「神話」の再構築

教育200810

佐藤健志氏講演録の宣伝文の中に、私と同じ問題意識に基づく文章があるので、引用してご紹介します。誤った「神話」を葬り去り、新たな「神話」を再構築することによってのみ「日本」を再興することができる、としています。全く同感です。

引用:

昭和35年(1960年)に改定された新日米安保条約の第2条には、「締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによって、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する。」とあります。重要なのは、「締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め」という部分です。「くい違いを除く」と訳されている部分の英文は、「Eliminate Conflict」です。その意味は「対立を根絶する」です。つまり、「日米の間の経済政策や貿易政策の間に、摩擦や対立が起きないようにして、両国の経済関係が密接の度合いを深める」ことを目的としたものですが、その実態は、自由主義陣営のリーダーであるアメリカに日本が同調して、「アメリカ化」していくべく務めることを約束させられている、と見るべきものです。

プラザ合意という「いじめ」に会いながらも、何とか「協調」してきた日本に対し、1990年代から、アメリカはいよいよ構造改革要求を強めてくることになります。

冷戦期に「防共の砦」としてアメリカに庇護されていた日本は、その恩恵の元で「高度経済成長」を実現しました。しかし冷戦終結に伴い、アメリカの方針は大きく変化し日本は徐々に「収奪の対象」とされてきました。その根源は、しっかりと安保条約に埋め込まれていたのです。
日本の防衛に関する規定を定めた条項よりも前に、この内容が定められていることの意味は重大です。しかし、お伝えしたいのは「日本の衰退は運命づけられていたのだから不可避である」ということではありません。歴史的経緯と経路の存在を正しく見極め、時とともに強化されてきた「誤った思想」の正体をつかんで初めて、そこからの脱却を図ることができるはずです。
あらゆる問題にはそこに至る「経路」が存在しているだけでなく、一度出来上がってしまった経路は
次第に強固なものとなっていきます。現在の閉塞感を打ち破り、「日本再興」を実現するためには、一人でも多くの国民が「真実」を共有しなければなりません。

あらゆる神話は「事実ではなく虚構」なのです。『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、この「虚構を語る能力」こそ現生人類ホモ・サピエンスのみが持ち得たもので、これが他のヒト属を含む動物を圧倒的に凌駕し得た真因であるとしています。そして、この能力を獲得した「認知革命」こそが「歴史を始動させた」とまで断言しているのです。
我々人類が数千、数万の軍や企業などの組織、あるいは数百万、数億という都市や帝国を形成し得たものこそ、「共通の神話」に他なりません。

企業であれ、国家であれ、顔見知りでもない人々を、「仲間」あるいは「同胞」と意識できるのは、「共通の神話」が存在しているからこそなのです。その意味で神話の本質とは「他者・外界・世界と個人の接点となるような虚構」だと言えるでしょう。
日本が超長期の停滞を抜け出せず、将来に希望を持てない国家となってしまっている原因は、
「誤った神話」にあります。平成以後の日本が衰退・没落の道をたどったのも、人々が「構造改革」「新自由主義」「グローバリズム」といった、間違った神話を信じたせいなのです。

国家の基盤には「ナショナリズム」が不可欠です。これには危険な側面があることも否定できませんが、戦後日本ではごく最近まで、ナショナリズムを「語る」こと自体が、タブーとされてきました。
しかし国家が政治の基本単位であるかぎり、ナショナリズムこそ民主主義の基盤にほかなりません。民主主義とは、国民全体に主権があるという前提のもと、政治参加の権利を幅広く与えること。ごく大ざっぱに言えば「大事なことはみんなで議論をして決める」となりますが、議論をして物事を決める「みんな」の範囲は、一体どうやって決めるのでしょう?物事を決める「みんな」の範囲には、納得できる仲間意識が不可欠です。「同胞意識」と呼んでもいいでしょう。そして、現代では、その最も基本的な範囲が「国民」となります。ナショナリズム(Nationalism)は、「国家主義」と訳されることが多いものの、本当の意味は「国民主義」です。つまり、「ナショナリズムなくして民主主義は成り立たない」ということになるのです。

そして、ナショナリズムのもと、国は「経世済民の神話」とも呼ぶべきものをつくりあげる。近代日本で言えば、最初に確立されたのは「富国強兵」の神話でした。欧米列強による植民地化の危険を回避し、産業化の推進によって国力を強化、安定した存立の基盤を手に入れる。時代の状況を思えば、まっとうな国家戦略です。ほとんどの国は今なお、この神話に基づく国家戦略を追求しているのです。貧しく弱い国が時代の変化に適応できるはずはないので、これはまったく当然のこと。

ところが敗戦後の日本はこの神話から目を背け、安全保障を他国任せにしたまま経済発展に専念するという「富国弱兵」の神話を選択しました。敗戦国が再興を目指すに当たっては、それもやむをえないことだった。しかしこの路線は、日本がある程度復興・発展した時点で、思い切って見直されねばならなかった。それを怠り、アメリカへの依存や従属に慣れきってしまったがゆえに、わが国は激動する世界情勢に対応できなくなっているのです。(引用終わり)

今日、安倍首相の辞任がテレビで報じられています。早くも、後継とされる面々が、取りざたされていますが、この中に、佐藤健志氏の言う「神話」を再構築できるような人物がいるでしょうか。これからますます、日本の政治は、混迷の度合いを深めていきそうです。戦後民主教育によって「戦前の日本=悪者論」が徹底され、「正義の味方アメリカ」に従属していくことに抵抗のない指導者たち=腰抜け世代を量産したことが、諸悪の根源です。佐藤健志氏の言う「経路」とは、この最初のボタンの掛け違いではないでしょうか。

戦わなかった日本人(4)

教育200807

社会は集団戦。みんなが、同じ意識で、同じ方向を向いていなければ、力を削がれてしまいます。最低限として、民族の持つ共通の価値観の重要性を語っていたのは、森嶋通夫教授です。また、個人も、その属する社会の中で、影響力を確保していくには、共同体の価値観への共感的態度がカギになると思います。

 

私たちが育った時代は、一億総中流社会でした。みんなが、まじめに働きさえすれば、それなりの生活が確保されていた時代です。しかし、子供たちの時代は、何か起きると簡単に中流から脱落し、貧困に陥る危険性が大きな時代になっているのではないでしょうか。

「低欲望社会」などと言われていますが、彼らは、この沈滞した社会しか知らないのです。

みなさんのご家庭ではどうでしょうか?若者は希望を持って生き生きと人生を謳歌していますか?

そういう時代認識を持ち、若者に共感的態度で接したい、と考えています。

言葉を換えれば、Hot Heartです。一方で、Cool Brainも必要です。冷静な判断力です。

 

大企業では、資本効率第一主義になり、簡単にリストラを繰り返すようになりました。

株主資本主義化が進み、配当は増えていますが、賃金は抑えられています。

中小零細企業では、デジタル化が進み便利になった一方で、過当競争が定着し、厳しいビジネス環境になっています。おいしいところは、GAFA+Mにもっていかれています。

そして、日本だけが、労働者の賃金が上がらず低迷し、それが要因で経済成長もせず、衰退の一途になってしまっています。賃金が上がらないことによる需要不足が、諸悪の根源です。

 

なぜ、このようなことになったのか、考え続けてきましたが、やはり平成期に戦わなかったという結論にしか到達しません。

戦っていたら、どうなっていたかは分かりませんが、少なくとも、今の衰退の主因は、アメリカの言いなりになり、グローバル化をアメリカ化=世界標準と考え、株主資本主義化に舵を切っていったことではないでしょうか。

そこに、共感的態度があったでしょうか。私には、奢れる白人たちの卑しい精神しか感じられませんでした。日本独自の価値観や伝統的な統治思想を、ないがしろにしていたとしか思えませんでした。

 

そして、リーダー層に、日本独自の価値観や伝統的な統治思想が徹底していない現状こそ、問題にしなければならない、と考えている次第です。そこに、戦後民主教育の歪みを感じました。

先日亡くなった李登輝は、日本人に「自信と誇りを取り戻せ」と訴えていましたが、真っ当な歴史観を取り戻すことこそ、戦後民主教育の歪みを是正することになると思うのです。

真っ当な歴史観に裏付けされた世界観や民族の持つ共通の価値観が欠如していたところに、この日本の停滞があるのではないでしょうか。

『太平洋戦争の大嘘』の宣伝文から

教育200801

藤井厳喜氏の講演録『太平洋戦争の大嘘』の宣伝文は、平成の30年間に、「構造改革」などというデタラメをやってきた指導者たちの、「間違いの原点」を指摘しているように思います。

戦後民主教育で育った平成の指導者たちが、日本人の倫理観とは明らかに異質な欧米流の「卑しい精神」と戦うことをせず、「腰抜け世代」になり下がったすべての原点がここにある、と考えます。戦後民主教育によって育まれた「世界観・歴史観・価値観」そのものが間違いだったのです。当初からボタンを掛け違っているのです。そこから必然的に導き出されるのが今日の日本の衰退です。引用し、読者に提供します。 

引用:
1946年(昭和21年)5月3日、東京。
元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーと連合国軍最高司令官マッカーサーは「太平洋戦争とはいったい何だったのか」を3日間にも渡って話し合った。
そのとき、日本人なら誰も思いもしないようなことをフーヴァーは口にした…
「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。気が狂っていると言っても精神異常なんかじゃない、本当に戦争をやりたくてしょうがなかった…その欲望の結果が日米戦争になったんだ」
その言葉を聞いて、マッカーサーははっきりと同意した…
私たち日本人は、小さい頃から「日本が真珠湾を宣戦布告もなしに攻めて戦争を起こした」
「日本は残虐な悪い国だ」ということを新聞でも、テレビでも繰り返し教わってきました。
しかし今から数年前、我々が耳にしてきた太平洋戦争の常識とは真逆とも言える証言が、47年公開を禁じられたフーヴァー元大統領の回顧録『裏切られた自由』から次々と浮かび上がりました。
上記のマッカーサーとの会話も、この回顧録からのワンシーンです。
その回顧録『裏切られた自由』ではその他にも、ハル・ノート、原爆投下、終戦などについて、日本人の常識を覆す内容を投げかけています。
アメリカではこの証言をもとに、歴史の見方が、世界の見方が、少しずつ変わり始めているようです。
しかし、日本人にとってこんなに重要な内容なのに、日本の大手メディアは全く取り上げません。
日本人が知らない太平洋戦争の本当の筋書きとは、どのようなものだったのか?
この講演録では、回顧録をベースに、ひとつひとつの事実を丁寧に読み解くことで、「日本が戦争を起こした」という教科書通りの太平洋戦争に含まれる多くの矛盾点、戦争の真実を次々と明かしてくれます。
読み終わった後には、きっとあなたの「太平洋戦争のイメージ」は全く変わっていることでしょう。
それだけでなく、アメリカと日本を見る目が、変わり始めることでしょう。「焚書」などをせざるを得なかったアメリカの事情などもよくわかる内容になっています。藤井厳喜氏はこう言います。
「テレビ・新聞など日本のメディアには語られないところ真実は存在している。それどころか、私たちに真実が知られないように巧妙に隠され、間違った情報が拡散するように仕組まれている…」ぜひ、この講演録から、あなた自身で「何が真実なのか?」を判断してください。(引用終わり) 

アリストテレスは、幸福は、快楽・名誉・真理を追究する道の、その先にある、としています。さらに、快楽・名誉については、満足感や自尊心という己の心の働きを経由するのに対し、真理については、それ自体が幸福に直結している、と言っています。つまり、わかったと思うこと、腑に落ちたこと、そのことだけで人は幸せになる、と言っているのです。世の中、わからないことだらけですが、何か一つでも、「腑に落ちること=自分の視点を持つ」とそれからの人生が充実してきます。時代の変遷が面白いと感じられるのは、人生100年時代の、誠実に生きてきた人の特権ではないでしょうか。 

「かつて私は日本人だった」という名言で、日本人よりも「日本精神」を身に付けていた李登輝氏が亡くなった。97歳とはいえ残念です。哀悼の誠を捧げたいと思います。「日本精神」とは、至誠・勤勉・謙虚・慈悲・感謝のこころです。そこから、努力・勇気・決断・挑戦・検証の行動が生まれます。

全人教育ということ

教育200702

伊勢雅臣氏の「国際派日本人養成講座」については、これまでたびたび取り上げてきましたが、「世界に誇る『和の国』の教育」の内容も素晴らしいものだと思います。ここでは、知情意のバランスのとれた全人教育を目指すべき、としています。これは樹木をモデルとして、根っこ:共感の「情」 幹:利他の「意」 花:処を得るの「知」としているものです。私の提唱した「4つの積み木」と相通ずるものがあると感じています。彼のメルマガを引用しご紹介します。

引用:

福沢諭吉は、上海で英国人に侮蔑されている中国人の姿を見て、日本人同胞にはこういう思いをさせたくない、という共感の「情」を持ち、そこから「一身独立して一国独立す」と国民への利他の「意」を抱き、『学問のすすめ』という大ベストセラーを書いて「知」を確立、教育者としての処を得たのです。

 

現在の教育は、偏差値で効果を測定するなど「知」の比重が高く、英語教育重視やプログラミング教育の導入など、早く花を咲かせるような教育ばかり行っています。

しかし、深い太い根っこなしには立派な幹は育ちませんし、しっかりした幹なくして立派な花が咲くはずもない、と主張しているのです。まさにその通り、と言いたくなります。偏差値教育の勝者である近年の日本のエリート層の体たらくは、目を覆うほどひどいものでした。


利他心とか、世のため人のための志などというと、いかにも古めかしいと思われがちですが、人間が共同体の中で助け合って生き延びてきた生物であり、進化の過程で共同体を維持するために、他者との共感や利他心を発達させてきた、というのが現代科学の結論です。
共感と利他心が人間の本能である以上、これらを無視した教育は、人間の本性にそぐわず、「一流大学に行き一流企業に入るために、しっかり勉強しなさい」と利己心に訴えるような教育では、子供たちの心の奥底からのエネルギーは出てきません。


それよりも、「世のため人のために尽くせる人間になれるよう、しっかり勉強しなさい」と子供の共感と利他心に訴えるべきなのです。そして、その根っこと幹を育てるために、古典や偉人伝を読み聞かせたりするのが教育の基本となります。国語教育を重視すべきなのです。
明治の日本人たちが世界史に残る躍進を実現できたのも、共感の情、利他の志、処を得るの知を育てて、人間の心の奥底からのエネルギーをフルに発揮できたからです。

 

こういう明治日本の人作りの基礎は、江戸時代の寺子屋でできたと考えられます。幕末期には全国で1万6千もの寺子屋がありました。現在の小学校が2万7千校ですから、その6割ほどの数の寺子屋が、人口が現在の1/4ほどしかない時代に作られていたのです。
それらはすべて有志のお師匠さんたちが設立したもので、それだけ寺子屋に子供たちを学ばせようとする親も多かったということです。我々の先人たちの教育意欲、学習意欲には驚かされます。

 

どうして、それほど教育、学問に対する意欲が高かったのでしょうか。
農村自治での徴税はすべて文書でやりとりされており、読み書きは農民にとっても必要であったこと。また農業技術を解説した「農書」が多数、出版されており、それらを読むことで、出来高を上げることができた、等々の実利的な面もありました。
しかし、それだけでなく、たとえば江戸時代初期の中江藤樹が真心を磨くことを説いた平明な学問が広く農民、商人、職人にまで浸透していったり、中期の石田梅岩が商人としての道を説いた石門心学が広まったりと、当時の学問は、人としての生き方を説くものでした。寺子屋でも、論語の素読で、まずは「仁」「忠恕」など、人としての思いやりを教えました。


花ばかり教えようとする現代教育では、子供たちは勉強の目的も分からないので、学習意欲がでるはずもありません。江戸時代の教育はまずは根っこや幹を育てようとしたのです。人間の本能である共感と利他心を刺激すれば、そこから勉強しようという学習意欲も湧いてきます。

利他の心から、ボランティアで寺子屋を営むお師匠さんたちの生き方それ自体が、子供たちにも、立派な人間になりたい、そのために勉強したい、という気持ちを奮い立たせたことでしょう。

識字率等を勘案しても、江戸時代に、すでに日本は、世界有数の文化国家だったのです。
そう考えると、共感も利他心も教えず、「知」ばかりを詰め込もうとする現代の教育は、子供たちから学問を求める心を奪い、知情意を兼ね備えて「学ぶ姿勢や考える習慣」を醸成する道を閉ざしているのではないでしょうか。

 

そもそも現代の教育がなぜ共感や利他心を黙殺してしまったのでしょうか。日本の敗戦で、GHQは日本を貶め、二度と歯向かってこないよう、日本の強みを悉く葬り去ろうとしました。教科書は墨汁で塗りつぶされ、修身や国語のテキストは改竄され、「教育勅語」や「五箇条の御誓文」も禁断の書となりました。占領軍が、共感や利他の心が芽生えないよう「教科書の墨汁塗りつぶし」をした事は、日本人のエネルギーを枯らすために、まことに効果的な政策でした。人は自分のためよりも、人のための方がエネルギーが出るからです。がんばるためには、「利他」の精神こそが重要なのです。

 

共感と利他の心がエネルギーを生む実例として、ブラジルの日系人の事例があります。たとえば、日系人はブラジルの人口の1%弱ですが名門サンパウロ大学では9.5%も占めていること、また小学校上級での算数の成績は、日系の子供たちが断然のトップを占めていること。こうした優秀さの理由として、日系人が勉強熱心なことが挙げられますが、なぜ熱心に勉強したのかというと、家族の名誉を苗字の重みに感じているからです。移民した当初はみな貧しい労働者としてスタートしますから、学校にはあまり行けません。初期の移民は学歴で差別されて悔しい思いをしたので、子供たちには立派な学歴をつけさせようと頑張りました。そのように親が子を思う気持ちは、子供には痛いように感じられたでしょう。「共感」です。親の気持ちに応えるべく頑張ったというのです。

「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」という最澄の言葉は、生きる力を与えてくれます。「教育は国民全体の、かつ国家最重要の課題であり、同時に、一人一人が家庭、地域、職場などでなんらかの貢献ができる分野です。一隅を照らす・・・・身をもって実践したいものです。 (引用終わり)

 

戦後民主教育の弊害は、平成の時代に、見事に「国家の衰退」という形で現れました。政・財・官のリーダーたちに、「国際派日本人養成講座」で勉強し直せ、と言ってやりたい気分です。

