ブランシャールのIMF改革

経済200905

ブランシャールのIMF改革の記事があったので、ご紹介する。新自由主義の巣窟であったIMF、「雨が降れば傘を取り上げる」IMFを、多少なりともケインズ型に変えた功労者である。ところが日本では、今もって市場原理主義から離脱できずに、相変わらずの経済の低迷に苦しんでいる。

グローバル化へ対応する、と称して行われてきた「改革」のほとんどすべてが失敗であったことが、これほど明確になっているにもかかわらず、その延長線の「更なる改革」を志向しているのが、日本の主流である。「時代」が見えていない。「世界」が見えていない。日本人としての「価値観」が欠如している。このままでは、ますます日本は、衰退していくのだろう。

引用:

IMFはもともとケインズが、第2次世界大戦後まもない時期に設立に関わっており、国家における経済政策(金融政策・財政政策による景気対策)が世界経済においては不在であることを危惧して「雨の日に傘を貸す」ために作られた機関だった。ところが、さまざまな紆余曲折を経て、各国政府の財政に関して新自由主義的な自己責任論を主唱する巨大官僚組織、今の言葉で言えば「財政警察」になってしまっていた。それをスティグリッツやブランシャールが徹底的に批判しているのだ。

そして、リーマンショックの最中に、ブランシャールはそのIMFのエコノミストに就任することになる。その背景には、専務理事ドミニク・ストロスカーンの誘いがあったといわれている。ブランシャールの予想どおり、IMFは新自由主義の巣窟であり、また、予想以上に官僚的な縄張りが張り巡らされていて、その論争は「塹壕戦」のように消耗するものであった、と述懐している。専務理事の後ろ盾があり、上級職を務めるエコノミストであっても、初期は連戦連敗であったようだ。

しかし、彼の知的で率直な物言いは、その後もずっと続けられ、そして世界経済が直面する困難には背に腹を替えられない状況があった。ブランシャールの粘りにより、アイスランドやキプロスの資本規制実現を勝ち取り、それを皮切りに、危機に陥った国に必要な規制を認めさせるための小さな勝利を徐々に積み重ねていく。

ストロスカーンの失脚後、フランス国内で緊縮派として知られていたクリスティーヌ・ラガルドが後任に就いたが、当初は「財政警察」的だった彼女も、次第にブランシャールの分析と方策を頼るようになっていった。ブランシャールは、持ち前の明晰さと率直さを武器にしつつ、普通の経済学者ならば嫌がる政治的な説得を終始いとわなかった。その継続的な積み重ねは、「優しくなったIMF」と専門家から驚嘆の目で見られるほどの変革を実現した。

ノーベル賞経済学者の2人、ジョージ・アカロフからは「彼はまさに正念場に世界が必要としていた人物だった」、スティグリッツからは「オリヴィエはIMFを新しい考えに解き放つうえで重要な役割を果たした」と称賛を送られている。リーマンショック、欧州金融危機から世界経済を救った中心人物がブランシャールなのである。2015年、彼はIMFでの務めを果たしMITに復帰した。

このような認識の中、ブランシャールは昨年、消費税増税に前後して日本への提言も行っている。「現在の日本の状況では、財政赤字と公的債務残高の圧縮よりも、成長の維持を重視すべきだ。財政出動には、短期的には需要を喚起し、長期的には供給を強化するという少なからぬメリットがある。しかも、公的債務の財政・経済コストは限定的である」(『日本経済新聞』2019年10月7日)そして最近は、コロナウイルスに苦しむ世界経済に対し、リポートで各国の中央銀行の金融緩和を評価しつつ、さらに財政拡大の重要性をよく発信している。危機下こそが経済政策の出番であり、経済学はまた、世界をよりよく変える可能性を秘めている。      (引用終わり)

IMFやBIS、これら国際金融資本の奴隷になり果てたわが財務省の官僚たち、中国共産党の本質が露わになってもなお意識も行動も変えない財界人、アメリカの変身が理解できない政治家たち、こんなリーダーにおもねり服従しているマスコミ人や学者たち・・・寄ってたかって、この日本をダメにしている。

構造主義の経済学

経済200609

構造主義は、あらゆるイデオロギーを相対化するメタイデオロギーであり、社会や文化を分析する方法論として普及し定着している。研究対象の「構造」を抽出する作業を行うためには、その構造を構成する「要素」を探り出さなければならない。すなわち「構造」とはその「要素」間の関係性を示すものである。社会と文化の根底にあり、それを営む当人たちにも、明確に自覚されていない構造を取り出す分析方法が構造主義である。

未開とされていた文化のなかにも、緻密で秩序立った思考が存在することを発見したレヴィ=ストロースは、『野生の思考』(1962年)で、主観や意識より以前に、無意識の秩序が先行していることを示した。そして、ヨーロッパ近代哲学では主観や意識を重視してきたが、それを否定し、ヨーロッパ中心主義やヨーロッパ文化の絶対性を批判して、文化相対主義にも大きな影響を与えた。

同時に、構造主義は、歴史には方向性があるとするマルクス主義への批判であり、歴史の先取りに価値を置き、理念の追求を奨励するサルトルの実存主義への批判につながるものであった。

さらに、構造の生成過程や変動の可能性に注目する視点が、その後導入され、今日のポスト構造主義として知られる立場の成立につながっている。構造(Being)と活動(Doing)との関係性を常に念頭に入れた分析をしていかなければならない、という方法論に至ったのである。

 

経済学の分野では、個別社会の構成員の「世界観・歴史観・価値観」といったものに合致した理論を前提にしなければ、持続可能な制度設計はできない。平成の時代に、「改革」と称して、国鉄を民営化し、郵政を民営化し、株主資本主義化して、非正規社員を増やし、配当性向を上げてきた。こうしたことが、本当に「日本人の世界観・歴史観・価値観」に合致したものであったろうか。

 

主流派経済学者と議論させてもらったことがあるが、彼らのなかに社会科学的な教養を感じられる人物はいない。象牙の塔で、脇目も降らず、経済理論だけを勉強してきたような人物が多い。要するに、人間に幅がないのである。社会を知らないのである。竹中平蔵を見れば誰でもわかるはずだ。

 

また、主流派となった新古典派経済学では、先進国と同様に発展途上国でも市場のメカニズムは同じように機能する、という考えにもとづく自由主義的アプローチがなされた。しかしながら、発展途上国の経済はそれでは一向に発展せず、却って先進国の収奪の対象となっていった。

 

そういう事実を踏まえて、構造主義では、先進国と発展途上国で適用すべき経済理論を使い分けなければならないとされた。構造(Being)を形成する「文化基盤」を考慮に入れなければ、経済活動(Doing)においても、スムーズな発展に結びつかないのである。

それは、先進国でも同様で、文化基盤、特に民族の持つ倫理規範に合致した制度設計をしていかないと、資本主義は発展しない。それを近年の日本が、よく示している。「和の国・日本」なのである。

 

市場がすべてを効率化する、というのもウソであるし、カネがすべてという経済は、日本人にはなじまない。日本だけではなく、世界的でも、「格差拡大」によって、新自由主義は批判されている。

未だに経団連などは株主資本主義から離脱しようとしていないが、もう時代の潮目が変わっている。公益資本主義=ステークホルダー資本主義こそが、21世紀の資本主義である。

それは、すでに森嶋通夫氏や宇沢弘文氏といった、日本人の経済学者が今世紀の最初に、提唱しているではないか。さらに、宇沢弘文氏に影響を受けたアメリカ人のスティグリッツが理論づけノーベル賞に輝いている。

 

日本が30年近く経済成長から取り残され、停滞を続けているのは、平成をけん引した経済理論と、日本人の倫理規範がミスマッチを起こし、そこに根本的な原因があるのである。

MMTなどは、まさに構造主義的なアプローチであり、日本経済を救済する理論的根拠なのであるが、残念ながら、未だに主流の立場になれずにいる。しかし、財政破綻論者が心配するような事態にはならない。「公共の福祉」という概念が、日本人ほど浸透している民族もいない、ということが、今回の「コロナ禍」でわかったのではないか。庶民の「民度」は極めて高い。

われわれの文化的基盤とはどういうものであるのか、特に、倫理規範はどういうものであるか、国や企業のリーダーには、よく考えてもらいたいものだ。

資本主義の今後

経済200507

かつて、マルクスは『資本論』で資本家による労働者からの搾取の構造を説き、「革命」を通じての労働者階級の地位向上を目指した。この思想を論拠に、社会主義陣営ができたが、結局のところ、官僚機構による計画経済は挫折し、市場の機能を取り入れざるを得なかった。

この市場の機能を、最大限拡大した思想が新自由主義である。資本は、効率よく増殖させるためには、市場の拡大を狙ったグローバリズムと、国家の規制を排除する規制緩和が望まれた。

新自由主義における自由とは、儲けるための自由に過ぎず、近代思想における自由の価値からは遠く離れた存在になってしまった。自由の概念の堕落である。動機がカネまみれで極めて卑しい。

 

ピゲティは『21世紀の資本論』のなかで、近年、資本成長率が経済成長率を常に上回ってきた、と分析している。つまり、配当や役員賞与は増加し、先進国の労働者の給与は、途上国の労働者の給与と競争させられ、抑えられてきたのである。明確なデータがあり、それが、格差拡大の主要因であることは間違いない。

 

先進国の民衆の不満は、もう限界に達しており、ポピュリストの暗躍が始まっている。

放置すると、戦争への道しか残らない。なぜなら、戦争が格差是正をする、一番手っ取り早い方法だからである。不況になり、弱者が困窮すれば、戦争への道を通じて、格差是正が行われてきた。

戦争への道の、第一段階は、情報戦であり、相手を悪魔化することである。かつて、わが日本も、中国やソ連の悪だくみで、それに騙され続けたアメリカにより、悪魔化された歴史があるではないか。国内を団結させ、戦争へのインセンティブを高めるには、悪魔化が一番効果を発揮する。

いま、米中で、覇権戦争をしているが、様々な分野で悪魔化がなされ、もう情報戦が始まっている。

こうした状況に追い込んだのはグローバリストとこれに追随してきた者であり明らかな失敗である。

 

これからの「資本主義」は、「主権国家」と「民主主義」とをうまく整合させていく必要がある。

そして、近代思想としての「自由・平等・寛容・公正・法の支配」を実効あるものにしていかなければならない。具体的にどうするか。そのヒントになる記事をネットで見つけた。わかりやすいので例示しておこう。「品位ある資本主義=公益資本主義=混合経済体制」を取り戻さなければならない。

引用:

新型コロナウイルスの感染拡大は、日本企業にも大打撃を与えている。ただ、大企業の切迫感や危機感は、海外企業と比べてそれほど大きくないようにみえる。背景には、国内企業が積み上げてきた約460兆円もの「内部留保」(利益剰余金)がある。かつては「ため込み過ぎ」と批判された日本企業の内部留保は一転、コロナ禍をしのぐ“切り札”として高く評価され始めた。(引用終わり)

引用:

1990年代後半の就職氷河期に、正規社員として就職できず、引きこもってしまった人々は、2020年の現在、高齢化して40代後半から50代に入っている。

2000年代に入ると、小泉政権が「構造改革なくして景気回復なし」と言い、非正規の雇用拡大を容認したので、企業は若年層を正社員で雇わなくなった。

勝ち組だったはずの正社員も、日本的経営の象徴であった年功序列も終身雇用も否定されるようになっていき、経営悪化が鮮明になった企業は、どんどん社員を躊躇なくリストラするようになった。

安倍政権は、金融緩和によって企業や株主や経営者には経済的な恩恵を与えたが、社会の底辺に広がる非正規雇用者の貧困には、ほとんど関心を見せなかった。

日本社会は平均年収186万円の低賃金層(アンダークラス)が930万人も誕生して、彼らはもはや這い上がれないほどの貧困の中で暮らしている。(引用終わり)

引用:

新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、経営破綻の瀬戸際にある米百貨店大手JCペニーが、同社のソルトー最高経営責任者(CEO)に450万ドル(約5億円)のボーナスを支払ったことが明らかになった。同社はすでに従業員の大半が職場から離れており、米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を週内にも申請する、と報じられている。(引用終わり)

 

コロナショック(3)

経済200407

今回のコロナショックに対する安倍首相の経済対策は、何をモタモタしているのか、として、とても評判が悪いようです。医療関係者等のご苦労されている方々に対する配慮が欠けており、飲食店や観光業者などの売り上げ急減業種の実情がわかっていない、などと言われています。時給で働く人たちやフリーランスの人たちの苦境が見えていないのでしょう。戦力の逐次投入という日本人の過去の失敗を繰り返しているようにも見えます。外野席の無責任な批判では済まされない、と感じます。「空虚な器」を露呈してしまっています。北海道や大阪府の若い知事さんの方が、この危機に対してはよほどしっかりしている、と感じるのは私だけではないでしょう。 

そう言われる根本は、理由は簡単で戦時と平時がわかっていないからです。大恐慌はそこまで来ている、という認識が欠如していることと間違った経済学を信奉しているからです。アベノマスク2枚配布というケチ臭い対応しかできないのは、そのためだと考えます。安倍首相自身が、日本という国家の統治思想や、経済の根本は信用から成り立つということが理解できていないことに尽きるのではないでしょうか。そこで、これまで繰り返しこのブログで主張してきたMMT=現代貨幣理論を、もう一度、要点だけコメントしておきます。その理解不足が、諸悪の根源だと思うからです。

主流派経済学のパラダイムでは、財政赤字は基本的には望ましくないとされている。財政赤字の一時的・例外的な拡大の必要性を認める経済学者はいるものの、中長期的には健全財政を目指すべきだというのが、主流派経済学のコンセンサスなのである。この健全財政のコンセンサスを、「現代貨幣理論」は否定したところがポイントである。世の中には、返さなくてもよい借金がある、ということです。日銀券は、日銀の借金であり、国債は、政府の利子付きの借金です。これらは物価上昇率という指標によって管理すべきではあるが、返す必要はない借金である。

政府は、「通貨」の単位を決めることができる。そして、政府は、その決められた単位の通貨を発行する権限を持つ。次に、政府は国民に対して、その通貨によって納税する義務を課す。すると、その通貨は納税手段としての価値を持つので、取引や貯蓄の手段としても使われるようになる。

日本、アメリカ、イギリスのように、政府が通貨発行権を有する国は、自国通貨建てで発行した国債に関して、返済する意思がある限り、返済できなくなるということはない。例えば、日本は、GDP比の政府債務残高がおよそ240%であり、先進国中「最悪」の水準にあるとされる。にもかかわらず、日本が財政破綻することはありえない。日本政府には通貨発行権があり、発行する国債はすべて自国通貨建てだからだ。借金を返そうと思えば、輪転機を回せばいいだけの話である。しかも、日本は、毎年20兆円もの経常収支黒字国なのである。

政府債務残高の大きさを見て財政破綻を懸念する議論は、政府の債務を、家計や企業の債務のようにみなす初歩的な誤解に基づいている。政府は、家計や企業と違って、自国通貨を発行して債務を返済できるのだ。したがって、政府は、財源の制約なく、いくらでも支出できる。

ただし、政府が支出を野放図に拡大すると、いずれ需要過剰(=供給不足)となって、インフレが止まらなくなってしまう。このため、政府はインフレがいきすぎないように、財政支出を抑制しなければならない。逆に言うと、高インフレではない限り財政支出はいくらでも拡大できるということだ。

つまり、政府の財政支出の制約となるのは、インフレ率なのである。ちなみに、日本は、高インフレどころか、長期にわたってデフレである。したがって、日本には、財政支出の制約はない。デフレを脱却するまで、いくらでも財政支出を拡大できるし、すべきなのだ。

さて、国家財政に財源という制約がないということは、課税によって財源を確保する必要はないということを意味する。現代貨幣理論によれば、政府の借金を税で返済する必要すらないのだ。だが、現代貨幣理論は、無税国家が可能だと主張しているわけではない。そもそも、現代貨幣理論の根幹にあるのは、通貨の価値は課税によって担保されているという議論だ。もし一切の課税を廃止すると、需要過剰になって、インフレが昂進してしまうであろう。そこで、高インフレを抑制するために、課税が必要となる。

また、格差是正のための累進所得税、あるいは地球温暖化対策のための炭素税など、政策誘導のためにも課税は有効である。要するに、課税は、財源確保の手段ではなく、物価調整や資源再配分の手段なのである。アパ・ラーナーの機能的財政論の肝となる考え方である。

かつて、物理学のパラダイムを一変させたアインシュタインが言ったように、「問題を生じさせたときと同じ考え方によっては、その問題を解決することはできない」のだ。現下の経済問題を解決するためには、経済学のパラダイムから変えなければならない。もういいかげん、科学にも値しない今の主流派とされる経済学から、人類は脱皮しなければならないのではないか。そして、今回のコロナ禍をきっかけにして、新自由主義思想という、今まで信奉してきたグローバリズムの間違いに目覚めるときである。市場がすべてを解決してくれるわけではない。むしろ、「公正」を歪めている。

そして、読者諸兄に提案する。MMT=現代貨幣理論について、勉強もせずに一蹴したりせずに、正しく理解してもらいたい。20世紀初頭のクナップ、ケインズ、シュンペーターの理論を原型として、アバ・ラーナー、ハイマン・ミンスキーなどの卓越した経済学者の業績も取り込んで、1990年代にランダル・レイらによってまとめられた経済理論です。この理論は、私の体験からしても、本物の経済学だ。経済学は名前の通り「経世済民」を主眼とした学問に脱皮しなければならない。そして、IMFBISなどの国際金融資本から、その「覇権」を取り戻さなければいけない。また、森嶋通夫、宇沢弘文、スティグリッツ、ダニ・ロドリック、スーザン・ストレンジなどの学者の声に耳を傾けよう、ということである。

コロナショック(1)

経済200312

3月26日に内閣府が発表した「月例経済報告」で、「景気は、新型コロナウイルス感染症の影響により、足下で大幅に下押しされており、厳しい状況にある」と、初めて景気の悪化を明確に認めた。そして、「先行きについては、感染症の影響による厳しい状況が続くと見込まれる。感染症が内外経済をさらに下振れさせるリスクに十分注意する必要がある。」などと、とぼけたことを宣っている。安倍政権は、明らかに経済政策に失敗している。直近の消費税増税だけではない。「アベノミクス」を実行していないばかりか、グローバリズムから脱却しようともせず、逆行しているからである。それをすべて、新型コロナウイルスに罪を着せようとしている。卑怯千万である。

よほど円高が怖いのか、日銀は、無定見な金融政策をしているが、「2%物価目標」の達成は不可能視されている。むしろ、銀行のビジネスモデルを破壊する弊害の方が大きいのではないか。財政に何の問題もないにもかかわらず、財政再建などを持ち出し、その結果プライマリー・バランスに制約を受け、アベノミクスの「肝」である「機動的な財政政策」をやっていない。そして、グローバリズムの弊害を除去していかなければならないのに、逆に、これを進める改革ばかりを実施してきた。

世界から「日本化」などという長期的な経済停滞を表す言葉を創作されても、その真因を議論することもなく、日本のリーダーたちは思考停止に陥り国際金融資本のご機嫌ばかりを窺っている。   経済運営は、アメリカの言いなりになり、国際政治は、中国に忖度し、本当にこの国のリーダーは、いつからこんな「腰抜け」ばかりになったのか。彼らは、「WGIP」という言葉すら知らず、歴史を学ぶことで創造力や判断力を鍛えようともせず、日本人としての価値観も磨いていないから、嫌われる勇気もない。リーダーに不可欠な「三識=知識・見識・胆識」のすべてが欠如しているということだ。

