立ち上げました。 

7年間、岩手県の高校で民間人校長として勤務し、先生方との交流をした経験を踏まえた上で、経済や経営、政治や社会、教育や文化など、折に触れて小文を書き、情報提供していきます。

学ぶ姿勢・考える習慣を先生方自身が身につけ、経営品質賞の考え方を生かして、上意下達の指示待ちではなく、現場から発信し、教育委員会や文科省を動かしていただきたい。

志のある当サイト読者の方々のお役に、少しでも立つことを念願しております。

最新コラム

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2016-07-29 トレランスということ

20世紀のフランスの哲学者フーコーの警告が、今の日本に当てはまるのは、本当に残念だ。


2016-07-27 ティチャーズ・イニシアティブの会合に参加して(2)

産業界からの要望を、網羅的に,対症療法的に取り入れ、熟議していないから、こういうことになっているのだ。


2016-07-25 ティチャーズ・イニシアティブの会合に参加して

ティチャーズ・イニシアティブという一般社団法人の設立記念シンポジウム「シフトする教育〜未来をつくる教師」という会合に参加してきた。


2016-07-21 言葉に現われる精神文化

あらゆる自然に神を感じ感謝を捧げるとともに、身を慎むことを旨としてきた、という精神文化です。


読者の集いのお知らせ

第15回三木(さんもく)会を 下記要領にて開催しますので お知らせします。

日時  8月18日(木)18時00分〜20時00分 フリートーキングの後、懇親会をしています。

場所  ザ・コミュニティ会議室(東京都杉並区天沼3−7−3荻窪法人会館3F JR荻窪下車徒歩7分)

要領  当日テーマアップしたいコラムをコピーしてご持参ください。

           世の中のことに正解はない、という前提で,他人の話をじっくり聞く会です。

会費  会場使用料及び懇親会費として、1000円申し受けます。

その他 初めての方は、一言を添えて、メールにてご連絡ください。多様なご意見を歓迎します。

トレランスということ

文化160712

トレランスは、通常「寛容」と訳される。寛容とは、広い心・おおらかな態度を意味する。しかし原語には、これにとどまらず、忍耐する、分かち合う、という意味も含まれる。

国際化の進展によって、このトレランスの重要度が増している。民族間の、風習や価値観の違いが理解を超えると、とかくトラブルになる。そんな事例が、世界中で拡大している。

 

日本の社会は、和をもって貴しとなす社会であるから、対立をあおりそうなテーマに対しては口をつぐむ。それが、大人の知恵とされる。だから、政治と宗教はタブー視される。

しかし、社会のことを突き詰めると、政治を論じなければならないし、人間を探究すると、宗教に行きつく。政治や宗教を度外視することは、深く考えないことでもある。

そこを空白にしているから、精神年齢12歳のエリートたちができあがり、いつも外交交渉で失敗し、経済運営にも支障をきたしてきたのではないか。

にもかかわらず、最近のマスコミや地方自治体は、この政治や宗教に過敏に反応する。

下がお上の意向を忖度することで、表現の自由が、実質的に制限される。そんな事態が、じわりじわりと進行している。

20世紀のフランスの哲学者フーコーの警告が、今の日本に当てはまるのは、本当に残念だ。

 

ぎくしゃくするテーマは棚に上げ、過去のことは「水に流し」深く追及することをしない民族が、日本人である。一般庶民はそれでいいかもしれないが、社会のリーダー層になると、そうはいかないのではないか、と思うようになった。

違う考えの人と議論をして、お互いを修正していきながら、どこかで妥協できる「落としどころ」を見出していくという熟議のプロセスを、スキルとして身に着ける訓練が、必要ではないか。

組織内で方向性の議論をしていくとき、誰しも譲れない一線はあるが、同時に、協働していくことで、効率が上がることは明らかである。心を一つにすることは大事である。

 