岩手の奇跡

教育200603

岩手県は、新型コロナウイルス感染者は、未だにゼロが続いている。こうした状況は、米メディアも注目し、特集を組んでいるという。例えば、ウォール・ストリート・ジャーナルは、奥羽山脈や北上高地といった自然の障壁という「地理的要因」に言及しているが、多分そんなことではないだろう。

これに関しては、さわや書店の栗澤 順一氏の寄稿文の方が当を得ている。そこで、口下手を了とする県民性や読書をする人が多いから、という地元経営者の仮説を紹介しています。

かつて、高村光太郎は、「岩手の人」という詩において「岩手の人 沈深牛の如し」と記しました。口下手で、自己表現が苦手と言われている県民性は、スポーツや文壇で多くの人材が輩出していること、華やかな芸能界では人材輩出が少ないこと、を見ても明らかだ、と彼は言うのです。

また、「読書は一人の世界に入る。それが、岩手県民は知らない間に、ソーシャル・ディスタンスが取れていたのだろう」というのです。事実、2017年に総務省が行った家計調査で、書籍購入額が、1万3730円と、盛岡市は1世帯当たりの本の購入金額が全国1位です。また、盛岡市は人口が約29万人にすぎないが、書店の総坪数は4606坪にも上る立派な文化都市なのです。

従って、会話が少ない→密になりにくい→飛沫が減る、これに読書によるソーシャル・ディスタンスが背景としてあり、これが新型コロナウイルス感染者ゼロの要因ではないかというのです。もちろん、科学的な根拠はありませんが、妙な説得力があります。

7年余にわたってお世話になり、教育現場から、岩手県を見てきたので、長所も短所も、十分認識しているつもりです。一言で言うと、「日本」のいいところを存分に残している「山の国」である、ということです。それが、「海の国」の論理に支配されて、「山の国」の住民は、苦汁をなめる事態になっているのです。残念なのは、それにもかかわらず、そういう問題意識を持っている人が少ない、ということです。日本全体がそうですが、よく言うと「分をわきまえている」ということですが、言い方を変えると、「いまだけ、ここだけ 自分だけ」で精一杯な人が多い、ということです。

「海の国」の論理とは、ずばり、株主資本主義です。資金効率ばかりを追い求め、経営者にそれを強いて、株主配当を増やし、労働者の賃金を抑制する、資本主義システムです。グローバリズムの進展とともに、欧米流に切り替えることが、「海の国」では流行になりました。その結果、内需主導型の日本経済は低迷し、社会格差は拡大し、特に「山の国」は、どんどん住みずらい世の中になってきたのです。新興国の労働者と、賃金で競争させられるわけですから、そうなるのです。

岩手県の県民所得は低迷し、子供の貧困から、学力問題が提起される事態になっていたのですが、その根本から、是正しようという動きは、起こりませんでした。私が提唱した「4つの積み木」についても、それが取り上げられることはありませんでした。ただ、岩手県の教育界は、健全でした。知らず知らずのうちに、「4つの積み木」を積む教育ができていた、と考えています。惜しむらくは、もう少し「読み書き計算」と「知識教育」を充実させれば、言うことはなかったのです。子供たちは、関心があれば自分で勉強するよと言い、先生方の授業力について、問題提起していた所以です。

ことのほか、「社会人基礎力」を鍛える分野は秀逸で、部活動は、どこの学校でも、熱心な先生方が献身的に取り組まれていたのです。たまたま、県高野連会長などをさせていただきましたが、菊池雄星や大谷翔平、さらに佐々木朗希らが、きら星のごとく輩出する背景には、そうした積み重ね、いわば「高校野球文化」がしっかり根付いていたことを、指摘しておきたいと思います。

栗澤 順一氏の文章には、最近の岩手出身の若手作家の活躍が書かれてありましたが、残念ながら、私は、そういう文学には疎く、よくわかりません。ひょっとしたら、「読み書き計算能力の不足」を訂正しなければならないかもしれませんが、とにかく、ペーパー試験に弱く、表に出る学力が平均すると標準に達していないことは、まぎれもない事実です。

岩手県の教育界に望むことは、「自彊止まず」の精神をしっかり伝え、人生100年時代をたくましく生き抜く、そうした人材を、もっともっと育成することです。「いま ここ 自分」だけでなく、広く世界を見渡し、歴史から多くを学び、「志」を抱いて社会に挑戦していく子供たちを育成していくことです。県出身の偉人伝には、事欠かない土地柄なのですから。何といっても、「人間としての基礎基本」が、しっかり積めている子供たちなのですから。オクテの子供たちは、大抵「大器晩成型」です。「山の国」の統治思想や倫理規範を、「海の国」にも伝播させ、さらに世界標準にするような、たくましい若者を、社会に輩出したいものです。

参考:

「停滞する教育論議」(教育200404)「ネガティブ・ケイパビリティということ」(教育191103)「平成の総括と今後の教育」(教育190401)「教育の原則」(教育180609)「学校秀才がダメな理由」(社会180607)なども併せ、お読みいただきたいと思います。

危険国家・中国(3)

教育200601

私が、中国を危険とまで言うのは、AIや5Gといった通信デジタル技術が、「中華思想」にある事大主義と共鳴して「恐怖国家」を作り上げる恐れがあるからです。彼らはアメリカという「覇権国家」のやり方を勉強しています。国内で「恐怖国家」を完成させたのち、世界制覇へ向けて、覇権を争うに決まっているからです。それが習近平の「中華の夢」でありその野望をもう隠してはいません。「中国製造2025」で、そのプロセスを明示しています。こんな国に覇権国=世界のルールを決める国になられたら、たまったものではありません。今でも国連安全保障理事会の常任理事国の地位を引きずり下ろす必要があるとさえ思います。 

中国の「事大主義」が、いま一番わかりやすく表れているのが、対オーストラリア外交です。オーストラリアは、明らかに、中国から見下されています。オーストラリアが、これからどのような対中外交を展開するのか旧大英帝国の底力が楽しみです。大前研一の文章を引用して概観してみましょう。

引用:

中国商務省は5月18日オーストラリアから輸入した大麦の価格が不当に安いとして、追加関税をかけることを発表しました。不当な補助金を相殺する関税と合わせて80.5%を上乗せするという。
中国は、すでにオーストラリア産の食肉輸入も一部停止しており、新型コロナウイルスの発生源の調査を求めるオーストラリアを牽制する狙いと見られています。
中国は米国に言われると、少しは受け止める姿勢を見せて検討しますが、米国以外の相手だと、そうはいきません。オーストラリアのモリソン首相が、新型コロナウイルスの発生源調査について、積極的な姿勢を見せた途端に、中国は報復とばかりに関税の上乗せを発表しました。さらには、中国の成競業・駐オーストラリア大使が「中国の一般市民がオーストラリア製品の購入やオーストラリアへの留学を考え直すかもしれない」と警告するに至っています。米国以外の国に対する、この強気一辺倒の態度は、非常に中国らしいと感じます。(引用終わり) 

日本も、舐められています。安倍首相は利用価値がある、と中国から見られています。

先日、こういう記事がありました。

引用:

中国政府が国営メディアなどに対し、安倍首相への批判を控えるよう指示していたことがFNNの取材でわかった。中国外務省は、5月26日の会見で、25日に安倍首相が新型コロナウイルスが「中国から世界に広がったのは事実だ」と述べたことに反発していた。しかし、この会見の数時間後、中国共産党系の「環球時報」は、「安倍首相は同盟国であるアメリカに配慮しつつ、中国を刺激することを避けた」などとする社説を掲載していた。関係者によると、これは、中国政府が習近平国家主席の意向をふまえて、国営メディアなどに批判を控えるよう非公式に指示を出していたもので、アメリカと対立を深める中、日本との関係を悪化させたくない、との判断があったとみられる。(引用終わり)

実に戦略的というか、利に敏いというか、さすがに孫子を生んだ国ですね。天安門事件の後、孤立した中国に、手を差し伸べたのは日本でした。しかし、こんな国と友誼を深めたいと、皆さんは思いますか。もう、同じ間違いを繰り返してはいけません。

ビジネスで煮え湯を飲まされてもみんな声をあげないし、そういう実態をマスコミは報道しません。

日本人が中国で不当逮捕されても、マスコミは、誰に忖度しているのか、あまり報道しません。尖閣は力関係ですな、とでも言わんばかりの横暴ぶりです。こうしたことを放置していて、日本人は平和ボケなのか、腰抜けぞろいになってしまったのか。アメリカにも、中国にも、何も言えない。

戦うということを忘れてしまい不利なルールを設定されて、じりじりと国際的地位を下げていった。

そんな人たちが、今まで、日本では、リーダーとなってきました。

それは、WGIPに影響された戦後民主教育と、日本国憲法の空虚な理想主義と、日米安保体制という属国体制の、論理的帰結でもあった、と私は考えます。

結果、経済も経営も、アメリカがお手本とばかりこれを見習い、ただ「流行」に乗るばかりで、自分の頭でモノを考えない輩ばかりが、あらゆる共同体の中で評価されてきました。今度の「コロナ禍」で、そうした実態が、いみじくも、あぶりだされてきたのではないでしょうか。トップにいるのは、政も財も揃って中身のない「空虚な器」ばかりである。日本はリーダー層がお粗末だったのである。

武漢発新型肺炎の報道に接して(10)

教育200503

不謹慎な言い方になるが、私は、武漢発新型肺炎関連の外電記事を読むことは、とても面白いと感じる。そしてコロナ後、どんな社会になるのだろうか、と考えてみる。もちろん現役の人にとってもそうしたアプローチは必要なことだろう。そこで、無責任な立場で未来を「予言」してみたいと思う。

中国という国家や中国民族の特徴が、露わになり、欧米にも知れ渡り、サプライチェーンの一部を任せてきた企業も、認識を変えつつある。グローバル化と称して、それが時代の方向性として何の疑いもなく、アメリカに付き従ってきた多くの日本人にとっても、アメリカの変身に戸惑っているのではないか。トランプという特異な大統領だからではない。アメリカ全体がアンチ中国になっている。

米中の関係が元に戻ることはない。デカップリングがこれから進行し、中国が世界から孤立していくことは、目に見えている。日本の政財界も、それに合わせて宗旨を変えていかざるを得ないだろう。ようやく、戦前の大日本帝国の想いが、欧米に理解される環境が整った、ということである。そして、いわゆる「戦後民主教育」の出鱈目=それが平成期のエリートたちの「世界観・歴史観・価値観」となり、アメリカ追従をもたらしたことを反省する時期が、ようやく来たように感じる。

武漢発新型肺炎は、戦後の、戦勝国支配体制、即ち、国連の枠組みの終了を意味する。日本にとっては、新たな価値観の誕生でもある。内に平和憲法、外に国連信仰と云う幻想の終了である。
新興国中国の台頭も潰えた。民度が低く、衛生リテラシーに乏しい国民の当然の帰結でもあった。そして、中国の傍若無人な国家資本主義は、他国の資本主義にとっては、迷惑千万な存在となり、中国は、世界のサプライチェーンから外される。資本が逃避すれば、中間層が打撃を受け、習体制の崩壊につながる。これをいかに促進できるかが、当面の課題であろう。

一帯一路は、その仮面がはがされ高利貸しとしての実態が暴露され今や「コロナロード」となった。声をあげる途上国が多くなり、世界中からその不公正を指弾され,排除されるようになるだろう。

 

日本がまともな経済政策を実施すれば、労働力不足による人件費高騰で、コストプッシュインフレになるはずである。まともな経済政策を実施しないから、日銀が無茶苦茶な金融緩和をしている。ここへきて、営業自粛に対する補償や生活支援で、財政出動される。安倍首相のリーダーシップは問題が多いが、それでも世論に押されて、少しずつまともになりつつある。今までの財政均衡論者は、財政出動をどう評価しているのであろうか。アトキンズは、生産性の低い零細企業は潰せと言うだろうし、原由人は、ツケを将来に残すなとして増税が待っている、とでも言うのだろう。こうした主流派経済学を信奉する輩は、平成の時代に、アメリカ追従を主導した「世界観・歴史観・価値観」から抜けられないから「終わった人」になるだろう。

 

WTOは、中国国有企業の過剰投資を制御できていない。WHOは、コロナ迷走で醜態を曝した。

国連信仰は、音を立てて崩れ始めている。もう、国連という「戦勝国体制」は終わったと見ていい。

トランプ大統領は、アメリカ・ファーストを目指している。考えてみれば、どの大統領も、アメリカ・ファーストだった。トランプは、それを露骨に表現しているだけである。余裕がないほど追い詰められている。ドル基軸が終焉するとアメリカの覇権は維持できない。単なる双子の赤字国である。

EUも崩壊へ向けて進みだした。コロナ禍と中国への対応で、分断のタネが、また一つ蒔かれた。

格差と分断の時代、英米に追従して、自国ファースト政策を取る国が増えてこよう。

 

中国に莫大な資金投入を図った国際金融資本もまた挫折する。金融グローバリズムも終わった。彼らは、どこかに商機を見出して、博打を仕掛けてくる。対象になった商品は高騰する。生活必需品かもしれない。食糧・燃料・薬品・水・・・道徳と経済を両立させてきたのは、日本だけである。

かくして、歴史は、韻を踏んで、現れる。再びの「昭和の時代」である。かつては、石油の禁輸措置を受けた。食糧自給率が40%を切る国である。いまから「5つの自立」へ向けて準備するべきだ。

 

マスコミは、偽善的な綺麗事でなく、事実を重視してリアリズムに則った記事が増えてくるだろう。そうしないと、誰も新聞は読まない。奇妙な親中・親韓という勢力は、絶滅するに相違ない。戦後民主教育のなかで蒔かれた毒素は、戦後の「史実」という解毒薬により、弱められている。平成をけん引した老人たちより、令和をけん引する若手の方が、歴史観だけは、はるかにまともである。

停滞する教育論議

教育200404

私が教育論で強調しているのは、1)親の背中を見て子供は育つ、2)魚を与えるよりも魚の釣り方を教える、3)馬を水辺に連れてくることはできても、水を飲ませることはできない、ということである。この3)の項目と同様の観点で、麻布学園理事長の吉原毅氏の記事が出ていた。賛同できるので、引用してご紹介する。 

引用:

私立中高一貫教育の男子校御三家の1つの麻布学園には、校則がない。「自由闊達・自主自立」を旨とし、生徒の自主性を徹底して尊重する。理事長を務める吉原毅さんは、城南信用金庫の元理事長でもあり、ユニークで画期的な金融商品を、次々と世に送り出したことで知られる。現在も顧問を務め、いわば経済界を代表するひとりだ。その吉原さんは、規則やルールで縛る管理教育に疑問を持っている。新刊『「過干渉」をやめたら子どもは伸びる』(尾木直樹氏、西郷孝彦氏との共著・小学館刊)を上梓したばかりの吉原さんが語る。

「私たち人間は、何かしようとするとき、動機が必要です。動機には大きく2つあって、自分で『こうしたい』という衝動に駆られる内発的動機づけ(モチベーション)と、他人から指示されて行う外発的動機づけ(インセンティブ)があります。

家庭や学校教育で過干渉にされて育ち、規則やルールで縛られてきた人の大半は、誰かに指示されたからやるという外発的動機づけで行動する人間になります。つまり、評価や報酬、義務、賞罰といったものがないと、自分からは動こうとしません。いわゆる指示待ち族と呼ばれる社員になってしまうのです」(吉原さん・以下同)

こうした社員は、自分の頭で考えようとしないばかりか、人の目があるときだけ行動しがちだと吉原さんは言う。「逆に、誰も見ていなければ、手を抜く。おまけにルールを守ることより、自分の損得を優先して動くようになります。いまは、財界だけでなく、政界も官僚も、そういう人材があまりに増えてしまいました」

最近の日本から、新しい技術や元気な会社が誕生しないのは、家庭や学校の指示出しという過干渉が原因だと、吉原さんは続ける。「自由な教育を受けてきた経験をもつ社員の方が、明らかに伸びます。企業は自分の頭で考えて行動できる人を欲しがっています」

吉原さんが通った麻布学園では、受験を終えて入学してきたばかりの中学1年生に、勉強を強いることをしない。「1年生のうちは、思い切り遊ばせます。そうやって受験勉強で凝り固まった頭をほぐしながら、本当に自分の好きなこと、熱中できることを見つけていくのです。この自由な時間こそが、将来、自分が活躍していく場を見つけるのに、大いに役立ちます」(引用終わり)

かつて、「学校秀才がダメな理由」(社会180607)で、学校秀才は、1−格遵性が強すぎて、2―多様な視点を持てず、3−課題設定能力が不足気味で、4−クリエイティブに新たな枠組みを設定することが苦手で、5−「教養=知識+α」のα部分が欠落している人物が多い、と書いた。なお、このα部分とは、世界観・歴史観・価値観と考えている。

変化の激しい時代に教育をどうしていくか、を考えることは、極めて大事なことになっている。「生きる力」というコンセプトに集約されてはいるが、具体的イメージとなると未だ明確にはなっていない。「4つの積み木」理論を提唱して久しいが、文科省のヒアリングで述べたものの、世の中では注目もされず、人口に膾炙することもないままになっている。まことに残念である。グローバリズムの不具合が判然としてきた今、再度、世に問うてみたいと思っている。

コロナショック(2)

教育200401

今回のコロナショックへの対応策を、短期・中期・長期の3つの視点からコメントしたい。

まず短期的視点からだが、現在の日本の経済には、2つの重大な「リスク」がある。すなわち、
1. 新型コロナウイルス感染症という疫病の蔓延による病死者の増加
2. 第二次「世界恐慌」という経済事情による自殺者の増加
この1、と2、は、トレードオフの関係にある。
感染症の蔓延を防ぐべく、自粛強化や生産活動の抑制をすると、経済事情による自死が増加する。
逆に、経済事情を考慮し、自粛や抑制を緩和すると、感染症蔓延による病死が激増する。

ここは、大規模な財政拡大を宣言し、大きな経済被害が国民に生じないことをコミットした上で自粛強化をすればいい。その上で、医療サービスの供給能力を、万一に備えて強化することが大事。