「月例経済報告」は、これからの景気後退をコロナのせいにして、問題の本質を隠ぺいしようとしているようだが、金看板の長期景気回復は偽物であることは客観的データが示しているではないか。アベノミクス7年間に焦点を当てると、7年間の平均で見た経済成長率は、0.9%に過ぎない。2012年度から2018年度までの6年間で、企業の経常利益は73%増加し、株式配当の支払いも88%増加した。しかし、同じ6年間に人件費は6%しか増加していない。しかも、二度にわたる消費税率の引き上げに加え、社会保険料の負担は増加しており、家計の可処分所得は、ほとんど増えていない。これが「民のかまど」の国の宰相がやることかと思う。(文化161002参照)

ごまかしの経済運営から縁を切る機会にするのか。それとも政権維持のために弥縫策を繰り返すのか、われわれは見極めなければならない岐路にある。安倍晋三を「空虚な器」とする説があるが、私はその通りだと思う。しかし、代わる人材が思い当たらないところが、日本の悲劇である。

今回の「コロナ禍」による景気後退は深刻である。私は、中国人の金刻羽教授の見解が一番当を得ていると考えている。彼女が、3月22日「微博」に、そら恐ろしい「予言」を綴った、という記事を読んだからだ。タイトルは、「全世界がおそらく1931年の時のような経済恐慌に直面する。それは2008年の危機の再来ではない」として、次のように語っている。

1、  われわれが直面しているのは、おそらくは世界大恐慌であって、単なる経済の衰退ではない。つまり、世界恐慌の1931年の状況であって、リーマン・ショック後の2009年の状況ではないということだ。この後やって来るのは、国家の生産の40%の喪失であって、5%の喪失ではない。

2、  これは、1回の金融危機が実体経済にもたらす圧力の状況ではない。そうではなくて、ウイルスが直接、実体経済に影響をもたらすものだ。もっと言えば、金融システムが崩壊する状況が起こってくる。いまこそ各国政府は、持てる力をすべて出すべき時だ。いま国庫のありったけの資金を使わなければ、今後は使うべき時はやって来ないだろう。  

3、  危機と恐慌の違いはとても大きい。クライシスとデプレッションの違いだ。GDPの5%を失うものと、50%を失うものの違いだ。私見では、今回の状況の深刻さはおそらく、リーマン・ショック時の10倍程度の規模になるだろう。

以上である。彼女は、まさに海岸線で遠望しながら、「津波がやって来るぞ」と叫んでいるのである。なお、金刻羽教授は1982年生まれ、金立群AIIB総裁の娘である。

経済変動は、弱者を直撃する。昭和初期と同じ環境だと思う。しかし、苦難の時期を暫く耐え凌げば、ウィルスが、グローバリズムというインチキから、人類を目覚めさせてくれることだろう。日本に財政問題など存在しない。日本は世界一の金持ち国だ。「MMT」を信じて、思い切った財政出動を期待する。経済の悪化で命を落とす不幸な人々が多く出ないように祈りたい。

安倍政権の経済政策

経済200204

今の政権与党の経済政策の方向性は、あるべき姿と真逆になっているのではないでしょうか。これでは、日本の停滞は、ますます長期化し、地盤沈下がさらに進みそうな気配です。警鐘を鳴らしておきたいと思います。 

消費税引き上げ後の消費が、案の定、大きく落ち込んでいます。19年の実質賃金は、とうとう下落してしまいました。こんな時期に、消費税を上げるものだから、消費が冷え込むのは当たり前です。 明らかな政策の失敗であるにもかかわらず、やれ台風のせいだとか、やれ暖冬の影響だとか、言い訳ばかりを政府与党は、繰り返しています。経済政策を外国に乗っ取られているから、こういうことになるのです。国益を追求すべき政府与党は、外国資本に媚びる「売国奴」になり果てています。種子法廃止や水道事業民営化、IR法などがその典型です。経済活性化のための規制緩和とか、グローバル化に対応するための「構造改革」と称して、外国資本が、儲かる仕組みばかりを考えています。安倍晋三も、中曽根康弘、橋本龍太郎、小泉純一郎、に続く「売国首相」と後世の歴史家から、言われることになりそうです。

移民法なども経済政策としては逆行しています。折角の賃上げムードに水を差すことになります。人手不足は、省力化投資で賄うべきです。投資減税をすればよいのです。国内投資は、人口減少が予想される中、どこの企業も慎重にならざるを得ない。だから、政府が音頭を取らなければいけない。デフレスパイラルの解消は、政府の仕事です。

安倍政権は、アベノミクスを実行していません。財政を15兆円ぐらいは増やすべきです。公共投資と学術研究の予算が、大幅に足りていません。金融緩和ばかりでは、実効が上がらないことは実証済みではないですか。却って、銀行のビジネスモデルを破壊するというデメリットの方が顕著になっている。構造的な問題を重視せず、弥縫策ばかりを繰り返しているように感じます。

OECD(経済協力開発機構)が各国の賃金比較をしていますが、2018年が1997年と比べて、この間の時間給が減っているのが日本だけでこの間8%減となっています。実質賃金でも減少しています。

97年を100として直近の実質賃金を見てみると、スウェーデンが140、フランスと英国が130弱、アメリカとドイツが120弱と、いずれも増加していますが、日本は90にも届いていません。これでは、消費が増えないのも仕方ありません。GDPに占める家計消費の割合は、97年当時の47.1%から、足元は44.4%に低下しています。安倍政権が誕生した2012年10-12月期のGDPに対する家計消費の割合は47.3%あり、安倍政権の7年間で家計消費のシェアダウンは顕著に進んだことになります。[民のかまど]の国は、どこへ行ったのでしょうか。

1985年に「プラザ合意」で、急速な円高にされ、国際競争力を付ける意味合いから、賃金抑制が始まりました。しかし今は、生産拠点は海外にシフトされ、輸出の半分近くは円決済されています。円高をそれほど恐れることもなくなったはずです。むしろ、円高にした方が、余裕のある民間部門の海外投資を促進し、強い経済ができるのではないでしょうか。経常収支の黒字が20兆円もあることから、もっと円高になり、民間の豊富な内部留保を活用して、国内では消費と投資、海外では投資がもっと活発になることを期待したいものです。

安倍政権になって異次元緩和から円高が大幅に是正されたのですが、企業の円高恐怖症は変わらず、その後も人件費の抑制は続いています。安倍政権の「働き方改革」も人件費抑制に寄与しています。これが施行された昨年4月以降は、人件費はマイナスになっています。これらはすべて、日本経済にとってマイナスに働いている、と考えられます。もう、保守の陣営から、倒閣運動が出てきてもおかしくない状況だと考えています。

今日も、消費税関連の記事が配信されていました。危機に乗じて、自分たちの思惑を実現しようとする、とんでもない陰謀です。こんなものに騙されないようにしなければなりません。国際通貨基金(IMF)の陰に隠れているレントシーカーこそ、日本民族の敵なのです。引用してご紹介します。

引用:

国際通貨基金(IMF)は10日公表した日本経済に関する年次審査報告書に関し、新型コロナウイルスによる肺炎感染の拡大は「新たな景気へのリスク」と警戒感を示した。高齢化による社会保障費増大で財政悪化が深刻になると懸念。消費税率を2030年までに段階的に15%へ引き上げるよう提言した。審査担当のポール・カシン氏は、新型肺炎の感染拡大で中国との間で貿易や投資が冷え込む可能性を指摘。「訪日客数の落ち込みで観光や小売りが打撃を受ける恐れがある」として、日本経済への影響を注視すると説明した。報告書は、財政赤字が膨れ上がる中で「債務持続性のリスクを減らすため、緩やかな消費税増税」を求めた。消費税率を30年までに15%に引き上げれば、財政赤字が国内総生産(GDP)の2.5%分減ると試算。社会保障費削減などと組み合わせることで、赤字は最大6%減らせるシナリオを示した。(引用終わり)

 

経済停滞の真因

経済191110

経営の三要素と言えば、ヒト・モノ・カネですが、考えてみれば、モノはカネで買えるし、カネはヒトが使い道を決定する。

三要素に加えて、情報を重視することもあるが、結局はヒトが情報を集め、蓄積して知識とし、その知識を集積する方法論たる知恵を磨いていく。となると最終的に、経営の要諦は、ヒトに帰結する。

 

そのヒトなるもの、組織として能力を発揮させる術は、実に難しい。

昔から性善説・性悪説やX理論・Y理論をはじめとする論争がなされてきた。

最近では、成果主義人事制度が定着し、「働き方改革」などが取りざたされる。

その背景には、日本の労働生産性の低さが取り上げられ、そのことばかりが喧伝される。

こういう風潮に対して、私は、批判的にならざるを得ない。

そして、言葉の定義をすることの大切さを改めて感じるのである。

 

労働生産性とはなにか。それは一人当たり付加価値である。

付加価値とは何か。それは、企業経営でいうところの粗利額である。

仕入れたもの、製造したものに、どれだけ儲けを載せて販売できるか、がキーポイントとなる。

当然、競争が激しいと粗利は低くなり、独占的な立場やブランド力を確立すると、粗利は高くなる。

逆に言うと、過当競争で競争が激しくなると、粗利率が下がり労働生産性が低くなる、のは当たり前である。

 

昨今の世情を見てみると、ガス会社が電気を売ったりしているし、流通でも、異業種間の競争が激しさを増しているし、ポイント制による顧客の囲い込みが激しい。それだけ儲けは減るはずである。

構造改革ばかりやってきたため、過当競争が進み、企業が儲からず、従業員の給料が上がらない。

経費削減とばかり、非正規労働者が増え、倒産の危機でもないのに、リストラが繰り返される。

リストラの対象を探すために成果主義人事制度を導入しているのか、と疑いたくもなる。

成果主義で追い詰めて、組織運営が浮足立ち、失敗した事例をまじかで見てきただけに、警鐘を発しておきたい。組織は集団戦である。Being(構造や仕組みなど)と、Doing(日々の日常業務)の区別のつかない管理職も存在するし上下の人間との相性もある。日本の場合、導入は危険である。

個人が神に繋がっている欧米の個人主義的倫理規範と、自然のなかで生かされているという感情を持つ日本人的倫理規範は相いれない。

さらに、日本で発達した封建制度は、本領安堵のご恩と、いざというときの忠義との相互依存関係から成る、暗黙の契約制度である。エートスは、明らかに違うのである。

 

この10年をとっても、労働者の賃金が減少しているのは、世界で日本だけである。

ただでさえ高齢化社会となり、現役を引退する人が多い。そうした中での消費税増税である。

需要不足によるデフレがすっかり定着し、銀行のビジネスモデルが崩壊するほどの金融緩和をしても、予定通りの物価上昇がみられない。成長から取り残されるのは、当然の結果である。

 

企業経営者は、アメリカの影響を受けて、株主ばかりに顔を向けている。ROEを自分の成績表とし、株主配当を厚くして、そのご褒美に自分の報酬ばかりを増やそうと算段している。卑しい限りだ。

企業の部分最適が、日本経済という全体最適を棄損してきた、この30年である、ということが、まだわかっていない人が多い。こんな衰退日本を先導してきて反省すらしていない。

 

積極財政に向かうべきなのであるが、ここに日本国民の敵、財務省が立ちはだかる。国際金融資本の代理組織のIMFや世界銀行の奴隷となり果てた役人たちが、「国が破綻する」などと、プロパガンダする。悲しいことに、政治家やマスコミまでもがこれに乗せられている。不見識極まりない。

 

経済政策のピントが外れている、ということが事実によって証明されているのに、誰も、そのことに触れようとしない。自由に発言できるSNSの世界でしか、そういう論評はお目にかからない。

「構造改革」と「株主資本主義」と「緊縮財政」が諸悪の根源であることは、もう事実によって、証明されているではないか。その指導原理である新自由主義経済思想は、破綻しているのである。

主流派経済学者を追放すべきであるのに、未だにテレビで経済解説をしているのはどうしたことか。

もういい加減、日本国民は、覚醒しなければいけない。

MMT学習のススメ

経済191107

日本は過去、20年間以上も長きに渡り、デフレーションという「病」に苦しめられてきました。

1996年からほとんど経済成長していないという恐るべき事態を招いています。日本は成熟国だから成長しなくて当たり前じゃないか、という意見は、完全に間違っています。

先進国の代表であるアメリカ・イギリスは順調に成長しています。また、欧州の劣等生であるフランス・イタリア・ドイツですら、40%以上成長しています。

「成熟国だから成長できない」わけではなく、単に「経済を成長させることに失敗」してきたのです。むしろ、経済を痛めつける政策を取ってきた、といっても過言ではないでしょう。何度も言いますが、それは「構造改革」という競争政策であり、「株主資本主義」という日本人の倫理規範と相いれない仕組みの導入です。そこには、市場原理主義とも言える新自由主義経済思想が貫徹していました。それは、アメリカによる「日本封じ」でしたが、それに気づく知識人は、あまり多くはありませんでした。その手段が、当のアメリカで、雇用の空洞化を生み、トランプ大統領を誕生させ、TPPから離脱したのです。その他にも世界各国で、グローバル化の流れにNOというポピュリズムが蔓延しています。

 

日本国民はどんどんと貧しくなり、閉塞感あふれる社会になり、明日への希望を失いつつあります。

河合雅司著『未来の年表』によると、2026年には、高齢者の5人に1人が認知症を患い、認知症患者が730万人にもなり、2033年には、空き家が2167万戸に達し、実に、3戸に1戸は空き家になるそうです。

今年6月に金融庁から報告された「高齢社会における資産形成・管理」での、老後資金2000万円不足問題は、格差問題に火をつけ、内閣はこれを受け取らない、という事態に発展しました。

真っ当な問題意識だと思いますが、格差問題を抉り出し、あまりにも弱者に配慮が足らない、ということなのでしょう。

何よりも大きな日本の課題は少子化です。早く手を打たないことには取り返しがつきません。制度の持続可能性が失われ、それこそデフレ・スパイラルのように悪循環になりかねません。それこそ金融資産に課税してまでも、100万円程度の出産祝い金を出す、ぐらいなことをする必要があります。

 

そういった対症療法的な施策ばかりでなく(もちろん、こうした施策も必要ですが)根本的には、再び経済成長の路線に乗せることが肝要です。

それではなぜ、日本は経済成長することができていないのでしょうか?

それは、経済に関するウソ・欺瞞が溢れており、誤った経済政策ばかりを行っているからです。

「国の借金で破綻する」「公共投資のやり過ぎで破綻する」「消費増税しなければ破綻する」「少子高齢化で成長できない」・・・これらは、日本に蔓延るウソ・欺瞞のほんの一部です。

これらのウソを元にした政策は、経済に深刻なダメージを与え続けてきました。MMTと呼ばれる今話題の経済理論は、表券主義(金属主義と対比)と機能的財政論と景気循環論からなる、至極真っ当な議論です。読者の皆さんも、是非、触れてみてください。三橋貴明氏、中野剛志氏、藤井聡氏、などがわかりやすく解説してくれています。

社会科学の方法論

経済191104

世の中のことを考えるにあたっては、事実を積み重ね実証的に分析すれば、法則性が観察され、それは仮説となる。例えば、ダニ・ロドリックの「グローバル化と主権国家と民主主義は、鼎立しない」という仮説である。これは、現下の各国の政治状況をみれば、誰しもなるほどと思うに違いない。

仮説は、検証作業によって修正され、より正確な仮説となって提示される。それを繰り返すことで、社会科学は進歩してきた。学問は、ことごとく、そうあるべきだ。宗教ではない。

 

社会科学の分野は、実験できないし、社会は変数が多く複雑系である。だから、検証作業は、歴史を見つめることで行われる。ところが、経済学という学問は、そうした検証作業ができていない。世界をリードしてきた主流派経済学は、まるで一種の宗教のようになってしまっている。レイやケルトンの主張するMMTは、教義に外れる邪教として、主流派経済学者は一顧だにしない。そのくせ、現状の日本経済を説明できていない。「タコつぼ」の中で「教義」にしがみついている。

 

社会科学で大事なことは、事実を尊重する姿勢と、素直に事実に向き合う態度ではないか。自分の立場で、事実を都合よく解釈してはいけない。

ところが、世の中には、史観という色眼鏡もあり、イデオロギーという色眼鏡も存在する。

それが、民族によっては、色眼鏡派が多数派を形成している。中国を見ればわかるだろう。

日本の場合、GHQにより洗脳された戦後民主教育によって、自虐史観が浸透し、「平和教」というイデオロギーに汚染され、アメリカ流の「自由」と「民主主義」が正義、と思い込んでいる人が多数を占める。少なくとも、平成の30年の指導者は、そういう人たちであった。

新自由主義思想という、主流派経済学者たちの教義が、富を適正に配分し、人類の福祉を向上させるものと信じられた。ドル基軸体制を確立し、圧倒的な軍事力でその体制を維持してきた覇権国アメリカの「日本封じ込めの手段」であるにもかかわらず、それに気づく識者は少数にとどまった。

 

日本は、軍事力で対外資産を守れないにもかかわらず、海外進出し、ミニアメリカしている。大企業は、毎年20兆円を超える配当や利子を得るまでに裕福になっている。反面、国内では、良質な雇用がなくなり、賃金水準が抑えられて、少子化、格差拡大、地方の疲弊が進んだ。

一方で、相対的に有利な為替条件となった中国や韓国の台頭を許し、日本は地政学的な脅威を心配せざるを得ない状況が生まれている。平成の大失敗である。

 

考えてみれば、平成は、大正と似た歴史を繰り返している。第1次世界戦争の後、国際連盟で平和の構築がなされようとしたが、これもグローバル化を隠れ蓑にしたアメリカの覇権拡大のプロセスに過ぎなかった。台頭するアジアの盟主・日本をいかに抑え込むか、に戦略を集中させたわけである。その手段は、「軍縮条約」であり、「中国市場の秩序ある侵略計画」であった。資本の自己増殖を、軍事力で担保する帝国主義時代になったのである。その中での、1929年の大恐慌の発生である。

 

現在も、過剰債務が、世界を覆っている。いつ、どこで、バブルが崩壊し、金融恐慌に至ってもおかしくない。令和が昭和初期のようにならないことを祈るが、おそらく難しいのではないか。中国発、ドイツ発、アメリカ発の断末魔が待っているような気がしてならない。カジノ資本主義経済は、投資を通じて世界が繋がっている。日本も、大きな影響を受けざるを得ない。今後、民族の試練を、どう乗り越えるか、試されるときがくるような気がしている。

 

ベルリンの壁が崩壊して30年、東欧諸国には失望が広がっている。アメリカやEUの指導者の得手勝手な思い込みによる経済運営が、その原因である。人は、そもそも土地に根付いた生き物である。ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に行き交うといったモデルは、文化を無視した暴論なのである。それに気づき、ナショナリズムが世界各地で沸き起こっている。これをマスコミは、ポピュリズムと呼んでいるが、それを誘導したのは、外ならぬアメリカやEUであることを肝に銘じなければならない。そのアメリカは自分たちの引いたレールに苦しみ変節している。そしてまた勝手なことをやっている。

 

経済学は、単純化したモデルをいじくりまわしても、なかなかうまく整合的な法則は提示できない。時間をかけて、より整合的な仮説を構築し、それによって政策を進めていくしかない。政策を修正し、着地点を模索していくしかないのではないか。故森嶋通夫教授の指摘する通り、もっと文化的視点を持つことが肝要である。エートス(民族の倫理規範)を無視した政策は、持続不可能である。

 