「議論下手な日本人」(教育140107)でも書いたが、反対意見を言うと、人格でも否定されたかのように、烈火のごとく怒り狂う人が多い。まことに不寛容なのである。

日本には弁証法の伝統がないからだという人もいるが、要は議論というものに慣れていないのである。熟議や創発といった概念が、欠落しているのである。

考えてみれば、反対意見を言われて、怒り出すような人間は、それだけ自分に自信がないだけの話なのである。そんな人物が間違って偉くなると、その組織には悲劇が訪れる。

歴史的にも、多くの分野で、「失敗の研究」が行われている。太平洋戦争の戦記だけではない。

 

「寄合民主主義のススメ」(政治160706)でも書いたが、この30年の同時代経済史からわかるとおり、理念や知性ばかりが先行するシステムは、社会を混乱させるだけあり、やはり感性が大事で、その感性で時代を読み解くという能力のある人は、大抵少数派だ。

近年、日本の相対的地位が低下してきたのは、多数派の論理が間違っていたからに過ぎない。「時代の流れ」などという思考停止の言葉に身をゆだね、何でもかんでもお上まかせにしておくと、大きな厄災が待ち受けている、というのは歴史が証明している。

そんなことを考えざるを得ない時代状況が来ているようだ。

 

東京都の知事候補やアメリカ大統領候補を見ていると、絶望的な気持ちになる。

選良を選ぶのは国民であるからして、その国民のレベルを反映しているとみるべきである。

どこかで聞いたフレーズであるが、やはり「教育・教育・教育」なんだと思う。

 

東京荻窪で、「読者の集い」を開催している。世の中のことに正解はない、という前提で、他人の話をじっくり傾聴する会である。一種「哲学カフェ」とでも言える集いである。

読者諸兄の、更なるご参加を、お待ちしています。

ティチャーズ・イニシアティブの会合に参加して(2)

教育160711

ティチャーズ・イニシアティブの設立趣旨の先生方の支援するというスタンスは、まことに結構なもので、私のブログ「先生の学校」の目的とも一致している。

影響力のある方々が、こうして現場の教師を支援していこうとすることに敬意を表するが、現状認識や改善の方法論は、学者や官僚の人たちの発言に、その限界を感じた。

この団体には、内田樹的な、そもそも論の発想が、欠けているように思う。

「学ぶ」という意味の確認、先生と生徒の立ち位置の確認、日本の学校教育に対するリスペクト、が教育問題を議論するときの、基本でなければならない。

創発というからには、そうした異説をもっと導入してもらいたいものだ。

 

民間人校長の平川理恵氏の発言を、もっと掘り下げてもらいたいと思った。

現場を預かる立場からすると、子供たちの抱えている問題は多種多様であり、その課題を何でもかんでも公教育に押し付けてしまおうとする行政の姿勢こそ、問題なのである。

国際化や技術革新といった「流行」の部分に焦点が当てられ、それを英語教育、道徳教育、主権者教育、プログラミング教育、などの形で対応しようとしているが、コマ不足や指導力不足のなかで、もうみんな現場は疲れ切っているのである。

鈴木寛氏はそれを「教育改革過剰症」と呼び、現場は上からの指示を取捨選択せよなどと言っているが、そうすることの極めて困難な状況を、実感としては理解していない。

 

私が盛岡工業の校長をしていたとき、県で音頭を取って「産業教育会議」が開設され、有識者と呼ばれる産業界代表者が、職業高校への要望をぶつける、ということがあった。

あまりにも、手前勝手な、利益誘導的な発言にイライラし、私は「あなた方の会社の従業員予備軍を育てているのではありません。」と言い放った。

随分と物議をかもし、教育委員会で問題になったようだが、誰かが、そうした不当な圧力を跳ね返さなければ、どんどん過重な負担を強いられ、公教育が歪んでしまう。

文科省でのヒアリングでの私の発言を再度検証してほしい。

中教審の答申を受けて、ストレートな形で、学校現場まで下してくる文科省・教育委員会・学校管理職は、仕事をしていない、と言ったつもりである。

中教審の有識者は現場を知らないし、現場は社会を知らない。中間が機能していない現状を訴えたつもりである。

学校関係者は、経営学の勉強などしていない。戦略とは選択と集中であり、両方とも捨てることであるとか、付加価値の定義や経営品質の概念など、わかるはずがないではないか。