しかし、先日の安倍総理の記者会見を聞いて、がっかりした。財政拡大については、しょぼい内容でした。消費税減税も言及しませんでした。いよいよクライシスが近づくのではないかと危惧します。MMTを理解せず、プライマシーバランスに縛られている与党の政治家が、この危機を適切に対応できるのでしょうか。資金繰りに窮するということがどんなことか、理解できているのでしょうか。

 

中期的視点では、どうして、こんな事態を招来してしまったかについての、本質的な議論も欠かせません。ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に行きかい、「市場」がすべてを決めて、効率と公正を追求する、とするグローバル化は、本当に正しかったのか。「国家」はどこへ行ったのか。

今となっては、ウィルスでヒトの移動が止まり、サプライチェーンの寸断でモノの移動も止まり、景気悪化で信用が収縮すると、投資は縮小し、カネも動かなくなる。一旦こういう状況に陥ると、回復に時間がかかる。本当に、効率的であったのか。

中国は、国有企業が、過剰債務=過剰投資であるが、景気変動などどこ吹く風、変動費+αで、世界の市場を席巻する。国家ぐるみで「一帯一路」と称してダンピング攻勢をかけ、「債務のワナ」に他国を誘い込む。こんな国と、同じ土俵で戦え、というのは、本当に、公正であるのか。アメリカの親中派が、ごり押しして進めてきた今のWTO体制を、根本から改める必要があるのではないか。

 

効率的でも、公正でもなかったことは、明らかではありませんか。それは実は、当たり前なのです。

単に、アメリカという国家が、日本を抑え込むために、そして、アメリカの資本が、中国市場へ参入し儲ける機会を増やすために、仕組んだアメリカの政と財の「外交戦略」に過ぎないのですから。

戦前は、「オレンジ計画」に敗北した日本は、戦後またしても「日米構造協議」に敗北したのです。

グローバル化というアメリカ基準を押し付けられ、その結果、日本の長所は希薄になり、内田樹流に言うと、「いま ここ 自分」と「カネ」しか考えられない「サル化」した国民になり果てようとしています。

庶民レベルでは、二宮尊徳の「利他の精神」がまだ生きており、立派な人も多いのですが、グローバル化が進むのと並行して、そうした精神は薄れ、「世界標準」に近づいているような気がします。

 

最後に、長期的視点で考えると、日本の平成30年の指導者たちが、なぜ、こうも、腰抜けぞろいになってしまったか、というテーマを考える、ということであります。

1951年生まれのフランスの社会学者エマニュエル・トッドは、このコロナショックは「私と同じ世代がグローバル化を手放しで礼賛してきた結果だ」と喝破している。

(3月29日朝日新聞朝刊「日曜に想う」)

私は、もうちょっと上の世代の責任だと思うのだが、いずれにしても日本では「平成のリーダーたち」の不見識に違いない。乳幼児死亡率の統計を見て「ソ連崩壊」を予言したトッド氏も、私と同じことを言っていることに意を強くしている。なお、彼は、近い将来の中国の混乱も予言しているが、これも同感だ。(「中国の将来と日本の今後」―経済150904参照)

 

戦後民主教育で、平成の30年間の指導者たちは育った。彼らは、「WGIP」という言葉も教えられず、自虐史観をすんなり受け入れ、歴史を疑うことで創造力や判断力を鍛えようともせず、日本人としての価値観も磨いていないから、「嫌われる勇気」もない。世界観・歴史観・価値観ともに未熟なままリーダーに上り詰めた人物が多い。そこには、「三識=知識・見識・胆識」のすべてが欠如している。歴代の総理大臣、経団連会長などをみれば、分かるではないか。もう「歴史の審判」を下し、早く「軌道修正」していかなければ「いつか来た道」になってしまう。あまり時間の猶予はない。

教育改革の論点

教育200108

70年近く「日本人」をやってきてつくづく思うのは、庶民レベルは、人格的に立派な人が多いのに、リーダークラスになると、なぜか人材がいない、ということである。

政界とか財界とかに、この人に託したい、と思う人材がいないと感じるのは私一人ではないだろう。

今1%の高級国民と99%の下級国民に分断されているが、この国は高級国民のレベルが低すぎる。

どうしてか、永年考えてきたが、リーダー予備軍が勉強している中身が問題ではないのか、と最近考えるようになった。

リーダーに限らず、どんな人にも、ロゴス(論理・知性)とパトス(感性・情熱)とエートス(倫理観)が、バランスよく備わっていなければならない。例えば、最近の総理大臣を見ても、その3つのなかの、どれ一つをとっても、優れたところを感じないのだ。 

ロゴス(論理・知性)を取り上げると、理科系学部は、どんな分野にしても、実験などによって事実を積み上げていき、その過程で、論理的思考力がついていく。

しかし、文化系学部、特に法学・政治学系や経済・経営学系は、客観的な一時データから、何が言えるか、といった実践的な思考は鍛えられない。昔の偉い学者が、こうした時代背景の下でこういう学問体系を構築した、という知識ばかりがインプットされていく。新機軸を打ち出し、新たな視点から論文を書くのは、大学院以降だろう。しかし、そうした実践を積んだ者は、企業から煙たがられる。企業は、文化系学部の卒業生を選考する際、勉強してきた中身を問うことなく、むしろ協調性みたいなところに重点を置く。学問を通した思考訓練については、あまり期待していない。

以前から、DIME(外交・情報・軍事・経済)を勉強していない、と言ってきたが、グローバル時代に、圧倒的に諸外国とに交渉する際に不利に働くのではないか、と思う。

相手は、虎視眈々と、獲物を狙って、どういう枠組みをしつらえていけば、自分たちが有利な条件を獲得できるか、ばかりを考えている連中である。

そんな連中に、日本人のような戦略的思考のできない「お人好し」ばかりでは、かないっこない。

エリートたちの「お人好し」は犯罪である。なぜなら、大勢の人を不幸にするからである。

外交戦では、どんどん追い詰められる。戦前も戦後も、そういう歴史を繰り返してきたではないか。この期に及んでも、そういうことすら自覚できないご仁がヤマといる日本である。

海外勤務の経験者で、内に向けては性善説に立ち、外に対しては性悪説で仕事をしてきたと言う人を知っているが、彼は仕事のできる優秀な社員であったろうと思う。

語学ばかりを問題にしているが、語学以上に、そうした見識の方が大事ではないか。

 

もう一つの柱は、技術革新が急速に進むなか、新たなリベラルアーツをどう構築していくかである。汎用性のある基礎知識と学ぶ姿勢と考える習慣という非認知能力を涵養しなければ、長い人生、本人が苦労することは目に見えているし、同時に、民主主義社会は集団戦であるから、国家の方向も危うくなる。文化力の基礎となる学力に加え、学ぶ姿勢を一生堅持し、かつ、自分の頭で一所懸命考える習慣のある人材を、公教育として、しっかりと育成しなければならない。 

近代以前のヨーロッパで「自由(liberty)」というとき、それはギリシャ的な意味でのセルフガバナンス(自己統治)の確立を意味していた。つまり自由とは、個人の人格の陶冶を意味した。それが共同体の統治にもつながる。一人ひとりの個人がシビック・バーチュー(市民としての徳)を身につけたうえで、共同体の共通善を追求し統治を自ら行っていく。自由とは「自分たちの社会は自分たちで統治していく」という自己統治の自由を意味する。ヨーロッパの教育でリベラルアーツが重視されてきたのは、そのためである。教育の目的は、文化に触れさせることによって人格を陶冶し、若者を個人としても、共同体を担う市民としても、自己統治できる存在に育て上げることにあった。

ところが、近代が始まると、人類普遍の価値としての自由という概念が一般化し、その理念追及が正当化された。いわゆるリベラリズムである。アメリカという国は、そのリベラリズムで凝り固まった国であるが、キリスト教という、個人がそれぞれ神とつながる宗教と共振し、リベラリズム型個人主義が蔓延して、社会は欲望を追求する個人の集合体となった。共通の社会的規範が失われ、自律的な秩序形成は困難になり、かつては、伝統や文化に基づく「共同体」が担っていた秩序形成作用が失われていった。治安が悪化するのは当然のことである。

本来、リベラリズムは身分や階層なき社会を作ることをめざしていたはずだが、新自由主義の段階まで来て、新しい階層社会を作ってしまった。「市場原理主義」を押し進め、業績結果主義的な社会を作り、ノブレス・オブリージュ的な社会的義務を否定していった。すべては「自己責任」という形で、エリートの束縛を解いていった。格差が拡大するのは当然のことである。

この結果出来上がったリベラルな社会は、アンチ・エリートという形で、今日の先進国における、ポピュリズムの温床になっている。これまた、ルサンチマンが蔓延し、民主主義そのものを機能不全にする惧れがある。しかし、共通の社会規範があれば、秩序が自生的にできるものである。社会秩序形成に資する文化基盤の伝承や自己陶冶への意欲づけ教育の整備が望まれる所以である。そういう観点に立って、私は「4つの積み木」を提唱している。それは『リベラリズムはいかに失敗してきたか』を書いたデニーンの主張通り、リベラリズムの人間観そのものを否定することが前提である。土地や家族、地域共同体から遊離した抽象的なヒトなどあり得ない、ということだ。そうしないことには、日本も、強権的な管理国家になる惧れがある。世界で今求められているのは、伝統や文化を重んじる「保守の思想」ということに尽きるのではないか。

連続性こそが進歩の前提

教育200104

今、アメリカが主導してきたグローバリズムは、その弊害が次々と露呈し、アメリカ自身が、その思想的背景になっている「新自由主義の市場原理主義」に付いていけず、トランプ大統領を生んだ。

彼は、パワーを背景に、二国間でディール(取引)を行い、アメリカの国益確保に邁進している。

そして、世界各地でも、反グローバリズム運動が起き、「いつか来た道」を繰り返そうとしている。

日本もまた、「海の国」と「山の国」、「上級国民」と「下級国民」に社会が分断され、諸制度の維持ができないほど少子化が進み、希望が失われ、閉塞感にあふれている。

一人当たりGDPは、世界26位までに凋落し、若い世代ほど貧しくなっている。

そして、根幹の「民主主義」や「資本主義」といった原理・原則が、その機能不全を指摘されている。

 

にもかかわらず、日本では、あらゆる分野において危機意識もなく、本質的なことには何も触れずに、静かに、穏やかに、衰退の道を進んでいる。

みんなで「ケ・セラ・セラ」と歌い、「レッセ・フェール=あるがまま、なすにまかせよ」と合唱している。

しかし、これでいいはずがない。日本人にとって、今一番大事なことは、

なぜ、このようにアメリカの軽薄な思想文化に、いとも簡単になじんでいったか、を考えることである。

なぜ、日本のエリート層が、全く「日本」を理解せずに、グローバル化の波に飲まれていったのか、を考えることである。

 

偉そうな言い方になってしまうが、彼らは、人間を自由にすると言われるリベラルアーツ(教養科目)をあまり勉強していないので、世界観・歴史観・価値観が鍛えられていないまま、社会人になる。

採用側も、そんな見識よりも、協調性に富んだ柔軟な学生を好む傾向がある。社会人になっても、政治と宗教の話は、ご法度である。ビジネスマンならひたすらビジネスに専念しろ、ということになる。だから、いつまでたっても、世界観・歴史観・価値観が鍛えられない。そんな大人が大勢いる。

 

そして、アメリカとはどういう国かも知らずに、アメリカと交渉する。国益を棄損するのは当然である。戦後民主教育で、戦前の日本はアジアで迷惑をかけたと思い込んでいるから、中国にも韓国にも、弱腰でしか交渉できない。1980年代から、そんなことを繰り返してきた。

戦後民主教育で育った優等生が社会の主力になるに及んで日本は衰退に道を歩むようになった。

結局のところ、東京裁判史観とGHQのWGIPに基づく洗脳、戦後民主教育と7700冊に及ぶ焚書という文化破壊によって、アメリカの「自由と民主主義」という幻想を信奉する「腰抜け世代」が誕生し、第2の敗戦を迎えたのではないのか。

 

バークは、著書『フランス革命の省察』で、フランス革命は、自らの過去と決別したうえで、抽象的な原理に基づいて社会を作り直そうとしている、とした。そして、その中に、自己蔑視をみてとった。

そこに、フランス革命の失敗を予言した。その後、実に予言通り、フランスは混迷を深める。

彼は、民族の歴史や先祖の行動に対して敬意を持つことで、人は自尊の感情が生まれること、そして、自尊のない社会からは、分断と敵意、破壊しか生まれてこないことを強調したかったのだ。

日本の戦後民主教育は、この自尊の感情を、ことごとく排除している。

そして1980年代から、「自己を尊重する主観を教え込まれていない人間」が、あらゆる組織で権力を握ってきた。典型的には、「外圧を利用して、日本を変える」と言っていた連中だ。

 

福田恒存は、「征服による切断を乗り越えて、何とか連続を見出すこと、その懸け橋を造ること、言いかえれば、征服による疑似革命を進歩の中に吸収せしめること、それが一番大事な仕事」であると語っていた。なぜなら、進歩は、歴史の連続性の上にしか生まれえないものだからだ。

「物語を失った民族は亡ぶ」と言われるのは、そういう意味だ。

物事には、因縁果が、必ず存在する。そこを、われわれは、見落としているのではないだろうか。

それを追求する努力を怠ってきたのではないだろうか。

端的に言うと、われわれは、あの「大東亜戦争」すら総括できていないではないか。

どこで間違ったのか。何がいけなかったのか。

 

いい加減な時代考証の小説で、史観を形成している人が、この日本には、大勢いる。

そして、戦後においても、未だに国力がこのように落ちた原因も分析せず、組織は、P―D―C―Aを回すことなく、慣れあったまま、いやなことには蓋をして、法被りしている。

何事においても、「なぜ」という問いを繰り返すことで、物事の本質が見えてきて、対症療法ではなく、「学習する組織」として、根本から脱皮して、課題解決に向かうことができるものである。

Doingのレベルではなく、Beingのレベルまで昇華して、ものを考えることが肝要である。

改革という名の破壊

教育191210

日本は、この30年、改革や変革という名の、破壊活動をしてきたのではないでしょうか。

私には、どうもそう思えてなりません。即ち、不易流行の見極めができていなかった、ということです。

日本は、世界から見ると、極東の特殊な国家です。しかし、その建国の神話や、伝統と文化に裏付けされた統治思想は、本来、世界の国民国家のお手本になるべきものです。

それが、大東亜戦争の敗北を経て、歪められ、戦後民主教育によって、国民に十分浸透させることができないようになり、覇権国アメリカの勝手で軽薄な「新自由主義思想」を受け入れ、多くの分野で間違いを犯し、しかも未だに、その間違いから覚めていない人が多いように思います。考えてもみてください。この30年の改革で、社会が良くなったと実感できるものは何かありますか?

 

私は、株主資本主義化する経営に違和感を覚え、浮足立つ組織運営を目の当たりにして、どうにかしなければ、ということばかりを考えていました。そして、成果主義導入に正面切って反対し会社を辞めましたが、案の定、その会社は結果を残せていません。最近、大企業の不祥事が多いのも、多かれ少なかれ、同じような問題に直面しているのではないかと思います。そもそも日本人の精神文化に配慮できない人たちが、アメリカの猿真似をしたのでは、うまくいくはずがありません。「エートス」という言葉を覚え、その依って来る由来を知り、確信を持つに至りました。

 

私企業の経営のことは差し置いても、特に、公共財である教育制度や医療制度、社会インフラに対する考え方などは、世界の模範であるにもかかわらず、リスペクトされていません。アメリカとの貿易交渉で、非関税障壁などと言われて、すぐに同調してしまったのです。全くもって平成の指導者の腰抜けぶりは、際立っていました。その反省は、どこからも提起されることもなく、日本をこのように閉塞状態に追い込んだ主犯格の財界のお偉方の意向をそのまま受けて、文科省は、教育改革、入試改革に走ったのです。

入試改革は、すんでのところで修正されようとしていますが、実は、教育改革は失敗の連続です。

古くは、東京都の学校群制度、京都府の小学区制などは、私立中学の全盛期を招き、中等教育に貧富の差を持ち込む「結果」になったのです。

ゆとり教育もそうですが、現場の実態や肝心の生徒の現状を分析もせず、理念だけで先走ったら、ロクなことにならない、ということはもう経験済みではないですか。

 

この30年で改革と称して制度を変えてきて、何一つ成功例がありません。何を不易とし、何を流行とするのか、その見極めの哲学もなく、アメリカに言われるままの改革ですから、当たり前かもしれません。この30年実施してきた規制緩和は、アメリカ資本のための改革ではありませんか。社会は過当競争に陥り、これでは生産性が先進国中でワーストが続くのも当然です。デフレスパイラルから抜け出せません。こんな時期の消費税増税です。どこまで経済を傷つけたら気が済むのか。

「改革」を行うのは簡単だとしても、その影響は後世にまで大きく残り、場合によっては、女系天皇容認論のように、ひとたび崩してしまうと、二度と取り戻せなくなるものもあります。


それにしても、大阪市解体論、水道事業運営権売却論など、「変革」「改革」を主張するのは、自らの短慮も自覚できない「大バカ者」が揃っています。レント・シーカーという言葉があるように「獅子身中の虫」なのだと思います。利に敏いだけの「ゴキブリ」という表現は言い過ぎでしょうか。

経済だけではなく、文化までをも破壊する、とんでもない輩が跋扈する社会になってしまいました。
時代は今、まさしく、明治の碩学・中江兆民の『三酔人経綸問答』を思い出すべき時です。

引用してご紹介しておきましょう。

引用:
彼らはたいへん変革が好きだが、古いものを棄てて新しいものを採るのが好きだというのではない。

ただただ変革するのが好きなだけだ。善悪どちらへでも、変革すること自体が好きなのだ。たとえ、それが破壊への道であったとしても。なぜなら、勇ましいところがあるからです。ただそれだけです。そして、建設を好まない。建設は、臆病のようなところがあるからです。なかんずく、保守は一番好かない。一番臆病のようなところがあるからです。

(引用終わり) 

今年の発信は、これが最後です。読者の皆様、お付き合いいただきましてありがとうございました。

良いお正月をお迎えください。

情報戦というもの (5)

教育191209

戦後民主教育で育った者が、なぜリアリストになれなかったかというと、一番大きな理由は、真っ当な歴史教育を受けてこなかったからだ、と思う。

原爆まで落としたアメリカは、戦後の日本を、もう二度と歯向かってこないようにする必要があった。それが、自国の覇権を維持する鍵になることを知っていた。自由と民主主義を標榜する正義の国である必要があった。そのため、東京裁判と並行して行われたのがWGIPであったのである。