私は、世界が見習うべき経済システム、社会統治システムがあると思う。それは、構造改革をする前の日本である。1980年代までの日本である。21世紀は日本の世紀であるべきだというのはそういうことだ。混合経済体制と日本的経営は日本が歴史に残した世界に冠たるシステムだと訴えたい。

日本の課題解決のために

経済191102

いま、日本の喫緊の課題は何でしょうか。私は、少子化、格差の拡大、地方の疲弊、の3つをあげたいと思います。そのなかでも、とりわけ対策が急がれるのは、少子化でしょう。取り返しがつかなくなるからです。原因ははっきりしています。結婚しない若い人たちが増えているからです。 特に、結婚する気になれない主要因は、経済的な理由でしょう。それ以外もあり得ますが、そんなことは考慮しなくてもいい。低賃金にあえぐ若者を何とかしないといけない。 

なぜこのようになったかというと、欧米流の「卑しい思想」がグローバル化という名の下に蔓延し、「株主資本主義化」が進んでいるからでしょう。株式配当が近年急速に増加した一方で、労働者の賃金だけは下がり続けている。それを良しとする風潮が世間にあふれています。「自己責任」などという表現です。そんなことだから、経済も成長しなくなったのです。「日本の国柄」という大事なことを平成の30年間の指導者たちは忘却してしまいました。

労働者の年間給与は、2018年には、1997年比で、アメリカは82%増、イギリスは93%増となっていますが、日本は逆に8%減です。こういう低賃金化が進んだ理由は「構造改革」ばかりやっているからです。競争ばかりが激しくなって、企業は儲からなくなり、賃金を上げられずにいます。デフレ・スパイラルにハマってしまっている。にもかかわらず、消費税を上げ、法人税を下げている。こんなことをしているから、経済も成長せず、労働者も将来に希望を見いだせず、結婚も減ってくるのです。かつて、日本の経済は世界の18%のシェアを占めていましたが、いまや6%です。経済的な地位低下は誰の目にも明らかです。21世紀は日本の世紀になるはずでしたが、この体たらくです。

さらには、富裕層と一般層の格差も拡大傾向にあり、相対的貧困率15,6%は、OECD加盟国の中では、悪い方に分類されます。一億総中流社会は、もう崩壊しています。子供の貧困や女性の貧困は身近な問題になっています。こんな社会は本来の「民のかまどの国・日本」ではありません。明らかに、経団連が率いる「海の国」と、9割の一般層の住まう「山の国」が分断され、利害が相反するようになり、エリートによる大衆への「搾取」が発生している、と言わざるを得ません。

にもかかわらず、現在の自公政権は、対策を打とうとしていません。安倍晋三という首相は「空疎な器」であり、思想がないから敵も現れず長期政権になる、という説があります。そして、その器に入り利益を得ているのは、経団連と財務省とアメリカ、だということです。経団連の利益のために、習近平などという輩を国賓待遇で呼び、財務省の圧力で緊縮財政を維持し、アメリカの利益のために、移民法や種子法など筋の悪い法律ばかりが、国会を通っています。このままでは、長期政権だけに、中曽根、橋本、小泉に続く「売国政権」と、後世から言われることになりそうです。

こうした状況に対して、青山社中筆頭代表の朝比奈 一郎氏が、具体的提言を行っています。金融資産に課税して、少子化対策にあてろ、という提言です。1800兆円に金融資産に1%の資産税をかけるだけで毎年18兆円の税収が得られるわけです。随分と大胆な手法ですが、そういう手段を考えなければならないほど、少子化は深刻だ、という現状認識は理解できます。今年、出生数が90万人を割りそうだ、という衝撃的な予想が公表されたのです。厚労省の人口動態推計によると、今年1月から7月までの出生数合計が518590人で、このペースでいくと、今年1年の出生数は90万人を割ることになる。100万人の大台を割ったのが2016年。それからわずか3年で90万人を割るというハイペースでの減少です。これは「危機」です。

私は「株主資本主義」「構造改革」「緊縮財政」を止めるだけで後は通常の政策で可との立場です。アメリカの属国を離脱し、混合経済への復帰と日本的経営に戻すだけで、再び経済成長の果実を得ることができる、と信じます。MMT(現代貨幣理論)を信じて、財政拡大を図ればよいのです。MMT(現代貨幣理論)は、トンデモ理論と言う立場もありますが、私の学んだ経済学では、極めて真っ当な理論であり、クナップやポランニーの貨幣論、ケインズやラーナーの機能的財政論、シュンペーターやミンスキーの景気循環論を下敷きにしながら、レイやケルトンが体系化したものです。カジノ経済化を奨励するような主流派経済学の方がよほど狂っている。文化的基盤が経済的基盤を作り、経済的基盤が軍事・政治的基盤となり、これが覇権となるのです。そうしたことを主流派経済学者は基本的にわかっていない。

要は、あなたの国・日本を信じなさい、ということです。私は、国を放擲してトンズラするようなことは、絶対にしません。この国を支えていく覚悟はできています。こういう人間がどれだけいるか、それが国の信用であり、その国の発行する貨幣の信用なのです。本来の日本は、信用に値する国だと70年近く住んでみて強く感じています。

的外れのアトキンソン

経済191009

アトキンソンが、これからの日本にとって国運を左右するのが中小企業の改革であると言っている。

働き方改革などと称して枝葉末節の議論がされているが、問題の本質は、日本の産業構造にあり、アメリカでは約50%の人が大企業で働いているのに対し、日本ではわずか13%にとどまっているのが問題である、としている。

そして、中小企業を甘やかし、保護政策を取ってきたから、結果的に今もゾンビ企業が淘汰されずに残り、日本の生産性の悪化を招いている、としているのである。本当にそうだろうか。

この考えは、彼のような近代化論者の十八番とも言える論理展開であり、日本の実態を正確に把握していないばかりか、日本の本質を理解していない議論だと思う。

彼の著書『国運の分岐点』によると、日本に欠けているのは「要因分析」であり、実際にその「要因分析」をしてみると、生産性が低いという事実に行き着く、という。特に、その主要な対象は、中小企業であり、「中小企業の改革」を進めないと国が滅びる、とまで主張している。

私は、彼の言う「日本人は、徹底的な要因分析をしない」ということに関しては同意するが、「小さな企業が多すぎる」ので、低賃金、少子化、財政破綻、年金不足、最先端技術の普及の低さ、輸出小国、格差問題、貧困問題……さまざまな問題の諸悪の根源だ、とは考えていない。それが「非効率な産業構造」になっているとは考えない。

ましてや、1964年以降、OECD(経済協力開発機構)に加入しましたが、その条件として突きつけられたのが、かねてより要求されていた「資本の自由化」で、当時の日本では、資本が自由化されれば外資に乗っ取られるかもしれないという「脅威論」が唱えられ、護送船団方式など「小さな企業」を守るシステムが続々と整備された、とする説には賛同しかねる。

むしろ、1990年代以降のアメリカとの「構造協議」で、中小企業保護の仕組みが、「非関税障壁」とされ、廃止させられて過当競争状態に陥り、それで生産性が悪化していったものと思われる。嚆矢となったのが、玩具販売大手の「トイざラス」による分野調整法の修正であった。以降、既得権益をつぶして、自由競争の仕組みを作る、として、あらゆる分野で規制緩和を行っていった。そこには、市場原理主義的な新自由主義経済学が、その根拠となったのである。今では、ガス会社が、電気を売ろうとしている。業容を超えてし烈な競争環境下に置かれ、どこも適正な利潤をあげられずに、従って、従業員にまともな給料を払えずに、呻吟するような状態になったのではないか。

彼は「1980年代までは人口が増加し続けたため経済も成長を続けました。だが1990年代に入り、人口増加が止まるとこの生産性の低い非効率な産業構造の問題が一気に表面化してきました。」と言っているが、むしろ逆で、バブルがはじけ、バランスシート調整不況が続き、その間に、株主資本主義化が大企業の間で進み、その結果が、少子化という事態を、招来したのではないでしょうか。しかも、バブルの発生は、アメリカに強要された「プラザ合意」と、輸入拡大のための内需拡大に向けた「金融緩和」によるものであったのです。まさに、「属国・日本」の経済失政にすぎません。

地域経済を支えているのは中小企業です。その企業主は、大抵家族主義的です。従業員を大事にします。しかし、その大事な家族に、十分な給料を支給できないと悩んでいます。過当競争で、存立基盤が脅かされているからです。こうした状況を作ったのは、「構造改革」と名の競争政策であり、大企業の「株主資本主義化」による非正規労働者の増加であり、プライマリー・バランスという名の、根拠不明の「緊縮財政」という経済政策の間違い、によるものです。要するに「需要不足」によるデフレです。「失われた30年」を分析するにあたっては、因と果を間違えてはいけません。

式年遷宮という伊勢神宮や出雲大社で行われている、20年に一度の儀式があります。なぜ、このような儀式を1000年以上も続けているのか。それは、「経済を社会に埋め込み、持続可能な発展を確保する」ためです。まさに、ポランニーが近代資本主義に警鐘を鳴らしたことを、日本は伝統として実施していたのです。社殿の建造に必要な技術・技能を伝承し、木材を確保するための林業を振興させていたのです。少子化で地域基盤が脆弱になっている現在、むしろ地域を支える中小企業こそ、全力で守っていかなければなりません。

矢口新氏の経済評論から

経済191003

矢口新という経済評論家が、平成の30年の経済運営の失敗を総括していた。私の認識と一致するので、引用して読者にご紹介する。日本経済という構造(Being)が問題ならば、必ずインフレという兆候(Doing)が表れるはずである。因みに、こう主張しているのがMMTであり、ここにある「事実」をみれば、その正しさが証明されている、と私は思う。

引用:

そこで社会保障制度を支える財源は、借金に頼るしかないのが実情だが、政府債務のGDP比率は240%に迫っており、世界で突出して高い。

ちなみに、政府債務のGDP比率が100%を超えているのは世界で16カ国だけ。債務不履行が取り沙汰されているアルゼンチンですら86%と、日本政府の約3分の1だ。

そんな日本政府の債務残高が問題とされていないのは、国内からの借入れがほとんどで、対外債権も大きく、純債権国だからだ。とはいえ、対外債権は民間のもの。国内からの借入れとは、政府が国内の民間から借入れていることを意味している。

つまり、年金は政府が支えるとしてはいるものの、その政府は累積赤字と借金まみれで、法人を含む日本国民の支えなしには立ちいかない状態だ。

名目GDPの成長率を見ると、1990年度をピークに日本経済は急速に減速し始め、消費税を5%に引き上げた翌年の1998年度にはマイナス成長に陥る。以降2012年度までの15年間は基本的に低迷する。実際、名目GDPのピークは1997年度で、統計方法の見直しで30兆円上乗せした2016年度まで更新できていなかった。 

また、政府の総税収のピークも1990年度だ。税収増を狙って消費税を導入したはずなのに、所得税や法人税などの他の税収が大きく落ち込んだために、むしろ総税収が減ったのだ。

1990年度の税収が60.1兆円、その後7年間は50兆円台を維持するが、1998年度から2013年度までで50兆円を超えたのは、2000年度の50.7兆円と、2007年度の51.0兆円の2回だけだ。2009年度などは38.7兆円しかない。

これで分かるのは、消費税と、所得税、法人税とはトレードオフの関係にあり、あちらを立てれば、こちらが立たずの関係が続く。それも当然で、国が売上を天引きするものだから、所得税、法人税を支払う原資が減ってしまうのだ。

例えれば、「成長を待てば途中で脱落するものが出てきてしまうので、芽は若いうちにすべて摘んでしまうのが良い」とするのが消費税だ。そうすれば確かに、消費税収は安定する。景気が悪くても一定量を徴収するので、さらに景気を悪化させるのだが、安定はする。

一方、景気が良くても消費税収の伸びは安定的だ。つまり、今後どんなに景気が良くなっても、もう大きな税収増は望めない。

法人税収が減ったのは、消費税導入により景気が悪化したのに、それでも消費税を取り続けたためだ。そのために、1990年度から欠損法人(赤字で税金を支払わない企業)が急増する。しかし、それだけではない。政府は、同時に、法人税率を引き下げたのだ。社会保障費が足りない、政府財政は大赤字で増税が必要だとしながら、一方では減税を行ったのが、1989年度の税制改革だ。結果として総税収が減り、財政赤字が拡大し、政府債務が膨張し、社会保険料をも上げ続けた。

では、2013年度からの経済成長はどういうことか?

2014年度には消費税率を8%に引き上げたのだが、それでも政府が、戦後最長と豪語するような経済成長が見られたのだ。結論を述べると、この成長はカネで買ったものだ。文字通り、輪転機で刷ったカネで名目の成長率を買った。日銀の資金供給量は2011年まで、概ね100兆円以内だった。それが、2014年1月に200兆円を超え、2015年5月に300兆円を超え、2016年8月に400兆円を超え、2018年10月に500兆円を超え、日本の経済規模に迫っている。ちなみに、1997年の名目GDPは533兆円で、当時の資金供給量は50兆円ほどだった。つまり、資金供給量を10倍とすることで、昔の経済規模を取り戻したことになる。

日本の高齢化が急速に進展した1990年以降、日本経済には他のG5や先進諸国、あるいは多くの新興市場国には見られなかった特徴がある。1990年度から日本経済は鈍化を始め、同時にインフレ率も急低下を始めたことだ。そして、1997年度からは成長そのものが止まった。また、この時期には自殺者も急増した。

グロスの成長が止まり、そこに税金をかけられた中で、企業収益を高めるにはどうするか?

多くの日本企業が出した答えが、コストカットだった。人件費、設備投資額、研究開発費などだ。

つまり、日本企業は数値合わせと、生存することだけに注力し、成長しようとする意欲を捨てたように思える。実際に、世界市場での日本企業の競争力は急速に低下した。

「Japan as No1」などと呼ばれた時代が、1989年の税制改革の直前にはあったという事実は、今となれば冗談にしか聞こえない。

人件費カットのシワ寄せは生産年齢人口を直撃する。不安定な雇用、伸びない賃金、上がり続ける税金と社会保険料負担。

中間層の没落を伴う格差拡大。その結果としての、G5でも突出した少子高齢化の進展。それらがデフレスパイラルとなって、日本の社会保障制度を危うくしているのだ。こうして振り返ると、「消費税導入+法人税率引き下げ」の1989年の税制改革が日本没落の主因だ。

仮に、そうしたことを望んだ他国がいたとすれば、その国の思惑通りに日本は坂道を転げ落ちた。そうして見ると、2019年10月の消費税率10%への引き上げは、その国の思惑の総仕上げとなるのかも知れない。(今回の消費税増税は、安倍首相によると、国際公約ということらしい。)

1989年4月の政策金利は4.2%ほどだった。財政赤字幅も小さく、公債発行額は6兆円余りだった。資金供給量は35兆円ほどだ。問題は、消費税が過去のように景気後退を招いた時、日本政府にはもう打つ手が何もないことだ。これ以上日本経済を痛めつけ、民間の活力を削ぐことだけは止めて頂きたいと願うばかりだ。 (引用終わり)

消費税増税を前にして

経済190910

政界は、末期的症状を呈している。いよいよ10月1日から、消費税が増税される。たびたび言ってきたとおり、今はむしろ、消費税を減税し、法人税を上げるべきだ。なにせ家計所得は、1997年のピークから月10万円も減っている。しかも、見かけの家計所得だけでもそんな状態なのに、社会保険料の引き上げなどで可処分所得は、それ以上の打撃を受けている。GDPの6割を占める消費が低迷し、地域に根を張ったビジネスは、青息吐息だろう。平成の30年を通じて、どんどん相対的地位を落としていっているのに、未だにその反省がなされておらず、社会全体が「認知的不協和」に陥り、原因解明はなされていない。もっと悲惨な状況にならないと、目覚めないということだろうか。

国際公約でどうしてもというのなら、10兆円規模の補正予算を組むべきではないか。使途はいくらでもある。これほど災害が多発しているのである。インフラの老朽化も問題になっている。国土強靭化やインフラ整備は焦眉の急である。そして、科学技術の振興や保育・教育の充実、外交での情報収集・発信力の強化や軍事の自立化など、日本には課題が多い。何よりも、適正な経済運営によって、経済成長をしていかなければならない。そうしないことには、社会保障の持続性すら消え失せてしまう。もういい加減に、主流派経済学の出鱈目に気づき、軌道修正するべきだ。

「少子化が進み、人口が増えないから、経済成長は無理だ」などという俗説がはびこっている。あるいは「国の借金を、このまま放置すると、いずれ国が破綻する」などという議論も、まことしやかになされている。両方とも、うそっぱちだ。「構造改革」で過当競争になり、企業は儲からなくなって給料が下がったから、若者が結婚しなくなり、少子化になったのである。また、企業の粗利率が下がり、生産性が下がったから、GDPが伸びず、日本だけが、経済成長から取り残されたのである。

日本には「財政問題」など存在しない。毎年、20兆円も不労所得が入ってくる「金持ち国」である。にもかかわらず、国際金融資本の下僕になり果てた財務省役人に騙されて、1997年以降、緊縮財政を繰り返している。その結果、日本社会は閉塞状態から抜け出すことができていない。要は、デフレスパイラルから抜け出せずにいる、ということに他ならない。

一人当たりGDPでは、お隣の韓国は、日本の8割にまで迫ってきた。もう「射程圏内」だと見られている。最近の文在寅政権の横暴ぶりが何よりの証拠である。全くなめられている。最近のデータを示そう。

実質成長率(%)
年    日本    韓国
2014 0.38  3.34
2015 1.22  2.79
2016 0.61  2.93
2017 1.93  3.06
2018 0.81  2.67

韓国のほうが日本よりはるかに高い成長率である。その理由は簡単で韓国のほうが日本より歳出の伸びがはるかに大きいのだ。2018年の歳出は10年前に比べどれだけ増えているかと言えば韓国は67%増で日本は僅か12%増だ。しかも、2012年からのアベノミクスは、金融緩和だけは熱心に取り組んだが、デフレからの脱却は成功していない。むしろ、銀行というビジネスモデルを壊しつつある、と言っても過言ではない。韓国の弱みは、金融機関の脆弱さと通貨の信用力のなさである。それを日本が助けてきた。日本の場合、円は国際通貨であり、政府にお金がなくなっても、円を刷れば国際的に通用する。外貨準備もたっぷりある。安心して財政拡大ができるはずだ。

「南北で協力して日本に勝ちたい」というのが、文大統領の悲願のようだ。彼の夢は南北が統一し、核保有国としての経済大国を建設するということのようである。こんなあり得ないシナリオを描く政権には、早く退場してもらい、お得意の易姓革命により、刑務所暮らしをしてもらいたいものだ。昔から朝鮮民族は、内輪の対立を近隣諸国を巻き込んで、混乱させ戦争を誘導してきた。だから「脱亜論再び」なのであるが、当面は、「非韓三原則」=「教えず、助けず、関わらない」を、決め込むことだ。そして、徴用工裁判の実害が出たら、相応の経済制裁をする。韓国の弱みを突き、一気に攻勢を強めることだろう。韓国からの投資の引き上げや貸しはがしをしたり、日本の銀行による韓国企業に対する信用状の発行を停止したりすると、彼らは、やっていけないことは誰にでもわかる。肉を切らしても、骨を断つだけの覚悟をしておくことだろう。

しかし、そんなことを考える前に、自分の足元を固めることだろう。消費税の増税など、やっている場合ではない。内外共に、そういう環境にはない、と心得るべきだ。

認知的不協和ということ (1)

