アトキンソンの暴論

経営200906

自民党総裁選挙が行われ、菅義偉氏が総裁に選ばれました。経済オンチの菅氏、外交オンチの石破氏、政治オンチの岸田氏の争いでしたから、当初から、期待はしていませんが、菅氏が選ばれた以上、今後警戒すべきポイントを書いておきます。というのは、更に経済の低迷が長期化し、場合によっては、大不況へ突入すると思われるからです。

そう考えていたところに、丁度、伊勢雅臣氏のメルマガを受信しました。

経営の観点から、まことに適格に、政治の課題を論じています。引用してご紹介します。

引用:

1.「零細企業の倒産は日本にとってプラス」
「零細企業の倒産は日本にとってプラス」という挑発的なタイトルの記事が、月刊『Hanada』7月号に掲載されていました。コロナ禍で多くの零細企業が倒産の危機に直面していますが、それは日本経済にとって「プラス」だと言うのです。筆者はデービッド・アトキンソン氏。英国出身で1990年に来日し、ゴールドマン・サックス証券会社などに勤務した後、現在は美術品の修復などを行っている株式会社小西美術工藝社の代表取締役社長を務めるという異色の経歴です。
2015年に出版した『新・観光立国論』は、安倍政権の外国人観光客増を狙った政策の下敷きになったようです。次期総理と目される菅義偉・官房長官はこの6月にも、コロナ後の2030年には外国人観光客6千万人の目標を実現させたいとぶち上げており、菅内閣が発足しても、アトキンソン氏の提言を元に経済政策が展開されそうです。
アトキンソン氏は最近、日本の生産性の低さは先進国の中で際立っており、それはあまりにも中小企業が多いからで、最低賃金を継続的に上げて、中小企業に生産性向上を迫り、それによって整理統合を進めるべきという主張を展開しています。菅氏もこの政策を実行するかも知れません。
テレビの『下町ロケット』に見られるような日本人の中小企業好みを真っ向から否定する大胆な提言で、あちこちで反論を引き起こしているようです。
ちょうど筆者は10月から「世界に誇る『和の国』の経営」という新しいLive講座シリーズを始めますので、日本の伝統的な三方良し経営の視点から、アトキンソン氏の主張を検討してみましょう。


2.零細企業の生産性の低さ
まずはアトキンソン氏の主張を辿ってみましょう。驚かされるのは、日本の生産性の低さです。生産性は一人当たりGDPで計られますが、これは国内で生み出された価値、すなわち労働者の給料や企業利益、国が徴収した税金、預金金利などの総額を国民一人あたりとしたものです。
我が国の2018年の一人あたりGDPは世界28位、4万4千ドルに落ち込んでいます。台湾5万3千ドルにも抜かれ、主要国で日本より低いのは韓国やイタリア、スペインくらいです。日本は1990年には世界9位でしたが、その後は低迷が続き、右肩上がりの諸外国に、次々に抜かれていったのです。
なぜ、これほど生産性が低迷したのでしょうか。アトキンソン氏は、その原因が「規模が小さい中小企業が多すぎる」ことにある、と指摘しています。従業員20人未満の会社をここでは「零細企業」と呼びましょう。日本全体で零細企業で働く人の割合は20%強ですが、付加価値では14%。すなわち全人口を100人とすると、零細企業で働く人々が20人強で、14人分の価値しか生み出していません。一人あたりでは0.7人分、国民全体の平均の7割の価値しか生み出していないのです。
この傾向はどこの国でも同じで、零細企業で働く人が何割いるかで、国全体の生産性がほとんど決まってしまいます。零細企業での労働人口比率が日本より高い国は、イタリア30.9%、スペイン27.3%などで、いずれも日本より生産性の低い国々です。逆に率の低いドイツ13.0%、アメリカ11.1%などは日本よりはるかに高い生産性を維持しています。
零細企業の生産性が低い理由は単純です。従業員20人未満では、新製品や新技術を生み出す人的余裕がなく、またコンピュータや高度な自動化設備を導入しようにも資金的余裕がないでしょう。
我が国には世界トップシェア、トップ技術を誇る中小企業が1千社もあることを紹介しましたが、そこで登場する企業は数百名規模が中心です。一口に中小企業と言いますが、20人未満の零細企業は分けて考えた方が良さそうです。


3.零細企業を激増させた1963年の「中小企業基本法」
我が国は昔から、これほど零細企業が多かった訳ではありません。1964年頃を境に激増しました。たとえば1975年の219万社が95年には389万社と170万社、8割近くも増えています。そのうち約150万社が従業員10人未満の企業です。その結果、それまで1社あたり従業員が平均25人程度だったのが、1986年には12.9人とほぼ半減しました。
当時は労働人口が増加していた時期で、より多くの勤め先が必要でしたから、規模は小さくとも生産性が低くても、とにかく企業数を増やすのは、合理的な政策でした。そのために1963年に制定されたのが「中小企業基本法」でした。法人税率の軽減、交際費の損金処理などの優遇措置が定められました。たとえば、現在でも資本金が1億円以下なら、年800万円以下の所得に対する税率は15%、交際費は800万円まで損金計上が認められています。
アトキンソン氏は、この制度では企業が大きくなると優遇措置を失ってしまうので、多くの経営者に企業を成長させようという動機をなくさせてしまった、と指摘します。
すべての中小企業ではそうだというわけではありませんが、税金を払わない企業の多さと、いつまで経っても中小企業の壁を越えようとしない企業の数から判断すると、現行の制度はかなり悪さをしています。
労働人口が増加する時期に、このような企業を増やす政策をとったのは正しい方向でしたが、労働人口が減少する現在においても、この政策を続けている所に問題があります。


4.最低賃金を上げて、生産性向上を
この問題認識のもとで、アトキンソン氏が提案するのは、最低賃金を毎年5%程度上げて、零細企業に生産性を上げるよう迫る。それができない企業は、事業を畳むか売るかして、整理統合を進める、という政策です。
日本の零細企業が守られているもう一つの要因として、最低賃金の低さがあります。氏は各国・地域の最低賃金を比較していますが、そこでの23の国・地域のうち、日本は18位の7.10ドルに過ぎません。10位の台湾10.09ドル、13位の韓国8.32ドルにも水を開けられています。
日本政府は最低賃金1千円を目指して、年率3%程度の引き上げを図っていることを決めています。しかし、時給1千円では、年間2千時間働いて、ようやく年収2百万円です。安倍政権の下で、2016年以降、毎年3%ほど引き上げられてきましたが、まだこの水準なのです。
最低賃金が引き上げられると、中小企業が倒産し、大量の失業が出る、と言われますが、確かに単年で12%以上、引き上げるのは危険だと、海外の経済学者も指摘しています。韓国の文在寅政権のように、2年間で30%も最低賃金を引き上げて、失業率が急上昇し、リーマン・ショック以来の最悪となった例があります。
一方、年数%程度の上昇率では問題ないとして、アトキンソン氏はイギリスの例を挙げています。イギリスは1999年に最低賃金を導入し、いままで年平均4.2%引き上げてきて、20年で2.2倍になりました。イギリスの経済団体も、企業が潰れて失業率は上がると脅していましたが、それは起こりませんでした。それどころか、最低賃金で従業員を雇っている企業の生産性向上が確認されたそうです。


5.赤字企業は世間良しを達成していない
さて、このようなアトキンス氏の提案を、我が国の伝統的な経営思想である「三方良し」の考え方から見てみましょう。まず、企業は「世間良し」でなければなりません。企業の存在意義は、事業を通じて価値を創りだし、世間にお届けすることです。この価値とは何でしょうか?
たとえば、家族と従業員の5人で経営している定食屋さんがあったとします。ここでは材料費や人件費、光熱費合わせて、400円ほどの原価をかけて、500円の定食を提供しています。味も良いし、ワンコインと安いので、お店はいつも満員です。500円の定食でお客が来るなら、その価値は少なくとも500円分はある、ということになります。
また原価400円とは、その定食を作るために消費した材料費、人件費、光熱費などの価値です。この定食屋さんは400円の価値を消費して、500円の価値を創りだしているわけで、付加価値は100円となります。この100円分の付加価値の一部を、定食屋さんは税金として政府に納め、それで政府が治安、防衛、福祉などを行います。こうした事業を通じて提供される価値によって、世間は成り立っているのです。したがって「世間良し」とは、黒字を達成して、世間のお役に立つ事です。
隣りに惣菜屋さんがあって、400円の弁当を450円の原価を使って販売しているとします。この惣菜屋さんは世間の価値を450円消費して、400円分の価値しか創れなかったということで、その事業によって、世間から50円の価値を消滅させてご迷惑をおかけしている、ということになります。
したがって、赤字企業は世間良しを実践できずに世間にご迷惑をおかけしている企業ということになります。早く黒字化するか、それができないなら、事業を売却するか畳むか、すべきです。この点は零細企業でも大企業でも同じ事です。零細企業では最大800万円までの交際費を損金処理できるとのことですが、もしそれをムダに使って、利益をゼロに抑えているような経営をしていたのでは、世間のお役に立っていない、世間良しから外れた経営をしているということになります。
また、アトキンソン氏は、同書で「護送船団方式」の弊害を指摘しています。赤字企業でも、潰れないように守っていく、というのは、本来の三方良しから外れた考え方です。一時的な倒産の危機を周囲から助けて貰うのは良いとしても、恒常的な赤字企業を助けるべきではありません。