 

これには、都合の悪い事実を知らしめない方法として検閲があり、焚書があり、アメリカの歴史観を押し付ける方法として公職追放があり、左寄り学者による教育改革や教科書改竄があったのである。

そして、こうした情報戦によって、日本人は、戦前の一部軍国主義者に率いられた「気の毒な民」となり、アメリカの食糧支援により、食いつないできた。アングロサクソンが、植民地で常套手段にしてきた分断作戦である。今もってその弊害は、世界各地で民族紛争に繋がっている。

 

こうした勝者の歴史観は、アメリカでは、ヴェノナ文書の開示やフーヴァーの『裏切られた自由』などにより、見直されつつあるが、こうした歴史観を定着させ、それを自らの統治の正当性に生かそうとしているのが、中国共産党である。だから、彼らの歴史認識は「核心的利益」となるのである。

そして、それに乗っかり、被害者ズラをして、利益を享受しようとしているのが朝鮮民族である。古来、自分たちの権力闘争を、周辺国を巻き込んで展開する、歴史的トラブルメーカーである。自滅して奈落の底に落ちようとも、助けない・関わらないことが大事である。

 

一方で、日本社会に目を転じると、出生数が90万人を切り、地方は衰退し、格差が拡大し貧困が顕在化するに至っている。どうしてこんなことになってしまったのかと侃々諤々の議論があって然るべきだと思うのだが、極めて穏やかに「衰退の道」を進んでいる。パックスアメリカーナに慣れ親しんで、民族の原点を忘れ、「いま ここ 自分」しか考えられない人たちが多い。

 

政治システムとしての民主主義にしても、経済システムとしての資本主義にしても、それが正常に機能するには、縦のナショナリズムと横のナショナリズムが伴っていなければならない。

縦のナショナリズムとは、伝統・文化に裏打ちされた民族の価値観であり、横のナショナリズムとは、共同体への帰属意識である。

縦横のナショナリズムが、安全・安心で、豊かな国民国家の基本である。自由、人権、法の支配などの理念は近代社会に必須要件だが、安定した社会基盤のうえで成り立つものである。

それを忘却しているのが、進歩的文化人に代表されるリベラリストたちである。

 

縦横のナショナリズムが希薄になると、得手勝手な個人主義が横行し、カネまみれのすさんだ社会しか出来上がらない。事実、アメリカに押し付けられたグローバル・スタンダードなるものは、ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に移動することを、経済発展のシナリオに織り込んだが、その壮大な実験結果は、どのようなものか、現実が物語ってくれているではないか。

ピゲティの分析を待つまでもなく、われわれの生活実感で十分わかろうというものである。

 

日本衰退の原因がアメリカ追随がもたらした禍であることを理解すれば、何とか自立できないものか、と模索するはずである。

内田樹氏の言うように、国体護持、天皇制存続との交換手段としての日米安保体制であり、日本国憲法であるならば、もうそろそろ安保体制を見直し、自主憲法制定へ世論が動いて然るべきである。しかし、そうした議論はごく一部に限られ、国民大多数の問題意識の俎上には上がってはいない。

そして、未だに、経団連会長は、日本的雇用システムは時代遅れとして、その改革を主張している。

平成を主導してきたのが、こうした「民族の原点」を理解せず、「新自由主義という宗教」に汚染された輩なのである。今度発行される、渋沢栄一の1万円札でも拝んで、襟を正せ、と言いたい。

 

米中の覇権争いが長期化すると見込まれている。中国は、日本の衰退を目の当たりにしているから、そうそう簡単には引き下がらないだろう。アメリカは苛立ち、ますます孤立して、今の「一強体制」は維持できなくなるだろう。私は、いい傾向だと思っている。

「トゥキディデスの罠」の矛先が、日本から中国に渡っただけだと思うのだが、これで中国も、日本が戦前から苦しんできた「白人の驕り」を経験することになる。

アメリカに対し情報戦を封じ込められた中国が、これからどんな外交戦、経済戦を仕掛けてくるのか、楽しみである。

老獪な中国だ。日本は、ゆめゆめ天安門事件の後のように、天皇が政治利用されてはいけない。

そして願わくは、まず中国の共産党一党支配が崩壊し、その後、ドル基軸体制という不公正なシステムが終焉していくことを期待したい。

情報戦というもの(4)

教育191208

平成という時代は、アメリカに経済戦を仕掛けられ、それに敗北した30年と言うことができる。

肝心なことは、なぜそんな負け戦になったかを解明し、今後に対処していくことであるがマスコミは、そうした問題意識は皆無である。

私は、日本側が腰抜け交渉しかできなかったからであり、その背景には戦後民主教育によるわれわれの上の世代の、アメリカによる洗脳の弊害であろうと考える。アメリカを「自由と民主主義の国」と思い込んできた単純バカの多い世代である。事実、1980年代から、社会のあらゆる分野で指導的立場になった人たちはみな戦後民主教育で育ったのである。

平和憲法の下で理念ばかりを先行させ、リアリズムに徹するような発想ができる人は、育ててこなかった。エリート教育などというものをしてこなかった。それが間違いの元ではないか、と思う。

今でも、企業は、知的水準を軽視して、協調性を重視して、人材を採用しているという。これでは、尖った人材は行き場を失い、引きこもってしまうのではないか。

しかしながら、SNSの世界を遊んでいると、現役を離れても、我々の時代の「無念」を、後輩たちへ残そうとする人たちを見かける。どうも、民間企業出身者の方が多いようだ。そうした一人に、落合道夫という人がいる。「ヴェノナ文書の和訳出版に感謝する」と題する氏のブログのつぶやきは秀逸であるので、引用して紹介したい。

引用:
1.意義:これは第二次大戦前と戦争中の米国におけるソ連スパイ工作の実態である。日本人にとっての意義は、1991年のソ連の自滅と併せて戦後の日本悪者論を否定することにある。またそれは今も続く中国などの反日歴史観を否定することでもある。日本が正しかったのだ。
2.発表の契機:米国は戦前のソ連工作員の暗号通信の解読を行ってきたが、その成果を1995年に発表した。これは1991年にソ連が自滅し,当時の機密情報が漏洩し始めたので、慌てて発表したとも言う。というのは副大統領を含む米政府高官が、多数ソ連のスパイ工作に協力していたからである。
3.工作:スターリンは1921年の政権奪取直後から、米国に注目していたが、米国側が凄惨な共産党の暴政に恐れを成して国交を開かなかったので、ビジネスマンを偽装した工作員を送り込んでいた。しかし1933年ルーズベルト政権が国交を開設すると、スターリンは外交官の身分でKGBの工作員を送り込み、伝説の大諜報網を形成したのである。
4.活動:彼等の活動は、上は大統領府に至り、情報は口紅から原爆まで、あらゆる技術を盗み取った。そして対外政策も誘導した。ハルノートの原案はスターリンが1941年4月にKGBの伝書使を送って財務省高官のソ連スパイのホワイトに伝えたものである。
1945年2月のヤルタ会議のアメリカ大統領補佐官のヒスはソ連スパイであった。このため、会談はスターリンの圧勝に終わった。特に重要なのは,ソ連の工作が米国マスコミに浸透し映画界にまで入りこんだことだ。このため、反日記事と反日映画により、米国人は、気違いのように反日になったのである。
タウンゼント、マクマレー、グルー駐日米大使など心ある米国人は必死に反対したが、多勢に無勢で誤解を正すことは出来なかった。その残滓が現在中国や韓国などに悪用されている。(引用おわり)

 

こうしてみると、戦争は、戦闘行為に至るまでに、情報戦から外交戦、そして、経済戦に至ることがわかるであろう。アメリカと中国は、もうすでに経済戦にまで突入している。これからさらに5Gなどの通信インフラなどの技術覇権戦争になり、延いては、軍事覇権戦争になることは必定である。

こうした状況に対し、日本の指導者は鈍感すぎないか、という危惧を持つ。経済人は、いかに中国からうまく撤退するかに知恵を絞るべきであろう。政治家は、いかに中国をスピード感をもって追い詰めていくかに注力すべきだろう。習近平を国賓扱いするなどということは論外ではないのか。

情報戦というもの (3)

教育191207

日本は、中国と韓国という大中華と小中華に隣接しています。古来、行き来せざるを得ないから、交流があるのは当然です。いち早く西洋列強の支配を逃れ、富国強兵と殖産興業に成功した日本に対し、足を引っ張りながら、そのおこぼれのみを享受しようとするのは自然の成り行きです。

外交のシオリーでは、他国と仲良くなるには、共通の敵を想定し、共有することです。それが、内政面でも、政敵を排除し、統治を合理化し、団結を固める手段にもなります。

彼らが覇権国アメリカを抱き込む手段として、歴史情報戦を仕掛けてくるのは当然と思うべきです。

戦前には、コミンテルンという強力な後ろ盾を得て、中国は、まんまと「総身に智慧の回りかねる大国」アメリカの壟断に成功しました。「田中議定書」のねつ造が、その最たるものでしょう。

彼らの歴史は、いつの時代も、プロパガンダでしかあり得ません。

それが易姓革命ばかりを繰り返してきた彼らの本質です。

戦前も、アメリカ人にもそれがわかっている人がいました。1935年マクマリ(元外交官、極東専門家)は、「支那は米国を利用しているだけだから、支那は米国の自由にならない。日本を滅ぼせばソ連が南下する。日米戦争は百害あって一利無し。対日敵視は止めるべき。」と国務省への報告書(邦訳『平和はいかに失われたか』)に記しています。

これはグルー駐日米大使も強く支持しましたが、ホーンベック極東部長はハル長官に提出しませんでした。大統領の意向に沿わないと思ったからでしょう。

しかし、戦後、G・ケナンは、この報告を米国外交の分析ではピカ一と高く評価しています。

前回ご紹介した関野道夫氏は、日本では性善説に立ち外国では性悪説に立ち、仕事をしてきた、と述べています。おそらく煮え湯を飲まされてきたのでしょう。私には、他人事とは思えないほどに共感できます。

情報戦に弱い日本人に対して、在日外国人が、いろいろアドバイスしています。

なかでも、アメリカ人のケント・ギルバート、イギリス人のヘンリー・S・ストークス、中国人の石平、韓国人の呉善花などは、真っ当な視点を持っていると思います。

ここでは、ヘンリー・S・ストークス著『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』の書評を抜粋し、ご紹介しておきましょう。

引用:

イギリス人のロジックからすると、なぜ西欧諸国の植民地に侵攻し、植民地の独立を支援した日本が 侵略者として非難されなくてはならないのか、理解できない。さらに、台湾、朝鮮は、植民地というよりも、日本の国土の一部でした。植民地として搾取するのではなく、日本と同じインフラを作るために、巨額の投資を行ったのです。

アジア、アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略してきたのは、西洋諸国です。

しかし今日まで、西洋諸国がそうした侵略を謝罪したことはない。どうして日本だけが欧米の植民地を侵略したことを、謝罪しなければならないのか。

日本軍は、アジアの侵略者で、現在でも軍国主義になる可能性のある国家なのでしょうか。

こうしたイメージを日本国内、国際的に広めたのは、マッカーサー以降の占領政策がうまくいった証拠です。そしてその亡霊は、現在でも当たり前のように人の心の中に生きているのです。

今日、日本の大新聞や、文部科学省、教員をはじめとする多くの日本国民が、占領時代の卑屈な態度が身に沁み込んで、東京裁判史観を受け入れて、占領政治がよかったと信じている。

マッカーサーは、大きな成果をあげた。
ウェッブ裁判長はオーストラリアへ戻って隠居後に、「あの裁判は誤っていた」と、語っている。

1952年の議会証言で、マッカーサーは、「太平洋戦争は日本の自衛戦争だった」と証言している。

 

1919年2月13日、日本政府は、ヴェルサイユのパリ講和会議における国際連盟規約を草案する委員会で、人種差別の撤廃が規約に盛り込まれるように提案した。米英などの反対に遭い、実現しませんでしたが、それから50年後の1969年、人種差別条約が国連で採択され、発効しました。
人種差別が、第二次世界大戦の大きな理由の一つになっていました。日本の戦争目的は日本の存続を脅かす人種差別的な世界秩序の撤廃、すなわち「アジア民族の解放」にありました。

1943年11月5日、6日に開かれた「大東亜会議」には、アジアの独立国6か国と自由インド仮政府が参加しました。そこで採択された「大東亜共同宣言」をご存知でしょうか。

抑々、世界各國ガ、各其ノ所ヲ得、相扶ケテ、萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ、世界平和確立ノ、根本要義ナリ。然ルニ、米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ、他國家他民族ヲ抑壓シ、特ニ大東亞ニ對シテハ、飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ、大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ、遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ。大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス。大東亞各國ハ相提携シテ、大東亞戰爭ヲ完遂シ、大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ、其ノ自存自衞ヲ全ウシ、左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ、以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス。

  • 大東亞各國ハ、協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ、道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
  • 大東亞各國ハ、相互ニ自主獨立ヲ尊重シ、互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
  • 大東亞各國ハ、相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ、各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
  • 大東亞各國ハ、互惠ノ下緊密ニ提携シ、其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ増進ス
  • 大東亞各國ハ、萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ、人種的差別ヲ撤廢シ、普ク文化ヲ交流シ、進ンデ資源ヲ開放シ、以テ世界ノ進運ニ貢獻ス   (引用終わり)

日本人でこうした事実を知らない人たちが多すぎることを、在日外国人識者は憂いているのです。

情報戦というもの (2)

教育191206

私自身、「日米構造協議」に出くわして、そのときの日本側交渉団の弱腰姿勢を批判した。

そして、その弱腰姿勢は、何に由来するのか、考えてきた。現在でも、完全に情報戦に完敗し、さらに経済戦に完敗しても、それを敗北と意識できないまでの「体たらく」なのである。

そういえば、1990年代、盛んにマスコミに出ていた識者は「外圧を利用して、既得権益を排除し、日本の構造を変える良い機会だ」などと宣っていた。

不見識も甚だしいが、そう言っていた人の精神構造はどうなっていたのだろう。アメリカとはどういう国か、全然わかっていなかったのである。なにせ小泉純一郎が総理大臣になる国である。

日本の指導者層への戦後民主教育の刷り込みが、彼らが優等生であるだけに、それだけ徹底されてしまったのだろう。日本には戦後民主教育による「腰抜け世代」が出来上がってしまった。

 

私と同じ問題意識を持って、GHQの占領政策を調べた人がいる。関野道夫という人だ。

1939年生まれ、東大工学部を出て本田技研勤務、17年に及ぶ海外勤務を経験されている。

彼は、『日本人を狂わせた洗脳工作』(自由社ブックレット)という本を出版している。その書評を宮崎正弘氏が書いているので、それを引用し、読者に紹介する。

戦後日本人をここまで堕落させたアメリカの陰謀の本質は、実にWGIPであり、これが日本人を洗脳する計画の指令書だったというのである。

引用:

GHQが戦後おこなった言論統制の実態は、歴史ならびに道徳教育の禁止、憲法の押しつけと「太平洋戦争史観」の強要、そして日本人を永遠に馬鹿に留め置くための自虐史観の教育現場での展開だった。

同時に、有害図書と称して7700冊にも及ぶ図書を焚書している。都合の悪い情報を入れず、ねつ造した情報を徹底して刷り込んだ。東京裁判と共に、両輪で、占領統治されたのである。
江藤淳が『閉ざされた言語空間』で、そのGHQの闇をえぐった。しかし江藤もアメリカにいて、根源の文書は発見できなかった。・・・それが出てきた。
洗脳工作の具体的指令書は(WAR GUILT INFOMARTION PROGRAM)と呼ばれ、通称=WGIP。極秘文書として夥しい関連資料ファイルのなかに混ざっていた。
このWGIPの成果は、戦後日本の、ふぬけのような精神の堕落、武士道精神の喪失、教育の腐敗、メディアの無自覚的な傲慢と主知主義、そして唐変木な政治家の夥しい登場に象徴的に顕現されている。アメリカの洗脳工作は大成功を収めたのである。
国家安全保障や外交をめぐっても、国会で常識外れの議論をしているが、それが国際常識にかなっていない、という現実にも気がつかない輩が、我が国の国会議員の大半を占める。
メディアの90%が洗脳教育をうけてきた「疑似エリート」だから、ブンヤの書いている歴史認識は根本的に可笑しい。根本が腐っているのだ。

つまり、アメリカの言うことを鵜呑みにするマスコミ人と教育家と議会関係者、ひいては官僚を大量に生み出した。笑いの止まらないアメリカという図式だろう。
このように自国のただしい歴史を認識できずにいる日本に対して中国と韓国が連合して日本を貶めるキャンペーンを仕掛けてきた。黒幕はアメリカである。
その目的は日本人に自虐史観を固定化し、日本をふたたび立ち上がらせないようにする世紀の陰謀=洗脳工作だが、その根源にあるのが、このWGIPであり、その証拠書類が出たのだ。
著者の関野道夫氏は執念深く、あちこちを尋ね歩き、とうとうGHQの指令文書を見つけ出した。動かぬ証拠がでたのである。執筆の動機を関野道夫氏はこう語る。
「諸悪の根源にあるのは、東京裁判史観(何でも日本が悪く、戦勝国は過ちを犯さなかったという思想)だと考えてきました。しかし、それだけでは説明がつかない、もっと悪辣な何かがあるのではないか、と思いつきました。それを突き止めずに、モグラ叩きのように一つ一つ対応しているだけでは、シジフォスの石と同じで不毛の努力」ではないのか、と。
そして、関野道夫氏は、関係者の参考文献などから、アタリをつけて研究者、国会図書館へ、関連図書館へ通い、ついに世紀の謀略文書の存在を突き止めた。その執念と彼をそこまで突き動かした原動力は不正義への挑戦であり、歴史愛好家としての情熱であった。(引用終わり)

 

情報戦というもの

教育191205

李栄薫編著『反日種族主義』を、「李承晩TV視聴のススメ」(政治191007)で、紹介した。

この本は、韓国の歴史教育はウソまみれ、日帝支配の36年は、それほど悪い時代ではなかった、ということは書かれてあるが、私にとってはまだ物足りない。

李氏朝鮮の時代、どれほど庶民は悲惨な生活を送っていたか、両班と言われる官僚がいかに腐っていたか、さらには、大東亜共栄圏の極めて高尚な理念が書かれていない、からだ。