経済190901

認知的不協和という心理学用語があります。人がこれまで持っていた「認識や信念」に対して矛盾する新しい「事実」が生まれたとき、そのストレスから逃れるために、自分が納得できるように「事実」を曲解して、都合の良い解釈をしがちになる、という心理行動を言います。

平たく言うと、偏見に満ちた人は、素直に現象を見ず、自分に都合がいいように曲解して、自分を合理化する性癖がある、ということですね。日本国中、あらゆる分野で生じている現象です。

 

わかりやすい例が、イソップ物語にあります。有名な「狐と葡萄」というお話です。

木の上になったブドウを狐は食べたくてしようがありませんが、手が届かず食べることができません。葡萄を食べることを諦めなくてはならなくなった狐はこう考えます。「あの葡萄は酸っぱいに違いない、だから食べられなくても悲しむ必要はない」つまり、葡萄が食べたいという自分の欲求自体を、あの葡萄は酸っぱいから本当は食べたくはなかった、という風に否定してしまうのです。

 

また、認知的不協和の例として有名なのが、タバコを吸ってる人に関するネタです。タバコは健康に良くないということは知っているが、止められずタバコを吸っている人が、タバコに関する否定的な情報を避けたり、逆に、タバコはストレス解消に効果的である、といった情報のみを信じ込むことで、不快感を減少させようとします。真偽はともかくとして、自分に都合よく情報を解釈して、自分の行動を合理化する人が多いのが実情です。

 

日本は、1997年以降、ほとんど経済成長していません。1年に3%の成長をすると、20年もたてば、2倍の経済規模になるはずです。先進各国が概ねそのような成長率なのに、日本だけが「蚊帳の外」に置かれています。単なる数字の上のことではありません。明らかな弊害が出ています。少子化が進み、地方が疲弊し、貧困が蔓延しています。

1980年代までは、一億総中流と言われていました。なぜ、このようになったのでしょうか。

「年次改革要望書」をアメリカから突きつけられ、ロビー活動をしてきたアメリカ企業の、利益を拡大するために、「構造改革」という、日本にとって、競争力を低下させるための手段を講じてきました。これだけ経済を痛めつけると、そりゃデフレになり、成長が止まってしまいますわな。

 

こうした「事実」があるにもかかわらず、誰も、その要因に触れません。触れていても、トンデモ理論ばかりです。日本経済は成熟期を迎えた、とか、少子高齢化で人口ボーナスがなくなった、とか・・・・原因と結果が、さかさまになっているような議論を、経済学者たちが平気でしています。タコつぼに入っていると、世の中が見えないのか、それとも、「認知的不協和」に陥っているのでしょうね。

MMT(現代貨幣理論)の視点から、「デフレ脱却のために財政規模を拡大せよ」という提言に耳を貸そうともしません。自分たちの「認識や信念」が根底から覆されるからです。プライマリーバランスという根拠不明の概念が、否定されてしまうからです。権威が崩壊するから素直になれないのです。

 

かくして日本の社会はマネジメント不在となってしまうのです。マネジメントサイクルが回りません。「グローバル化は世の流れ」「外圧を利用して日本を改革する」といった「認識や信念」を持っていた人たちは、不都合な「事実」を無視することで、自分たちの「認識や信念」を変えようないのです。

 

アメリカとはどういう国なのか、中国とはどういう国なのか、朝鮮民族とはどういう民族なのか、といった世界観・歴史観の欠如が要因で、誤った「認識や信念」を持ってしまったにもかかわらず、時が経過し、新しい「事実」がここまで積みあがっても、「認識や信念」を変えようとはしません。

彼らは、かつての権力者であり、自分たちの「認識や信念」を変えることは、自分たちの失敗を認めることに繋がり、レーゾンデートルの否定になり、そういう評価を下されることを極端に恐れています。「認知的不協和」の不具合事例のなかで、殊に、経済や経営に関するものが、最大の問題です。

国際経済を見る視点

経済190803

三橋貴明氏が資本金10億円以上の企業の指標から、日本の経済停滞の原因について言及しています。それによると、1997年を100とした場合、売上高は103、経常利益は306なのですが、役員給与は130、従業員給与は93なのです。そして、何より重大な変化は、設備投資が64に対して、株主配当が573にもなっている、と言うのです。

これこそ、まさしく株主資本主義ということではないでしょうか。その結果、どんどん日本経済は停滞し、一人当たりGDPは、世界で25位にまで凋落し、もはや経済大国とは言えない状況です。

これが、アメリカに強いられたグローバル化の実態なのです。平成の指導者たちは、こうした現状をどのように考えているのでしょうか。日本という国のカタチを忘却し、「卑しい精神」に取りつかれたとしか言いようがないではないでしょうか。森嶋通夫氏によれば、こんな株主資本主義こそが、日本人のエートスに合致しない制度であり、没落の原因なのです。森嶋通夫氏は、もう亡くなりましたが、大きな視野でものを考えることのできる人でした。テレビで経済解説をしている、そこいらの「タコつぼ経済学者」ではありません。

 

日本人のエートスは、三層構造から成立しています。

1)   神道や仏教に裏打ちされたアニミズム、

2)   封建時代に確立した報恩意識、

3)   明治期の近代化で獲得した社会思想 から成ります。

安全で安心な社会という必須要件は、伝統と文化に根差した上記1)と2)に立脚しています。

それが前提となって、3)を追求することができる、と私は考えています。

リベラル派の人々は、自由や民主主義、人権や法の支配を、重要視しますが、そうした理念を追求するには、その前提がある、と思うのです。

 

それではなぜ、平成の指導者たちが、かくも簡単に、国のカタチを忘却できたのか。それは、いわゆる「戦後民主教育」にあったのではないでしょうか。その根底に流れる自虐史観にあると考えます。それを具体化した司馬史観を含め、極めて内向きな態度が、日本を覆い尽くしていました。歴史というものは、相手との関係性の中で、育まれていくものです。国民の精神性にばかりあるのではありません。相互作用の結果なのです。そして、歴史を学ぶ意味は、民族の習性を学ぶことです。

日韓関係が史上最悪になりつつある現状において、それを心しておくことが極めて重要です。

 

いま私が一番危惧しているのは、平成の30年が、大正の15年によく似た展開になっている、ということです。かつて、金融恐慌や大恐慌を経て、満州事変へと進み、帝国主義戦争に発展しました。当時の日本は、まさしく「アメリカの鏡・日本」であったのです。それは、アメリカが仕掛けてきた罠であるのです。覇権を維持するということがどういうことか、「トゥキヂデスの罠」とは何か、ということは、現在の米中覇権戦争を見れば、もう明らかになっていると思います。

 

世の中は、円高がどうだとか、株式がどうだとか、経済変動に関することばかりが喧伝されていますが、そういうDoingばかりではなく、Beingにもっと関心を持つべきではないでしょうか。

そうすると、日本という国家が、本当に進むべき道が、もっと明確に見えてくると信じます。

世界は、二大グローバリストたちが、かつては共闘していましたが、今では、覇権を争っています。

それは、国際金融資本を筆頭とするマネー資本主義の勢力、これに対抗し、「新たな帝国」を模索する共産党勢力の二つです。そういう視点が必要です。

失敗の30年史

経済190712

ジャーナリスト・竹信三恵子氏の記事は平成の30年がよくまとまっているので、読者にご紹介する。何が原因でこうなったかが判明していないことには、打つ手はピント外れになる。事実、安倍政権では、そのピント外れが横行している。未だ「年次改革要望書」に沿った新自由主義路線から卒業できず、デフレの道を歩んでいる。この文章を大まかな日本経済史として読んでほしい。構造改革してきたものを元に戻せ、消費税を増税している状況か、と言いたい。

引用:

平成が幕を開けた年、1989年にバブル経済は最後の絶頂を迎えた。10月、三菱地所が、米国の象徴ロックフェラーセンターを買い、12月、日経平均株価は史上最高値の3万8915円をつけた。ところが、振り返ってみると、平成という時代は、「一億総中流」と言われた戦後社会が「格差社会」へ転換し、「貧困」が日常となる時代でもあった。

1979年、エズラ・ボーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書いた。「義務教育の水準、会社への忠誠心、長寿であることなど多くの点で世界一で、その日本から米国は学ぶべきところ多いという意味だった」と語っている。元駐日米大使のエドウィン・ライシャワーの「あの本は米国では読むべきだけど、日本人は読むべきじゃない」と発言し、日本人の慢心を戒めている。80年代、レーガン政権下の米国では、新自由主義が隆盛を極めていた。実は、ボーゲルの本は、そんな市場原理主義と規制緩和の中で格差と貧困が広がっていた当時の米国への警鐘だったわけだ。

また、知日派で知られた英国の社会学者、ロナルド・ドーアも英国のサッチャー政権の新自由主義政策と対比し、「平等的な、社会連帯意識の高いこと」を誇る日本を評価している。それが、対日貿易赤字解消を目指す米国政府からの内需拡大と規制緩和へ向けた「構造改革」要求で変質し、「富と権力を誇る日本」に変わった、2014年に出版した自著『幻滅〜外国人社会学者が見た戦後日本70年』で、日本の変質を残念がった。

日本社会は、米国の内需拡大要求を「日本の勝利」と受け止め、「世界一」に酔った。それが米国の謀略だとも知らずに。そして、その水面下では、80年代以降の急速な円高によって企業の海外脱出が進んでいた。柱になる国内産業は衰退をたどり、「生活できる」質のいい仕事は日本で減少した。トイザらスの日本進出を阻んでいた大企業と中小零細企業の分野調整も撤廃され、あらゆる分野で、「構造改革」という競争戦略が採られ、過当競争により、企業は付加価値が採れなくなっていった。

新自由主義経済思想が世界のグローバルスタンダードと考えた日本の指導者は、その後のバブルの崩壊と経済危機を、労働の規制緩和で乗り切ろうとする動きへと日本社会を誘っていく。まず1995年、経営者団体、日経連(その後経団連と統合)が、「新時代の日本的経営」を発表し、日本的経営を正社員原則から非正社員の活用へと転換させるよう推奨した。続く1997年の山一證券の破綻と大手企業の倒産の続発の中で、正社員を含めた大規模なリストラが進行し、構造改革の一環としてリストラが流行した。「終身雇用」に象徴される「日本的経営」への自信は揺らいだ。

小泉内閣が誕生した01年、完全失業率は戦後初の5%台を記録し、これを下げるには「雇用の質」より「雇用の数」だという考え方が勢いを増し派遣労働が拡大、04年には、危険度が高いとされていた工場での製造業派遣までも解禁された。非正規化が進み、フルに働いても生活できない「ワーキングプア」が増える一方、株などの資産の値上がり益をテコに一気に富を獲得していく人々がいる。そんな変化を背景に展開されたのが、京都大学教授だった橘木俊詔氏と大阪大学教授の大竹文雄氏による「格差論争」だ。

だが、現場の実感は、「格差否定論」を乗り越え始めていた。小泉内閣の「聖域なき構造改革」で、税や社会保険の負担増が急ピッチで進められていたからだ。消費税増税に加え、社会保険料などの増加による負担増で、可処分所得は落ち込んだ。やがて、08年9月のリーマン・ショックを機に大量の派遣社員の契約打ち切りが起きる。「派遣切り」だ。この年の暮れ、失業者の救援のため、労組や反貧困NGOが、ホームレス支援に携わってきた湯浅誠を「村長」として「年越し派遣村」を日比谷公園に開設しその動きがマスメディアで連日報じられた。09年の民主党政権への交代は、そんなうねりの末に起きた。

民主党政権は、「相対的貧困率」を政府が公表するなど貧困の可視化に踏み出す役割は果たした。有期労働者が5年を超えて働くと無期雇用になれる労働契約法改正や、労働者派遣の規制強化が行われ、80年代以降規制緩和が続いた日本で、初の労働の規制強化として注目された。だが、首相だった鳩山由紀夫が沖縄・普天間基地問題でつまずき、東日本大震災と原発爆発が起き、野田政権下で公約違反と批判された消費税引き上げが可決され、政権は3年で終わった。

続く第2次安倍政権は、アベノミクスによるトリクルダウンで格差を縮小するとして、異次元の金融緩和、財政支出、新しい産業の育成の「3本の矢」政策を掲げた。だが、労働者派遣法は15年に再び規制緩和路線へと改正され、18年には「働き方改革関連法」が成立したものの、非正規比率は38%に達し、実質賃金は低迷を続け、可処分所得の減少から消費は低迷、デフレという閉塞状態が続いている。

結局のところ、ヒト・モノ・カネの自由な移動は、後進国に大量の中産階級を生み出したが、先進国では中産階級が没落し、格差問題・貧困問題を生み出した。なかでも経済成長の止まった日本は深刻だが、そのような閉塞感の中で、テレビでは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ならぬ「日本スゴイ」の連呼が、またしても繰り返されている。全く情けない。 (引用終わり)

なぜ、この30年で2〜3倍になるべきGDPが、ほとんど横ばいなのか。なぜ、先進国の中で、日本だけが経済成長から取り残されたか、この文章がうまく表現している、と考えてよいのではないか。経済学の用語に「合成の誤謬」とか「部分最適」という言葉がある。結局のところ、平成の指導者たちは、この概念を理解できず、アメリカの圧力に負け流行に流されてしまった、ということだろう。そして大事なことは、その根源にある欧米の「卑しい精神」が、なぜかくも簡単に日本に浸透してしまったかということである。日本が日本であるために、根源的な何かを変えなければならない。

国際決済の現状と今後

経済190710

野村総合研究所の木内登英氏の次の文章は、覇権という意味を考え、これからの米中覇権戦争のいくえを占ううえで大変参考になると思うので、読者にご紹介する。

米中の多少の妥協が図られるとしても、根源にこのような対立がある限り、いずれ同じ世界に住むことができなくなる、ということは、容易に想像できる。「トゥキディデスの罠」は人類史の公理なのだ。

日本としては、まず中国の現在の統治体制を崩壊させなければならない。彼らの進める「デジタル・レーニン主義」に席巻されてはたまらない。周辺民族は、みんなチベットやウイグルにされてしまう。一方で、世界で横暴の限りを尽くすアメリカの、その力の源泉を断ち切り、公平公正な仕組みづくりに邁進しなければならない。「自国第一」を標榜する国が覇権国では世界が迷惑する。

今後、フランスが先陣を切ったデジタル課税や、中国が狙っているドル基軸体制に風穴を開ける手法も参照すればよい、と思う。ドル基軸体制が崩壊すれば、世界の警察官などやれないのだ。

いずれにしても、日本人には、「独立不羈(ふき)の精神」が肝要である。

引用:

貿易取引で見れば、既に中国は米国と肩を並べる規模に達している。しかし、こうした経済面での中国の存在感と比べると、金融面での存在感はまだ低く、かなり見劣りしている。それを象徴するのが、世界での人民元の利用ではないか。中国が人民元の国際化を標榜してから、かなりの時間が経過しているが、意図した程には国際化は進展していない。
例えば、2018年10-12月期時点で、世界の外貨準備のなかで人民元が占める比率はわずか1.9%に過ぎない。これは米国ドルの61.7%、ユーロの20.7%、円の5.2%、ポンドの4.4%に次ぎ、世界第5位だ。
しかし、中国は将来の人民元国際化の進展、あるいは米国との軋轢、制裁措置などを視野に入れて、独自の国際決済システムを2015年10月に導入している。それが、CIPS(国際銀行間決済システム)だ。
現在の世界の国際決済では、その中核を担っているのがSWIFT(国際銀行間通信協会)で、そのシステムを通じて送金情報がやり取りされる。SWIFT自身は送金や決済を担うわけではないが、銀行間の国際送金や決済を支える「メッセージ通信サービス」を提供している。SWIFTを通じて、膨大な量の金融取引情報が送信されているが、この送金情報がなければ、銀行間の国際送金は成り立たない。
このネットワークから外されてしまった金融機関は、国際送金ができなくなるが、米国はこのSWIFTを、外交やテロ対策に利用してきたという経緯がある。SWIFTはベルギーに本拠地を置く国際的機関であるが、実際には米国の強い影響下にあるとされる。
そのため、米国の制裁対象に指定された金融機関は、貿易取引によるドル建て決済ができなくなるのである。実際、トランプ政権は2018年11月に、制裁措置の一環でイランの複数の銀行を排除するように、SWIFTに圧力をかけた模様だ。これは、イラン原油の禁輸措置の実効性を高める狙いがあった。

そこで、将来、米国から制裁を受ける可能性がある国には、それに備えて独自の国際決済システムを構築する誘因が生じる。中国がCIPSを導入した背景には、そうした事情もあったのだろう。

実際、ロシア、トルコなど米国が経済制裁の対象とした国の銀行が、このCIPSに多く参加している。

日本経済新聞社の調査によると、2019年4月時点でCIPSへの参加は89か国・地域の865行に広がっている。参加銀行数を国ごとに見ると、第1位が日本、第2位がロシア、第3位が台湾だ。
CIPSの参加国には、一帯一路の参加国など、中国がインフラ事業や資源開発で影響力を強める国々の銀行も多く含まれている。マレーシアなどアジアの新興国に加えて、南アフリカ、ケニアなどアフリカの国の銀行も参加している。一帯一路構想の中国関連事業では、依然として人民元決済の比率は小さい模様だが、将来的には一帯一路周辺国を軸に「中国経済圏」は一段と拡大していく一方、そこでの取引に人民元が多く使用される、つまり「人民元圏」も拡大させていくことを中国は視野に入れている。その際には、このCIPSが同地域での国際決済の中核を担っていくはずだ。
米国が貿易面で対中制裁を強めれば、中国は将来的にSWIFTの利用を妨げられることを警戒して、人民元の国際化、つまり貿易取引等での人民元の利用拡大とCIPSの利用拡大とを急ぎ強化していくだろう。その際に、米国に対峙している国のCIPS参加も広がっていこう。
このように、米国による対中強硬姿勢は、国際決済の分野においても、中国による独自の標準作りを後押しすることになり、世界のダブルスタンダード化を促してしまう。 (引用終わり) 

ただし、中国の経済は、はっきり言ってめちゃくちゃである。過剰設備と過剰債務からくる信用不安は、いつ爆発するかもしれない。それをウソと強権で押さえつけているが、こんな状態で人民元の信用がつくはずがない。過剰生産のはけ口として無理して進めてきた「一帯一路」は、随所でほころびが目立つ。覇権を狙うのが10年早かった、ということだろう。習近平の間違いである。

この国は、共産党員ですら、国家というものを信用していないから、崩れだしたら速い、と思う。

歴史を前に進める役割を、政財官、そしてマスコミといった指導層に求めたい。

再度「MMT」を取り上げる

経済190509

5月15日の朝日新聞「多事奏論」で、編集委員の原真人氏が、MMTを体系だった理論ではなく、単なる「放漫財政のススメ」であると、一刀両断している。

朝日新聞に限らず、報道機関は、これまでの主流派経済学者の肩を持ち、MMTには否定的だ。

そうしないと、今までの自分たちの主張と、整合が採れないからであろう。そして、財務省の口車に乗り、経団連と一緒になって、消費税増税に、肯定的な論説を展開している。曰く、「将来世代にツケを残すな」と。曰く、「財政破綻に向かってまっしぐらだ」と。

そして、消費税の原資は、増加の一途である社会保障費に使われている、などという絵空事を信じているところなど、マスメディアは、権力監視という基本的役割も果たせていない。