 

米倉誠一郎一橋大学イノベーション研究センター教授は、教育投資の重要性を力説されていたのはいいのだが、「流行」は、教育においては一度「不易」化し、構造化していかないと浸透しないものであることを理解されていないように思う。

産業界からの要望を、網羅的に、対症療法的に取り入れ、熟議していないから、こういうことになっているのだ。

そのために、私は「4つの積み木」教育理論を構築した、と言っても過言ではない。幸い、この理論の共感者は、学校関係者には結構存在する。

米倉誠一郎氏には、文科省のヒアリングで配布した私の資料に、目を通してもらいたい。

 

そして、米倉氏は、一橋大学生の大企業志向を揶揄していたが、現実社会をもう少し見てほしい、と思う。中小企業のなかで活躍する難しさ、というのも、世の中には存在する。

上下関係が固定される規模の小さい会社では、意見の対立が、そのまま離職につながる。いわゆる「バカの壁」も存在する。それに処遇が大きく違うので、次のステップへ進むにも、金銭的に余裕が生じず、失敗を繰り返す可能性が高くなる。

寄らば大樹というのも、問題ではあるが、そうかといって、中小企業を目指せ、とまでは、私には言えない。むしろ大学が、研究体制を拡充し、挫折した卒業生をしばらく雇用するシステムを作ったらどうか。

 

「人生のアジェンダを持て」というのは納得できるが、そんな人物は、組織から排除されやすい、というのも事実である。イノベーションは、そんな人材から生まれるのだろうけれど、幹部社員が親分子分の関係になりやすい現状では難しい。日本企業の、「公益主義」と「育てる文化」の復活が望まれる。

 

世界でもトップレベルの学力を誇る。にもかかわらず、自尊感情が低い。さらに学習意欲や社会参加意欲が低い。といった問題が提起されたが、これなどは家庭教育の問題と捉え、社会教育の一環としていくべきではないか、と思う。

私は、子供の学力を言う前に、大人の「学ぶ姿勢や考える習慣」ができていないまま、誰からも指摘されず、放置されている状態を、強く憂うものである。

なぜなら、子供は大人の背中を見て育つ、というのは本当だと思うからである。

 

特に、地方経済を担う経営者の二世・三世に厳しい発言を繰り返してきた。居心地の良さだけを求めて、人間関係だけに頼っている姿に、マイルドヤンキーという言葉を進呈した。社会人も高校生レベルなのである。

疲弊する地方を救うのは彼らである、と期待しての苦言である。

ティチャーズ・イニシアティブの会合に参加して

教育160710

ティチャーズ・イニシアティブという一般社団法人の設立記念シンポジウム「シフトする教育〜未来をつくる教師」という会合に参加してきた。若干のコメントをつけて、概要を報告する。

 

設立挨拶・・・米倉誠一郎一橋大学イノベーション研究センター教授

ティチャーズ・イニシアティブの設立趣意は、次のようなことである。

教育のニーズが、国際化や技術の進歩により、大きく変わってきているにもかかわらず、日本の教育はそれに対応できていない。

与えられた問題を素早く解くことから、自分で問題設定をして、仮説検証していく能力が要求されている。

知識伝達から、意味の創出へ切り替えなければならないのに、それができていない。

その実践ができるのは、現場教師であるが、世界一忙しいという現状がある。

この先生たちにエールを送りながら、支援していこうとする組織である。そして、分野や専門を超えて創発の場をつくり、幸せな若者を増やし、明るい日本の未来につなげていく。