戦争に負けたことによって、戦勝国の勝手な歴史ねつ造により、事実までも歪められている現状を、先祖の名誉を傷つけられている現状を、日本人なら、怒らなければならないのではないか。そこを、曖昧にしたままできたから、今日の体たらくがあるような気がしてならない。外交では、完全に情報戦に負け続けてきた。だから中曽根以降、平成の指導者に「腰抜け」が多かったのだろうと考える。

歴史は物語であるとしたのは、岡田英彦氏であるが、さらに言うと、歴史とは勝者の物語となり情報戦に利用されやすい、ということを肝に銘ずるべきだ。政治家や大企業経営者は、「戦」と言う字が後につく、DIME(外交、情報、軍事、経済)について、もっと見識を深めてほしいものだ。

自国の美点は過大評価し、汚点は極力小さく扱いがちだ。逆に、敵国の残虐性や犯罪性は誇張・歪曲し、美点は黙殺するか、小さく扱う。それは、現在の自国の活力と繁栄を助長する一方で、対立する国家の国力を弱め、外交戦略の武器となるからだ。情報の伝播技術と宣伝のノウハウが向上した現在、情報戦略の価値は高まっている。今は「歴史情報戦」の時代なのである。70年以上も前の日本の「侵略」や「戦争犯罪」が今も中国や韓国で大きく取り上げられるのは、それが日本を貶め、自国の外交上の優位性を高めることになるからだ。中韓の現在の非民主的で非人道的な過去や現状を隠す効果も期待できる。

アメリカも「非人道的な侵略、戦闘行為を繰り返した悪質な軍事国家・日本を第2次大戦で倒し、民主主義を日本に植え付け、世界に平和をもたらした」という誇らしい物語を維持したいと思っている。アメリカの過去の侵略、植民地化の歴史の恥部を覆い隠し、話題をそらすためにも日本を贖罪の山羊に仕立て上げなければならない。悪辣な植民地化では、アメリカよりも古い歴史を持つ英仏オランダなども同じ傾向をもって、冷たく日本を見つめている。ナチスの犯罪を抱えるドイツは世界の批判を自分からそれて、日本に向かうことは望ましく、日本断罪に拍手こそすれ、日本をかばうことは考えていない。だから、歴史問題が浮上するごとに、各国は日本の近現代史を厳しく非難し、その反省と謝罪を促す。国連は、そもそも戦勝国連合なのである。

だが、70年以上も前のことが何度も蒸し返されるのは日本だけだろう。欧米やロシアなども過去の歴史を批判されることがあるが、その頻度は日本ほどではない。なぜ、日本に多いのか、というと、それが優れて現在の政治、外交にとって有用と思っている国があるからだ。すなわち中国と韓国である。アメリカという覇権国に食い込み、ソ連のコミンテルンの成功を参考に、プロパガンダを繰り返す。そんな中で形成されたのが、80年代以降アメリカで主流を占めた親中派パンダハガーである。民主党政権とそれに呼応するリベラル・マスコミも同じ傾向にある。

同時に、日本国内に中韓の攻撃に呼応し、日本を悪し様に批判することで存在感を高めようとする勢力があることも影響している。背景にあるのは中国や韓国の思想、政治工作。それ以上に大きいのは、日本人に贖罪意識を植え付けようとした戦後アメリカのマスコミへの情報操作や教育界への圧力だ。数十年たった今も「東京裁判史観」として残り、「日本人は戦時中、悪辣な軍事国家として、周辺に多大な迷惑をかけた」と思い込んでいる日本人が、戦後民主教育のせいで、政府内や経済界も含め、数多いことが土壌となっている。

近隣諸国に迷惑をかけたのも事実だが、一方で、その近代化にも戦前から貢献してきたのも事実である。日露戦争の日本の勝利は、多くの国の人々に勇気を与え、大東亜戦争は敗れたとはいえ、日本がいなかったらいつまでもアジアは白人の植民地支配から抜け出せなかったであろう。日本は、植民地からの独立にも間接的ながら(一部は直接的に)貢献しているのである。日本人は李登輝やマハティールの声をもっと聴くべきである。21世紀は、アジアの時代である。日本は、本来、この中で、輝いていなければならない。

ネガティブ・ケイパビリティということ

教育191103

人間の学力だとか能力には二通りあって、認知できるものと、認知できないものに分かれる。わかりやすく言うと、ペーパー試験で試されるものと、ペーパー試験では決して測れないものがあるということである。私は、校長時代、「4つの積み木」理論を提唱したが、「読み書き計算」と「知識」は前者、「人間としての基礎基本」「社会人基礎力」は後者であろう。

後者を「非認知能力」と表現するが、日本の学校教育は、この「非認知能力」までをも踏み込んで教育している。日本の教育制度は、基本的には世界に冠たる制度設計がなされている。

 

その「非認知能力」の一つに、ネガティブ・ケイパビリティがある。ネガティブ・ケイパビリティとは、「すぐには答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力」のことを言う。何かが「出来る能力」ではなく、何もできないが「出来ない状況を受け止める能力」である。この言葉はもともと19世紀初頭のイギリス詩人、ジョン・キーツ(1795〜1821)の言葉だという。シェークスピアについての評論の中で、ただひたすら人間の生を見つめ、そこから教訓を示唆したり、思想や政治的立場を訴えるというは一切ない。日本の源氏物語にしても、ただただ多くの女性たちの運命を見つめ、簡単に決めつけるのではなく、人生の様々な瞬間を生き生きと再現している。千年前の宮廷の愛の物語が、なぜ今も世界中で読まれるのか。そこに描かれる人々が、人間の本質を見事に描いているからだ。

 

帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんは、テレビマンから精神科医に転じ、精神科病棟を舞台にした『閉鎖病棟』など数々の小説を手がけてきた文学者だが、彼は「精神科医として臨床40年、常に自分の無能を突きつけられてきた。」という。彼は、ネガティブ・ケイパビリティという言葉を知らなければ、続けてこられたかどうかわからない、と言います。

そして帚木氏は、教師や多くの人にも、この能力について知ってもらいたい、と言っている。

実際、今の学校で求められている「問い」に対して「正答」を早く導き出す能力は、ポジティブ・ケイパビリティという。教科学習においては、答えが導き出されるような問いを教師が行うから、ポジティブな能力で解決できる。

しかし、学校でも生活指導、生徒会指導、部活指導なんかでは、すぐには解決できない問題が多いのは誰でも知っている。人生というのは、「思うようにならないこと」の連続だ。本当は学校でも、そういう時の対処法を教えた方がいい。

 

しかしながら、その言葉は教師も教えられてないし、最近は教師こそ「問題解決能力」を競わされている。「全国学力テスト」の学校ごとの結果を公表するとか、教師の仕事ぶりを校長が評価して給料を上げたり下げたりとか。そうなると、学校の中で「どうにもならないことに耐えていく力」が失われてしまうのではないか。

今まで家庭でも学校でも「頑張れ」ばかりで、「どうしようもないことに耐える力」の必要性なんか教えてなかった。しかし、多くの人は、社会経験を重ねる中で、自らそういう能力を身に付けていくものではないだろうか。さらに、この言葉を知ることにより精神的負担は大きく違ってくるはずだ。よくカウンセラーが、セルフヘルプ(支え手自身の心身を健康に保つ)の重要性に言及するが、まさにこの考え方で、自分を支えているのだろう。

韻を踏む歴史

教育190907

歴史のことを、日本では英語でヒストリーと言いますが、中国ではプロパガンダ、韓国ではファンタジーと言うのだそうです。面白い表現ですね。

ところが、日本のヒストリーも、怪しいもので、「事実」を指摘すると、「歴史修正主義」なるレッテルを貼られる惧れがあります。視点によって、いろいろな表現が可能なのが、歴史です。

また、どこの国も、現政権が統治しやすいように、歴史を解釈し、都合よく改竄しがちである、という「事実」もまた存在します。

更に、時間がたたなければ、解明できない歴史的事実も存在します。国家という権力が、不都合な出来事を極秘にして、情報開示しないからです。比較的透明性が高いと言われるアメリカでさえ、ヴェノナ文書の開示は、1995年にならなければできませんでした。これで、ルーズベルト政権内に、ソ連のスパイ網が、奥深くまで浸透していたことが、明らかになりました。

情報が、いかに大事であるかがわかるのですが、日本人は未だに、その情報の価値に気づかないように思います。知識とか智慧とか情報といったソフトにはカネをかけない民族です。そこが大いに問題です。近年も、それがために、同じ失敗を繰り返しています。

 

平成の30年で日本が衰退したのは、この間の政・財・官の指導者の不見識であると、縷々言ってきましたが、未来へ向けて大事なことは、その不見識の根拠を明確にし、そこを是正することでしょう。私は、歴史観と世界観の欠如にあると考え、それは戦後民主教育の影響である、と考えています。

事実、戦後民主教育で育った人間が、社会の主役になり始めた平成から、衰退が始まっています。GHQのWGIPによる自虐史観の浸透や戦前の学問との断絶が大きく影響していると考えています。

早い話が、学校では、ホッブスやロックは習いますが、バークやトクヴィルは習いません。アメリカの血塗られた歴史や、日露戦争以降、日本を仮想敵国にしていたことなどに触れる記述に出会ったこともありません。われわれは、戦前の日本人の中国研究の学問的蓄積に触れることもできません。

戦後民主教育なるものにより、われわれの知識は、相当偏在してしまっているのではないでしょうか。

その結果、アメリカとはどういう国か、中国とはどういう国か、朝鮮民族はどういう民族か、といった基本的な認識を持たないまま、政府は外交を展開し、企業もグローバル経営をしてきたのです。

 

いま、米中の覇権戦争が始まり、日韓の軋轢が増大していますが、必然的な歴史の流れにあると思います。ブレジンスキーやキッシンジャーを始めとするパンダハガーの不見識に、抵抗する識者は、日本には出てこなかったのです。むしろ、外圧を利用して日本の既得権益を崩し、公正な社会を作るとして、「年次改革要望書」の通り、「構造改革路線」を突き進んできました。

それは、とりもなおさず、アメリカ資本のカネもうけに協力することでありました。その理論的根拠になったのが、新自由主義経済思想です。日本の経営は、すっかり株主資本主義化しています。

その結果がどうなったか、今まで縷々述べてきたとおりです。繰り返す必要もないでしょう。

 

一方で、すっかり格差社会になり、それに抵抗するポピュリズムという動きが、欧米を中心に盛んになってきています。これまた歴史の必然で、日本で言うと、大正時代はグローバリズムの時代でしたが、昭和に入ると、その反動が襲います。経済恐慌が有無を言わせず、ナショナリズムに火をつけ、ポピュリズムに変身し、民衆の支持を集めるようになります。

そして、保護主義化が始まりブロック経済化するなかで、市場を持たない遅れてきた資本主義国と先を走ってきた資本主義国との覇権争いが、まさしく第2次世界大戦という帝国主義戦争になったのですね。

核兵器が存在する現在、いかに地政学的リスクを軽減させていくか、熟議が望まれるところです。

「歴史は繰り返さないが韻を踏む」と言われています。

時あたかも令和元年、昭和初期の韻を踏まないようにしたいものです。

8月に想う (2)

教育190805

茂木誠氏が、帝国陸軍における東条と石原の体質の違い、そして、今も続く日本の組織の問題を提起しています。日本が何を反省すべきか、に関して参考になると思います。要は、マネジメント不在国家から、早く卒業しなければならない、ということでしょう。この文章には、とても説得力があり、平成の没落の30年を踏まえて、8月に味わうべき文章と考え、読者に情報提供します。

引用:

満洲事変を計画実行した軍人・石原莞爾と、陸軍大臣から首相に進み、日米開戦を決断した東條英機。天才肌である石原よりも、とくに大きな功績もなかった東條英機が、大日本帝国で優遇された理由とは? 『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』を上梓した、作家の茂木誠氏が、歴史をもとに「日本型組織が抱える病理」を明かします。

太古の昔、森を出た人類は、大型の肉食獣が闊歩する危険なサバンナでの狩猟生活を始めました。五感を研ぎ澄ませて獲物が残したフン、足跡などのかすかな痕跡を追いつつ、茂みの向こうにいるかもしれない外敵の気配を察し、機敏に行動できなければ命の危機にさらされます。大きな群れでは移動が困難ですから、つねに数人から数十人単位で移動し、権力や定まった上下関係はなく、個々人が自己責任で行動する社会。このような生活を数十万年続けるうちに、「情報分析能力」「決断力」「行動力」に優れた個体だけが生き残り、人類はついに肉食獣を制して自然界の頂点に立つことになったのです。

ところが、小麦や米といった穀物生産が始まると、人類の社会は一変しました。川の近くに定住し、数百人から数千人単位で暮らすようになり、統率者のもとで役割分担が定まっていきます。農業生産は毎年やるべきことがほぼ決まっており、そのルーティンを墨守することが求められます。共同体内部での分業も進んでいき、上下関係も固定されます。それぞれの職分を守って、ほかの仕事には口を出さないという「タテ社会」が形成されていったのです。

種まきや収穫をいつ始めるか、という「決断力」を問われるのは、統率者(首長)とその側近たち―彼らは異能者として「神官」とも呼ばれました―であり、共同体に属する大多数の者たちは、下された「決断」に従い、任務を粛々と遂行することだけが求められるようになったのです。もし、「首長の決断は間違っている。私には嵐が迫ってくるのがわかる。収穫はもっと早めるべきだ」などという者があれば、「命令に逆らい、秩序を乱す者」として処断されたでしょう。共同体の維持が目的化した社会では、個々人の「決断力」はむしろ有害とみなされるのです。

ただし、農業社会においても、戦争・天災などの非常時においては、慣例を破って大胆な決断をすることが求められます。毎年のように干ばつが繰り返された村が、もっと水のある新天地へ向けて移動を開始する、というような場合です。エジプトで、長く隷属民として扱われてきたユダヤ人が、モーセに率いられて「出エジプト」を敢行し、パレスチナに移住して、大発展を遂げたのはよい例でしょう。モーセのような情報分析能力、決断力に富む指導者は、その決断を「神のお告げ」として人々に伝えました。このため彼らは神に近い存在とされ、ユダヤ社会では「預言者」と呼ばれました。農耕社会では普段抑圧されている狩猟民的な気質を持つ人物が、危機に際しては指導者として躍り出るのです。後漢末期に、農民反乱を起こした張角、百年戦争時にフランスを救ったジャンヌ・ダルクも、このようなタイプの人間だったのでしょう。

統合失調症の研究で知られる精神科医の中井久夫さんは、狩猟民的気質を「分裂気質」、農耕民的気質を「執着気質」と位置づけました。臨機応変に高度な判断を要求される政治家や将官、企業経営者、あるいは芸術家などに向いているのは「分裂気質」であり、これとは反対に、決まったこと、与えられた任務を黙々とこなさなければならない官僚、大企業の社員、兵士に向いているのは「執着気質」となります。あくまで、これは役割分担であり、どちらが優れている、という話ではありません。直感的にすべてを見通す「天才」と呼ばれる人の多くは、分裂気質です。満洲事変を計画実行した軍人・石原莞爾はこの典型でした。これとは対照的に、コツコツと地道な努力を重ねて成果を上げる執着気質型の努力家は、「秀才」と呼ばれます。陸軍大臣から首相に進み、日米開戦を決断した東條英機は、まさに秀才でした。

帝国陸軍の内部で東條と石原という2つの強烈な個性が衝突したのは、両者の気質を考えれば、当然だったのです。近代日本の陸海軍の母体になったのは、戊辰戦争で幕府軍と戦った薩摩軍・長州軍です。長州の高杉晋作、薩摩の西郷隆盛、土佐の坂本龍馬……「幕末維新の志士」といわれる人々は、大動乱を生き残るための危機対処能力に優れた分裂気質者が多かったようです。しかし彼らは、新しい国家秩序の建設には不向きであり、その多くは志半ばで倒れました。明治官僚国家を建設したのは、大久保利通のような執着気質型の「秀才」だったのです。この時代に、高級官僚の養成学校として東京帝国大学が、陸海軍の将官養成学校として陸軍大学校、海軍大学校が創建されました。とはいえ、「元老」と呼ばれる維新の功労者たちが明治期を通じて政権の中枢を掌握し、陸軍は長州出身者、海軍は薩摩出身者が要職をしめる「藩閥支配」が続きました。日露戦争で旅順要塞を攻略した陸軍の乃木希典(第三軍司令官)は、萩藩の藩校・明倫館の出身。バルチック艦隊を壊滅させた海軍の東郷平八郎(連合艦隊司令長官)は薩摩武士独特の郷中(ごじゅう)教育―地域単位で青少年が自主的に武芸と読み書きを学ぶ―を受けて海軍士官となりました。彼らの才能はテスト勉強ではなく、まさに実戦の中で培われたものなのです。

このような「たたき上げ」に代わって東大・陸大・海大を出た学歴エリートが、官界や軍の中核を占め始めるのが明治後半からです。とくに戊辰戦争で幕府側についたため「賊軍」とみなされた東北地方の出身者が要職に就くためには、東大・陸大・海大を優秀な成績で卒業することが必須条件でした。陸大の卒業生は1期につき50人前後。そのうち成績優秀者数名は宮中に呼ばれ、天皇から菊の御紋の入った軍刀を拝受するため、「恩賜軍刀組」と呼ばれました。こうなるとスーパーエリートで、将来は軍司令官のポストは確実、陸軍のトップである参謀総長、陸軍大臣、教育総監になることも夢ではありません。「賊軍」の盛岡藩士だった東條英機の父・秀教は、陸大を首席で卒業しながら長州閥に疎まれて陸軍中将止まりでした。その思いを託された息子・英機も「努力の人」で、2浪してやっと陸大に入学したのが大正元(1912)年。卒業時に恩賜軍刀組には入れなかったことを悔しがります。そのまじめさが先輩からかわいがられて順調に出世を重ね、参謀本部第一課長→満洲を管轄する関東軍参謀長→近衛内閣の陸相を経て、日米開戦の直前に組閣の大命を受けたのです。東條英機は、とくに何か大きな功績があったわけでもなく、与えられた職務をきちんとこなし、出世街道を駆け上っていった結果、たまたま日米開戦時に首相だっただけなのです。国全体が対米開戦ムードに沸く中、その方向性を変えるだけの決断力も情報分析能力もなかった、というのが東條英機という人物の実像です。実務能力は高く、部下としては有能な「執着気質型の秀才」でしたが、非常時に国家の指導者たるべき人物ではなかったのです。