消費税増税と法人税減税は、セットとなってグローバリズムの論拠である新自由主義的な政策手段になっているだけではないか。

そのために、日本全体が貧しくなり、格差が拡大し、地方が疲弊し、非婚化が進み少子化になっている。平成の30年で、実証済みではないか。なぜもっと、そういうことを取り上げないのか。

ここ5年間だけでも、家計の可処分所得は減ってきている。消費が伸びず、これを宛てにせざるを得ない中小零細企業(いわゆる山の国)が、好景気を実感できないのは当たり前だ。

一方で、株主資本主義化が進み配当だけは増え、欧米流の「卑しい精神」が浸透し、日本の文化基盤までおかしくなりつつあるように感じる。いまや、株式売買は、外資が主役に躍り出ている、という異常事態ではないか。誰のための「構造改革」だったのか、誰も追求しないのはなぜなのか。

 

MMTを体系だった理論ではないとする原真人氏は、単に無知なだけである。経済学を勉強した者なら、誰でも知っている貨幣の本質を追求したクナップや有効需要の概念を広めたケインズ、技術革新による生産性向上について論じたシュンペーターや景気循環論を展開したミンスキー、そして機能的財政論者のラーナーなどの系譜に属するのが、提唱者のケルトンやレイという学者である。

最近の主流派経済学者のような「タコつぼ学者」(経済学しか知らない)ではない。実に豊かな知識と感性に裏打ちされた学者たちから、多くのことを学んでいる。

そして、先達の時代とは、明らかに資本主義そのものが進展し変化している、ということを踏まえての論理展開をしている。

例えば、デジタルプラットフォーマーの「独占・寡占」の問題、国際金融資本に有利になっている「情報の非対称性」の問題、環境問題をはじめとする「市場の失敗」、「セイの法則」の終焉、民族の価値観の相違という文明の衝突、など新しいテーマが次々に提起され、どれひとつとっても、主流派経済学者は、満足に回答できてはいない。

というより、技術の進歩による経済関係の変化に目をつぶり、過去の理論を振り回し続けて、世界を袋小路に追い詰めたのは、自分たちの間違った「タコつぼ知識」のせいであることを自覚すべきだ。

報道機関に勤める記者ならば、少なくとも、そういう状況下で世界が閉塞状態にあること、世の中を見渡してみて、なぜこういう状況になったのかという問題意識ぐらいは持つべきだ。

単なる「放漫財政のススメ」などと言うこと自体、自分の不見識を天下にさらしている。

なぜ、こんなに「経済オンチ」ばかりになってしまったのだろうか。消費税を増税する度に、不況になり、税収が落ち込んで、却って、国債残高が増加している、という事実を知らないのか。先進国の中で、日本だけが成長できなくなったのはなぜか、考えてもらいたい。

 

MMTの主要な論点を整理しておこう。

1−貨幣の本質は、「借用証」であり、誰かの負債は、誰かの資産である。

政府の負債は、他の経済主体である家計と企業の資産である。

2−自国通貨建ての国債で、国家が破綻することはあり得ない。(財務省自身がホームページ上で外国格付け会社あてに意見書を書いている)

3−すべての経済は、実物的な、あるいは環境的な制約を受ける。従って、過度に財政支出するとインフレになる。過度に緊縮財政にするとデフレになる。政府は、その調整をすればよい。過剰なインフレが、債務拡大の上限であるとしており、新しい財政規律を提唱している。「放漫財政のススメ」では決してない。

4−プライマリー・バランスという根拠のない指標を使い、緊縮財政にすることは、間違いである。逆に低金利の今、日本は投資を増やすチャンスである。国が財政を拡大しても、クラウディングアウト(公共投資の過剰による金利上昇で民業を圧迫すること)は発生しない。

5−政府は、雇用と物価にコミットするべきである。人手不足は賃上げのチャンスであり、成長への一里塚である。移民拡大などもってのほか。3%程度の物価上昇率、国内での良質な雇用確保という政策こそが大事なのである。そうすると、民間は普段から努力しているのだから、日本経済は、必ず成長軌道に乗る。人口減少は関係ない。ドイツも人口減少しているが成長している。

リチャード・クーの政策提言

経済190508

リチャード・クーと言えば、1990年代の経済停滞を「バランスシート不況」という名で経済分析していた実務家である。そのクー氏が、『「追われる国」の経済学』という著書の中で、なぜ日本は長期停滞を余儀なくされているのか、なぜ金融政策が効かないのか、について論じている。

ユニークな分析であり、参考になると思うので、引用してご紹介する。

引用:

いまから約20年前、私は「バランスシート不況」を提唱し、以降、このバランスシート不況の理論をベースに「失われた20年」に関する分析を行ってきました。ところが、最近の日本経済を見ていると、それ以外にも民間部門がお金を借りなくなる理由があることが見えてきました。そのキーワードが「追われる国」です。ここ数年の資金循環統計を見ると、企業部門はもう全体として債務の最小化、つまり借金返済の行動をとっていないことがわかります。きちんとお金を借りる企業も出てきています。これだけ金利が低くなり、企業のバランスシートもきれいになると、銀行はお金を貸したくて仕方ありません。それなのに企業部門全体で見ると、お金を借りようとはしていません。これは経済学の教科書では想定していなかったことです。

2000年代に入ると、世界を席巻した日本の大手家電メーカーが次々と韓国や台湾のメーカーに追い抜かれていくようになります。このような状況を目にしたとき「あれ、これはどこかで見たシーンだな」と思ったのです。私が日本からアメリカに移ったのは1967年です。その頃のアメリカは「黄金の60年代」で絶頂期にありました。ところが、その10年後になると、アメリカ企業が次々と日本企業に追いつかれ、追い抜かれてしまったのです。そして、そこには1つの共通した法則があるに違いないと考えました。それが「追う国」と「追われる国」という考え方です。「追われる国」というのは、自国で設備投資をするより追ってくる新興国でそれをやるほうが資本のリターンが高くなっている国のことです。「追われる国」になると、これまでの経済政策で正しいと考えられていたことがすべてひっくり返ってしまいます。

なぜ、「追われる国」になると経済政策も大きく変わらなければならないのでしょうか。それは、従来の経済学のほとんどの理論は、民間の設備投資需要が旺盛な経済の「黄金時代」を前提に作り上げられたものだからです。黄金時代には企業にとって投資機会はふんだんにありました。お金を借りて工場を建設し、新製品を売り出しさえすれば利益はおもしろいように上がりました。そういう時代には金融政策が有効でした。お金を借りたい人がたくさんいたからです。一方、そのような時代には、財政政策には出番がありません。民間の貯蓄に限りがある中で、政府が資金調達すればたちまち金利が上がって景気にマイナスになってしまう、いわゆるクラウディングアウト問題が発生してしまうからです。したがって、黄金時代には金融こそが経済政策の王道でした。

しかしながら、経済のグローバル化が進み途上国の経済が発展すると、国内よりも海外で設備投資するほうが資本のリターンが高くなります。当然、企業は国内で投資を行わず、海外に投資をするようになります。そうなると、バランスシート不況時と同じように、企業は国内で資金調達をしない状況が続くことになります。本来、海外投資にはカントリーリスクがつきものです。投資収益率にかなりの差がないと企業は海外に投資しません。国内の投資収益率15%なら海外では35%ぐらい必要です。逆の見方をすると、このくらいのリターン差がある場合、国内で金利を1〜2%下げて投資コストを引き下げたところで国内に投資は戻ってはこないのです。 

したがって、追われる国では、極端な例ですが、金利をゼロにしても家計の貯蓄が企業の投資を上回るということが実際に発生します。これを放置すれば、経済は民間の過剰貯蓄の分だけ、悪化していってしまうでしょう。そうなれば、政府に出番を仰がなくてはなりません。民間には資金需要がないのでクラウディングアウトを心配する必要もありません。財政政策が最も効率的に効くのが今なのです。逆に金融政策はお金を借りる人がいないので、いくら緩和しても効果がありません。

問題はバランスシート不況下の財政政策と、追われる国の財政政策とでは大きな違いがあることです。バランスシート不況であれば、正しく対応すれば数年間で問題が片づきます。しかし、追われる国の借り手不足問題はそんなに短い期間で解決するものではありません。先進国を追いかける途上国が次から次に出てくるわけですから、下手すると15〜20年、50年もかかるかもしれません。それを考えると、政府債務がGDPの100%を超える国々(日本はすでに200%を突破)では、政府が財政破綻を気にせずに長期間お金を使える環境を作る必要があります。

それには次の条件をクリアしなければなりません。まず将来の国民に借金のツケを回さないようにできるかどうかが問題です。政府が最後で唯一の借り手になると、金利が大幅に下がります。日銀の異次元緩和で今の日本国債の利回りは当てになりませんが、その前の利回りは0.7%でした。つまり0.7%のリターンを得られる公共事業を見つけることができれば、納税者にツケを回さず財政出動ができることになります。かつて日本の黄金時代の10年国債の利回りは5〜6%もありました。5〜6%の投資リターンを出せる公共事業を探すのは至難の業です。民間企業でさえ5〜6%の投資収益を上げるのにひいひい言っていたのに、政府が同じものを探すのはもっと困難でしょう。しかし0.7%の投資収益率でよいのなら、日本中から優秀な人材を集めればよいアイデアが出てくるはずです。

もう1つのハードルは、優良な公共投資案件の選び方です。今までのように政府の役人に任せると政治の圧力に負けてしまうでしょう。政治家の利益誘導で採算は後回しになってしまいます。こうした無駄遣いを2〜3年ならともかく、15〜20年も続ければ国の財政は確実に破綻してしまいます。こうした事態を避けるために、政治から独立した委員会が必要です。政治家や国民一般から提案された公共事業が十分ペイする案件かどうか、厳密に精査する必要があります。独立委員会というアイデアは別に目新しい話ではありません。黄金時代にも歴とした独立機関が存在していました。中央銀行です。黄金時代の中央銀行は政府から独立していないと大変なことになるというのが、人類が歴史から学んだ知恵でした。追われる国の場合は、財政が政策の王道になります。政治から独立した財政委員会がぜひとも必要です。

世界経済に目を転じると、トランプ大統領の登場以来、自由貿易の危機が叫ばれています。私は、世界経済の成長のために、自由貿易は絶対に守らなければならないと考えます。そして、自由貿易を守るためには為替相場や自由な短期資本移動を規制することも必要と考えます。自由貿易は同じ国の中に勝ち組と負け組をつくります。しかし、勝ち組が得るものが負け組が失うものよりも多いので、勝ち組から負け組に所得の再分配が行われていれば、国全体としては必ず自由貿易の恩恵が上回ります。自由貿易を推進すべきだとなります。

ところが、この理論には1つの大前提があります。各国の貿易収支は一定の期間をとれば均衡するというのが前提です。もしその国の貿易収支が均衡せず、大きな赤字を垂れ流し続けていたら、毎年、負け組の数が増えていくことになります。アメリカの貿易収支が最後に均衡したのは1980年のことです。そこから40年近くもの間、赤字を垂れ流し続けたことで負け組の数が増え続けて、2016年11月にはトランプを大統領に当選させる人数にまで達してしまったのです。

そうなると問題の設定は、次のように変わります。選挙民の大半が自由貿易の負け組だと思っている民主主義国で、自由貿易をどうやって維持するのか。保護主義がこれ以上ひどくなる前にどうやって貿易収支を均衡に近づけるか。こうした問題を、とくに黒字国の人々は真剣に考えなくてはいけません。アメリカの貿易黒字は中国、日本、台湾、韓国だけで6割以上を占めています。東アジアの国々がもっと当事者意識をもつ必要があるでしょう。

貿易不均衡の責任は、自由貿易自体ではなく資本移動の自由化にあるというのが私の認識です。戦後の自由貿易は1947年のGATT体制に始まりましたが、ニクソンショックでブレトンウッズ体制が壊れ、変動相場制に移行しました。しかし、変動相場制に移った後でも、貿易不均衡が大幅に拡大しないメカニズムがきちんと存在していました。貿易不均衡が拡大すると為替相場が変動して、つまり黒字国の通貨が上がり赤字国の通貨が下がって、貿易収支の黒字や赤字が均衡に向かうようになっていました。

ところが、1980年前後に大きな変化が訪れます。日米では1980年前後に資本移動の自由化や金融自由化に踏み切った結果、今の為替市場の95%の取引が資本移動関連となり、貿易関連の取引はわずか5%となってしまったのです。この95%はどういう理由で動くかといえば、貿易収支の均衡など考えていません。とにかく、どこの国の金利や資本リターンがいちばん高く見えるかで動いています。そういう世界では、為替が動いて貿易不均衡の拡大が抑えられて、保護主義の台頭を防ぐメカニズムがまったく作動しなくなります。

日本は大きな黒字を出しているのに円高にならない。アメリカは大幅な赤字を出しているのにドル安にならない。これが40年続いた結果がトランプ政権の誕生につながっているのです。自由貿易は人類の生活水準をそれまで想像できない高見にまで引き上げてくれました。その体制を守るためにも資本移動の自由化は考え直す必要があります。労働者が国境を越えられない中で、資本だけが国境を自由に移動するとどのような問題が発生するのか。資本移動のプラスとマイナスをもっときちんと研究する必要があります。どういう局面なら移動を自由にし、どういう局面なら規制するかを決めたほうがよいでしょう。(引用おわり)

日本は、金融政策ではなく財政政策を強化しろ、自由貿易を守るために、ばくちを規制しろ、との主張は、大いに賛成です。

ばくち経済の行きつく先

経済190407

金融経済が実物経済の何十倍にも上る規模になっている、という。こんなことをやっていては、いずれ金融機関の破綻をきっかけに連鎖反応を起こし、金融恐慌から、断末魔を迎えるに違いない。

中国発になるか、ヨーロッパ発になるか、またしてもアメリカ発になるか、わからないが、そういうときが近づいているのではないか。

 

一番危険なのは、中国である。過剰設備と過剰債務は、止まることを知らない。ただでさえ「中進国のワナ」に入り成長が頭打ちなのに、少子高齢化が進んでいる。さらに、成長を止めるまいと、財政出動を繰り返している。利権がらみの財政出動は、破局へ向けて、一目散に歩み始めた。そんな中、世界覇権を狙いに行って、アメリカという「虎のしっぽ」を踏んでしまった。いま、極めて厳しい通商交渉を強いられている。

WTOが機能していなかった分を、アメリカ単独で正常化してくれている。日本にとっては、歓迎すべきことではある。

しかし、考えてみれば、戦前から、中国に幻想を抱き、今の共産中国の基を作ったのは、アメリカだ。それは、タウンゼントやウイリアムズの本を読めばわかる。

とにかく、日本憎しのルーズベルトが、開戦を望んだことだけは確かである。フーバーたちの著書や、マッカーサーの議会証言で証明されている。

 

戦後は戦後で、また日本タタキをすることで、中国を経済発展させ、こんな横暴な中国にしてしまったのもアメリカである。その責任を取るのは当然だろう。

おそらく、技術移転強要などの知的財産権、為替操作、資本移動の自由、国有企業の優遇廃止、などの面で、大幅な譲歩をせざるを得ないだろう。アメリカは、平気で内政干渉してくる国だ。突出した軍事力を維持しているから、それが可能なのだ。日本人の好きな「諸国民の公正と信義」などに頼ろうとすること自体が、国際政治の中では噴飯ものなのである。

 

しかしこうなると、市場の機能を重視することになり、より経済恐慌につながる可能性が大きくなる。共産党の強権的なコントロールが効かなくなるからだ。中国の場合、それが社会崩壊に結びつく。

宗族中心の社会規範しかなく、国家意識などは微塵もないお国柄である。共産党幹部は、海外に、資産もろとも脱出するに違いない。経済混乱を契機に、共産党支配国家の終焉を期待したい。

一時的に混乱はしても、それが中国人のためでもある。中国進出している日本企業には、これまで以上のカントリーリスクを覚悟することが求められる。

 

ヨーロッパも、安泰ではいられない。中国に深くかかわっているのは、ドイツである。特にドイツ銀行は、CDSを中国で大量に発行しているという。天文学的数字だというが、詳細は分からない。

とにかく、欧米流のばくち経済が、世の中を席巻している。こういう経済を主導してきた、世間でいうところの政・財・官・学のエリートたちの猛省を求めたい。そして、今もって、こうした現実と向き合わず、社会の木鐸の役目を放棄してきたマスコミ各社を糾弾したい。

カネの自己増殖を放置し、そこには、民族の倫理規範も、経世済民も、国家意識も存在しない。

Anywhere族に都合の良いルールを、グローバル化と称して、各国に強いてきた。日本は、最大の被害者である。経済成長が止まり、一億総中流社会が崩れ、課題が山積し、閉塞感あふれる社会になってしまった。

世界的にも、大金持ちベスト26人の総資産が、人類の下位38億人の総資産に匹敵する、とのことである。しかも、ばくち経済化は、過大な債務の連鎖を作り出し、いつ破壊的な恐慌が襲来するか、予断を許さない状況になってしまった。こんな社会を、誰が望んだのであろうか。

アメリカの驕りが諸悪の根源である、と言うしかない。また、それを利用して、無茶苦茶な経済運営をしてきた中国も同罪である。

 

世界の債務残高の総額が何京円にも達している。一つの金融機関の破綻が連鎖し、信用が一気に収縮すると、大変なことになる。日本の銀行も、低金利政策のために、銀行のビジネスモデルが危うくなっており、ばくちに手を染めているのではなかろうか。心配である。日本人は、こんなばくち経済に巻き込まれず、凛として王道を歩みたいものだ。

ポランニーは、市場経済が伝統社会を破壊し、保護主義を生み、ファシズムの温床になった経緯を『大転換』という著作に描き出した。いま、まさに、その原点に戻れ、と訴えたい。

現代貨幣理論(MMT)について

経済190402

アメリカで、現代貨幣理論(MMT)が話題になっている。民主党左派大統領候補オカシオコルテス下院議員が、ニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授などが提唱する、この考え方への支持を表明したことで、俄然、脚光を浴びる形になった。主流派経済学者が、即座にこれを否定し、世界経済を主導してきた実務家も同調し、論争が起こっている。

しかし、私は、現代貨幣理論(MMT)は、正しいと考えている。従来から、アパ・ラーナーの機能的財政論を支持し、日本の財政は健全だと言ってきた。この現代貨幣理論(MMT)も、その一環であり、日本財政健全論を強く支持する立場である。この現代貨幣理論(MMT)について、中野剛志氏が簡潔に解説しているので、引用し読者に提供する。

引用:

主流派経済学のパラダイムでは、財政赤字は基本的には望ましくないとされている。財政赤字の一時的・例外的な拡大の必要性を認める経済学者はいるものの、中長期的には健全財政を目指すべきだというのが、主流派経済学のコンセンサスなのである。ところが、この健全財政のコンセンサスを、「現代貨幣理論」は否定したのだ。このため、クルーグマン、サマーズ、ロゴフといった影響力のある主流派経済学者、アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長、あるいはフィンクやバフェットといった著名投資家ら、そうそうたる面々が現代貨幣理論を批判している。日本でも、黒田日銀総裁が記者会見(3月15日)において現代貨幣理論について問われると、「必ずしも整合的に体系化された理論ではない」という認識を示したうえで、「財政赤字や債務残高を考慮しないという考え方は、極端な主張だ」と答えている。

しかし、現代貨幣理論は、クナップ、ケインズ、シュンペーター、ラーナー、ミンスキーといった偉大な先駆者の業績の上に成立した「整合的に体系化された理論」なのである。にもかかわらず、黒田総裁が「必ずしも整合的に体系化された理論ではない」と感じるのは、それが主流派経済学とはパラダイムが違うからにほかならない。