6.零細企業の売り手良し
次に、最低賃金の問題を「売り手良し」から考えて見ましょう。売り手良しとは、事業主や株主よりも従業員を第一に考えます。最低賃金が1千円では、年間フルタイムで2千時間働いても、年収2百万円です。総務省の家計調査(2019年)によると、一人暮らしの生活費の平均額がちょうど年間2百万円ほどですから、これでは結婚や出産、あるいは病気や災害に備えた貯蓄はできません。
売り手良しとは、従業員が人間らしい生活をし、かつ職場で生きがいを持って働けるようにすることです。したがって最低賃金で従業員をこき使っているようなブラック企業は、売り手良しの面で失格です。
零細企業でも、上述の定食屋さんなどは利益を出しているので、最低賃金以上の給与を支払えるでしょう。しかも安くておいしい定食で、お客に喜んで貰えれば、従業員の働きがいもあります。
日本で零細企業で働く従業員は20%強ですが、アトキンソン氏によれば、最低賃金で働いている人は、その半分ほどということですから、それ以外の零細企業はちゃんと最低賃金以上の給与を支払っているということになります。
三方良しでは、黒字経営で世間良しの責任を果たし、最低賃金より高い給与を支払って売り手良しを実践していれば、どんな零細企業でも良いと考えます。零細という規模そのものが問題とは考えないからです。アトキンソン氏は国全体の生産性を高めるために零細企業を減らしていくべき、と考えているようで、この点が違います。


7.経済と経営の正道
それでは、最低賃金を上げて零細企業にも生産性向上を迫る、という氏の提案は、どうでしょうか? この提案には強い抵抗があるそうです。それはそうでしょう。まず、この政策には経済的合理性はあっても、人々を納得させるだけの倫理的・道徳的な説得性がありません。だからこそ、「一生懸命やっている零細企業を潰してもよいのか」という情緒的な反論が出てくるのです。
我が国には、三方良しという経営の理想があるのですから、この理想から、赤字企業、あるいは無理な低賃金で従業員をこき使っているブラック企業は、企業としての存在意義を果たしていないという「良識」を徹底させるべきです。そして、こういう企業の経営者は経営者失格で、世間にご迷惑をおかけしている存在なのだ、という「倫理」を広めるべきです。
また、最低賃金をあげて生産性向上を迫る、という力技の前に800万円もの交際費の損金処理など、彼が「現行の制度はかなり悪さをしています」と言う制度自体を直すべきでしょう。政府が企業を特定の方向に誘導する人為的政策は減らしていくべき、と自由市場経済を原則とする三方良しでは考えます。
保護政策を止めたら潰れるような企業は、そもそも世間良しを果たしていないのですから、速やかに廃業して、従業員がより生産性の高い、世間のお役に立っている企業にスムーズに移れるようにすべきです。それこそが人材を大切に使う道であり、人口減少時代にふさわしい労働政策です。
一方で、低賃金狙いで外国人労働者を入れることは、賃金相場を下押しします。人手不足対策としても、企業の省力化努力を阻害します。外国人労働者を入れることは、たびたび論じているように、社会の安定を乱して世間良しにそぐわず、本人も金に釣られて母国から引き離されるわけで、売り手良しにもなりません。
発展途上国でも、わざわざ外国に出稼ぎに行かなくとも、母国で家族とともに幸せに暮らせるように経済発展の協力をする、それがその国での三方良しを実現する政策です。
このように、外国人労働者の流入を止め、世間にご迷惑をおかけしている赤字企業、ブラック企業には退場して貰うことで、賃金も自ずから上昇し、企業と国家の生産性も上がっていくでしょう。これが三方良しが目指す経済と経営の正道です。   (引用おわり)

生産性とは、粗利率のことであり、通販の拡大などによる商流変化、規制緩和による新規参入企業の増加、コストダウン狙いのグローバル化、などによる供給側の競争激化で、企業が期待する利益を確保できない状態にあり、これが粗利率の悪化という形で、生産性低下の要因になっています。

そして、労働市場の規制緩和により、低賃金労働者が増え、家計所得の低下により総需要が減少、これでは、いくら金融緩和をしても、物価は上がらず、デフレからの脱却も不可能です。

要するに、菅氏は、生産性の意味も理解できず、1人当たりGDPが世界28位まで低落した因縁果を理解していません。だからアトキンソンなどの日本人の価値観・倫理感の理解できない者の提唱する政策を支持するのです。政治家の劣化は、留まるところを知りません。お粗末の極みです。

コロナ禍で大変な思いをしている中小零細企業の皆さん、ご覚悟めされよ。とんでもない時代がやってくる。               

構造主義の経営学

経営200610

就職するとはどういうことでしょうか。規模の大小にかかわらず、そこにはすでに「儲かる仕組み」があり、あるいは「儲かる仕組み」を構築できる見込みがあり、それを維持し、または拡大するために、会社も人を雇うわけです。

最初は、誰しも給料分の働きはできませんが、いずれ仕事を覚え、組織に役立つ働きをしていかなければなりません。そして、役割を与えられ、存在を認められ、周囲から評価される、というプロセスを踏むわけです。日本における経営とは、「育てる経営」にほかなりません。

 

考えてみれば、封建時代に藩に出仕する、ということと何ら変わらないシステムです。家制度があった封建時代は、世襲を原則としていましたが、今は自分が選ぶ、というだけの違いです。

中世においても、大名に仕えるということは、本領を安堵された「御恩」に報いるために、家臣として忠誠を尽くしたのです。

こうした関係は、われわれが想像する以上に、ドライな関係であったようです。ついていったら身を亡ぼすと考えられる場合は、「逃散」や「脱藩」が結構あったようです。戦国時代、人望のない大名は手勢が集まらなくって苦戦するといった事実が、それを物語っています。

 

梅棹忠夫に『文明の生態史観』という名著があります。

資本主義がまともに発展したのは、西欧と日本だけなのはこの封建時代を経たからだ、という記述がありますが、こうした雇用契約に関する原則が、社会に浸透していたからだ、ということです。換言すると、「信用・信頼」をキーワードに、近代精神が醸成されていたのです。

さらに、武士道や騎士道といった、倫理規範の確立を前提として、資本主義は発展してきたのです。

言葉を変えると、資本主義には、「武士は食わねど高楊枝」といったやせ我慢の美学、「ノーブレス・オブリージュ」という自律の精神が必要だということです。加えて日本には、渡部昇一氏がよく取り上げていた「石門心学」という伝統的な規範意識が浸透しています。「三方好し」の基盤です。

一方で、ユーラシア内陸における国家においてはまともな資本主義は望むべくもありません。中国やロシアが、「権威主義的」な国家しか成立させことしかできず、いびつな資本主義でしかないのもむべなるかなと考えられるのです。民族の攻防の中で、常に「パワー」でしか問題解決の手段を持ちえない歴史を積み重ねてきたのです。中国などは「易姓革命」を繰り返してきましたが、権力を奪取すればその正当性確保のために常に都合よく歴史を「ねつ造」してきた国です。

 

そんな国を、WTOという同じ土壌に引き込んで、一儲けしようと企んだ国際金融資本やその利益代表として動いたアメリカ親中派の不見識は、これまで縷々解説してきましたので、もうこれ以上、触れませんが、それにしても、わが日本のリーダーの不見識については、返す返すも残念です。

2000年に及ぶ大陸との交流の歴史から、時代時代で文書により教訓が残されていたのですから。

日本の国柄に対する理解が徹底的に欠けていました。しかも今もって反省の姿勢すらありません。

 

ただ、資本主義社会では、資本の増殖が基本原理として働いていますので、いくら「公益資本主義」と言っても、赤字が慢性的に続く、といった事態は許されません。社会から引導を渡されている、と考えるべきです。現在の経営環境を考えると「海の国企業」も「山の国企業」も大変だと思います。

中国という国家資本主義の国が、過剰投資・過剰債務・過剰設備を抱えながら調整する仕組みを持たず、それ行けどんどんとばかり、「一帯一路」に邁進しています。一方の無責任大国アメリカは、宗旨替えをして、「アメリカファースト」などとやっています。言葉はレトリックとばかりに、身勝手放題。

こんな国々と、「海の国企業」は、競争しているわけですから余程タフにならなければなりません。

「山の国企業」は、ただでさえ消費税増税で苦しいところに、今回のコロナ禍で、さらなる需要減少に見舞われているのですから、どこも難しい経営環境に陥っていることは、簡単に想像できます。

 

ただ、焦りは禁物です。塩野七生氏は『逆襲される文明 日本人へ』のなかで、古代ギリシャやルネサンス期のローマの歴史を見ながら、国が停滞期に入ったとしても人材はそこにいる。人材を活用できない仕組みの問題である、と喝破しています。日本は同調圧力の強い社会と言われていますが、それはすなわち優秀な人が弾かれ、凡庸な人ほど生きやすいということを意味します。また、リストラ主義だと短期に回復を達成できるが、それとて長くは続かないと歴史的事実で述べています。実際、リストラを繰り返しながらも、どんどん衰退していった日本企業の実例を、われわれは目の当たりにしています。企業は衰退し、日本全体が、30年にも及ぶ停滞期から抜け出せていません。