 

→ まことに結構な趣意書ではあるが、多様な能力の子供たちは、それぞれに、ニーズが違っており、こうした表現では具体論につながらない。

設立趣意書に書かれてあるニーズの変化は、エリート層のニーズである。

 

G7倉敷教育宣言・・・G7教育相会議の事務局を務めた鈴木寛氏の報告

・問いを立てることの大切さ

・よりよい人生を送らせるための教育

に焦点が当てられた。どこの国も教育で悩んでいる。

 

日本の子供たちの特徴として

・世界でもトップレベルの学力を誇る

・にもかかわらず、自尊感情が低い

・そして、学習意欲や社会参加意欲が低い

これでは国際化の中で「部下にしかなれない日本人」(米倉誠一郎氏の表現)しか育たない。

 

将来の職業の変化

・子供たちの65%は、今は存在しない職業に就く

・今後20年で現在の仕事に約半分は自動化される

というデータを示し、人工知能で代替できない仕事に向かわせるべきと主張している。

そのためには、知識やスキルよりも、態度や価値観といった人間力が大切という。

 

→ だからこそ「4つに積み木」を積んでいくことの大切さを文科省のヒアリングで訴えた。また、逆ピラミッドの経営品質賞の考え方を説いた。これは、教育の不易の部分である。鈴木寛氏には、文科省のヒアリングで配布した私の資料に、再度目を通してもらいたい。

 

パネルディスカッション1

鈴木寛氏 「教育改革過剰症…現場は上からの指示を取捨選択せよ…マネジメントが必要」

岩井睦雄氏「自分のアジェンダを持っている人を大切にしたい。組織でつぶさないように」

伊藤学司氏「教育関係者は人数が多い。なかなか文科省の意向が浸透しない。しかし確実に文科省は変化している。学習指導要領では、教科書教えることになっている。」

石井芳明氏「企業の自前主義や稟議制度による意思決定のスピード不足、パラダイムシフトへの対応の遅れ、といった日本的経営が、経済成長から取り残された原因」

「これからAI,IOT,ビッグデータなどの産業革命4,0により人への投資が増えざるを得ない。」

 

パネルディスカッション2

平川理恵氏「がんじがらめの制度の中で、主体性など発揮できるものではない。」

「一番ヒマな校長が、先生方のキャラを生かした指導の広報を担当している。」

「コマ不足のなかで、学力到達度不足に、現場は苦しんでいる。」

高際伊都子氏「学力差の大きな中で、現場は、意欲の持続できる授業を工夫している。」

伊藤学司氏「履修主義か習得主義かは常に議論されているが、難しい問題だ。」

「授業内容の社会とのかかわりを示し、意欲を持たせる授業が期待されている。」

児美川孝一郎氏「学力検査など、学校現場はスタンダード化の圧力にさらされている。」

「生徒の大多数の、学習へのモティベーションが問題になっている。」

「学校と社会とのつながりを再度見直していく必要がある。教科は社会を見るひとつの窓枠である。」

前野隆司氏「目標を持ち、人と積極的に関わることに熱心で、楽天的。同調圧力や人の目を気にしすぎないことが、幸福な人の条件であるが、これはイノベーションを起こせる人の条件と同じである。」

「自分を肯定しかつ他者も肯定することが、幸せな人の要件である。」

「そういう意味で、先生自身が幸せでなければならない。」

米倉誠一郎氏「子供の貧困が問題になっている。格差が固定するということほど、社会の活力をそぐものはない。」

「子供のいる家庭は、今や2割に過ぎない。だからかもしれないが、世界的にこんなに教育にカネをかけない国はない。リニアよりも教育投資だろう。」

言葉に現われる精神文化

文化160609

「のり」の語源は『「述べる(のべる)」の祖語「のぶ」の古い形「のる(宣る、告る)」の連用形が名詞化したもの。権威ある者が重大な事実を宣言する、という意味です。

それに、「い」という接頭語がついた言葉が「祈り」であり、「と」という接尾語がついたものが「祝詞」です。ちなみに天皇のお言葉を「みことのり(御言宣)」と言い、「詔」や「勅」という漢字を当てます。