ここで、「現代貨幣理論」のポイントの一部をごく簡単に説明しよう。

まず、政府は、「通貨」の単位を決めることができる。そして、政府は、その決められた単位の通貨を発行する権限を持つ。次に、政府は国民に対して、その通貨によって納税する義務を課す。すると、その通貨は、納税手段としての価値を持つので、取引や貯蓄の手段としても使われるようになる。

日本、アメリカ、イギリスのように、政府が通貨発行権を有する国は、自国通貨建てで発行した国債に関して、返済する意思がある限り、返済できなくなるということはない。例えば、日本は、GDP比の政府債務残高がおよそ240%であり、先進国中「最悪」の水準にあるとされる。にもかかわらず、日本が財政破綻することはありえない。日本政府には通貨発行権があり、発行する国債はすべて自国通貨建てだからだ。

政府債務残高の大きさを見て財政破綻を懸念する議論は、政府の債務を、家計や企業の債務のようにみなす初歩的な誤解に基づいている。政府は、家計や企業と違って、自国通貨を発行して債務を返済できるのだ。したがって、政府は、財源の制約なく、いくらでも支出できる。

ただし、政府が支出を野放図に拡大すると、いずれ需要過剰(=供給不足)となって、インフレが止まらなくなってしまう。このため、政府は、インフレがいきすぎないように、財政支出を抑制しなければならない。言い換えれば、高インフレではない限り、財政支出はいくらでも拡大できるということだ。

つまり、政府の財政支出の制約となるのは、インフレ率なのである。ちなみに、日本は、高インフレどころか、長期にわたってデフレである。したがって、日本には、財政支出の制約はない。デフレを脱却するまで、いくらでも財政支出を拡大できるし、すべきなのだ。

さて、国家財政に財源という制約がないということは、課税によって財源を確保する必要はないということを意味する。アメリカでの現代貨幣理論の流行を紹介した日本経済新聞の記事は、この理論の支持者が「政府の借金は将来国民に増税して返せばよい」と主張していると書いているが、これは誤解である。現代貨幣理論によれば、政府の借金を税で返済する必要すらないのだ。だが、現代貨幣理論は、無税国家が可能だと主張しているわけではない。そもそも、現代貨幣理論の根幹にあるのは、通貨の価値は課税によって担保されているという議論だ。もし一切の課税を廃止すると、需要過剰になって、インフレが昂進してしまうであろう。そこで、高インフレを抑制するために、課税が必要となる。

また、格差是正のための累進所得税、あるいは地球温暖化対策のための炭素税など、政策誘導のためにも課税は有効である。要するに、課税は、財源確保の手段ではなく、物価調整や資源再配分の手段なのである。

さらに言えば、現代貨幣理論は、物価調整の手段として、課税以外にも、「就労保障プログラム」あるいは「最後の雇い手」と呼ばれる政策を提案している。これは、簡単に言えば、「公的部門が社会的に許容可能な最低賃金で、希望する労働者を雇用し、働く場を与える」という政策である。就労保障プログラムは、不況時においては、失業者に雇用機会を与え、賃金の下落を阻止し、完全雇用を達成することができる。逆に、好況時においては、民間企業は、就労保障プログラムから労働者を採用することで、インフレ圧力を緩和する。

こうして就労保障プログラムは、雇用のバッファーとして機能する。政府は、同プログラムに対する財政支出を好況時には減らし、不況時には増やすことで、景気変動を安定化させる。不況時には確かに財政赤字が拡大するが、低インフレ下では、財政赤字は、もとより問題にはならない。こうして、就労保障プログラムは、物価を安定させつつ、完全雇用を可能にするのである。以上は、現代貨幣理論の一部にすぎない。

しかし、これを踏まえただけでも、主流派の経済学者たちや政策担当者たちの批判が、いかに的を外れたものであるかがわかるようになるだろう。例えば、パウエルFRB議長は「自国通貨建てで借り入れができる国は財政赤字を心配しなくてよいという考え方は間違いだ」と断定し、黒田日銀総裁も「財政赤字や債務残高を考慮しないという考え方は、極端な主張」と述べた。サマーズも、財政赤字は一定限度を超えるとハイパーインフレを招くと批判する。しかし、これらはいずれも、まともな批判になっていない。

現代貨幣理論は、「財政赤字の大小はインフレ率で判断すべきだ」という理論である。ハイパーインフレになっても財政赤字を心配しなくてよいなどという主張はしていない。それどころか、インフレを抑制する政策について提言している。要するに、批判者たちは、現代貨幣理論を理解していないということだ。いや、そもそも、知ろうとすらしていない節すらある。

なぜ、そのような態度をとるのか。それは、彼らが、現代貨幣理論のことを、主流派経済学のパラダイムに属していないという理由によって、まともに取り扱うべき経済学と見なしていないからであろう。しかしながら、その一方で、リーマン・ショックのように、主流派経済学のパラダイムに対する信頼を揺るがすような「変則事例」が起きている。それについては、主流派経済学者たち自身も認めつつある。主流派経済学者の予想に反して財政破綻しない日本も「変則事例」の1つであろう。

主流派経済学は、パラダイムの「危機」に直面しているのだ。パラダイムが変わるのが怖いのだ。だからこそ、主流派経済学者たちは、現代貨幣理論の台頭が気になり、躍起になって批判しているのである。だが、かつて、物理学のパラダイムを一変させたアインシュタインが言ったように、「問題を生じさせたときと同じ考え方によっては、その問題を解決することはできない」現下の経済問題を解決するためには、経済学のパラダイムから変えなければならないのだ。だから、現代貨幣理論についても、知りもしないで一蹴したり、利口ぶった皮肉で揶揄したりせずに、正しく理解したうえで、フェアに論争してもらいたい。(引用終わり)

ただし、現代貨幣理論(MMT)が通用するには、条件があると思う。「国民国家」が機能することである。資本の移動が自由とばかり、金持ちが相続税を免れるために移住したり、また、企業が法人税の安いところへ本社を移したり、といったことが、モラルに反しないという価値観が浸透したりすると成り立たない。日本は、お隣の中国のような国ではない、と信じたい。

二種類のお金

経済190110

世の中には、二種類のお金がある。われわれが日々消費生活を営むお金と株式市場や為替市場で売り買いされているお金(マネーと呼ぶ)である。同じドルや円と表記されているが、これらは全く違う。経世済民に資するのがお金、ばくちの世界で動くのがマネーである。マネーはレバレッジをかけられて、実体経済の何十倍もの規模になるそうだ。が、そんなものを、経世済民の世界に持ち込むことが、そもそもの間違いである。しかし現実は、残念ながら、虎の子の年金資金なども含めて、マネーの世界に巻き込まれている。生きている限り、誰もが「投機家」の側面から逃げられない。

 

マルクスは、資本主義での価値増殖過程を商品を介する運動としてG―W−G´で示したが、Wが飛ばされて、Gそのものが商品として売買され、自己増殖している。

その結果、利子や配当といった「不労所得」が莫大なものとなり、資本増殖率が経済成長率を上回り、格差拡大の要因となっている。現に日本は、毎年20兆円もの不労所得の入る国になっている。

マネーの運用者は情報を独占し、政府を動かして自分たちに有利な仕組みを作り、バクチを打つ。バクチに成功すれば、ポッポナイナイし、失敗すれば、リーマン・ショックの時のように、公的資金を導入させる。これが、アメリカの主張した「フェア」の実態だ。

この不公正の仕組みは、スーザン・ストレンジ、スティグリッツ、ロバート・ライシュらが見抜いて書籍化している。

『カジノ資本主義』『マッド・マネー』スーザン・ストレンジ著、いずれも岩波書店)

『人間が幸福になる経済とは何か』スティグリッツ著 (徳間書店)

『最後の資本主義』ロバート・ライシュ著 (東洋経済新報社)

 

二宮尊徳の「至誠・勤労・分度・推譲」が、本来の日本人の倫理規範と私は説いてきたが、マネーは、どう考えても日本人の倫理規範になじまない。

それにもかかわらず、アメリカに言われるまま簡単になじんでいったところに、日本人の堕落を見る。

先の戦争の「無念」を忘れ去った、戦後民主教育で育った指導者たちの大失敗である、と思う。

日本人なら「素にして野だが、卑ではない」として、「卑しさ」や「ずるさ」だけは嫌うはずだ。そういう最低限の歯止めすら失ってきたのではないか。そこを一番憂慮している。

こうした「卑しさ」や「ずるさ」を嫌悪する倫理規範があるのは、日本だけでない。例えば、イスラムの教えは利子という概念を否定している。だから、イスラム金融では、リースが一般的になるのだ。どこでも「自己的で卑しい精神」は嫌われ、協働していくという人間社会の在り方を模索している。

 

フランスの思想家ジャック・アタリは、日本の「利他の精神」を、21世紀の世界理念に据えている。

分かっている人は、分かっているのだ。そういう人は、資本主義や民主主義を根幹から問い直している。そのヨーロッパでも古くから、「お金を根源的に問うこと」がおこなわれてきた。

カール・ポランニーは「経済を社会に埋め戻せ」と叫び、歪んだ資本主義の是正を呼び掛けたが、その他にも、シルビア・ゲゼルやミヒャエル・エンデが、この問題に正面から取り組んでいる。

金融の肥大化は、人々を不幸にすることは、かなり昔から問題提起されてきたのである。

結局のところ、資本主義は、生活水準の向上で、消費が拡大し、緩やかな物価上昇を伴なうことで、金利という概念を正当化してきたのである。しかし、日本は、その前提が崩れている。

 

そもそも国際金融資本家の大本ロスチャイルド家は、ナポレオン戦争時、通信を利用してバクチを打って大儲けしたことから始まる。欧米は、その後、重商主義、植民地主義、帝国主義、を通じて、世界の国々から富を収奪してきた。そうした力任せの、自分たちに都合の良いルール設定を正当化することを「覇権=ヘゲモニー」と呼ぶ。近代の戦争とは、その争奪戦であった。

また、GAFA4社のITプラットフォーム企業の時価総額は、中堅国の国家予算を上回るそうだが、その技術は、すべて軍用の転用ではないのか。それを、新しい収奪の手段にしている。

アメリカは、そうして、覇権を維持拡大してきたのではないか。そうしておきながら、よくも「公正」などということをイケシャーシャーとのたまえたものだと、あきれてしまう。

そんなアメリカを、中国は、技術を盗みながら、手本にしている。中国は、その先端技術を活用して、「デジタル・レーニン主義」に邁進している。ジョージオーウェル「1984」の世界だ。

そういう国に「世界覇権」を握られると思うと、空恐ろしくなる。

 

世界的に社会が軋んでいる。もう一度、「フェア=公正」とは何か、原点に戻って、考え直してみるときではないか。

ライシュは、人為の加わっていない自然な市場などなく、どの国の、どの時代の市場も、その国の政府が定めた特定のルールに基づくものだ、と言っているが、さらに付け加えると、そのルールは、その国の人々の、倫理規範のような「価値観」に大きく影響している。

それを、森嶋道夫は、「エートス=民族の倫理規範」という言葉を使って、それに合致しない制度は、必ず不具合をもたらし永続しない、と言っている。

英米やユダヤのANYWHERE族の契約重視の倫理規範や、「ドル基軸制度」が世界標準になっているが、これを修正する「手立て」を考えていかねばなるまい。そのための「デジタル技術の進歩」であらねばならない。そこには、世界に通ずる倫理規範が背景になければならない。そう考えると、

日本民族の倫理規範こそ、21世紀の世界標準になるべきだ、と思うのである。

悪循環に陥った地域経済

経済190104

この年末に、台所の瞬間湯沸かし器の取り換え工事をおこなった。施工費だけで3万7千円という見積もりは、いかにも高いと思い、一瞬、折り込みチラシの業者に相見積もりを取ることが頭をよぎった。しかしそれでは、私の批判する経団連のお偉方と変わらない、と思い、止めにした。風呂場も含めて、我が家お抱えのガス工事業者である。何かあったときには、その業者に頼るからである。

地域でそういう職人を維持しておく、という発想は「経済を社会に埋め戻せ」というカール・ポランニーの思想の原点である。

 

かつて、建築用ガラスの営業をしていた。ガラスという素材は、半製品で出荷する。それを切断し、加工し、サッシュに組み込み、施工するのは、職人さんである。家の窓ガラスが割れたとき、修理を頼むと、おそらく誰も、予想よりも高くつき、ガラスというものは高価なものだと思うに違いない。

しかし、メーカーの出荷価格からすると、その何倍も、消費者は支払っているのが現実だ。これは、そのコストのほとんどが人件費であることに由来する。だからと言って、彼らが高給を食んでいるかと言えば、そんなことはない。人を雇うということは、毎月の「固定費」だ。これを維持するためには、たまに発生する仕事には、かなりの粗利額を見込まないことにはやっていけないのは自明である。

 

こうして、地域で職人を維持しているのが、地域経済の実態なのである。経団連のお偉方は、そういう末端の経済がわかっていない。だから、アメリカの内政干渉のきっかけになった、トイザらスが参入障壁と主張した「大店法」の廃止にも、何らの異議も唱えず、さらにアメリカにそそのかされて、グローバル化を図り、国際競争力をつけるという名目で、非正規社員を全従業員の40%になるまで増加させ、消費を冷え込ませ、日本経済をデフレに追い込んだ。

デフレは、資本主義の死でもあるというのに・・・全くもって、経済音痴が揃っている。

さらに、社会の安定や持続可能性という大事を無視し、「利殖」にうつつを抜かしている。株主から求められる配当の増大と株価の上昇のみに注力、ROEばかりを指標として経営している。

欧米流の「卑しい精神」に汚染された資本主義の信奉者になり下がっている。

 

大阪で、地震で壊れた屋根の修理がままならないそうだ。職人が不足しているからだという。屋根職人に限らず、あちこちの現場で、熟練労働者が不足しているのではないのだろうか。

終身雇用・年功賃金が崩壊し、地方には働き口がなく、安定した職業に就くことに失敗した若者が、子供を作らないのは当然ではないのか。

皆さんは、「式年遷宮」というシステムをご存じだろうか。伊勢神宮や出雲大社では、20年ごとに建物を建て替える。なぜ、無駄ともいえるこのようなシステムを何千年も繰り返しているのだろうか。

社会の安定や持続可能性を考えてのこと、これこそが日本人の知恵である。

材料になる木を安定的に育て、技術・技能を、人から人へ、継承するために他ならない。

 

不足しているのは熟練労働者だけではない。デフレが、日本の社会全体を、劣化させている。

1991年(平成3年)最高時に675万あった事業所数は、2010年(平成22年)で580万事業所以下と推定され、ほぼ100万事業所が減少した。会社企業数も、160万社以上あったものが145万社弱程度に推定され、15万社以上が減っている。

学術論文で、引用される日本の論文数は、減少の一途だという。大学で研究活動をしている若手が、不安定な雇用関係に甘んじているものが多いと聞く。

 

経済が停滞するにつれて、いろんなところで、不具合が露呈しているではないか。小泉改革などで、雇用が不安定化し、給料が上がらないシステムができ、競争が激しくなって、地方ではどこも付加価値の確保に四苦八苦し、「生産性」が上がらなくなっている。

こうして安定した良質な雇用を失い、先端技術分野でも、アメリカや中国に後れを取ってきているのではないか、という心配をせざるを得ない。何もかも、平成期にアメリカに対して「あなた方とは文化が違う」と抵抗できなかった指導者たちの不見識のなせる業である。

単なる「時代の流れ」などではないことを銘記して、そこから出発しなければならない。「根本的なところ」から、日本は、再スタートを切らなければならない。まずは、地産地消、地元資本の店を優先、国産愛用、というところから始めようと私は思う。

これでいいのか、日本

経済181207

内閣府は、9月の景気動向指数を発表し、2012年12月から続いている今の景気回復局面は、「いざなぎ景気」(57か月)を超え、戦後2番目の長さになることが確実となった、としている。

ちなみに、戦後1番の景気回復局面を「いざなみ景気」と言い、これは2002年1月〜2008年2月の間(73か月)ということです。こうした報道を、皆さんは信じられますか?実感していますか?

どこの国の話?という人は、経済の「構造的な問題」に気づいていないのです。これが、私の指摘する「海の国」と「山の国」の分断の実態です。 

三橋貴明氏の文章から、「山の国」の経済実態を、概観してみましょう。

日本では、子どもの7人に1人が貧困にあえいでいます。また、母と子のひとり親世帯では、半数以上が貧困に苦しんでいます。(厚生労働省の国民生活基礎調査)
今、日本の貧困率の高さは国際的に見ると、米国(16.8%)に次いでG7中ワースト2位。
さらに、ひとり親世帯ではOECD加盟国35カ国中ワースト1位になっています。
そのせいもあってか、「家庭が貧しく、ろくにお風呂に入れない子どもが、同級生に『臭い』」といじめられるなど、いじめ問題も増えつつあります。
また、子ども以外にも日本の若者層全体が貧乏になっています。実際、日本の若者層は過去20年間で貧乏になり続けてきました。
97年は30代において、最も分布が多かった所得額は、500万円から699万円でした。
それが、2012年には300万円から499万円にシフトしてしまったのです。
(平成29年版 少子化社会対策白書)

しかし、日本が抱えている問題はこれだけではありません。子どもの貧困と並んで高齢者の貧困も深刻化しています。65歳以上の「高齢者のいる世帯」の貧困率は27.0%。
つまり、高齢者世帯の4世帯に1世帯以上が貧困世帯となっています。

わが国の世帯所得は、1994年のピーク時に664万円だったものが、今では520万円台にまで落ち込んでいます。世界でも例を見ない異常事態です。子供のいる世帯、いない家庭、高齢者、単身を含む全世帯(5,300万世帯)では、同期間の平均所得は20%も減っているのですから、納得できますね。この世帯所得が、一番鮮明に、賃金の低下と非正規雇用率の増加を示しています。

地域に根差した商売をしている方々は、こうして財布のヒモの硬くなった消費者と格闘しなければならないのです。しかも「構造改革」による規制緩和や「技術革新」で、業界内だけでなく、業界外のコンペティターも現れ、これとも競争しなければならないのです。「付加価値」が確保されるわけがありません。「生産性」が低迷し、従業員の給料も上げられません。すっかり「デフレ」が定着してしまった。これが「山の国」の実態ではないでしょうか。

一方の「海の国」の実態は、大村大次郎氏が、うまくまとめてくれています。それによると、1990年の個人資産は、1017兆円でしたが、現在は1800兆円を超え、80%も増加している。100万ドル以上の資産所有者は、282万人以上日本にいるそうです。こうしたお金持ちの数は、日本は、アメリカに次いで堂々の世界第2位だそうです。

それもそのはずで、上場企業の配当金は、2005年:4.6兆円、2007年:7.2兆円、2009年:5.5兆円、2012年:7.0兆円、2015年:10.4兆円、2017年:12.8兆円と、右肩上がりなんですね。

東証の売買は、その3分の2は外資によるもの、というからあきれてしまいます。誰のための「構造改革」だったか、分かりやすいですね。株主資本主義も、ここまで行くと、立派なものです。

そして、大企業を中心とする「海の国」は、海外へ向けて投資を拡大し、M&A で企業買収を繰り返し、日本のことなどお構いなし。お陰で、日本は、3兆ドルの対外純資産を持ち、毎年、20兆円もの不労所得の入る「金持ち国」になりました。これは誰の懐に入っているのでしょうか。 