「もっと歴史からの教訓に学べ」と塩野七生氏はイタリアの地から忠告してくれています。

青沼 陽一郎氏の文章から

経営200604

『帰還せず−残留日本兵戦後60年目の証言』の著者青沼 陽一郎氏が最近の政治情勢を憂い、インパール作戦を強行した時代と何も変わっていない、と指摘している。同感である。私情が絡み、組織としての正常な判断ができていない。日本人の陥りがちな「組織体質」の問題である。人間の行動原理には、損得・好悪・正邪の物差しがある。それはやむを得ない。しかし、組織として考えれば、マネジメントをして、常に軌道修正していく柔軟さが求められる。それができず、トップの方針が決まると、それに全体が引きずられ、思考停止して、一丸となって突き進む。失敗を失敗として評価できず、精神論がはびこり居心地の悪い組織がまた横行しているのではないかという警鐘である。組織が「何を言っているか」より「誰が言っているか」を重視するようになったら、もうおしまいである。別に政治の世界に限らず、こうしたことはどこにでもある「日本の日常風景」である。青沼氏の文章を、かいつまんで引用し、ご紹介しておこう。

引用:

インパール作戦という最も無謀と評される作戦を立案、指揮したのが第15軍の司令官だった牟田口廉也中将だった。同軍の幕僚はこの作戦に反対するが、それに牟田口は烈火の如く怒り、精神論で押し通し、参謀長を解任までしている。上部組織のビルマ方面軍、南方軍も補給の重要性を説いて反対するが、聞く耳を持たない。しかも、上官の河辺正三ビルマ方面軍司令官も「何とかして牟田口の意見を通してやりたい」と語って止めようともしなかった。

河辺と牟田口は日中戦争の引き金となった盧溝橋事件の旅団長と部下の間柄で独断で出撃命令を出したのが牟田口ならば、これを追認したのが河辺だった。もはや私情がこの作戦を動かし上官の意向を忖度した幕僚たちはなにも言わなくなった。

安倍政権が、それまでの国家公務員法の解釈を変更して、黒川弘務東京高検検事長の定年を延長したのは今年1月末のことだった。その理由も「余人をもって代え難い」というばかりで、はっきりせず、黒川を検事総長にするためではないか、との憶測を呼んだ。次に、検察官の定年を法務大臣や内閣の判断で延長できるとした検察庁法改正案が国会で審議入りすると、SNS上でも反対の声が広がり、今国会での成立が見送られた。挙げ句、黒川が自粛期間中に新聞記者と賭けマージャンをしていたことが発覚して辞職すると、この時の訓告処分もどこが下したのかで迷走する。しかも、賭けマージャンは明らかな賭博罪なのに起訴にも結びつかない。「私情」の臭いが漂う。

インパール作戦に限らず、日本軍の相次ぐ作戦の失敗は、作戦の目標や意図が具体性に欠けたり、現場まで明確に伝わらなかったことが、戦後の研究で指摘されている。作戦指導者の定見欠如と見通しの甘さもある。合理性と効率性を優先した強固な官僚組織だった軍隊が、その内側から崩壊して敗戦に突き進んだように、新しいウイルスとの戦いに臨む今日、同じ過ちを繰り返すことにはならないだろうか。日本はこれから戦後75年の夏を迎える。(引用終わり)

予断やこだわりが、判断力を狂わせる、ということはやむを得ない。新型コロナウイルスの発生源で感染が蔓延していた中国からの入国制限が遅れたのは、習近平の訪日が4月に予定されていたからではないか。制限措置がとられたのは、習主席の訪日延期が発表された3月5日になってからだ。PCR検査の少なさなども疑問だが、しかし、欧米に比べ圧倒的に死者は少ないのも事実だ。日本の新型コロナウイルス対策の成否を論じ、結論付けるのは時期尚早であろう。

経済対策も、確かにスピードが遅くモタモタしている感は否めない。ただ、30兆円を超える第2次補正予算が組まれ、やっと正しい方向に近づいてきた。日本にそもそも財政問題など存在しない。ただ、日銀の無茶苦茶な金融緩和は問題である。本来であれば、もっと円高になってしかるべきだ。日本の輸出はすでに半分近くが円で決済されていることを考慮すべきではないか。

大事なことは、何事にも歴史の検証に耐える記録を残し、日本人が少しずつでも賢くなる道を歩むことである。それができるようにあらゆる共同体を「学習する組織」にしていくことである。そのためには、「寛容な社会」を維持することである。社会には「正解」はないのだから。そういうコンセンサスが広がってほしいものだ。

鮎川義介の事業哲学

経営200511

日本資本主義の黎明期、「殖産興業」の旗印の下、日本の事業家たちは、「公の精神」にあふれていました。渋沢栄一が、一番有名ですが、なにも渋沢に限ったことではありません。岩崎弥太郎も今に残る「三菱三綱領」を制定していますし、安田善次郎も慈善事業を重ね、その善行の一部が東大安田講堂として残っています。

そうした「公の精神」にあふれた事業家の一人に、日産・日立コンツェルンを築き上げた鮎川義介がいます。

氏の事業哲学について最近、鳥内浩一氏の「ザ・リアルインサイト」が、特集して取り上げています。なぜこうした事業哲学がいま改めて話題になるのかというと、実業界が、グローバリズムの進展に伴い「株主資本主義」を導入しそれと共に欧米流の「卑しい精神」に汚染されていったからです。

この「卑しい精神」を鳥内氏は痛烈に批判しています。引用して、ご紹介します。

引用:
鮎川義介の事業哲学は、現代社会が抱える問題を解決する上で最も重要なものの一つです。
「上徳如谷」(じょうとく たにのごとし)という、老子の言葉があります。
山が二つあるところに谷ができます。山は目立ちますが、谷の存在に気付く人はまれです。
山には日の光が当たりますが、谷は日陰になります。しかし、人が住みにくい山に比べ、谷は盆地や平野として広がり、水をたたえる川を育み、沢をつくります。そこに動植物が自然に集まり、人々は住まいを作り、農耕を営み、その豊かな恵みで、生活していくことができます。
このように、谷は自らを一切主張せず、何一つ自己の所有とせず、人知れず生き物に豊かな環境と生活の糧を無償で提供してくれます。それはまさに、無償の愛そのものです。
「欲」という字は「谷を欠く」と書きます。リーマン・ショックやコロナ・ショックをはじめ、現代の様々な問題を生み出した根本原因は、人間の「欲」にあります。
であるならば、その問題を解決するために、もとを正す必要があります。
鮎川義介氏は、こんな言葉を残しています。
「己を空しうすることが、人の幾代かを要すると思われる大事業をも、よく一代で成し遂げられる」この哲学こそが、鮎川事業哲学の要諦です。さらに、氏は、こう続けます。
「終生富豪となることなしに天職を精進しよう。富豪心理は、おおむね人をして利己的に堕し、人類に好ましからぬ悪徳をなさしめるもので、それはひいては、その人のもつ天賦の才力のすべてを仕事に捧げようとする目的に対してむしろ邪魔になる。」
そして、この言葉の通り、「上徳如谷」の言葉が表わすがごとく、育成した企業に一切自らの名前を冠することなく、事業の成功を独り占めすることなく、自分の子供達に会社を継がせることもありませんでした。
さらに、日本全体の産業振興のために、中小企業を守る数々の法律の制定に貢献しました。
結果、現在の日産グループ・日立グループ各社をはじめとする160以上の大企業と、中小企業政治連盟を通じて数万の企業を育成。まさしく「己を空しうする」ことによって、人の幾代かを要すると思われる大事業を一代で成し遂げたのです。
氏は、また、こんな言葉も残しています。

「天体の運行が、万古不易の自然法則の下に為されるが如く、人界の経済現象も、自然の摂理に従って推移するものである。」
結局、現代社会が直面している大きな問題も、私達一人ひとりが直面している小さな問題も、「自然の摂理」に反した結果、生じたものだと言えるでしょう。
ごく当たり前のことのように聞こえるかもしれませんが、残念ながら、そうした「当たり前のこと」が忘れ去られてしまった結果が積み重なり、いま手に負えないほど大きな問題になっているのです。(引用終わり)

ここでいう「自然の摂理」とは何でしょうか。

私は、自分たちの自然な感情(家族愛、郷土愛、愛社精神、愛国心)などが、それにあたると思います。そのためには、「欧米流の強欲資本主義=株主資本主義」からの離脱、カネ中心からヒトを中心にする世界への転換を、われわれはいま、真剣に考えなければならないのではないでしょうか。今回の「コロナ禍」を契機に「自然の摂理」に裏打ちされた「まともな資本主義」に戻してもらいたいものです。「民のかまどの国」では、「三方好し」の経営が伝統であり、標準だったのです。

欧米流の強欲資本主義にいとも簡単になじんでいった経団連幹部などは認識不足もいいところで、一から「日本人としての基本」を、勉強し直してもらいたい。今の中西会長は、日立出身というから、笑っちゃいますよね。

日本企業の課題

経営200505

「コロナ禍」でやむなくテレワークを経験した結果、働き方改革に繋がっていくような気がしている。誰かが、意外とテレビ会議の方が、その場の空気を読んだり、上司に忖度しがちな風土から離脱でき、冷静で論理的なやりとりができた、と語っていた。

個人の目標が、そのまま組織の目標になり、そうした「従業員重視」の姿勢が、会社の「独自能力」に結びつき、「顧客本位」でサービス充実へ繋がり、業績と社会への持続的貢献をもたらす、という理想的な組織運営が可能だろうか。