東條英機と対極をなすのが石原莞爾です。やはり東北の庄内藩(鶴岡)出身で、東條英機より3年遅れて大正7(1918)年に陸大を卒業、こちらは「恩賜軍刀組」です。成績は抜群に優秀なのですが、士官学校時代から教官を罵倒する、授業をサボるなどの問題行動が多く、その一方で神道や日蓮宗に傾倒し、未来予知を行うなど、いわゆる典型的な「分裂気質型の天才」でした。昭和恐慌の中、政党政治は腐敗し、経済失政を重ねました。石原莞爾ら、軍の中堅幹部は「昭和維新」を掲げて軍事政権を樹立し、統制経済と満洲の植民地化による景気回復を計画します。関東軍の参謀に配属された石原らが計画、実行したのが満洲事変(1931年)でした。石原の構想では、満洲事変は「序の口」でした。欧州諸国が没落するなか、アメリカが台頭して西洋の覇者となる。アジアでは日本だけが強国として独立を保っている。20世紀の後半に、太平洋の覇権をめぐって日米は必ず激突する。この戦争は航空機を用いた殲滅戦となり、世界最終戦争となるだろう。これに備えて日本は、これ以上戦線を拡大せず、満洲の開発を進めて力を蓄え、アメリカを圧倒できる国力を持たねばならぬ。この遠大な構想を抱いて東京の参謀本部に戻った石原は、盧溝橋事件を口実に中国戦線をむやみに拡大しようとする現場指揮官をたしなめ、近衛首相にも中華民国との和解を進言します。しかし戦略的な平和主義に転じた石原は参謀本部内で孤立し、関東軍参謀副長として満洲に送り返されてしまいます。事実上の左遷でした。何でも自分でやってしまい、根回しを苦手とするのも分裂気質の特徴です。関東軍参謀長として石原の上司となったのが、不幸なことに東條英機でした。慣例を墨守するだけの東條に対し、石原は「無能」呼ばわりし、激怒した東條は石原を罷免。その後も閑職に追いやられ、日米開戦の直前に予備役にさせられました。引退を強制されたのです。

皮肉なことに、20世紀後半の日米開戦を「予言」した石原ではなく、石原の戦略をまったく理解できなかった東條が首相になりました。この実務家が、「もう決まったことだから」と、時期尚早の日米開戦に踏み切り、20世紀の半ばで大日本帝国を崩壊させました。この結果、300万人の同胞が命を落としたのです。日米開戦の原因は複合的で、日本だけに非を求めるのは誤りです。しかし、開戦直前のあの決定的な時期に、石原莞爾という「天才」を自ら葬ってしまった帝国陸軍の組織的過誤は、教訓として語り伝えるべきでしょう。この問題は日本型組織の病理として、企業経営者にも大きな教訓となるはずです。 (引用終わり)

外部環境によって求められるリーダーの資質が違うということ、すなわちDoingとBeingのわかる、度量の大きな人物が、あらゆる組織でトップに立つべきです。私が、教育で「4つの積み木」理論を唱え、「世界観・歴史観・価値観」といったリベラルアーツを重視する所以です。技術革新が急で、世の中の傾向としてSTEMに代表される理系の知識が重視されていますが、それはそれとしてもなお、こうした発想のできる、国際的教養人を育てなければなりません。社会は、集団戦なのですから。そして「学ぶ姿勢と考える習慣」を身に付けた社会人を一人でも多く育てることが教育の現場で、求められているのではないでしょうか。

平成の総括と今後の教育

教育190401

次の元号を「令和」とする旨の発表がありました。後1か月もすれば終わる平成の御代を、どう総括すればよいのか、マスコミに欠落している視点を提供したいと思います。

一言で言うと、平成という時代は、「外圧」に苦しめられ、日本の相対的地位が低下した時代と言えます。グローバリズムの嵐に、日本の制度を国際標準にするための「構造改革」をせざるを得なくなった時代でした。日本の文化基盤を無視した改革により、すっかり閉塞感あふれる社会になってしまった、というのが私の実感です。

そして、それは、第一次世界大戦後の大正時代に似ている、と言えます。当時も、国際協調というグローバリズムの嵐が吹いていました。「五大国」にのし上がった日本は、欧米に対抗するため、彼らのやり方を見習って、やむなく帝国主義化していったのではなかったのでしょうか。

中国という市場を巡って欧米と利害が衝突し、ABCD包囲網で経済制裁を受け、最後は石油禁輸という挑発までされたのです。その結果の軍国主義化であったと考えます。

そこには、大東亜共栄圏というアジア解放の理念があったことも事実です。戦後は、そうした理念の存在を否定され、勝者の歴史観をわれわれは習わされたのです。

和の国・日本は、何事も協調を旨として、たらいの水を押しやる努力をしますが、諸外国は、たらいに角度をつけて、より多くの水が自分たちに向くように、ルールを作ります。それが覇権国の特徴ですが、それに苦しんだのが、大正と平成の時代ではないでしょうか。

 

平成の構造改革は、すべて、欧米資本に寄与するものであった、ということができます。トイザらスの圧力による大店法廃止、国際金融資本の圧力によるBIS規制、資本移動の自由化、保険業務の市場開放、郵政民営化・・・最近においても、カジノ法案、種子法廃止、水道法改正、入管法改正、などが続いていますが、一体、だれのための法案なのでしょうか。

対米貿易のアンバランスを是正するため、プラザ合意で急速な円高を強いられました。また、内需拡大を強いられ、その結果、バブルを発生させてしまいました。その収束に失敗し、金融機関には多額の不良債権が残りました。いくつかの金融機関は破綻しました。製造業も、バランスシート不況は、長く尾を引き、リストラが大企業でも日常茶飯事になってしまいました。

 

その間、株主資本主義や金融資本主義が定着しました。日本が得意としてきた製造業中心の資本主義には、不利な条件を押し付けられた、ということになります。それで、金融業やIT産業が、経済のメインストリームになっていったのです。アメリカはウォールストリートの金融業や、シリコンバレーのIT企業、特にGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)と呼ばれるIT界の巨人が経済成長を支えてきました。中国も、巨大な人口を抱える市場を強みにして、国家資本主義を進展させ、技術の略奪によって、GDPを拡大させました。

 

平成6年、世界のGDPに占める日本のGDPの割合は17.6%でした。これが平成29年になると、日本の割合は6.1%。存在感はほぼ3分の1になってしまいます。

スイスの「国際経営開発研究所(IMD)」が毎年発表している国際競争力ランキングで、日本は平成元年から4年まで1位でした。それが2018年には25位と低迷しています。世界の株式時価総額ランキングも、世界の企業上位50社を見ると、平成元年には日本企業が32社も占めていたのに、平成30年では、トヨタ1社が35位にランクインしているだけです。国際経済の舞台で、日本は凋落の一途を辿っていった。それが平成という時代でした。

なぜ、そのように凋落しなければならなかったのか。それは、平成の指導者たちの世界観・歴史観・価値観には致命的欠陥があった、というのが私の印象です。あらかじめ決まった正解を、どれだけ多く覚えられるかを競う「勉強」中心の教育になり、自らの問題意識を突き詰めるプロセスを経験させなかったことに原因があるように感じます。「勉強」ではなく「学問」をする必要があります。学問とは、問いを学ぶ、ということです。そこには、「自分で問題を見つけ出し、その答えを自分で考える」ということです。多面的な視点から検討し、自立的にものごとを考え、行動を起こせるような人材を育てる教育こそが、本当は必要だったのです。周囲に媚びて、群れを成し、時代に流されるような人物ばかりが多くなったように感じます。

これからの教育は、学校に、もっと独自性を発揮させ、自己肯定感を涵養し、自立的に考え、行動できる人物を育てるべきです。また、人物教育をもっと充実させることでしょう。幕末や戦後の混乱期に、個性的なリーダーが生まれたのは、国語教育による人物教育が充実し、家庭教育と地域教育がしっかりしていたからではないか、と思います。

自己肯定感の涵養について

教育190309

校長をしていた時にも感じたが、日本人はもっと自己肯定感を持たないといけないのではないか、と思う。成績が悪いからと言って卑屈になることはない、とよく言って聞かせた。それよりも、もっと自分に備わった長所を伸ばす工夫をするべきだ、と。ないものねだりをするよりも、あるもの探しをすることだ。このことは、子供に限らない。日本人全体に言えることではないか、と最近特に思う。

 

GDP世界シェアが18%から6%になっても、穏やかな国家を維持できているではないか。本当にすごいことだと思う。これほど貧しくなっても、暴動一つ起こらない。平成の指導者たちの間違いを糾弾する声すら、どこからも上がらない。誰も、この閉塞感の寄って来る所以を、明らかにしようとはしない。波風もたたず、本当に平和である。

 

「日米構造協議」に出会って、日本側交渉団の腰抜けぶりにあきれ返ったが、これも指導者たちの自己肯定感の欠如に起因すると考えられる。アメリカの尺度でおかしい、と指摘されれば、すぐに折れてしまう。文化基盤の違いなどということを論じられる人は、交渉団の中には一人もいなかった。「たらいの水」で、日本人は、水を相手に押しやっても、いずれ帰ってくると思い、譲ることを知っているが、覇権国は、たらいそのものに角度をつけて、水を自分の方に流れるように工夫する。

アメリカはどういう国か、外交では、ウチ向きの交渉術は通用しないということが誰もわかっていない。

もちろん、私の言うような強気の交渉をすれば、さらに悪い結果を招いていたかもしれない。歴史にIfはないし、世の中のことに正解はない。しかしながら、結果として、こういう閉塞感を招いているのだから、その考えられる要因をリストアップし、侃々諤々の議論があって然るべきではないのか。

 

なぜ、ここまで交渉力のない、自己肯定感を喪失した民族になり果てたのか、いろいろ考えてみた。

・自虐史観や司馬史観の悪影響

・日教組主導の戦後民主教育の歪み

・明治以降の白人コンプレックス

・庶民に根付く伝統的な「利他の精神」

・和の精神、分をわきまえ、言挙げしない文化

・指導者たちの教養不足(特にDIME=外交・情報・軍事・経済)・・・

 

それでは、どうすれば、自己肯定感を涵養することができるのだろうか。私もよくわからないが、松尾英明氏のメルマガにある小学校の先生の文章にヒントがあるように思う。引用してご紹介する。

引用:

ハチとチューリップ
学級で、チューリップを育てている。ある朝、子どもが「ハチがいた!」と興奮気味に報告しにきた。ハチが、怖かったようである。「危ないよね」と言いたかったようである。
そんな日にした朝の話。
「虫は、花のお友達です。虫のおかげでおいしい実がなる植物がたくさんあります。」
ここで子どもから「あ。花粉がつくから?」というつぶやきの声が上がった。よく知っているものである。
「そう。例えばハチもそうですが、花の真ん中にとまると、花粉というものが脚につきます。」
黒板に花の絵を描き、黄色の色チョークを塗った。となりに別の色で花をかく。
そして、手を虫にみたて、掌で花から花へ移る。色チョークの粉が移る。
「こうすると、花粉が別の花に移ります。すると、実や種ができるのです。
だから、花にとって虫はとても大切なお友達です。そっとしておいてあげてくださいね。」
さらに大抵のハチは刺すと自分が死んでしまうため、手を出さなければ滅多に刺さないことも話した。
以前、いたずらで小さなハチを手で捕まえてみて、手の中で刺されてえらい目にあった話もした。
むしろ、こういう話の方を子どもは好む。
さて、理科的な話をした訳だが、実は真意はそこではない。
大切なのは、ハチはハチのままで、生きているだけで花の役に立っているということである。
しかも、花の役に立とう、なんて微塵も思っていないことである。
一生懸命生きているだけで、結果的に役に立っているということである。
刺したりするということの悪い面ばかり見てしまうが、それは人間であるこっちの勝手な解釈である。
すべての命は、全力で生きることで、誰かの役に立っている。むしろ、自然と役に立ってしまう、という方が正確かもしれない。自分らしく生きること。同時に、他を幸せにすること。

それは、人に役立とうと自己犠牲をしたり、他に不自然を強要されたりするのではなく、ごく自然に生きることではないかと思う。 (引用終わり)

AI時代の教育

教育190301

日本には、優秀な人が多い。にもかかわらず、そういう優秀な人は、同調圧力の強い社会の中で、日の目に当たることが少ないように思います。

また、庶民には、立派な人が多い。大災害の時にも、秩序が保たれ、協力し合います。

「友達と仲良くしなさい」という家庭教育と「学力の底上げを旨とする」学校教育のおかげでしょう。

どんな社会にも長所と短所がありますが、長所を伸ばし、短所を顕在化させないような工夫が必要なのではないでしょうか。

 

大事なことは、何が長所で、何が短所であるか、を正しく認識することです。歴史を学ぶことにより、「民族の習性を自覚すること」が極めて有効です。同時に、他の民族の習性も、把握しておく必要があります。そして、国や企業の指導者ならば、アメリカとはどういう国か、中国とはどういう国か、を考慮に入れて、戦略を練らなければならない。そういうことができているのでしょうか。

 

私の認識では、日本は戦争による犠牲はなかったものの、平成の時代、またしても戦前と同じ失敗をしてしまいました。そして、やっと、アメリカが「中国の本質」に気づいてくれました。100年も前に、気づくべきでした。そうすると、太平洋戦争もなかったでしょう。

本来なら、中国と2000年以上の交流がある日本が、100年前に、アメリカに教えてあげるべき事柄です。ルーズベルトは、本当に、アメリカにとって最悪の指導者でした。

 

そして今、留意すべきことは、技術の進歩が急速に進んでいる、という事実です。時代の変化に、正しく対応していくことです。人が、ますます重要な要素を占めています。一にも二にも教育を重視することが喫緊の課題になっています。

日本の政治家たちは、本当に、そういうことが理解できているのでしょうか。

平成の時代に、こんなにまで日本を小国化し、格差拡大、地方の疲弊、少子化へ追い込んだ指導者たちの「路線」の延長線上に、今度の「教育改革」もあるような気がしてなりません。

日本人でありながら、「日本」を語れない、お粗末な指導者たちばかりが目立つように思います。 

その一端を解説している文書をご紹介します。保守本流の月刊誌『表現者クライテリオン』に掲載された浜崎洋介氏の文章です。AI時代の教育の方向性について、危惧している文章です。

引用:
この頃は、「AIは人間を超える」だの、「AIが人間の仕事を奪う」だのという嘘をよく耳にしますが、つい最近、その嘘を否定する興味深い記事を読みました。数学者の新井紀子氏(国立情報学研究所教授)による「AIは先生に取って代われるか」という論説記事です。
新井氏は言います、「意味」を理解する能力を持たず、「確率と統計を用いるソフトウエア」にすぎないAIが、「先生」に取って代わるなどということはあり得ないし、もし、「先生をAIに置き換えたら、学校はAI未満の生徒を大量に生み出す機関に成り下がってしまう」だけだろうと。
けれども、どうやら官僚やメディア関係者はそう考えていないらしい。たとえば経済産業省が推進する「未来の教室」プロジェクトでは、教育(エデュケーション)と技術(テクノロジー)を掛け合わせた「エドテック(Edtech)」なる概念が提示され、「先生不要のAI教育論」がまことしやかに唱えられているというのです。さらに、そのプロジェクト発表会に参加した記者などは、そこで示された夢物語に熱をあげているとのこと。
しかし、AIに「意味」が理解できないということくらい、過去の議論を振り返れば、すぐに分かることでしょう。フッサールの現象学にしろ、ハイデガーの存在論にしろ、ソシュール言語学にしろ、フロイト─ラカンの精神分析学にしろ、ベルグソンの生の哲学にしろ、パースやジェイムズのプラグマティズムにしろ、とりわけ20世紀哲学は、「意味」という現象の「謎」をめぐって議論を積み重ねてきたのでした。
なかでも、AI(数学)と「意味」との関係を考える上で興味深いのは、ウィトゲンシュタインによる「規則(意味)のパラドクス」の議論でしょう。たとえば、『哲学探求』において、ウィトゲンシュタインは次のように書いていました。すなわち、「私たちのパラドクスは、こういうものだった。『ルール(規則)は行動の仕方を決定できない。どんな行動の仕方でもルールと一致させることができるから』」と。
ただ、これだけでは何が何だかサッパリでしょうから、ここで一つ簡単な例を挙げておきます。「数列」という、一見「規則」的に見える数字の束です。
たとえば、今、目の前に「2,4,6,8,10,…」と並んだ数があるとします。すると、私たちはそこに「+2」の規則(意味)を読み取って、次に来る数字を「12,14,16,18,20,…」と続けたくなります。が、そう続ける論理的根拠はない。なぜなら、「2,4,6,8,10,…」を見ただけでは、数列が「2,4,6,8,10,2,4,6,8,10,…」と続いている可能性を払拭できないからです(他の可能性も無限にあります)。そして、何より重要なのは、この不確定性は、「数列」を10桁確認しようが、100万桁確認しようが変わらないということです。
というのも、どれだけ桁数を増やそうが、「数列」が有限の情報として示されている限り、その数列の「見え」と、無限に反復可能な「規則」(意味)との間には、どうしても埋まらない溝があるからです。要するに、この「数列」の議論が教えているのは、ある情報から一つの規則(意味)を読み出す行為の底には、必ず、私たちの「暗闇の中における跳躍」が存在しているのだということです。言い換えれば、「2,4,6,8,10,…」を見て、その後を「12,14,16,18,20,…」と答えてしまうのは、規則によってではなく、私たちの偶然的な〈傾向〉によってだ、ということです。
そして、この「規則(意味)のパラドクス」は、「言語」においてより如実になります。たとえば、「今日は寒そうだ」という言葉の「意味」は規則化できるでしょうか。
もちろん、それは「今日の温度は低いと予測される」という文字通りの「意味」として読み取れます。が、文脈によっては、それは「窓を閉めてくれ」という意味になるかもしれないし、「コートを着て行こう」という意味になることもあります。あるいは、文脈が明確でない場合、どの「意味」が優勢になるのかは、文字通り「決定不可能」だということになります。
要するに、全ての「意味」は、その都度の「言語ゲーム」の流れ(全体)のなかに現れるものであり、その限りで、「意味の規則」は存在しないのだということです。
しかし、では、ウィゲンシュタインは、単に「世界に確実なものは一つもないのだ」という「懐疑論」を説きたかっただけなのでしょうか。
そうではありません。なるほど、たしかにウィトゲンシュタインは、「規則のパラドクス」と呼ばれる懐疑論を徹底しました。が、その一方で、ウィトゲンシュタインが次のように書いている。