「これでいいのか、日本」と叫びたくなりますよね。

かつての「一億総中流」は見事に崩れ、貧困が蔓延し、地方は疲弊し、少子化が止まりません。

日本人の矜持を忘れ、ひたすらアメリカに追随して、「卑しい精神」に汚染された人たちが、未だに誰一人として「反省の弁」を語らないこと、マスコミもこうした実態に言及しないことに、苛立ちを覚えます。それとも、こうしたことを指摘するのは、「負け犬の遠吠え」なのでしょうか。

失敗国家・日本

経済181203

私はあえて、現状の日本を「失敗国家」と呼びたいと思います。そこまで言わないと国民は覚醒しないからです。

経済成長からひとり取り残され、相対的に小国化し、少子化が進展、地方は存立が危ぶまれ、子供や女子の貧困問題が顕在化している。「一億総中流」から、なぜ、こんな状況に転落したのか。

それにも関わらず、その原因を追究することもなく、誰かが責任を取ることもなく、社会は穏やかで、相変わらず「平和ボケ」が収まる気配すらありません。 

「国の借金」という概念をひねり出し「一人当たり860万円もの借金」と言われ、世の中、とても閉塞感が覆っている。そうしたことの正否も問わず、マスコミは「ノー天気」な言質にあふれています。

国とは何でしょうか。経済学的には、国=家計+企業+政府、ですよね。確かに政府は貧乏ですが、家計も企業も健全です。毎年、20兆円もの不労所得の入る国ではありませんか。

国が破綻するとはどういうことでしょうか。国債償還費が多すぎて国家予算が組めなくなることでしょうか。利子が問題なら、政府紙幣を発行して、全部買い取ればよい。

いずれにしろ、円で発行する「内国債」で、国家が破綻することなどありえません。

そんな基本的なこともわからない大人が多すぎます。日本の財務省の役人は、新自由主義で得をする国際金融資本の下僕になり果てています。マスコミも本当に勉強不足です。

「ボーっと生きてんじゃねーよ」と、チコちゃんに叱ってもらわないといけない人たちが大勢いるような気がします。

内部要因を「因」と言い、外部要因を「縁」と言いますが、誰も「因縁果」を解明しようとはしません。経営学では、SWOT分析をして経営戦略を作成しろ、と教えていますが、この国では誰が大戦略を練っているのでしょうか。枝葉末節なことばかりが話題になり、根源を忘れています。

それとも、もうすっかり日本では「新自由主義思想」が定着したのでしょうか。

アメリカが、日本をつぶすために、利用した、この思想、当のアメリカ自身が、そのために苦しんでいるというのに・・・。

共産主義思想と同じように、先進国の国民を分断し、貧富の格差を拡大させ、民主主義の基盤を脅かす、というのに・・・。

どうして日本では、こんな「国柄」に反する邪悪な思想を受け入れた反省の声が上がらないのでしょうか。「強欲」を毛嫌いし、「卑怯を憎む民族性」は、どこへ行ってしまったのでしょうか。

そんなことだから、安倍政権による、間違った政策が、次々と行われていこうとするのです。

消費税増税、入管法改正、漁業法改正、カジノ法案、種子法廃止、水道事業民営化・・・・これらの改正法案は、すべて国民を分断し、窮乏化につながるものではないでしょうか。誰のための改正でしょうか。少なくとも、「スジ」が悪すぎます。「国柄」を忘れた暴挙としか私には思えません。

「民のかまど」や「和の精神」に思いを巡らすならば、決してあり得ない方向性ではないでしょうか。これらすべての政策の裏付けになる経済思想が、日本の「文化的基盤」と合致していないのです。

『表現者クライテリオン』に記載されている新自由主義への批判記事を参考までにご紹介します。

  引用:

今、日本のあらゆるところに閉塞感が漂っていますが、この閉塞感の根源的な主要因のひとつが、新自由主義的な「改革」をとにかく善きものと考える現代日本の風潮にあるものと思われます。
いわば、こうした「改革」至上主義とでも言うべきものは、2000年代に展開された小泉・竹中流の構造改革がその象徴ですが、80年代のサッチャー、レーガンから今日の小池・橋下の自治体改革や、「アベノミクス第三の矢」における今日の構造政策に至るまで一直線に連なるものです。
それは、小さな政府、民営化、競争の重視と保護政策の忌避、それらのための旧体制の破壊がいずれも「善きもの」だと信じ込むイデオロギーです。これを「ネオリベ」と言います。すなわち、「ネオリベラリズム」つまり「新自由主義」の別称(ないしは蔑称)です。
このネオリベ思想は、とにかく市場競争や多国籍企業を重視するもので、彼らがグローバルに活躍しやすいように、あらゆる改革や自由化、民営化を断行すべき、という考え方です。
そもそも消費税が増税され続けてきたのは、法人税が減らされてきたから。
そして法人税の減税はもちろん、大企業が活躍しやすいにするためのものでした。
つまり、消費増税は、大企業を優遇するために、その空いた税収の穴を埋め合わせるために繰り返されてきた、単なる「大衆課税」だったわけです。
つまり消費税は、ネオリベ=新自由主義さえなければ、ここまで増税されることなどなかったのです。
そして、消費増税のせいで日本がデフレになったことを踏まえるなら、ネオリベ=新自由主義さえなければ、日本がデフレのせいで衰退し続けることもなかったのです。
移民政策にしても、企業が安い労働力を、さながら奴隷を買うように欲しがる結果、進められているものですから、ネオリベ=新自由主義さえなければ、こんなに移民政策が加速されることもなかったのです。
大学改革についても、「競争」や「緊縮」を是とするネオリベ=新自由主義さえなければ、大学の研究環境を根底から破壊されるほどに徹底推進されることはなかったでしょうし、防災や復興についても、「デフレ」をもたらし、かつ、「小さな政府」を好むネオリベ=新自由主義さえなければ、ここまで、防災・強靭化・復興がなされずに放置されつづけることもなかったでしょう。

つまり、今の日本は、ネオリベ=新自由主義のせいで、防災・復興・科学技術のために必要な投資がなされずグローバリズムが無制限に進められ、外国人や多国籍企業が日本国内に無制限に入り込み、デフレが放置され、日本国家そのものが激しく弱体化し続けているわけです。
この「絶望的な惨憺たる状況」からわが国を救い出すためにはまず、日本が今、こうした状況にあるという客観的認識を一人でも多くの日本国民が共有することが必要です。
そもそも、世の中を直接動かしているものは「実務」ですが、その「実務」の方向を決定づけているのは実は、「思想」なのです。だから、世の中の動きは結局全て、「思想」に支配されているのです。そして今、日本のあらゆる「実務」は、ネオリベ=新自由主義という「思想」によって支配されています。だからこそ、日本全体の大きな流れに抗わんとする者は皆、今日の日本を覆っている「ネオリベ=新自由主義」という思想を、徹底的に批判する視点を持たねばならないのです。(引用終わり)

 

中野剛志氏の経済学批判

経済181008

中野剛志氏が、日本の主流派経済学者に対して、辛辣な批判を展開している。私が「タコつぼ経済学者」と呼んでいる御用学者を、ローマー、クルーグマン、サマーズなどの言質を借りて、空論を振り回し、事実を見ない、として彼らを糾弾しているのである。まことに留飲の下がる文章である。少々長くて専門的に過ぎるが、中野剛志氏の文章を引用する。

引用:

2018年、ポール・ローマーは、経済学への理論的貢献を認められて、ノーベル経済学賞を受賞した。ところが、皮肉なことに、そのローマーは、2016年の講演の中で、マクロ経済学は、過去30年以上にわたって進歩するどころか、むしろ退歩したと断じ、経済学に対する辛辣な批判を展開していたのである。

しかし、このように経済学のあり方を批判する大物経済学者は、ローマーだけではない。2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンもまた、その受賞の翌年、過去30年間のマクロ経済学の大部分は、「役に立たないだけでなく、全く有害」と言い放っていた。同様に、2011年、元米財務長官で大統領首席経済顧問やハーバード大学学長を歴任したローレンス・サマーズは、主流派経済学の理論モデルに基づく論文は、政策担当者にとっては本質的に無益であった、と告白している。

経済学批判の歴史は長い。もっとも、これまでの経済学批判は、もっぱら政治学、社会学あるいは歴史学など経済学以外の分野からか、マルクス主義、歴史学派、制度学派あるいはポスト・ケインジアンといった、主流派から外れた異端派経済学から発せられてきた。しかし、過去10年、主流派経済学者たちの中からの「内部告発」が相次ぐようになったのである。その理由は、明らかに2008年の世界金融危機(リーマン・ショックの勃発にある。有名な話であるが、リーマン・ショックの勃発から間もない2008年11月、イギリスのエリザベス女王は、経済学の世界的権威たちに「なぜだれも危機が来ることをわからなかったのでしょうか」と尋ね、彼らを絶句させたという。「社会科学の女王」を自認する経済学の権威が、本物の女王によって失墜させられた瞬間であった。

エリザベス女王のご下問に応えるなら、次のようになる。そもそも、主流派経済学の理論は、「完全情報を有する合理的な個人が完全競争市場において最適化行動を行う」という非現実的な仮定を置いた「一般均衡理論」をベースとしている。1980年代以降、この一般均衡理論を基礎としたマクロ経済理論を構築する試み(「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」)が流行し、いわゆるRBCモデル(実物的景気循環モデル)が構築された。さらにRBCモデルは、DSGEモデル(動学的確率的一般均衡モデル)へと発展し、1990年代以降のマクロ経済学界を席巻するに至った。しかし、この「ミクロ的基礎づけ」とは、非現実的な仮定に基づく論理操作であったため、DSGEモデルなる理論モデルは、結局のところ、実際の経済から著しくかけ離れたものとなった。ローマーが、過去30年間で経済学が退歩したと述べた際に念頭にあったのも、この「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」の非現実性である。

リーマン・ショックを経ても改善は見られず この「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」の問題点には枚挙にいとまがないが、特に重大な欠陥は、その根底にある一般均衡理論が「貨幣」の存在を想定していないということであった。経済学とは貨幣に関する理論だと思い込んでいる人々は、主流派経済学の理論モデルに貨幣が組み込まれていないと聞いて、耳を疑うであろう。しかし、これは、一般均衡理論の中心的な理論家の一人であるフランク・H・ハーンですら認めている事実なのである。主流派経済学者たちは、貨幣の概念を欠いた経済理論に依拠していたのだから、金融危機を想定できるはずもなかったのだ。

もっと言えば、そのような経済理論が経済政策に影響を及ぼしていたことこそが、金融危機を引き起こしたとすら言える。それを指して、クルーグマンやサマーズは「有害無益」と言ったのである。

確かに、極端に非現実的な経済理論に基づき、事実を軽視する経済学者たちの提言など、「有害無益」以外の何物でもない。しかし、2016年に、ローマーが経済学を激しく糾弾する講演を行ったことからもわかるように、リーマン・ショックが起きたにもかかわらず、経済学のあり方には、それほど大きな改善がみられないようである。非現実的な理論が及ぼす有害無益は、金融に限られない。 例えば、我が国では、現在、消費税率の10%への増税がなされようとしており、多くの経済学者がそれを支持している。しかし、この増税が安倍政権の目指すデフレ脱却を頓挫させ、景気の悪化を招くことは、明らかである。というのも、消費税が5%へと引き上げられた1997年から日本はデフレ不況へと陥り、2014年の8%への消費増税もまた、デフレの悪化や消費の縮小などの悪影響を及ぼしたという事実があるからだ。ところが、8%への消費増税の是非が検討されていた2013年当時、多くの経済学者たちは増税を支持していたのである。その一人である伊藤隆敏氏は、消費税を引き上げても「デフレ脱却に失敗することはない」とまで断言していた。

ちなみに、伊藤氏は2003年、吉川洋氏など日本を代表する経済学者らと共同で、政府部門の債務の対国内総生産(GDP)比率が200%に達した場合、「この水準は国家財政の事実上の破たんを意味すると言ってよい」と警鐘を鳴らしていた(2003年3月19日付、日本経済新聞「経済教室」)。しかし、現在の政府債務の対GDP比率は230%を超え、伊藤氏らの言う「国家財政の事実上の破たん」の水準をすでに超えている。もし事実上の財政破綻であるならば、日本国債の買い手などいなくなるから、長期金利は急騰するはずだ。ところが、実際の長期金利はわずか0.03%程度にすぎない。伊藤氏らが依拠する経済理論は、この現実をまったく説明できていないのである。

これだけ事実によって理論が反証されているにもかかわらず、経済学者たちは、財政健全化論に固執し、消費増税や歳出抑制を主張し続け、財政政策に影響を与え続けている。その結果、防災関連予算ですら削減され、多くの国民の生命や財産が失われるという事態すら招いている。ここまで来ると、経済学が、国民の生命を危うくしていると言っても過言ではあるまい。しかし、なぜ経済学者たちは、ここまで現実から目を背け、非現実的な理論に固執し続けているのであろうか。

ローマーは、経済学者たちの閉鎖性を指摘しているが、トマ・ピケティもまた、ベストセラーとなった『21世紀の資本』の中で、こう指摘している。

率直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学や、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った臆測に対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために、歴史研究や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちはあまりにしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題にばかり没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずにすませているのだ。
トマ・ピケティ『21世紀の資本』(2014年、みすず書房)P3435

ピケティの言う「数学への偏執狂」とは、DSGEモデルのような「ミクロ的基礎づけ」の理論への固執のことであろう。そして、「ミクロ的基礎づけ」の理論を共有していることが、経済学者たちの強固な内輪意識の源となっているのである。

その一例を示しておこう。

土居丈朗・慶應義塾大学教授は、2016年の米国経済学会において、財政出動の是非を巡る経済学者たちの論争を聴いた際の感想を、こう述べている(ちなみに土居氏は、伊藤氏同様、熱心な財政健全化論者である)。

この議論を拝聴して、意見の相違は残ったままだったが、建設的で示唆深い議論にすがすがしさを感じた。パネリストは皆、大学院で教育を受けて経済学の博士号を持つ共通の学問的裏付けがあり、ミクロ経済学やマクロ経済学という演繹法的な基礎理論に基づく点で共通している。演繹法的な立論であるため、まったく同じ理論に基づいていても、現状認識や前提条件が異なれば、結論が異なりうるという議論の大原則がある。
日米で違いすぎる「反緊縮財政」を巡る議論(東洋経済オンライン、2016年1月11日配信)

土居氏は、米国経済学会における論争に「すがすがしさを感じた」理由として、パネリストたちが皆「経済学の博士号」を持っており、その議論が「演繹的な基礎理論」に基づいているからだとしている。その「演繹的な基礎理論」とは、「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」のある理論のことである。

要するに、この米国経済学会の論争とは、「経済学の博士号」を持ち、「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」を共有することで一枚岩となった、閉鎖的な経済学者の仲間内での論争だということだ。 土居氏がその論争に「すがすがしさを感じた」のは、土居氏自身が、この非現実的な理論を共有する閉鎖的な経済学共同体の一員だからにほかならない。しかし、その経済学者の閉鎖性を、ローマーは問題視しているのだ。(引用終わり)

従来から、私は、反主流派であるスティグリッツや森嶋道夫が経済学の正道と考えてきた。あまりにも事実を無視し続ける主流派の中にも、異論を述べる者が出てきて亀裂が生じている、ということを知り、「時代の変遷」を感じている。不条理なムラ社会は、放置するといずれ崩壊する。それにしても、インテリが主導するムラ社会は、どこも二流が三流を巻き込み一流を排除する仕組みが出来上がるようだ。どうすれば、こうした不条理を離脱できるのだろう。一人一人が見識を磨き、自分の意見を持ち、それを表明する勇気をもつこと、そして、ムラ社会から排除されても、食っていける術を考えておくこと、しかないのかもしれない。それは、即ち一流を飛び越えて「超一流」を目指すことかもしれない。事実、日本の電機メーカーの敗退の裏に、千名を超える技術者の海外企業への流出があったとされている。学会で孤児となってロンドン大学へ逃避した森嶋道夫や、マスコミに叩かれてシカゴ大学へ逃避したがん研究の第一人者中村佑輔など、枚挙にいとまがない。悲しい現実である。

大局観を持つ大切さ

経済180708

暑い日々が続いています。この猛暑は、「命に係わる暑さ」だと報道されています。2年後、この暑さの中で五輪が開催されます。この時期を選んだのは、アメリカの報道各社の都合のようです。「一事が万事」という言葉がありますが、何事によらず、アメリカのご都合に合わせて、いろいろ配慮した結果が、今日の日本の姿ではないでしょうか。 

日本の本来の姿を忘却し、大局観のないリーダーたちが、やみくもなアメリカ追随をした結果が、この閉塞感の根源です。しかも、その反省すら議論の俎上に上がってこないお粗末さ、どこまで劣化し衰退するのか、空恐ろしくなるほどです。 

最近の巷で流行る議論を聞いていると、どうしてこうも大局観なき議論が流行するのか、と腹立たしくなります。 

 

人間が小粒になっているような気がします。日本から「骨のある人物」がいなくなりました。 

なおかつ、凛とした教養人が少なくなっているようにも思えます。世界観・歴史観・価値観において、一目置くべき人物には滅多にお会いできません。 

大局観のある、本質的な議論が、マスコミから消え失せています。 

また、生活が苦しい人が増えているのか、安定した暮らしをしている人に対し、既得権益という言葉を浴びせ、留飲を下げるような議論も横行しています。

もう完全に、「ルサンチマン社会」になっているのではありませんか。

 

今の日本にとっての本質的な問題は何でしょうか。

この30年、ほとんど経済成長から見放されている、という事実です。デフレに陥っている、という事実です。これからどう脱却するのか、ということが焦眉の急です。

デフレというのは、資本主義の死ともいえる現象です。金利がつかないほど実体経済が疲弊している証です。経済に活力を取り戻すにはどうすればよいか、に集中することです。

 

ところが、未だに国債残高1000兆円越えを問題視し財政再建を声高に叫ぶ世論が主流です。

これは、貨幣の本質がわかっていない議論です。貨幣は借用証に過ぎない、ということです。すなわち、金融資産というのは、誰かの資産は誰かの負債になる、ということにすぎません。

日銀が購入し、市中に出回る国債残高は減ってきました。これでいいのです。

さらに、日銀に対し、政府紙幣を発行し、国債を政府が買い取れば、将来金利が上がって財政破綻する、といった心配から完全に解放されます。紙幣には金利がつかないからです。

これは、私のアイデアではありません。スティグリッツ教授が日本政府に与えた処方箋ですが、私は当初から賛成しています。

こんなに金融緩和をしても物価が上がらない。それは、供給体制が十分に整っており、競争がそれだけ激しい、ということを意味しています。

 

国債で利ザヤが稼げない銀行が、そのビジネスモデルが維持できないほどの苦境に立っています。これはやむを得ない。

不動産担保や個人保証を取っているにもかかわらず、BIS規制という国際標準化を強いられ、競争力を削がれたのですから。

銀行は、まずは省力化投資をすることです。並行して、情報収集力をつけて、技術を見る目や人を見る目を養うことです。地域の人々と汗をかく覚悟をすることです。

 

デフレは需要不足が原因です。高齢化し、少子化になり、投資が十分ではありません。

政府が中心になって、需要を増やすしか、当面の方策はありません。公共投資がもっと必要です。老朽化が進んでいます。また、一定限度の更新需要がなければ、建築や土木の世界で、技能伝承に支障が生じます。もうそういう段階に来ています。

民間にも投資を促すため、思い切った投資減税が必要です。その原資は、法人税を上げればいいのです。

労働力不足だからと言って、安易な移民政策には反対です。賃金が上がる好機到来と考えるべきです。省力化投資を、税制面から促すべきです。

 