そういったことに挑戦したかったが、周囲の理解が得られず、私は挫折した。だから、無責任なようだが、現役の人に挑戦してもらいたいと考え提案する。そこには、まさしく「日本的経営」があるのだが、人事評価制度の適正化、デジタルツール運用の工夫、相互信頼の組織風土、といったものが必要不可欠である。一つ一つ見ていこう。

評価制度の適正化:

「成果主義人事評価制度」が、一時流行った。この弊害が、どこの会社も、随所に出ているのではないか。組織運営が上滑りになり、要領のいいヒラメ人間ばかりが出世する、といったことになってはしないか。業績が悪化し仲間を売るといったことを平気でできる「人でなし」ばかりが会社に残る。ROEといった経営指標を重視し、四半期ごとの短期的利益を追いかける株主資本主義の下では、「成果主義人事評価制度」が整合する。そこが問題なのである。まずもって、株主資本主義からの離脱をする必要がある。東証一部上場会社で、それをする「勇気のある経営者」はいるであろうか。

成果・実績は、ボーナスで評価し、能力と資質で、昇格は決めるべきと、常々考えている。DoingとBeingを峻別しろ、ということだ。上位の役職ほど、コンセプショナルスキルが要求されるから当然のことなのだが、実際には、相当、評価者訓練しないと、運用が難しいのも事実だ。

デジタルツールへの工夫:

テレビ会議や業務報告のやり方に工夫が必要だ。報・連・相は、どんな時代でも、必要不可欠だ。そのためには、チャットで、日常業務を気軽に発信し、チームで共有化しておくことが有効だろう。そこに、自分の問題意識を絡ませておく。そうすると、何かの折に、適切なアドバイスも受けられ、疎外感を感じることも少なくなってくるのではないか。そして、どんな問題意識を持って働いているかを、その人の評価につなげることだ。私の経験でも、しっかりとして問題意識を持っている者は、職位が上がるほど、いい仕事をしている。潜在能力が、それだけあると考えてよい。成果という過去の実績は、運不運があるが、実務の中での問題意識でのみ鍛えられるコンセプショナルスキルは、「4つの積み木」をどれぐらい積みあげてきたかにより、資質と能力のメルクマールである。

相互信頼の組織風土:

それは、封建時代における御恩と奉公の精神の復活しかあるまい、と私は考えている。封建時代には、武士は、本領安堵という「御恩」に報いるため、「奉公」として、普段は官僚として労働力を提供し、いざとなれば戦闘にも参加したのである。しかし、納得できなければ、「逃散」すればいいのである。封建時代は、意外と、ドライな主従の契約がなされていたのである。共同体の中でご領主さまに共感するからこそ、命までをも提供するという決断をしたのである。そうした積み重ねが、共同体の基盤を盤石なものとした。それが、いつの時代でも、わが日本の伝統文化である。

風通しの良い組織風土を築いておかないと、日本的経営は、その前提が成り立たない。クリエーティブで強い組織を作り上げていくには、多様な「異能の士」を組み合わせて構築していくしかない。研究オタクや現場の鬼といった「異能の士」をうまく活用できる組織が、これからは勝ち残っていくだろう。もう、社内運動会や職場慰安旅行の時代ではないが、デジタルツールを活用しての意識共有化への挑戦は、なされるべきである。オープンコミュニケーションは、評価者訓練にもつながる。軋轢を恐れて、モノが言えないような上司は去れ、という厳しい場にもなるであろう。

頑張れ 関経連(2)

経営200308

「経済が日本化する」とは、外交戦略や国内の経済政策を間違えて、経済が成長せずに、社会が行き詰る、ということを意味します。不名誉なことに、いま、「コロナ禍」による、世界経済の日本化の懸念が、心配されています。それほど、日本は、この30年、異常事態を放置してきたのです。

BISやIMFといった国際金融資本や、ロビー活動でアメリカ政府を動かした超巨大企業によって、日本は、経済政策や外交政策を乗っ取られ、「属国化」してきたのだから仕方ありません。ようやく、日本の経済人も、そういう状況を認識し始めた、ということにすぎません。日本経済衰退の要因は、一つは、アメリカに経済政策や外交政策を乗っ取られたこと、もう一つは、個別企業の経営面でも、この30年の変革の流れの中で、「不具合」が積み重なってきたことです。

学習する組織・成長する組織の必要条件は                          

1−経営理念が組織内の隅々にまで共感を持って浸透していること、

2−上下左右の風通しの良くホンネの議論が活発に行われていること、

3−あたり前のことを当たり前に行うこと、即ち凡事徹底の重要性が組織に浸透していること、

です。いくつもの会社を見てきて、つくづくそう思います。それが近年、急速に進んだ株主資本主義化と成果主義人事制度が、邪魔をしているように思うのです。それが、日本経済衰退の要因の一つではないでしょうか。

冷戦後、アメリカの占領政策の転換により、日本の経済復興は急務となりました。朝鮮戦争が特需となり、傾斜生産方式が採られ、その後、急速な経済成長を遂げることができました。勤勉な大量の労働者のおかげで、貯蓄率が高く、間接金融で資金も十分調達できていたのです。技術もそれなりに戦前から踏襲できていました。ヒト・カネが揃い、技術もあったから、モノはすぐに揃いました。

国際競争に勝つためには大企業が必要です。第2次世界大戦後に解体された旧財閥系の銀行が中心となって、企業集団を再編しました。働く人たちの帰属意識を高めて仕事に集中させる仕掛けが、終身雇用と年功序列型の賃金です。あすを保証するから、きょう頑張れ。高度経済成長期の人々はあすを信じて働き、日本を経済大国に押し上げました。このシステムは、封建制度を経験した日本人の倫理規範と相性のいいものでした。それは「御恩」と「奉公」との互恵の契約観念であったのです。

封建制度は、西欧と日本にしか成立していません。

そういう形で、社会が成熟していたからこそ、「民主主義」や「資本主義」が定着したのです。それは人権や契約の概念を確立した西欧と、武士道を倫理規範とした日本だけでした。

日本では、本領安堵という御恩に報いるための奉公を、労働力の提供という形で対置したのです。 会社という共同体の中で、集団戦を戦うときに、風通しがなによりも重要ですがこのシステムは、それを可能にしました。

そして、それは、何よりも日本の持つ「育てる文化」を発展させました。今のようにリストラにおびえるような組織では誰も部下を育てようとはしません。育つと自分が追い出されてしまうからです。

同時に、キリスト教という背景のない日本人にとっては、「集団と個人の関係性」に重きを置かざるを得ません。近年もてはやされる「成果主義」は、キリスト教的メンタリティと整合するのでしょうが、どうも日本人向きではありません。短期的な業績指向や、上滑りの浮足立った組織運営は、人々から真摯さを奪い、結果的に業績を悪化させていったのではないか。

「媚びて・群れて・流される」サラリーマン集団が、日本全体を覆い尽くしたと思うのです。

その証拠に、こんな閉塞社会になっても、誰も反省もせず、誰も要因を真摯に分析もせず、誰も責任を認めようとはしません。

また、株主資本主義は、配当性向のみを重視するため、労働者の賃金切り下げが常態となります。前向きに投資するよりも、人件費削減によるコストカットの方が効果は速いからだ。また、自社株買いやM&Aで資金効率ばかりを向上させる経営者が、株主にとっては優等生だ。

事業とは何か、という原点を忘れ、欧米流の「卑しい精神」に汚染されてきたのが、近年の日本のリーダーだった。社会格差を広げるだけでなく、消費を冷え込ませ、そんななかで「消費税」を増税するという「とんでもない暴挙」をしてきた。株主資本主義の下では、経営における部分最適が、経済における全体最適に反するようになる。日本という「国柄」を弁えずこんなデタラメな経済思想を、外国の言いなりになって導入してきた政・財・官の指導者は、真摯に反省すべきだ。

頑張れ 関経連

経営200307

3月12日付朝日新聞朝刊の「異議あり」というコラムに、関経連会長の松本正義氏のインタビュー記事が出ている。関経連という、主流派を形成する経済団体の会長が、株主資本主義を批判する記事であり、私は大変意を強くした次第である。また、そこには、グローバル企業の経営者でつくる「ビジネス・ラウンドテーブル」は、72年の設立以来掲げてきた株主第一主義を見直す、と宣言した、とある。また、ダボス会議でも「マルチ・ステークホルダー・キャピタリズム」が議論の中心になったとか。ようやく、潮目が変わってきた、という感想を持つが、これからも、長い「戦い」が続くに違いない。

それほど、我々が相手にする「敵」は、強力だ。

経団連、財務省、自民党主流派・・・国際金融資本の下僕になり果てた彼らが主要な「敵」である。

国際金融資本は、IMFや世界銀行などの国連の主要機関や世界的な通信社や報道機関を傘下に抑えている。世界的な大企業も、国家の壁は、企業活動の支障になる。ロビー活動で自分たちに有利な外交を求めて政治家を動かす。なればこそ世界の覇権を握ってきたのである。

すなわち、彼らに有利なルールを、世界各国に押し付けてきたのである。

日本国憲法と日米安全保障条約に縛られた日本など、アメリカにとって、「属国扱い」もいいとこであった。それが平成の30年間で実施されてきた「日米構造協議」やそれを受けての「構造改革」に他ならない。誰もが気づいていたはずなのに、気づかないふりをして、「太平の夢」に浸っていた。

 