 

「のり」は本来、呪力のある言葉を、神や魔に告げるの意であり、神や魔に告げた言葉を破ると罰がくだされるので、「守らなければならないきまり」を意味する言葉になった。

「のり」には多くの漢字が当てられる。一例を示すと、

・法→おきて。定め。秩序を維持するための規範。
・典→基本となる書物。いつも変わらぬ基準。手本。
・範→手本。模範。
・則→きまり。ルール。
・律→行動を秩序づけるためのおきて。
・憲→基本となるおきて。

 

言葉には「霊」が宿る、と日本では、古くから信じられてきた。1万年以上も縄文時代が続いた、という世界でも稀有な歴史を持つ日本であるが、文字が存在していなかった。

記録する手段がなかったので、発する言の葉に重みをもたせ、言行一致を社会規範にしてきた。「のり」は、日本人には、そのまま「霊」であり、「魂」であった。

「言霊の国」の住民は、うかつにはしゃべらない、口の重い住民となった。それだけ言葉の重みを理解している民族なのである。

それで、武士には二言が許されない。忌み言葉を発すると「山行け、ぺっぺ」というおまじないをした。言行一致を旨としてきたので、誠実・正直・素直といった価値評価は高い。

大和言葉(和語)には2000年以上に及ぶ歴史があり、その原点となる精神文化を知ることは大切である。例えば、日本人は、極めて「いい加減な宗教観」を持っているようですが、「祈る」という行為の頻度からすると、宗教心に篤い民族だ、と言える。あらゆる自然に神を感じ感謝を捧げるとともに、身を慎むことを旨としてきた、という精神文化です。

 

さて、これだけ「言の葉」を大切にする文化を持つわれわれが、近年、その特徴を忘れ、安易に「市場原理主義」などという洋風思想になびき、さらに言語の大切ささえも忘却し、英語重視に舵を切っています。

「世界標準」などという欧米の支配者層が得意とする「枠組み」に組み敷かれてすっかり成長できない経済になり、しかも社会格差が拡大の一方です。

民族の倫理規範に関わることを、外来語でそのままカタカナで表記するなどということは、間違いです。

コンプライアンスもアカウンタビリティなどという「株主資本主義」の言葉を、日本人は使ってはいけません。

ハラスメントという言葉も、使う必要のない言葉です。日本人なら「卑怯なことは止めろ」と言えばいいのです。民族差別が未だやまないアメリカの概念です。

『闘戦経』を書いた大江匡房(まさふさ)の時代から、日本人が磨いてきた倫理規範は、どんな時代にも通用する日本人の魂とでも言える価値観です。

その価値観をないがしろにしてきたことが、近年の政治経済すべての失敗の根源である。

 

日本は、グローバルに事業を展開する「海の国」と、地元でしか事業展開できない「山の国」に分断され、利害が相反し、その統合は困難を極めています。

資本主義が今まで飼いならしてきた中間層すら分解させ収奪の対象にし出した、といった説は、とりあえず置くとしても、そうした傾向が先進各国にも、広く蔓延していることはアメリカの大統領選挙の異変やイギリスのEUからの離脱を見ても明らかです。

これ以上、グローバリズムを放置すると、極端なナショナリズムが台頭し、戦争の要因になったという歴史的事実を、思い起こしておく必要になってきた。

イスラム過激派のテロが世界中で問題になっていますが、その架け橋ができる一番の民族は、私は、日本人だと考えます。その日本人が自らの精神文化の特徴を理解せず、欧米流に流されてきたこの30年の歩みを、本当に腹立たしく感じています。

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