消費税を5%に戻し、その原資は、所得税の累進化を進めればいいのです。税の再配分機能をもっと強化することです。日本人の倫理観に合致した経済体制に戻すことです。「民のかまど」の国なのです。

そのうえで、子育てしやすい環境づくりが必要です。少なくとも、義務教育までは、あらゆる世帯で無償化すればよい。子育ては、社会全体で担う、という発想です。

少子化対策は、時間との勝負です。これ以上の少子化を許してはなりません。

 

アベノミクスは、消費税増税で、完全に失敗した、という認識に立つべきです。対米追従という「戦後レジーム」からの脱却を、本当に模索してもらいたい、と思います。

先進国の敗北

経済180701

アメリカの日本たたきの手段は、新自由主義によるグローバル化を強いることでした。プラザ合意で円高誘導され、「年次改革要望書」どおりの構造改革で、日本の強みを封じることでした。 

アメリカの意図が読めていたのは、一部の保守派だけでした。政財界のリーダーたちは、あまりにもナイーブ過ぎました。その象徴が1986年の「前川リポート」です。当時、小宮隆太郎教授が経済学の観点から批判しましたが、誰も聞く耳を持っていませんでした。 

結果は、中国の台頭となり、アメリカは、その一国覇権に、挑戦されています。 

加えて、アメリカ自身の中間層の没落を生み、国家が分断され、社会の亀裂は深刻です。

 

日本は、混合経済体制や日本的経営、政財官の協調体制といった、かつての経済成長の構図を奪われ、過当競争の時代となり、長期停滞を続けています。

日本だけでなく、世界的にも先進国の敗北が指摘されている、というレポートが最近相次いで発表されています。

そのうちの一つ、『表現者クライテリオン』に記載された施 光恒(せ・てるひさ)九州大学大学院准教授の文章をご紹介します。

新自由主義という共産主義にも比肩しうる誤った思想から脱却しない限り、いつまでたっても、世界は、この低迷状態から脱却することはできません。

何でもかんでも市場に任せるのではなく、公共の福祉の観点から調整する「国民国家」の復活以外に手立てがありません。混合経済型の日本のモデルの復活、と称してもよいと思います。

 

引用:
最近、雑誌などの論説で自由民主主義諸国の相対的地位の低下を論じる論考をよく見かけます。
近年、新興諸国の経済が急激に成長したこと、そして米国や欧州、日本などのいわゆる先進自由民主主義諸国の経済があまり好調ではなく、世界に占める相対的地位が没落しつつあることが、こういう論考の生じる原因でしょう。
近い将来、自由民主主義諸国は、支配的な地位を世界で占めることができなくなってしまうのではないかという懸念が表明されることが多いのです。
たとえば、『フォーリン・アフェアーズ・リポート』誌の20186月号に掲載されているヤシャ・モンク氏とロベルト・ステファン・フォア氏の共著の論説「欧米経済の衰退と民主的世紀の終わり」です。
この論説では、モンク氏らは次のように述べます。
北米、欧州、豪州、日本という戦後、ソビエトに対抗して西側陣営を結成した自由民主主義諸国は、19世紀末以降、世界の所得の大半を占有する地域だった。だが近年、これらの諸国が世界のGDPに占める割合は半分を割り込んでいる。国際通貨基金(IMF)の予測によれば、今後10年でその比率は3分の1に落ち込む。
他方、中国やロシア、イランやサウジアラビアなどの中東諸国といった非民主主義的な、いわゆる権威主義的国家の経済的地位は急激に向上している。1990年当時、人権団体フリーダム・ハウスが「自由ではない」と分類した国が世界の所得に占める割合はわずか12%だった。しかし、いまではそれが33%に達している。
モンク氏らはさらに、次のように続けます。
「世界はいまや大きな転換点に近づきつつある。今後5年以内に世界の所得に占める中国、ロシア、サウジアラビアなど「自由ではない」と分類される諸国の割合は、欧米のリベラルな民主国家のそれを上回るようになるだろう。逆に言えば、四半世紀の間に、リベラルな民主国家は先例のない経済的強さから、同様に先例のない弱体化の道を歩みつつある」。
「伝統的にリベラルな民主主義の中枢を担ってきた北米と西ヨーロッパ諸国では政治システムが危機にさらされ、世界経済に占めるウェイトも低下しており、かつての優位を取り戻せる見込みはますます遠のいている」。
モンク氏らの懸念は、自由民主主義諸国の経済や政治の面だけでなく、文化面での地位低下にも及んでいます。
戦後の自由民主主義諸国の経済的繁栄は、その他の諸国には政治や経済面だけではなく、文化面でも魅力的に見えていました。
例えば、モンク氏らが挙げている例ですが、米国のテレビドラマ『ダラス』は、1980年代の物質的窮乏に苦しむソビエトの人々に米国郊外の豊かさを見せつけました。ソビエトの人々にとって、このドラマが「なぜ自国の経済システムはかくも後れをとってしまったのか」と考える大きなきっかけになったといいます。自由民主主義諸国の豊かさとそこから由来する大衆文化の魅力が、ソビエトの民主化・自由化につながったのだと指摘します。
しかし、現在では、中国などの非民主的な国々の多くも急速に豊かになっています。おそらく現代の中国人にとって、米国の今の経済的状況を見ても、それほど自国との差を感じないでしょう。

モンク氏らは、現代ではかつてのように経済面や文化面での羨望が、新興諸国の人々に自国の制度を改め、自由民主主義を採用しようという動機付けを与えることにはならないのではないかと危惧するのです。
モンク氏らは、このように論じ、自由民主主義の将来について悲観的な展望を提示します。

近い将来、自由民主主義は、経済的にも人口動態的にも衰退する世界のごく一部でのみ続く、魅力のない政治形態として認識されるようになる可能性が少なくないというのです。

少々異なる角度ですが、欧州の先行きに対して非常に悲観的な見通しを示す本もあります。ダグラス・マレーという英国のジャーナリストが著した『ヨーロッパの奇妙な死──移民、アイデンティティ、イスラム』という本です。中野剛志さんの新刊『日本の没落』(幻冬舎新書)で紹介されていたのですが、衝撃的な内容です。

著者のマレー氏は、欧州は、自殺しつつあると述べます。近年の大規模な移民・難民の受け入れにより、欧州はその文化的アイデンティティを喪失しつつある。ヨーロッパ人は自分たちの故郷を、近い将来、失うと警告するのです。
マレー氏は、本書を次のような文章で始めています(中野さんの訳文をかなり拝借しています)。
「ヨーロッパは自殺しつつある。あるいは、少なくともヨーロッパの指導者たちはヨーロッパを自殺に追い込むことに決めた」。
「私が言っている意味は、ヨーロッパとして知られる文明が自殺の過程に入っており、イギリスであれ他の西ヨーロッパの国であれ、どの国も、同じ兆候と症状を示しているので、この運命からは逃れられないということだ。結果として、現在生きているヨーロッパ人のほとんどの寿命が終わるころには、ヨーロッパはヨーロッパではないものになり、ヨーロッパの人々は世界の中で故郷と呼べる唯一の場所を失っていることであろう」。
マレー氏の本には、「英国をはじめとする西欧諸国がどのように外国人労働者や移民を受け入れ始め、そしてそこから抜け出せなくなったのか」、「マスコミや評論家、政治家などのインテリの世界では移民受け入れへの懸念の表明がどのようにして半ばタブー視されるようにいたったか」、「彼らが、どのような論法で、一般庶民から生じる大規模な移民政策への疑問や懸念を脇に逸らしてきたか」などが詳細に論じられており、非常に興味深い。

 

モンク氏らやマレー氏の議論から私が思うのは、自由民主主義諸国は、新自由主義やそれに基づくグローバル化というイデオロギーに80年代以降、徐々に侵されてしまい、自由民主主義諸国が本来持っていたはずの良さ(利点)を失ってしまったのではないかということです。
たとえば、自由民主主義諸国の良さの一つは、各国の一般庶民の声を聴きつつ、彼らがいきいきと暮らすことのできる環境を作り出すことにあったのだと思います。多数の普通の人々が、落ち着いて自分たちの能力を磨き、発揮しやすいような環境を整え、彼らの力を最大限引き出し結集することを通じて、豊かで安定した社会を実現することにあったのだと思います。
ここで、多数の普通の人々の能力を最大限に引き出す環境というのは、当然ながら各国ごとに異なります。それぞれの国や地域の文化や言語、生活慣習や商慣習、あるいは発展段階に応じて、多様なものとなるはずです。
自由民主主義の政治の良いところは、本来、普通の人々の声に耳を傾けつつ、試行錯誤的に、彼らにとって暮らしやすい社会を模索していくところにあったはずなのです。いわば「各国の庶民ファースト」の政治です。それが自由民主主義諸国の豊かさや安定にもつながったのです。
しかし、新自由主義やそれに基づくグローバル化というイデオロギーの熱病に取りつかれてしまい、自由民主主義諸国は、いまでは、それぞれの国民の声よりも、グローバルな投資家や企業の声のほうに耳を傾けるようになってしまいました。
近年、米・欧・日の諸国は、多かれ少なかれ、各国・各地域の文化や言語、慣習、発展段階などを無視して、グローバルな投資家や企業が稼ぎやすい「グローバル市場」の創設を第一の目標とする構造改革を断行してきました。その過程で、かつては「日本型市場経済」「ライン型(ドイツ型)市場経済」「北欧型市場経済」などといった経済社会の文化的多様性も失ってしまいました。
そして、その行きつく先は、モンク氏らが指摘する「民主的世紀の終わり」であり、マレー氏が告発する「ヨーロッパの自殺」「奇妙な死」といった衰退現象なのではないかと思います。

こうした現状をどのように改善していくべきでしょうか。そもそも改善は可能なのでしょうか。
私なりに簡潔に述べれば、必要なのは、「自由民主主義」を捉えなおし、それと「新自由主義」やそれに基づく「グローバル化」との結びつきを断ち切ることではないかと思います。そして、「自由民主主義」のなかにナショナルなものの大切さをきちんと位置付けることではないかと思います。
また、いわゆる「ポピュリズム」をバカにしたり、敵視したりするのではなく、ポピュリズムと言われる現象のなかに庶民の至極真っ当な不満や反発が含まれていることを直視すべきなのではないかと考えます。 (引用おわり)

 

それにしても、こうした本質的な議論が、どうしてマスメディアの俎上に乗らないのか、不思議です。

消費税増税反対や移民拡大反対が、世論として盛り上がらないのは、マスメディアが、その機能を放棄しているからではないでしょうか。

まともな経済学

経済180503

私も経済学徒の端くれだと自認していますが、経済学という学問が、世の中を悪くしていると思えてなりません。変数が多く、複雑系の世の中を、単純化し、理論構成していくという手法が、決して人々を幸せに導いているとは思えないのです。

ことのほか、ヒト、モノ、カネが国境を越えて自由に移動させ得るものとして、設定する手法は、国際金融資本のためにはビジネスチャンスを増やすことになりますが、先進国の庶民の生活レベルを向上させるとは思えません。

ピゲティの指摘を受けるまでもなく、日本国民は、実感として感じているはずです。

 

ところが、私のような指摘は、なぜか少数派にとどまり、多数派になることはありません。

1989年消費税創設以降、法人税軽減とセットで税制改革が行われてきましたが、この結果、税収が落ち込み、多額の国債残高になってしまった。1997年に5%に引き上げた以降は、完全にデフレになってしまい、経済は成長していない。

講演で、そういう指摘をすると、官公庁関与のものでは、なぜか「政治的発言」として、警告を発せられます。この国は、言論の自由まで、なくしてしまったのでしょうか。

私のように地域活動していると、地域に密着した商売をしている人の苦衷が察せられます。

人手不足が深刻になり景気が上向いているような報道もありますが、実質賃金は4年連続のマイナスになり、可処分所得は上向かず、消費が低迷している現状に変化はありません。

競争が激化し、おそらくどこも付加価値が確保されずに、賃上げなど考えられないという経営者が多いのではないか、と思います。

 

にもかかわらず、政府主導で賃上げが提唱され、それに応えようとする一部企業があるそうですが、いつから日本は、こんな社会主義国家になったのでしょうか。

一方で、相変わらず、構造改革が足りない、などのことを言っている。矛盾も甚だしい。

構造改革というのは、既得権益を排除する目的だからすべて競争を激化させる改革です。

今、日本経済に必要なのは需要の拡大です。世帯所得が低下しているのですから当たり前です。公共投資と設備投資と研究開発投資以外に、需要拡大はあり得ません。

そういう投資が行われやすい環境を整備するのが、政府の役割でしょう。大企業は、海外で企業買収ばかりをやっているようですが、これでは国内に安定した雇用は生まれません。

 

諸悪の根源は、日米構造協議などで、日本の文化基盤などを考慮せず、アメリカに追従し、グローバル化を無原則に図ったことによるものではないのでしょうか。

日本の大企業は株主資本主義化し、配当重視の資金効率一辺倒の経営になっています。

金融資本主義化した経済は、株式、為替、商品、債権などの投機場で、実体経済と離れたところで、バクチばかりをしています。

株が上がった下がったと一喜一憂していますが、もはや日本の株式売買の三分の二は外国資本によるものです。アメリカの金融業は、彼らの稼ぐ付加価値は、全米の40%にもなるのだそうですが、彼らに儲ける場を提供してきた、というのが、ここ30年のグローバル化の実態です。

 

そういう実態に警告を発し、経世済民に基づいた経済学を提唱している学者もいます。

スーザンストレンジやスティグリッツなどは、何度も取り上げていますが、日本人では、海外で活躍していた宇沢弘文、森嶋通夫、青木昌彦などや、学者というより評論家として認知されている西部邁、佐伯啓思、金子勝ぐらいなものでしょうか。

いずれも、経済という範囲にとどまらず、広く社会全体に関心を持ち、自分の問題意識に従って学問に向き合った人たちです。

 

副島隆彦著『今の巨大中国は日本が作った』という本の中に、

1980年代、ヘンリー・キッシンジャーとトウショウヘイが話し込んで、「次の時代の中国を作る人材を育成してくれ」ということで、アメリカにたくさんの学生を送り込んだ。
その超秀才の中国人留学生たちに、豊かになるための理論経済学の真髄を教えたのは、

森嶋通夫教授と青木昌彦教授である、ということが書かれてある。

ということは、彼らはまともな経済学を勉強しているということだ。

 

一方の、御用学者というのは、「タコツボ学者」ばかりで、ハイエクやフリードマンの世界しか知らず、指導教官に忠実で、学者ムラで順調に出世してきたような人たちばかりです。

この人たちの発言を聞いていて、例えば、

・アメリカとは どういう国か

・中国とは どういう国か

・日本の強み・弱みは何か

・「三種の神器」とは何の象徴か

・なぜ、日本は太平洋戦争を戦ったのか

・「覇権」「公正」「正義」とはどういうことか

・「自由と民主主義」の問題点は何か

といった世界観・歴史観の根幹について、彼らには、考え抜いた形跡を感じないのです。

 

いずれにせよ、経済学の世界では、今までの「権威」を疑い根本からそれを覆すことから始めなければなりますまい。これまでのリーダーの反省として、依拠した理論が間違っていたという問題提起があるべきです。ところが、若手以外は誰も「因果」を解明しようとしないこの日本、ますますの地盤沈下が待っているような気がしてなりません。

最近の中国関連記事から(5)

経済180404

習近平は「小事を忍ばねば大禍に乱れる」という帝王学を理解している。忍従しながらもコツコツと権力基盤を確立し、昨年10月の第19回共産党大会と今年3月の全国人民代表大会を、波風立てずに終了し、独裁体制を確立した。そして、アメリカに売られたケンカ、貿易戦争を真正面から戦う姿勢である。国内体制の米中比較から中国有利とする説もある。

それを解説する記事を取り上げる。

引用:

この二つの重要会議で採択されたのは、一言で言えば、中国は今後、「習近平の強国」に生まれ変わるということだった。
1978年から現在まで、ケ小平が主導した「改革開放の時代」が40年続いた。自国の経済発展のために外資を呼び込み、外国に中国製品を売っていく「世界と協調する時代」である。
ところが、中国式に言えば、「パンダは竜に生まれ変わった」。今後は「プーチンのロシア」のような、「習近平の中国」を作っていくのだ。太平洋の向こうのトランプ大統領が「アメリカ・ファースト」を標榜するように、習近平主席も「中国第一」を貫いていくのである。
そんな「生まれ変わった中国」が出帆した時に、アメリカから貿易戦争を仕掛けられた。となれば、当然ながら中国は「奉陪到底!」と凄んで、受けて立つまでなのである。
北京で痛感したが、アメリカから宣戦布告されたことによって、習近平政権の求心力がものすごく強まった。トランプ大統領は、貿易戦争の布告によって、自国の経済を弱らせ、かつ世界ナンバー2の中国のパワーと結束を強めてしまったのだから、皮肉なものだ。

 

呉正竜・元駐クロアチア大使の主張を紹介しよう。日本を絡めて論じていて、興味深いからだ。
「トランプ大統領はレーガン大統領を崇拝していて、レーガン時代に通商代表部副代表を務めていたのが、いまのライトハイザー通商代表だ。

レーガン大統領が1980年代に、日本との貿易摩擦に勝利した体験に基づいて、同じ手法で中国との貿易戦争を展開しようとしている。
だが現在の中国は、以下の5つの理由によって、『第2の日本』にはならない。
第一に、当時の日本は貿易の4割をアメリカに頼っていたが、中国は全方位貿易を行っていて、アメリカ向けは全体の2割に満たない。すでに世界の130ヵ国が、中国を最大の貿易相手国にしているのだ。
第二に、米中経済は相互依存が進んでいて、すでにアメリカの45の業界が、今回の措置に反対する声明を発表している。
第三に、日本は1985年のプラザ合意で標的になり円高誘導され、バブル経済の後に失速した。この経過を、中国はつぶさに研究しており、同じ轍は踏まない。
第四に、日米関係は日米同盟による主従関係のため、日本は最終的にはアメリカに妥協せざるを得ない。だが中国はアメリカと同盟関係ではなく、対等な独立国なので、アメリカの規制を受けない。
第五に、1980年代にWTOはなかったが、いまや自由貿易を支持する国際社会が、こぞって中国の味方だ」 (引用おわり)

 私は、1990年代の「日米構造協議」に出くわし、こんな弱腰の通商交渉をしていたのでは、やがて日本経済は沈没すると危惧していたが、やはりその通りになった、と感じている。

しかし、当時も今も、私の主張は主流になることはなく「負け犬の遠吠え」でしかない。

今もって「日米構造協議」を反省する論調は見当たらない。

アメリカさまのごり押しを非難せず、むしろグローバル化は時代の流れとして「構造改革」でアメリカ化を進展させるべき、という論調がまだ主流を占めている。

そこに存在する「下劣で恥ずべき行動原理」に気づかずにいる。こんなに株主資本主義化、金融資本主義化にしてしまっては、格差の拡大・地方の疲弊・少子化は止まらない。

規制緩和で競争政策ばかりを重視するものだから、企業は付加価値を確保できない。

その結果の経済停滞なのである。日本では、日本人の倫理規範に合致した資本主義を構築すべきである、という故森嶋通夫教授の指摘通りの事態になっている。

しかし、最近、このブログを書いていて、引用で事足りることが多くなった。それだけ、時代が私の主張に近づいているのを感じる。だから、世の中の変遷を見ることが楽しい。天下晴れての素浪人であるからして無責任ではあるが・・・。

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