日本のこれからは、

1.格差拡大ー中間層の消滅ー民主主義の崩壊ー革新的強権政府の成立に進むのか、あるいは、

2.格差縮小ー中間層の維持ー民主主義の維持ー保守政治の維持が可能なのか予断を許さない。

日本は、この30年、ひたすら上記1の道を歩んできた。

グローバル化と称して、新自由主義的政策を推し進め、今の安倍政権も、その道を歩んでいる。

安倍政権の本質は、自民党という保守政党とは異質な「革新的強権政権」である。最近、その傾向がはっきりしてきた。この道は「いつか来た道」に続く「危険な道」である。

 

上記2の道への転換も難しい。国力が衰え、中国という地政学的な脅威が現れてきたからである。

しかし、軌道修正をやり遂げなければ、「令和」は「昭和」と重なり合う。ちょうど「令和」に対応する「平成」のように、「昭和」にも「大正」という国際化にシフトした前史があった。

一連の軍縮会議があり、4か国条約や9か国条約、日英同盟の破棄、といった覇権国の枠組みに押し込まられた歴史があるではないか。

かつては軍部が国民の窮状を見かねて矢面に立ったが、今度は、誰が矢面に立つのだろう。

願わくは、関経連のような組織から、経団連を動かし、軌道修正してもらいたいものだ。

 

中国共産党一党支配という強権的体質と、ビッグデータを活用するAIテクノロジーは、相性がいい。ましてや5G通信でアメリカよりも有利に立つ中国は「中国製造2025」で国家プロジェクトを組んでいる。しかも「国家資本主義」で国有企業は、絶対潰さない。過剰債務による過剰設備が問題になってはいるが、国家主導で「捌け口」を一帯一路で探している。

また、「国家情報法」で国家の要請があれば、スパイ行為を国民は拒否できない。

こんな国に、覇権を握られたら、たまったものではないではないか。

習近平を国賓として招待するような「不見識」を修正できるところまで、財界人には意識改革をしてもらいたいものだ。経済指標を虚心にみれば、もう結論は出ているのだから。

ウェルチ逝去の報に接して

経営200302

米複合企業ゼネラル・エレクトリック(GE)の会長兼CEOを20年にわたって務め、「20世紀で最も卓越した経営者」と称されたジャック・ウェルチ氏が亡くなった。84歳だった。1981年に、45歳の若さでCEOに就任。「世界で、ナンバー1か、ナンバー2でない事業は撤退する」との方針の下、大胆な「選択と集中」を進めた。小型家電事業などを売却する一方、米3大テレビ局の一つNBCを買収。世界各地では、保険会社やリース会社などを相次ぎ取得、「金融事業」を稼ぎ頭に育てた。日本でも積極的に事業を拡大。99年には、破綻した東邦生命保険を引き継いだ。 

その結果、同社の業績はV字回復し株価が30倍になった。そうした手腕が高く評価され1999年に米フォーチュン誌の「20世紀最高の経営者」に選ばれた。重電メーカーGEの収益構造を多角化して「世界最強の企業」と呼ばれるまでに成長させた手腕は、日本の経営者のお手本とされた。『ジャック・ウェルチのGE革命─世界最強企業への選択』などの著書は、当時、経営学の教科書になり、資本効率一辺倒の経営と株主に顔を向けた経営が、経済界の主流派になっていった。

一時代を形成した人物ではある。私も、彼の著書を何冊か読んだが、「違和感」しか残らなかった。そこに文化の違いを埋められなかったのである。事業というものに対する哲学の違い、とでも言うのだろう。渋沢栄一の「対極の姿」がそこにあった。事業とは、カネの増殖を図ることに過ぎなかった。こうした品位のない資本主義思想の行き着いたところが、現状の世界展開された格差社会である。

日本人の考え方は、事業とは、社会に貢献することを目的とし、もちろんカネは回さなければいけないが、多くのステークホルダーの生活を支え、幸せを誘うものである。昔から「三方好し」の精神が、商いの基本としていた日本人にとってみれば、彼の割り切り方は、確かに、新鮮に映ったのも事実である。当時、私が勤めていた会社では、彼の推奨するROEという資金効率最優先の経営に舵を切っていった。そして、アメリカ式の、配当重視の、株主資本主義化していったのである。 社内的には、成果主義が導入され、短期的収益拡大ばかりを要求され、社員は疲弊・・・・・しかしながら会社の業績は低迷し、業界は構造不況業種に転落していったのである。あらゆる業種で、同じような推移で、閉塞状態に追い込まれていったものと推察している。日本全体で、過当競争になり、生産性は低下し、どんどん労働条件の切り下げが始まり、デフレ社会が定着してしまった。

民族が違えば、その文化的基盤が違う。文化的基盤が違えば、その倫理観や価値観が違う。その当然の帰結が理解できずに、グローバル化という流れに押し切られ、猿真似するからこういうことになる。本来、日本人の価値観に沿った「日本的経営」が、21世紀の世界の経営モデルになるべきだ、と私は考えている。資本主義そのものの行き詰まりが話題となり、また国民の分断により、民主主義の行く末が危ぶまれている今日、もう少し冷静に、近現代史を紐解いてみてはどうだろう。

ゼネラル・エレクトリック(GE)は、もう金融主体の会社である。日本の銀行も同じだが、金融業そのもののビジネスモデルが成立しなくなっているのではないか、と危惧している。そんななかで、これからのゼネラル・エレクトリック(GE)の業績推移をみるのが楽しみである。「一将 功成って 万骨枯る」ような事態になってはいないのだろうか。

一方の日本企業は、老舗が多く、それだけゴーイング・コンサーンとしては、優秀な企業が多いということではないか。過当競争とデフレで、どこも今は悪戦苦闘しているのだろうが、「信用」を重んじ、人を大切にして、組織の風通しに意を用いるならば、道は開ける、というのが私の信念である。

武漢発新型肺炎の報道に接して(4)

経営200209

窪田順生という危機管理の専門家が、今回の新型肺炎の報道の中で、「全体主義の罠」に陥りがちな日本の組織の欠点を指摘している。私自身も「学習しない組織」を憂い、そこからどうしたら、離脱できるのかを模索してきた。時あたかも、昭和初期の様相を呈している。戦間期の歴史を深く学び、二度と「いつか来た道」に迷い込まないようにしなければならない。窪田順生氏の文章を引用し、読者と共有したい。 

引用:

「日本=感染対策が怪しい国」というイメージを抱く国が増えている。実際、お友だちのアメリカでもCDC(疾病予防管理センター)が日本渡航の注意を呼びかけ始めた。という話を聞くと、「英国船籍で米国企業のクルーズ船という制約下で、日本ができることは『上陸させない』という対応だけだった」とか「CDCも英国政府がなにも動かなかったなかで、日本政府はよくやったほうだ」と日本の正当性を主張する方も多いことだろう。

ただ、どういう言い訳をしても、国際社会が警戒する未知のウイルスの感染拡大を防ぐことに、日本が失敗し、「適切」と胸を張った船内から、多数の二次感染者がでている事実をひっくり返すことは難しい。他国の批判に顔を真っ赤にして反論したり、感染対策の専門家を憎々しくディスったところで、日本の評価は上がるどころかイメージダウンをしていくだけである。要は、「惨敗」なのだ。

では、なぜ優秀な医療従事者や専門家が多くいて、そこら辺の国よりも感染対策のレベルも高いと言われる日本が「実戦」で惨めな結果を招いてしまったのか。マンパワー不足、現場でのオペレーションがうまくいかなかった、そもそも緊急時の指針や体制が用意されていなかった、など既にさまざまな問題が指摘されているが、個人的には、現場で指揮にあたった人々が掲げた大方針が誤っていたことが最もマズかったのではないか考えている。その大方針とは、「一致団結」だ。

なにかしら「危機」が発生したとき、「問題解決のために一致団結しよう」とか「全員野球で乗り切ろう」みたいな大方針を掲げる組織の危機管理は、ほぼ間違いなく失敗する。このように「和をもって問題解決に臨むが壮絶にコケる組織」と同じにおいが今回の感染対策の現場からはプンプン漂ってくるのだ。その中でも分かりやすい例が、ダイヤモンド・プリンセス号内部の感染対策がアフリカや中国よりもずさんだ、とYouTubeで告発した岩田健太郎氏に対する「バッシング」だ。ご存じのように、岩田氏のとったアクションについては現場を指揮していた政府の人間や、一部の専門家から否定的な意見が出た。

いわく、船内は適切な感染対策をしていたのに、わずか2時間程度で一部しか見てない部外者が不安をあおるようなことを言うな。いわく、仮に感染対策が不完全だったとしても、不安や疑念が交錯するときだからこそ一致団結していかなければいけないんだから、スタンドプレーで船内に潜り込んで一方的な批判だけするのはいかがなものかなど、中には岩田氏の「人格」を攻撃する人まで現れている。

これらの主張をまとめると要するに、「船内のずさんな感染対策」より、「現場の規律を乱した人間」のほうがはるかに大きな問題だというのだ。ただ、筆者に言わせれば、批判する者をマウンティングして黙らせようとするのは、危機管理に失敗する組織の典型的な末期症状なのだ。このあたりをご理解していただくためには、そもそもなぜ「一致団結」を叫ぶ組織の危機管理が失敗するのかを分かっていただく必要がある。この手の組織は、何よりも現場の「和」を重んじるあまり、誰の顔を立てて、誰の主張を採用して、なんて感じで内部の序列やパワーバランスで頭がいっぱいになって、「危機」を前にして本来やるべきことがおざなりになってしまう。これでまず、危機発生下のルールがグズグズになる。「現実には難しい」「原則はそうだが、実際はなかなか徹底できない」なんて感じで「できない理由」を並べていくのだ。