「正しいとかまちがっているとかは、人々の言うこと(内容)だ。言語においてなら、人びとは一致している。それは意見(意味)の一致ではなく、生活形式の一致なのだ」(『哲学探究』と。
つまり、ウィトゲンシュタインは、「2,4,6,8,10,…」を見て、その後を「12,14,16,18,20,…」と続けるのか(そこに「+2」の意味を読むのか)、もう一度「2,4,6,8,10,…」と続けるのか(そこに「反復」の意味を読むのか)は原理的には決定不可能だが、しかし、それでも私たちは数字を使って何かが伝えられるかもしれないと信じ=行為していること自体は、「生活形式」(私たちの生き方)のレベルで疑うことができないのだと言っているのです。
とすれば、私たちは、「意味」を考える(疑う)にも、それ以前に、何かしらの考え得ない(疑い得ない)ものに支えられていなければならず、また、それを内に信じていなければならないのだということになりはしないか。実際、晩年のウィトゲンシュタインは、『確実性の問題』と呼ばれるノートのなかに、次のように書き記していました。
「神話の体系が流動的な状態に戻り、思想の河床が移動するということもありうる。だが私は河床を流れる水の動き〔意味〕と、河床そのもの〔生活形式〕の移動とを区別する。両者の間には明確な境界線を引くことはできないのであるが」
「我々が何事かを信ずるようになるとき、信じているのは個々の命題〔意味〕ではなくて、命題の全体系〔言語ゲームそのもの〕である(理解の光は次第に全体に広がる)」
「すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできないであろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提にしている」
「私が本当に言いたいのは、言語ゲームというものは人が何かを信頼する場合のみ可能である、ということだ。」
つまり、「意味」より手前で、何かを「信じて」いなければ、「意味」さえ見えては来ないのだということです。もちろん、そこで信じられているのは、ある命題(意味・内容)ではなく、「とにかく、私たちはこういう風に生きている」という〈事実=行為〉そのものです。そして、「(意識の)スコップがはね返されてしまう」ほどに硬い、その〈事実=行為〉への「信」に支えられて初めて、私たちは世界に「規則」(意味)を読み取り、あるいは時には、それを疑うことができるのだということです。
ここまでくれば、「AIは人間を超える」だの、「AIが人間の仕事を奪う」だのという話が、いかに軽薄なものなのかが分かるでしょう。「信じる」という行為を欠いているAIには、そもそも「意味」を疑うことも、「意味」を解釈することもできないのです。そこにあるのは、「思考」とは正反対の、「確率と統計」による計算処理です。
しかし、だとすれば、「信じる」こと(暗闇の中における跳躍)からしかはじまり得ない「教育」に、AIを積極的に導入しようというアイデアが(部分的で、消極的な導入ではない)、いかに非人間的なものなのかも分かるでしょう。それで、「日本が世界に様々なソリューションを提供する『課題“解決”先進国』となるために」(経済産業省)も何もないはずです。AIを持ち上げれば持ち上げるほどに、この国が「様々なソリューションを無視することのできる『思考“停止”先進国』」になっていくことはほぼ間違いありません。

(引用終わり)

 

センスとは知識

教育181206

短い期間で判断していかなければならない事態になったとき、その人のセンスがものをいう。

感覚や勘といった感性が働く、というのは、長年の経験とか蓄積が大きく影響するのだと思う。

直観力という能力は、例えば人の発言や行動・考え方が何か変だな、と感じることからスタートする。そう感じるためには、実は、相当の知識の裏付けを必要としているのではないか。

知識がないばかりに、周囲に流されて、センスの悪い意思決定をする、という人を多く見かけてきた。知識があるから、知識がないと気にならないことが引っかかる・・・これを「センスがある」と表現する。その知識を共有することが難しいから、人はお互い「わかりあえない」とストレスをため込むのが常だ。

知識基盤社会であると言われて久しいが、教養についても、専門知識についても、知らないがゆえに、適正な判断ができない、という事例が目立つ。勉強しない社会人に多く出会ってきたが、プロである限りは、業務に関連する知識の補充は、普段から欠かせない。また、上の階層に出世すればするほど、教養と言われる知識が大事になってくる。

専門性ばかりを尊重するアメリカ式技術主義が横行しているが、その弊害が随所に現れている。

経営のプロとか言われるMBA取得者など、その最たるものだと思う。

人々の思考が「タコつぼ的」になり、全体を俯瞰する、ということが苦手になっているのではないか。

もっともその方が、権力者にとっては都合がよい。批判精神を封じ込め、従順な子羊を育てやすい。 

「センスとは知識」と題する文章を紹介する。

教師向けに書かれた啓発メルマガであるが、こうしたことはすべての社会人に共通する課題である。

引用:
一人ずつがそれぞれに成長する機会を与えるのが、教育における平等である。これが前提である。

つまり、全員に同じ手法で、同じことをさせ、同じゴールを設定するのが平等ではない。
ここを特に意識した方がいいのは、特別な支援が必要な子どもたちである。
例えば、授業中に、席についている。「当たり前」である。
しかし、一部の「皮膚の下で虫がうごめいているような感覚」をもつ子どもにとっては、当たり前ではない。ものすごい苦行である。だから、知識がある人なら、普通に動き回らせる。
授業に不都合があるなら、動ける範囲を決めたり、逃げ場所を作ったり、一定のルールを設けるなど「動く前提」の対策をとる。これは、知識がないと思い付かない。
知識がないと、ただのわがまま、我慢のできない子にしか見えない。
「きちんと座りなさい」の一点張りになる。それでうまくいったという事例を聞いたことがない。

特別支援教育だけでなくて、あらゆることに共通である。
知識がないと、適切な対応策はとれない。
国語で、この子どもはなぜ教科書を読めないのか。
あるいは、「たかが」音読するだけの宿題を「さぼり続けて」くるのか。
算数で、なぜこの子どもは計算ができないのか。
あるいは、「たかが」ドリル1ページをやってこれないのはなぜなのか。
体育で、この子どもは、なぜまともに縄跳びを跳ぶことができないのか。
あるいは、転びまくる、やたらに頭をぶつけてしまうのはなぜなのか。
どれもこれも、知識があれば見えてくるものがある。
「ディスレクシア」「特異的算数能力障害」「空間認識能力」・・・
これらの知識があるかどうかである。ないと、ただの「さぼり」「不注意」に見える。

知識があるから、知識がないと気にならないことが引っかかる。それを「センス」という。
やはり、教師にとっては、勉強が命である。現場で一生懸命やる、というのは、前提。誰でもやる。
問題は、その現場に立つ以前の動きである。センスとは知識。勉強して、見える景色を広げたい。(引用終わり) 

この例は、目の前にいる子供たちへの対処法という範囲での知識の重要性であるが、なにも「いま、ここ、自分」の日常業務の範囲にとどまらない。

少し周りを見回してみて、組織を良くして動きやすくしようとするときに、メンバーとコミュニケーションしていかなければならない。ところが、対話(ダイアログ)が成立しないときがある。

メンバーに前提となる知識が、欠如しているケースである。すなわち「共通基盤」がない場合である。 

知らない人は、虚心坦懐に教えてもらえばいいようなものであるが、なかなか立場上プライドが邪魔をするケースも多い。対話が成立するには、暗黙の了解としての「知識基盤」が必要だ。

ところが、知識があるからといって、ごり押しすれば、相手の感情を害し、人間関係をも棄損する。そこには、基本的な人間関係と、もって行き方・工夫が必要である。いつの時代も厄介な問題だ。

しかし、組織が間違った方向に向かったとき、周囲の評価を気にせず、体を張って阻止しようとすることは「ノーブレス・オブリージュ」の基本である。オルテガの言う「精神的貴族」というものだ。

そういう気構えの人が、この日本に、どれだけいるのだろうか。

大阪人の学力観

教育181204

大阪府の教育委員会が「メリットペイ制度」を検討しているという。全国学力調査などの結果を教員の評価やボーナス、学校予算に反映させる仕組みである。公教育の市場化と民営化につながる。こうしたことを考えること自体、お粗末の極みとしか言いようがない。鈴木大裕氏が「真に問うべきは、この貧弱な学力観そのものである」と言っているが、まさにその通りである。教育は国の基本である。こんなことは教育の「自殺行為」ではないのか。見識不足も甚だしい。

このブログの「基本的考え方」にも書いているが、こんな新自由主義的思考から、未だに抜けられない大阪府教育委員のお粗末さは怒りを飛び越えて嘲笑の対象だろう。評論するに値しないが、荒井英治郎氏の書いた書評の概要を紹介して、批評に変えたい。『月刊高校教育』2016年12月号に記載された文章である。

引用: 

公共政策学では、新たな政策課題に直面した時に、政策決定者は他国の政策決定者の意思決定の根拠や、その政策内容に関する情報を収集し、意思決定の判断材料を揃えることが、将来的な政策革新の前提となるという考え方があります。

他方で、他事例の経験は当該政策の効果に関する予測可能性を高めることになるため、政策決定者はその予測に基づいて政策案の修正や不採用を決定することもあり得えます。

この意味で、他事例の経験は、先行して採用されているという意味で「先進」的な事例ではあるが、そこから学ぶべきことは「失敗教訓」であることも少なくありません。

では、諸外国の教育政策、とりわけ今次の大統領選の話題で持ちきりの「自由と平等」の国、アメリカの状況はどうでしょうか。多くの方の関心事かと思います。

本書では、80年代以降、アメリカが意図的に採用した新自由主義に基づく市場型教育改革の代表例として、テストの点数に基づく画一的評価の下で行われる学校選択制、バウチャー制度、チャータースクール制度、ゼロ・トレランス政策、アカウンタビリティ政策等が挙げられています。

そして、公教育の民営化を軸に小さな政府が主導した「社会実験」は、本来、出自や身分の別なく教育の機会均等を保障することを重視する公教育の場を、全ての学校が、生存競争への参加を迫られ排他的に生徒を奪い合う一兆円規模の教育ビジネス市場へと変貌させ、人間の教育を簡素化・抽象化・数値化・標準化・商品化し、「経済格差を再生産する社会装置」としての側面が顕著である、と指摘されています。

また、発展途上国からの「教員輸入」が行われる状況下の教師像は「使い捨て労働者」と化し、教職の超合理化と非・脱専門職化へ邁進しているようです。

さらに、「データ主導型教育改革」は、一部の「納税者」や「教育消費者」にはある程度の選択肢を与えたものの、学校は教員の「温もり」が感じられない空間となり、「公教育」や「民主主義」という社会の基本概念それ自体が危機に瀕している、との警鐘が鳴らされています。

そして、筆者は、断言しています。そこにあるのは、民主主義(デモクラシー)ではなく、企業の企業による企業のための国家統治(コーポラトクラシー)であると。教育政策においてもグローバル市場が形成されて久しいですが、グローバリゼーションの荒波を前に、共通する政策課題に対する解決策を唯一無二と考える認識枠組みこそ問われるべきであると言えます。

他国の経験からの教訓を糧に、現在地の把握に努めるだけでなく、目的地それ自体を再考すること。このことはPISAのフロントランナーに位置づく日本だからこそなし得ることであり、そこで下される英断と新たな教育ビジョンの提言は、オルタナティブな「スタンダード」を構築し、将来的には世界的規模での政策波及に寄与することにもなる可能性もあるはずです。 「改革幻想」に浸る前に、まずもって本書の「警告」に耳を傾ける必要があると思います。 (引用終わり)

このような新自由主義的な改革は、すべて失敗してきたというのに、なぜ、今頃になって失敗が確実視されている制度を導入するのか。教育と医療は、日本の冠たる制度であるというリスペクトが、基本的に日本人には欠けているからだろう。むしろ、教育や医療は、その制度や運用ノウハウを、輸出できるほどの代物ではないのか。

なぜ、そういう発想ができないのか。戦後民主教育は、自虐史観を日本人に植え付けてしまった。そこに光を当てないと、こうしたことが繰り返されてくるのだろう。勉強ができる子供が成長し、社会のリーダーになった1980年代以降、日本の没落が始まることを、もっと反省しなければいけない。また、ハンモックナンバーが後々の出世に大きく作用したという帝国陸軍において、どのような誤った意思決定がなされ、どのような理不尽が横行したのか、よく考えてみるとよい。それが現在の企業にも受け継がれていることを考えると、歴史からわれわれの「習性」を自覚することが大事である。アメリカを見習うという戦前と同じ失敗をしているではないか。

われわれの倫理規範は、欧米人のそれとは違う、ということ、そして、われわれの倫理規範こそが21世紀の世界の倫理規範たるべきもの、という矜持を持つことが指導者に求められている。そこにこそ、われわれの文化基盤を保守し、世界に貢献する手段が存在すると思うのである。

哲学ブームに想う

教育181201

「役に立たない学問の代表」とされがちな「哲学」が、今ブームになっています。閉塞感あふれる社会になっているにもかかわらず、その因縁果を探求しようともせず、集団無責任体制が続く日本。そんな中で、生きずらい思いをしている若い人が多いのではないでしょうか。無教養な「お金儲けの専門家」によって率いられている多くの日本企業が、初歩的な規律さえ守れない現状を見るにつけ、このブームは「さもありなん」と納得させられます。

過去の哲学者が向き合ってきた問いは、「世界はどのように成り立っているのか」という「Whatの問い」と、「その中で私たちはどのように生きるべきなのか」という「Howの問い」の2つに整理することができます。前者を存在論と言い、後者を認識論と言いますが、存在論は、あらゆる学問に共通する問いに対し、認識論は、あらゆる人に共通する問いになるわけです。

吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の漫画版が売れているそうですが、まさしく認識論のカテゴリーに属します。人間の関心の大部分は「いま ここ 自分」にあるわけですが、それを考えるうえでも、一旦そこから離れて、客観的に、鳥瞰してみる、ということが有効だと思うのです。若い人が、そこに気づいて読んでいるのなら、大変良い傾向と思います。

アスペン研究所を開設したハッチンスは「無教養な専門家こそ、われわれの文明にとっての最大の脅威である。」とまで言っています。

古代ギリシャから、頭の良い哲学者たちが、延々と哲学を論じてきています。これほどまでに多くの哲学者の論考が存在するということは、この問いに対する「決定打」と言える回答が、未だに示されていない、ということの証左でしょう。複雑な人間社会を、ある視点から切り取っても、現実が変化し、説明できない事象が生まれ、新たな視点を提供する、ということの繰り返しが行われているように思います。哲学の歴史は、そのような提案→批判→再提案という流れの連続で出来上がっているわけです。

こうしたクリティカルシンキング(批判的思考)は、ビジネスでもまた、求められています。変化する現実に対して、現在の考え方や取り組みを、批判的に見直して、自分たちの構えを変化させていく。かつてうまくいっていた仕組みを、現実の変化に適応する形で変更していく。その際に必要な知恵は、弁証法的アプローチだと思うのです。弁証法は、ある主張=Aがあったとして、それに反対する、あるいは矛盾する主張=Bがあり、それが両者を否定することなく統合する(アウフヘーベンと言います)新しい主張=Cに進化するという思考のプロセスです。そうしたアプローチをとると、変えてはならないものと変えていくべきものの峻別が可能となってくる、と思うのです。不易と流行ですね。

多くの日本企業ではP―D―C―Aが回っていません。それは否定を伴なう場合があるからです。「空気」が動かし、全体無責任体制になっています。きちっとした手法を採用せず、サラリーマンの習性である「媚びる・群れる・流される」流儀が主流となって、馴れあっているからだと思います。

こうした現状を打破する手段として、哲学は有効な学問であると私は思います。なぜなら、自分たちの行動や判断を、無意識のうちに規定している暗黙の前提に対して、意識的に批判・考察してみる知的態度や切り口を得ることができるからです。

教育界の疲弊

教育181103

なぜこうも企業の不正が連発するのか、を考察したテーマで、株主資本主義化・金融資本主義化が進み、短期的な上意下達の数字ノルマに皆が疲れてしまい、現場は「空気」に流され、思考停止に陥っているのではないか、という「仮説」を提起した。(「頻発する不正」経営181101参照)

スルガ銀行の事例を側聞するに、成果主義人事制度の空恐ろしくなるほどの実態があり、これほど根深い組織の腐敗は、かつての日本的経営では考えられなかったのではないか。

 

働くという行為は、神から与えられた罰ではなく、それによって、社会とつながり、安定した身分や立場を構築でき、人間的成長をともなうものでなければならない。

それが、日本人の労働観であり、そのコンセンサスが、日本人の倫理規範であるはずだ。

 

事業とは、世のため人のために行うものであって、資本の自己増殖を目的とするものではない。

事業を持続可能にしていくためには利益が絶対条件であるが、その利益は、株主や従業員、顧客や取引先などのステークホルダーに、バランスよく配分されなければならない。蓄積された利益は、新規分野への投資や従業員の生活安定に資するものであるべきだ。

ところが現実は、ゼニがすべての拝金主義がはびこりグローバリズムの卑しい精神が蔓延している。

ゼニなど、実経済の付帯物、潤滑油に過ぎない。貸し借りの証書であり、天下の回りものである。

 

教育の世界も例外ではない。教員の過重労働が云々されているが、教育界の疲弊はそれだけにとどまらない。大学も、間違いなく法人化という改悪により、役割機能が弱体化している。

藤井聡氏が主宰する『表現者クライテリオン』2018年11月号は、「ネオリベ国家ニッポン─『新自由主義』という悪魔の挽き臼」という特集を組んでいる。

「悪魔の挽き臼」とはいい得て妙である。私の持論にぴったりなので、その一部を紹介する。

引用:

今、日本のあらゆるところに閉塞感が漂っていますが、この閉塞感の根源的な主要因のひとつが、新自由主義的な「改革」を、とにかく善きものと考える現代日本の風潮にあるものと思われます。
いわば、こうした「改革」至上主義とでも言うべきものは、2000年代に展開された小泉・竹中流の構造改革がその象徴ですが、80年代のサッチャー、レーガンから今日の小池・橋下の自治体改革や、「アベノミクス第三の矢」における今日の構造政策に至るまで一直線に連なるものです。
それは、小さな政府、民営化、競争の重視と保護政策の忌避、それらのための旧体制の破壊が、いずれも「善きもの」だと信じ込むイデオロギーです。
そして、昨今の大学改革はまさに改革至上主義の典型例と言わざるを得ません。
小さな政府論で国の歳出カットにより研究費を削減。例えば、あれだけ政府でもてはやされている「iPS細胞」の京都大学の研究所ですら、そこで雇えるのは、その大半が「任期付き職員」。
その結果、大学の研究員の多くがその知的エネルギーを「次のポジション獲得」のために注入することになり、純粋に研究活動に注入することが出来なくなっています。
しかも、過剰な競争原理が今、大学に導入されていますが、その結果、多くの職員が「研究費獲得」のために多大な知的エネルギーを奪われています。
さらには、研究の「ビジネス化」が無根拠に善きものと見定められ、基礎研究が軽視され続けています。挙げ句に「人文系なんてホントは要らないんだよね」とうそぶく方々が、政府のど真ん中に居座って、大学改革を加速しようとしています。
これらの結果、純粋な研究に投入されるべき大学の知的リソースの「多く」ないしは「大半」が、個人のポジション獲得や資金獲得、ビジネス連携等に吸い上げられ、まともな研究が出来なくなりつつあります。それが昨今の日本の科学技術力の激しい劣化に目に見えてつながっているのは、火を見るよりも明らかです。 (引用終わり) 

日本のこれからを考えた場合、「科学技術立国・教育文化大国」を目指すべきではないのか。

日本の科学技術予算は、3兆8400億円、ここ20年横ばいが続いている。これでデジタル革命や生命科学の進展に対応できるのか。基礎研究崩壊の足音が聞こえてくる。

このまま、「小国化し、夢のない日本」になっていいはずがない。

変革していく力

教育181007

組織を変革したり、時代を切り開く、といった偉業を成し遂げるには相当のエネルギーが必要です。また、そういう偉業を達成するには、幅広い知識と教養に裏付けられた哲学がなくてはなりません。

世情を見ていると、哲学がないのに偉業を達成しようとして、却って組織を混乱させる、というケースが多いように思います。

頭で考えただけの理想を、トップが上意下達で、強引に事を進めると、大抵はろくなことにはなっていません。民間企業の場合、サラリーマン社会は、「媚びる、群れる、流される」集団であるからです。

最近、極めてお粗末な組織の不祥事が頻発するのも、トップダウンの欧米流への変革に起因するのではないでしょうか。組織の風通しが悪くなると、大抵、不具合が発生し、失敗しています。

私が、経営品質でいうところの「サーバント・リーダーシップ」を提唱し、「設計主義」を否定し、「保守主義」に帰着したのも、そういう実体験に基づいています。

 

それでは、どのようにすれば、変革していく力をもったリーダーを育成することができるのでしょうか。ヒントは、薩摩藩の「郷中教育」にありそうです。明治維新という危機の時代に、あれほど多くの優秀な人材を輩出した教育システムとは、どのようなものであったのでしょうか。

磯田道史氏によれば、江戸時代の教育方法は、大きく分けると、タイプは二つあったと言います。多くの藩が模範とした「会津型」。もう一つは、中世の頃から例外的に続いてきた「薩摩型」です。

浜崎洋介氏が、『表現者クライテリオン』に書いた文章を引用して紹介します。

引用:

1750─1800年頃までに藩の財政が行き詰ってくると、全国に多くの藩校が設けられるようになりますが、それは、まさに藩の「財政再建」のために官僚を育てるためのものでした。城下町に暮らす藩士の子弟を、学校で鍛え、試験を通じて「選択」し、その者たちを「集中」的に登用し、藩の改革に当たらせたのです。江戸の最高学府である昌平坂学問所の書生寮において、舎長を四人も出したのは会津藩だけだったこともあり、その秀才教育は次第に全国に知れ渡っていきました。
けれども、御承知のように、この「学校官僚制国家」を思わせる会津藩の秀才教育は、幕末の「危機」に際してほとんど機能しませんでした。つまり、「選択と集中」によって集められた紋切型の優等生には、柔軟な自立的「思考」ができなかったということです。


それに対して、「危機」において頭抜けた自主性を発揮したのが薩摩藩でした。明治維新を成功させたのが、なぜ薩摩の「人材」だったのかということについては、様々な議論がありますが、なかでも、薩摩武士を育て上げた「郷中教育」は無視できないでしょう。
日本の「辺境」である薩摩では、幕末にあっても、未だ兵農分離が進んでおらず、戦国武士の気風が残っていました。事実、城下町ではなく農村に土着して田を耕していた薩摩武士は身分や礼儀にうるさくなく、また藩主の許しなく「縁券売買」(100石の俸禄を貰う武士が、借金返済の為に30石の権利を売るなどの行為)ができるなど、他藩に比べて武士の自主性が許されていました。

そして、その自主性を育てたのが「郷中教育」でした。
まず、武士の子弟たち(6、7歳から15歳くらいまでの少年)は藩校に通いません。勉学意欲のある子供たちは、まず、その日に教育を受けるための集会場を決め、他人の家座敷を間借りする交渉から始めます。そして、いざ場所が決まれば、寝起きがけに先輩宅(24〜25歳くらいまでの先輩宅)に集まって習字を一時間ばかりすると、また自宅に戻って朝飯をかき込み、その後に集会場に集まって、今度は、「長老(おせんし)」と呼ばれる先輩と共に四書を素読します。そして面白いのが、四書(教科書)に対する独特のアプローチです。
たとえば、西郷隆盛や大久保利通などは、子供たちに少し本を読ませた後に、「本に依ってやるといけない。本を畳んで机に伏せろ」、「お互いの肚を出せ。そうせんと本当の学問ではない」などと言いながら、「志とは何か」…「それは、国家に志す丹誠です」。「では丹誠とは何か」…「それは…」といった議論を徹底的に繰り返し、「もし〜だったら」という仮想のシミュレーションを繰り返した、と言います。その過程で少年たちは、本で覚えたこと、あるいは抽象概念として学んだことが、どれだけあやふやで、あいまいなものなのかということを思い知り、そこから改めて四書の言葉を、実践の現場に差し戻し、その概念が実際に役立つ「時と処と立場」を自分の頭で考えていったというわけです。つまり、観念をただ観念として覚え込むのではなく、必ず目の前の現実と関わらせながら、その観念を練磨していったということです。

昼過ぎに素読を終えた子供たちは、早くも本と付き合うことをやめてしまいます。
後は、少年団で川に魚釣りに行ったり、相撲を取ったり、木刀での切込みを練ったりししながら、夜は、友達の家などに集まって、「朝鮮でのトラ狩り」などの「二才話(にせばなし)」(講談や落語のようなものでしょうか)を語り聞くことに興じたといいます。
そして、この「覚え込ませ、処理させる」のではなく、「身体を使って、考えさせる」という、当時としては決して効率的とは言えない薩摩の教育が、あの真に実際的な薩摩藩士を育て上げ、あの明治維新の「危機」を乗り越えさせることを可能にしたのでした。(引用終わり)

これから得られる教訓は、学ぶということと考えるということを、繰り返し反復することで、知識を体にしみこませるということが大事であるということ。

もう一つは、秀才を「選択」し、その教育に「集中」しても、そこからは、時代を引っ張っていくような人材が育つとは限らないので、可能性を広げておく必要があること、です。

教育や科学技術の分野で、トップダウンで「選択と集中」が進んでいますが、それがどれほど危険なことか、を示唆しています。トップが、どれほどの人材なのか、極めて疑問ですし、私が経験した範囲では、中学受験した中高一貫校出身者は、お利口なだけで、変革していく力は持っていないように思います。状況の変化に敏感に反応できますが、大本から考える習慣がないからでしょう。

今回、ノーベル賞を受賞した本庶先生は、「生命科学はデザインなどできない」と喝破しています。

要するに、教育や研究といった分野では、効率を優先するのではなく、余裕が必要ということです。こういうところにも、成果主義をモットーとする新自由主義思想は、悪影響をもたらしているのです。

親の背中を見て子は育つ

教育181003

「教育の原則」(教育180609)で、整理しておきましたが、やはり学校教育では、家庭環境が大きく影響します。午堂登紀雄氏が「親の思考様式・行動様式による貧困の連鎖」というテーマで文章を書いていますので、ご紹介します。こうしたテーマは、学校では責任放棄とされるので、取り上げにくいのですが、多くに真実を含んでいると思います。学力テストの成績で、勤務評定をしようとする「トンデモ自治体」があるようなので、あえて取り上げてみたいと思います。

引用:

そもそも、なぜ親は低所得なのか。理不尽ゆえの低所得ということもあり得るが、大抵の場合、それはたとえば、難しい課題に取り組もうとしない、新しい仕事に挑戦しようとしない、困難にもくじけず耐えようとしない、逆境を乗り越えて目標を達成しようとしない、・・・

勉強して能力を高めてより成長しようという意欲が低いために起こることではないでしょうか。

つまり、親自身が勉強することの価値を理解していないのです。

親自身が「学ぶこと、努力することによってのみ自分を成長させることができるのだ」と認識していなければ、それを子どもに伝えることはできません。

じっくり考えるのを面倒くさがる親は、子どもが「それどういうこと?」と聞いてきても「知らない」「どうでもいいよ」で終わってしまうかもしれません。

そんな親の言葉、態度、何かに取り組むときの姿勢を見ていれば、子どもも当然それを見習います。そうして親と同じような思考パターン、行動パターンが形成されます。

つまり、親自身が低学歴・低所得となるような思考と行動をしているわけで、それが子どもに伝わっていることが「連鎖する貧困」の原因と言えるのです。

 

反対に、高所得な親の思考と行動はどうでしょうか。

彼らは積極的に学習する姿勢を持ち、難しい問題に果敢に挑戦したり、スキルアップのために日々研鑽してきたからこそ高所得になったと考えられます。

そういう親は、学ぶことの意義を認識していますから、子どもにもそのように伝えます。親自身も積極的に学び、努力する姿勢を持っていますから、子もそんな親の姿を見て育ちます。

親自身が「努力が大切だ」と思っているから、「やってみろよ。失敗したってまた頑張ればいいんだから」と子にも挑戦することの大切さを教えます。「お前にはムリ」ではなく「お前ならできる」というところでしょうか。

子どもが「それどういうこと?」と聞いてきたら、「それはね、これこれこういうことで、こういう理由があるからなんだよ」と答えるか、わからなければ「なんでだろうね、一緒に調べてみようか」と答えるでしょう。

そういう親の態度に毎日毎日、何年間も接して育てば、子どもも親と同じような思考パターンや行動パターンを受け継いでいきます。

 

さらに、高所得の親は部下や組織をマネジメントしている立場である人が多いと考えられますから、「どうすれば人は動くか?やる気になるか?」という人間のモチベーションに配慮する姿勢を持っているでしょう。そういうスキルを発動すれば、子どもがやる気になるように促すこともできると言えます。

逆に低所得者は末端従業員であることが多く、人のモチベーションがどうこうより自分が不平不満を言っている立場でしょうから、人間心理に疎い可能性があります。それはもしかしたら、子どもの学習意欲や進学意欲の適切な形成を損なっているかもしれません。

 

それでは、どうすればいいか。まず理系科目のウエイトを高くすることが挙げられます。理系科目は論理的思考の基礎となるからです。私が知る限り、低所得者の多くは数学や物理などの理系科目が苦手です。それはつまり、論理的思考が苦手であることを意味します。だから、感情や思いつきで判断したり、自分の行動がどういう結果を招くのかという想像もできない。

 

現在の学校教育の多くは、教師が知識を伝え、児童生徒は受け取るのみであり、そこに「自分の頭で考える」「自分の意見・主張を持つ」「自分の考えを発表し、他者との違いを認め合う」という場はほとんどありません。また、テストでは問いを与えられ、最初から答えが存在していることばかりですから、自ら問いを発する、つまり課題を発見する機会にも乏しい。

大学以前に、子どもが自分の頭でしっかり考えるような教育をすれば、「雇われるため」の進学だけではなく、たとえば高校生で起業家デビューとか、多様な人生の展開ができるようになる人が増えるのではないでしょうか。

 

そういえば、お金に関する知識は学校教育では習わないですよね。生きる上ではとっても大切なことなのに。同様に、子育てに関する知識も学校では習わない。論理的な思考方法やコミュニケーション技術も習わない。ということは、学校では教わらないことの方が、実は人生においては重要なのかもしれません。(引用終わり)

何度も言いますが、大局観もなく、角を矯めて牛を殺す改革ばかりしてきた連中に、教育改革などさせてはなりません。教育は、日本人の価値観を反映し、かつ普遍的なものにしていく必要があります。日本語もままならない生徒が増えているという実態を知る先生方が、世の中をよく勉強して、目の前の子供たちにどういう教育をすれば「幸せになれる確率が上がるか」考えてもらいたいと思います。そして、教育委員会を巻き込んで、行動していってほしいと思います。

クリティカル・シンキングということ(3)

教育181002

クリティカル・シンキングというのは、物事を合理的に考えるための思考訓練ということです。

合理的に考えるためには、定義を大切にし、何事も大元から考える、ということが習慣化している必要があります。

クリティカル・シンキングを身に付ける方法は、何にでも興味を持ち、「なぜ」という疑問を大切にし、自主的に勉強する習慣をつけることでしょう。

これは、学校時代の偏差値とは違うものです。学校で優秀だとされた者が、クリティカル・シンキングができているわけでもありません。むしろ、興味が高じて標準的ルートから逸脱したような人物が、本当にクリティカル・シンキングができていることが多いようです。俗にいう「地頭」が良く、一生涯、「学ぶ姿勢と考える習慣」が身についているということにほかなりません。

 

ところで、学ぶ姿勢と考える習慣は、一体のものです。

学ばないと考える視点が得られないし、考えないと学ぶ動機にはなりません。

人生100年時代、焦ることなく、地道に修行を積み重ねていくことでしょう。

いつも言っていることですが、世の中のことに正解はありません。

正解のない問題を、自分なりの正解を求めて歩むのが人生だと、私は思います。

世俗の垢にまみれて、糊口をしのぎ、「道」や「悟り」を求めて歩むのが、日本人の生き方でしょう。曹洞禅では「只管打座」、ただ坐れと説く。修行(坐禅)と目的(悟り)は一致して同じところにある。

学習面でも、「卒啄同時」(そったくどうじ)が師弟関係の理想です。 

何気ない人の話の一言に戦慄が走り、読み流していた文章のなかに「光る言葉」を見出すことってありますよね。モヤモヤとした疑念がわいて、自然に生じた問題意識に、クリーンヒットした概念が、そこには含まれているのです。

最近、私は、福岡伸一氏の文章に、その光る言葉を発見しています。彼の生命科学の知見から、なにか自分のモヤモヤの、解決の糸口がつかめそうで、それを楽しみに彼の本を読んでいます。

やはり、同じ日本人共通の感性というものを、彼の文章の中に感じながら、読んでいます。いつまでたっても道半ばですが、生命現象の中に真理が隠されているのではないか、という期待を抱かせてくれます。そんな文章を、少しご紹介しましょう。

引用:

そもそも細胞は「合理性」「成果」だけを求めて動いていません。

かつてはコントロールセンターである「脳」がすべての臓器に指示している、と考えられていた。

組織で言えば中央集権的組織です。

でも、実際は、中央司令塔である脳が全ての臓器、細胞に指示を出しているわけではなく、個々の細胞が周囲の細胞・分子との「関係性」をみながら、自律的に動き変化に対応していることが分かってきた。

 

 “想定外”の事態に対して、いかに備えておくべきなのだろう。生命現象に学んでみよう。

生後、私たちはどんな外敵にさらされるか全く想定できない。病原細菌、新奇なウイルス、化学物質…それに対して免疫システムは、DNAのランダムな組み換えと積極的な変化によって、百万通り以上の抗体を準備する。この中のどれかが。いざというとき役立てばよい。大半の抗体は使われないまま終わる。過剰に準備して、環境に刈り取らせる。

実は、脳の仕組みもこの原則に従う。ヒトの脳は生まれた後、神経細胞同士が盛んに連合して積極的にシナプス結合を形成する。つまり過剰なネットワークを作って、環境からの入力を待ち受ける。その後、よく使われるシナプスは残り、使われなかったシナプスは消える。10歳ごろまでに脳のシナプスの数は生まれた後に比べ半減してしまう。

かくしてどんな風土に生まれても適応し、いかなる言語でもしゃべれるようになる。

無作為に大過剰を作り出すことは一見、無駄に思える。コストもかかる。しかし生命はあえてそうしている。

無作為は作為に勝る。過剰さは効率を凌駕する。長い目で見れば、これが想定外に対する最良の対策であったことは、過去38億年間にわたり、いかに環境が激変しようとも、一度たりとも途切れることなく生命が続いてきた事実が証明していることなのだ。

 

生命の特性は、まずは「壊す」ことにある。

「壊し続ける」ことで状況は不安定になるが、それゆえに、次の「合成」のプロセスが立ち上がる。

これは不思議なことではなく、人間が歩いている行動がそうです。片足を前に差し出すことで、体全体のバランスを崩しています。その不安定な状態を解消しようとしてもう一方の足が自然と前に出る。

最初に「分解」があり、「合成」が起きるというサイクルを、絶え間なく繰り返し続けていることで、高次元の「安定」をつくり続けている、これが「動的平衡」の考え方です。

 

実際、私たちの身体は、一年前と今ではすべてが新しくなっている、と言えるほど変化しています。分子単位でみても細胞単位でみても、1年前とはまったく違うものです。それでも、影響し合うという「関係性」、「つながり」だけは変わらない。細胞は変わっているのに、細胞同士がつながりながら、全体としてはバランスを取っている。こうした「生命のバランス」「DoingとBeingの関係」を生命現象から、近年の生物学は明らかにしてくれました。  (引用終わり)

組織や社会というのも、集団戦です。天才でも、支援者がいなければ、才能を発揮できない。

全体から部分・部分から全体、上から下・下から上という流れを繰り返すことで、全体のバランスをとる、というのが、組織にも必須要件であるように思います。さらに、時間軸を拡張して、PDCAを回す、という当たり前のことをすることです。なんのことはない、風通しの良い組織ですね。

▲このページのトップに戻る