こうなると第2段階としては、体制批判を許さない空気が醸成されていく。「一致団結」の名のもとに、現場を統率するリーダーや発言権のある者など「権威」への意見を控えるようになるのだ。みんなが好き勝手に意見を述べたら収拾がつかなくなるので、ちょっとくらいの不満や批判はグッと腹に抑え込もうという組織内ムードが強くなっていくのだ。そしてこういう組織は最終的にどうなるのかというと、隠ぺいや改ざんに走って、それがおかしいと声をあげた者の口を封じるようになるのだ。なぜかというと、「一致団結」が何よりも大事なので、その秩序を乱すような都合の悪い事実は、組織の総力をあげてクサイものにフタということになってしまうのだ。

つまり、「一致団結」を叫ぶことは、「組織論理を優先する」こととほぼ同義であるため、危機管理において最も重要な「自分たちが置かれた状況を客観的に俯瞰する」ことができなくなってしまう。 なぜそんなことが断言できるのかというと、このようなパターンに陥って、危機管理を失敗する組織を嫌というほど見てきたからだ。これまで筆者は、報道対策アドバイザーとして、さまざまな問題企業の内部を見る機会があった。社長や幹部が招集され、どのような対応をするのか協議する「緊急対策会議」のようなものに参加し、意見を求められたこともある。

そのような仕事を十数年やってきて痛感しているのが、「一致団結」のワナだ。危機管理に失敗する組織の内部でどのような議論、どのようなムードがあるのかを観察していくと、「一致団結」「チームワーク」「全社員で一丸となった」なんてパワーワードが飛び交っていることが多く、それが皮肉なことに、組織内の風通しを悪くして、危機管理を失敗させている。

例えば、ある企業で社会の信頼を損ねるような不祥事が発覚したとしよう。当然、営業マンなど現場の社員たちは、顧客や取引先への説明などに追われる。一方、社内ではなぜこんな不祥事が起きてしまったのか調査を開始。すると、これとはまた別の不正行為が発覚してしまう。筆者としては、これもどうせ遅かれ早かれ社会にバレるのだから速やかに公表すべきだとアドバイスをする。社内にも膿をすべて出し切るためにも公表すべきという人たちがいる。しかし、これを受け入れる経営者や幹部は少ない。10社あれば2社くらいで、ほとんどの組織は「公表しない」という決断をする。と言っても、社会の目を欺きたいとか、責任逃れをしたいとかではない。「一致団結」のためである。

ただでさえ、現場の人間は疲弊してボロボロだ。そこへまた新たな問題がありました、などど公表をしたら、もはや現場の人間は潰れてしまう。そうなったら、この危機を乗り越えることはできない。確かに、情報公開の姿勢は大事だが、会社として今やるべきことは問題の速やかな解決である。そのためには、新しい不正行為の公表はいったんストップをかけるべきではないのか。そんなロジックでクサイものにフタをしてしまうのだ。彼らの理屈では「隠ぺい」ではなく、「問題解決のため組織内を一致団結させるために公表を控えた」ということなのだ。

もちろん、筆者は報道対策が仕事なので、「それは組織論理で社会からはまったく共感されず、ボコボコに叩かれますよ 」と忠告する。会社の対応に納得のいかない社員は、「おかしい」と声をあげる。だが、このような「異論」はほぼ間違いなく通らない。筆者のような外部の人間は「いたずらに不安をあおる人間」として、岩田氏のように組織外へと追い出される。社員の場合も、「一致団結しなければいけないときに、社内秩序を乱す不届き者」として冷遇や排除される。企業の不正などを内部告発した人間が、いきなり飛ばされたりクビに追いやられるのはこれが理由だ。

ただ、先ほども申し上げたように、こういう問題は遅かれ早かれバレる。そして、結果として「隠ぺい」などと叩かれるもなのだ。これが日本の名だたる大企業や巨大組織、ひいては政府や官庁が「隠ぺい」や「改ざん」が後を絶たない構造である。ほとんどの組織は悪事を働こうと思って「隠ぺい」や「改ざん」をするわけではない。みな「危機」と向き合って、それをどうにか対応しようと考えてやってしまう。もちろん、その中には保身や責任逃れなどもあるが、多くは「組織のため」である。こうしている今も現場で汗をかき、問題解決のために寝る間も惜しんで働く同僚や仲間たちのため、彼らを「一致団結」させるため、情報の公表を拒み、うそをつく。だから、こうした不正に手を染める人たちに実際に会ってみると、「マジメな組織人」「善良な市民」ばかりなのだ。

今回、岩田氏の「告発」を受けて、ハフィントンポスト日本版に、現場の医療従事者から「声をあげられないスタッフの代弁をしてくれた」という感謝の声が寄せられた。また、厚労省の職員や検疫官からも感染者が出ており、岩田氏の指摘が妥当であったことが徐々に明らかになっている。岩田氏は2時間たらずで「船内の異常さ」を見抜いている。ということは、現場にいた専門家をはじめ多くの医療従事者はこの危機管理がヤバイと気付いていたはずだ。しかし、彼らは声を上げなかった。それは決して「怠慢」ではなく、「一致団結」のためである。

問題企業でも、このようなムードはまったく同じだ。みな口々に「ヤバいよな」「ウチの会社も終わりだな」とささやくが、「おかしい」と声をあげる者はいない。危機に向かって、全社で一致団結している中で、士気を乱すような者は、魔女狩りのように吊し上げられる。だから、「権威」の前では黙って下を向くしかない。そして、みな口をつぐんだまま、破滅へと向かっていくパターンが、企業危機管理の現場では圧倒的に多い。

この構造は何かに似ているなと思っていたのだが、最近それが何かようやく気付いた。80年前の日本だ。当時の日本は「危機」を前にすると、決まり文句のように、「愛国」と「一致団結」を叫んだ。だから、そこに異論を唱えた者は「非国民」のそしりを受けひどい場合は投獄されて拷問もされた。

「超非常時の克服 陸相の適切な訓示 焔の如き尊王愛国の熱情 鉄石の如き官民の一致団結」(読売新聞 194115日)「一致団結 国威を発揚 帰還勇士もまじる 海外同胞訓練所の開所式」(同上 194262日)こういう戦意高揚のための記事が、紙面を覆い尽くした。

この結果、日本人がどういう結末をたどったのかを述べる必要はないだろう。五輪というこれまた国威発揚イベントが控えているからか、最近やたらと「日本には日本のやり方がある!」「こういう苦しいときこそ、日本人がひとつにまとまるべき」みたいな主張が増えているような気がする。歴史に学べば、これはいつもの日本の負けパターンである。「みんな」「絆」「一致団結」という言葉を出されると冷静に物事を考えれなくなって社会が暴走を始めるのだ。そのような意味では、今回の防疫戦の惨敗はいい教訓だ。国際社会からの批判に真摯に耳を傾けて、「全体主義の罠」から抜け出すべきではないのか。(引用終わり)

日本が「日本」であるために(3)

経営200207

覇権国アメリカにボロボロにされた日本。そのアメリカはやっと中国の危険性に気づき、国を挙げて中国の体制をつぶそうとしているときに、日本政府は習近平を国賓として招待しようとしています。

どういうセンスをしているのか、首をかしげたくなりますが、私と同じ視点から、わかりやすく、国際政治を解説してくれているのが北野公伯氏です。彼のメルマガをご紹介しましょう。

引用:

日中関係が、急速に改善されています。確かに、尖閣中国漁船衝突事件があった2010年や、尖閣国有化の2012年のような「超緊張関係」よりは、いいのかなとも思えますが。
とはいえ、現在の日中関係は、「異常」ともいえます。
新型コロナウィルスの感染者が増えている。一番重要なのは、中国全土からの渡航を禁止することでしょう。ところが日本政府は、この当たり前のことをしない。
日本政府が習近平に忖度しているからでしょう。つまり、今の日本政府は、国民の安全よりも習近平のご機嫌を最優先していることになります。それでも長期的に報われればいいのかもしれません。しかし、日本政府の「忖度」が報われることは決してないのです。


1989年、天安門事件で中国は世界的に孤立しました。
中国指導部は、どうやってこの危機を克服したのでしょうか?
彼らは「世界一ナイーブでだまされやすい日本を利用して孤立から脱却しよう」と考えた。
そして、彼らは日本に接近しはじめました。1992年天皇皇后両陛下が、訪中されました。
これを見た欧米諸国は、「裏切り者の日本は、巨大な中国市場を独占するつもりだ!」と焦ります。そして、1993年から中国と欧米の関係も改善されたのです。日本は、中国の苦境を救ったのです。


問題は、この後です。
中国は、「利用済み」の日本を捨てました。どうしたか?1994年江沢民政権は、国内では「反日教育」を、国外では「反日プロパガンダ」を精力的に行うようになりました。これは、「日本を米中共通の敵とすることで、アメリカが二度と中国を叩かない環境をつくる」という戦略に基づいた動きだったのです。この戦略がうまくいき、クリントン政権は熱心にジャパン・バッシングをしていました。
なぜ、中国は、これほど見事に日本をだますことができるのか?
それは、中国指導部の「哲学」が「だますこと」だからです。彼らが信奉しているのは、「孔子」ではなく「孫子」です。孫子はいいます。「兵は詭道なり」(戦争は、だましあいである)つまり、戦争中は「だますこと」が「善」とされる。では、今は戦争中なのでしょうか?戦争中ではないのでしょうか?
彼らは、こう考える。「政治は武器を使わない戦争である。戦争は武器を使う政治である」
だから、「平時」でも「戦時」でも、彼らはいつも「戦争中」と考える。だから、「いつでもウソをつくのは善である」と考える。これ「中国人はそうだ」といっているのではありません。「中国の指導者がそうだ」といっているのです。


天安門から30年が過ぎた。中国は、また孤立しました。それでまた同じように日本に接近してきた。世界一ナイーブでだまされやすい日本政府は、過去の失敗に学ばず、またもやだまされています。
習近平が国賓訪日すれば、「天皇陛下、是非ご訪中ください」というに決まっています。天皇陛下は立場上拒否できないので、訪中される・・・1980年代から1990年代の初めに起こったことがまた起ころうとしている。日本政府は同じ失敗を繰り返そうとしているのです。


失敗といえば、第2次大戦時、日本はナチスドイツに接近して破滅しました。今度は、「ウイグル人100万人を強制収容」し、「現代のナチスドイツだ」と批判されている中国に接近している。また亡国の道を驀進しています。中国指導部の「ウソ」については、話せばキリがありません。
最後に、これに触れないわけにはいかないでしょう。
2012年11月、中国はロシアと韓国に【反日統一共同戦線をつくって日本を破滅させよう】
と提案しました。彼らは、「日本には【沖縄】の領有権はない」【アメリカ】も反日統一共同戦線に引き入れる」と宣言しました。卒倒物のこの話。日本人が決して決して決して忘れてはならないこと。それは、中国指導部の【本質】です。(引用終わり)

 

中国人が憎いのではありません。中国の体制が問題なのです。経済でも、国家資本主義で、過剰投資による過剰設備による供給過剰で、鉄鋼でも何でも日本企業は困っているのではないですか。こんな国をWTOに加盟させ、経済が発展すれば、民主化するだろうとしたアメリカ親中派がバカだったということです。そして、今回の新型コロナウィルス騒ぎでも、迷惑至極な強権的体質が露見しています。サプライチェーンの断絶により、生産に支障が出ているメーカーも出ているそうですが、市場規模に目が眩み、カントリーリスクを軽視した報いです。「身から出たサビ」と言うしかないのではないでしょうか。なお「中国からの撤退企業の実態」(経営170502)も参照してください。

日本が「日本」であるために(2)

経営200206

施光恒九州大学准教授が、「経団連の時代錯誤」と題した、核心を突いた文章を書いています。

「構造改革」と「緊縮財政」と「株主資本主義」、及びこれらの思想的背景である「ネオリベラリズム」という邪宗、そして、これらに簡単になじんでいった日本のリーダーたち・・・「戦後民主教育」に影響され、「日本」を理解できずに、欧米エスタブリッシュに脈々と伝わっている「卑しい精神」に、汚染されたからにほかなりません。世界中で火の手が上がり、日本が付き従ってきたアメリカ自身が、トランプを大統領にしている。もう時代が変わっていることに気づくべきでしょう。

事実を積み重ねていくだけで、もうあなたたちは間違いに気づくことができるはずです。

いつまで、そんな「邪悪な宗教」に取りつかれているのか、ということです。

施光恒氏の文章を、引用して、ご紹介します。 

引用:

経団連が今年の春闘で話し合うべきは、日本型雇用(新卒一括採用、年功賃金、終身雇用など)の見直しだという発言をしたと報道がありました。経団連としては、世界的な大競争がどの業界でも進んでいるまさにグローバル化が進展している時代に、日本型雇用など過去の遺物であり、なくしていくべきだということなのでしょう。私は、この経団連の状況認識は、大きく誤っていると思います。
現在の世界の潮流は、グローバル化が進んだせいで大きく傷んでしまった各国の社会をどう立て直すかを模索する時代に入っています。格差を必然的に生み出し、各国の大多数の普通の人々の生活を不安定化してしまったグローバル化の流れを、いかに是正するかということこそ、今日の大きな課題であるという認識が、世界各国で広がっています。

言ってみれば、世界はすでに「脱・グローバル化」の時代に入っているのです。

経団連の認識、および提言は、その意味で時代に逆行しています。

これに関して、興味深い論説が『フォーリン・アフェアーズ・リポート』誌(2020年第2号)に掲載されていました。英国のシンクタンクであるニューエコノミクス財団のチーフ・エグゼクティブであるミアタ・ファーンブレー氏の論説「新自由主義の崩壊――市場は解答ではない」です。
この論説は、グローバル化によって荒廃した社会を是正するために、英国では、いわば新しい「英国型経営」「英国型市場経済」を模索していく必要があると主張するものだと読むことができます。
ファーンブレー氏は、「…いまや先進国の多くで、政治的立場を問わず、資本主義の今後が悲観されて」おり、「エコノミスト、政策決定者、市民たちは、過去40年にわたって多くの先進国社会を支配してきた『ネオリベラリズム、つまり、市場メカニズム、規制緩和、小さな政府ですべてはうまく行くと考える思想』はすでに限界に達しているとの見方を強めている」と論じます。
新自由主義の時代が終わりを迎えたという認識が共有されつつあるということです。(中略)

他方、日本は、昨秋、改正会社法を可決し、社外取締役の設置を義務化するなど、ますます株主中心主義を進めています。社外取締役の設置の義務化について、日経新聞は、「日本企業のコーポレート・ガバナンスを強化して株式市場の透明性を高め、海外から投資を呼び込む狙いだ」(2019年10月18日付)と記していました。
「コーポレート・ガバナンス改革」とは、要は、株主権限のさらなる強化のためですね。「社外取締役」とは、株主の利益の代弁者ですから。
日本型雇用制度を改め、なくしていこうとする経団連にしろ、水道の民営化や株主権限を強化するコーポレート・ガバナンス改革を進める政府にしろ、今の日本は、世界で起こりつつある「脱・グローバル化」の流れを認識できずにいます。その必要性も理解できずにいるようです。
かつて、世界に冠たる「日本型経営」「日本型資本主義」を生み出し、市場経済の活力と、人々の生活の安定や幸福との間のバランスをうまくとることに成功した賢い日本人は、どこにいってしまったのでしょうか。
我が国の先行きが本当に心配になってきました。目指すべきは、グローバル化のさらなる推進策としての日本型雇用制度の見直しや撤廃ではなく、働く人に生活の安定と豊かさを提供する日本型雇用制度の新しいかたちを積極的に見出していくことにあるはずです。
「脱・グローバル化」の潮流を認識したうえで、人々の活力や意欲を引き出し、また、生活の安定や幸福を多数の普通の人々にもたらすヴァージョン・アップされた日本型雇用制度の模索こそ、それを可能にする新しい「日本型資本主義」「日本型経営」の探求こそ、今日の日本社会が必要とすることなのです。(引用終わり) 

日本経営品質賞の考え方は、旧生産性本部が中心になって普及活動をしていたもので、アメリカの日本的経営の分析を逆輸入したものです。アメリカは、これを見習うのではなく、「プラザ合意」や「構造協議」などに象徴されるように、土台を崩そうと画策したのです。それに気づきもせず、アメリカに付き従ってきたのが、中曽根以降の自民党と経団連などの日本のリーダーたちでした。

その結果は、もう明らかになっているではありませんか。

武漢発新型肺炎の報道に接して

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武漢発の新型肺炎で、世界中が大騒ぎをしている。そうした報道の中で、面白い記事を見つけたので読者と共有したい。中国共産党の内部崩壊を、予言するような記事なのであるが、日本人も、偉そうなことは言えない。忖度ばかりしている官僚組織、不祥事を繰り返している大企業、独立した政治家なのに上ばかり見ている自民党議員、すべてに、中国共産党と同じ病気が蔓延しているように思えるのだ。「他山の石」にしたい。

引用:

2012年11月の第18回中国共産党大会で、習近平新総書記は、「社会主義核心価値観」を打ち出した。これは、「富強、民主、文明、和諧、自由、平等、公正、法治、愛国、敬業、誠信、友善」の12語24文字で今後、中国に根づかせていくというものだった。この「社会主義核心価値観」の推進運動の「模範都市」を宣言したのが、湖北省の省都・武漢市で、当時の王暁東・湖北省副省長と、周先旺・湖北省商務庁長のコンビが旗振り役だった。このコンビが今回の新型肺炎騒動の真っ只中にいた省長と市長だった。彼らは約2カ月にわたって新型コロナウイルスの発生を隠蔽し続けた。彼らは、自分たちには、状況を公表する権限はなかった、と言って批判を浴びている。

1月26日の記者会見も酷いものだったらしい。会見で王省長は、「わが省は年間、108億枚のマスクを生産しているので、何も問題はない」と胸を張った。だが横の官僚が慌てて、王省長に囁く。「あ、間違った、18億枚だ」と慌てて訂正する王省長。再び横の官僚が慌てて囁いた。「あ、間違った、108万枚だった」もう一人の周武漢市長は、会見時にマスクを表裏逆につけていることが発覚。それでも会見が終わると「今日の俺の出来は80点だったかな」と意味不明の自己評価を行った。ともあれ、6000万人の湖北省人及び1100万人の武漢市民は、ほとんどが初めて目にした省長と市長の姿に、唖然としたのだった。「こんなアホな奴らが、省長と市長だったのか」というわけだ。  社会主義国の中国では、省長や市長の直接選挙などは実施しておらず、すべては習近平総書記がトップを務める「党中央」が決定する。そのため、省長や市長になる条件は、「いかに現地で行政能力があるか」よりも、「いかに党中央への追従(ごますり)能力があるか」である。

「八項規定」という賄賂禁止令を出し、胡錦濤時代に才能を発揮していた能吏たちに、「汚職幹部」のレッテルを貼って、次々に捕らえていった。習近平政権の最初の5年間で、153万7000人もの幹部が失脚した。代わって台頭してきたのが「能力はなくても、習近平総書記の指示に絶対忠誠を誓う幹部たち」である。彼らに共通しているのは、「習近平総書記の指示だけは全身全霊実行するけれどもそれ以外のことはやらない」という姿勢である。つまり、地元の市民を見ているのではなく、北京の習近平総書記だけを見て仕事しているのである。また、そうした上司の下で引き立てられる部下たちも、似たような人間だ。結果、金太郎飴のような組織ができ上がる。

話を武漢に戻すと、1100万武漢市民の省長と市長に対する怒りは、日増しに抑えきれなくなってきている。特に、1月26日のアホな会見が、決定的となった。インターネットやSNS上には、そんな怒りに満ちた武漢市民の声が上がっては、削除されている。私が見た中で、最も感銘を受けたのは、方方の「微博」(ウエイボー=中国版ツイッター)だった。

方方は、1955年生まれで、武漢で育ち、武漢大学中国文学科を卒業後、湖北テレビ社員を経て作家となった。彼女は、王省長と周市長の会見があった翌27日、新型コロナウイルス騒動に関して「微博」で非常に長いメッセージを書いた。その中の最後に次のように綴ったのだ。<昨日の湖北省の記者会見が、物議を醸している。多くの人が非難しているのを見た。3人の幹部は疲労困憊で、会見の席でミスを連発した。自分たちでも「混乱している」と説明していた。かわいそうなことだ。彼らも家族は武漢にいるのだろう。彼らの「自責の念」は本物だろう。なぜこんなことになってしまったのか。どうしたらよいのか。それは自ずと分かってくるだろう。武漢の当局は初期に事態を軽視し、対応が遅れがちだった。また1月23日に武漢を封鎖した前後の当局の無為無策ぶりは、すべての一般市民に恐怖と犠牲を与えた。だがいま言いたいのは、湖北省の当局の表現能力は、中国の当局の平均的なレベルの表現能力だということだ。必ずしも湖北省当局のレベルが他省よりも低いのではないのだ。これは、官界で「逆淘汰」(能力のある人ほど淘汰されていく)が行われているという悪しき結果なのだ。空疎な政治、正確に言えば「事実に即して物事を行わない」ことに対する悪しき結果だ。官製でないメディアが真相を報道することを禁じるなかれ。われわれは誰もが判断能力を持っているのだから。>この作家のメッセージは、私が訳した部分は、たちまち削除されてしまった。中国当局にはネットの除去と同じくらいのヤル気でもって、コロナウイルスも除去してほしいものだ。 (引用終わり)

 

日本の形 (2)

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会社に飼い慣らされ、過重な労働にも耐えて働く。そんな「社畜」を題材としたマンガが最近、若者の間で人気だそうだ。識者は、現実にマンガと似た状況にある人が多いのではないか、と分析する。終身雇用の崩壊や雇用形態の変化で、他者の期待、評価にばかりに縛られ、仕事の中に価値を見いだせず、充実した時間を生きていない人が多いのではないか。

経営危機でもないのに、リストラが繰り返され、勤めている会社が、いつ潰れないともかぎらない。

成果主義が蔓延し、数字で何か残さないことには、評価されない。そんな環境のなかで、精神的に追い込まれている若者が多いような気がする。

 

何事にも、プロセスというものがある。弓道に正しく射られた矢は必ず的に当たるという意味の「正射必中」という言葉があるように、プロセスを正しく行えば、結果は必ずついてくるものだ。

トヨタの社訓に「良い品 良い考え」というものがある。良い車を作るには、作り手の「ものづくりへの姿勢・考え方」が大事である、という教えである。

そういうことを理解せずに、やたら数字を追いかけ、過重なノルマで従業員を追い込む会社が多くなっているのではないか、と推察する。

職場は、先ず第一に、「明るく、楽しく」あらねばならない。

そして、目標へ向かって、みんなが「一所懸命」にならなければいけない。

そういう風通しの良い職場環境を作らないと、生産性は上がず、会社は発展しないものだ。

そのためには、従業員には会社との関係で、ギブ・アンド・テークが成立していることを「実感できる」ことが何よりも必要ではないか。

 

明治以降、日本は、近代化に成功し、西洋列強をキャッチアップできた。それは江戸時代において、既に、国民の識字率が高く、世界有数の文化国家であったことと、封建制度が確立し、御恩と奉公の契約概念が、一般化していたことの影響が大きかったことは、意外と認識されていない。

特に、殖産興業で、産業の基礎を固めるためには、資本主義が正常に機能しなければならないが、労使関係において、この御恩と奉公の契約概念は、その鍵を握るものであった。

会社にご恩があるから、たとえ自分に不利になることがあっても、部下を育成し、上司に諫言したりできるのではないか。それが組織人として、当然のあるべき行為であろう。

そういう意味で、封建制度と資本主義の勃興は、極めて関係が深いのである。

 

ヨーロッパで資本主義が発達してきたのも、封建制度が確立し、領主と領民との間で、暗黙の契約関係が成立していたからに他ならない。逆に言うと、中国やロシア、中東の各国で、強権的な政権しか生まれないのは、これらの地域では、封建制度が歴史上一度も成立してこなかったからだ。

古来、中国では皇帝制度が続き、飢饉や疫病で社会が混乱するたびに、易姓革命が起こり、王朝が交代した。統治の理念が、社会に確立しないまま、今日に至っている。

近代市民社会の基本をなす、資本主義や民主主義が定着しないのは、当たり前なのである。

そんな国をここまで発展させ、世界覇権に挑戦させるに至るこれまでのディープステイトの不見識をこそ、糾弾していかねばならないのではないか。また同時に、アメリカという理念国家を操り、彼らの正義を押し付け、世界を混乱させる覇権主義もまた、糾弾されなければならない。

 

さて、肝心なのは、わが日本である。

日本はすでに平均年収186万円未満の貧困層(アンダークラス)が約929万人にもなっている国だ。企業は終身雇用を捨てて、従業員を非正規雇用という使い捨てでまかなう方向で動いているので、アンダークラスはこれからも増え続ける。2020年からは同一労働・同一賃金で非正規雇用者の賃金が上がると期待している人もいるようだが、実際には「非正規雇用者の賃金が上がる」のではなく「正社員の手当が削減されて非正規雇用者の賃金に近づく」現象が起こるとも予測される。老後資金2000万円問題が話題となったが、金融広報中央委員会(日本銀行情報サービス局)の金融行動に関する世論調査(2人以上世帯調査)によると、300万円未満では54%が「貯蓄なし」の状況となっている。300万円と言えば、月換算で約25万円である。月25万円で貯金ができるのだろうか。300万円から500万円未満の平均収入世帯で見ても29.20%が「貯蓄なし」という。日本では単身世帯が増えているのだが、この単身世帯も、約50%は「貯蓄なし」である。こんなことで、一体、日本はどうなってしまうのであろうか。中間層が消滅し、国民の分断がこれ以上進めば、民主主義の前提すら危うくなってくる。強権政権が誕生し「いつか来た道」へまっしぐらということにならないか。

経営革新の要諦

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日本の経営者が、欧米流の卑しい精神文化に汚染され、カネの増殖のみに汲々とするROE中心の経営手法を取り入れてから久しいが、その結果、どのようになったか、もう明らかである。

グローバル化のなかで、世の中は、すっかり、ばくち経済化し、自由に動き回るカネの増殖を中心に回っている。極めて「品位のない社会」が出来上がってしまった。

 

しかし、大事なことは、その卑しい精神文化が、「植民地主義」というおぞましい搾取の形態を作り、アジア・アフリカ・アメリカの民を苦しめ、さらに帝国主義化して戦争の惨禍を生み出してきたことに想いを致すことである。そして、われわれの先祖は、こうした「奢れる白人」に対し、敢然と立ちあがった、という歴史に想いを致すことである。

アメリカの圧力があったとはいえ、かくも轡を並べて、右に倣えをする根性なしばかりが揃っていていいのだろうか。「日本」を理解せず、部分最適に走り、全体最適を蔑ろにして、自分の立場を保全することしか考えていない。その行き着いたところが、会社の業績悪化、経済の地盤沈下、国民の貧困化であった。そして、国家の相対的地位は下落、社会は閉塞し、「希望」が失われている。

 

1989年、つまり平成元年には、時価総額で世界のトップ20社の中に、日本企業が14社も入っていた。第1位はNTTであった。ところが、2018年には、世界のトップ20社の中に日本企業はゼロである。日本で第1位のトヨタでさえ、35位でしかない。18年の時価総額では、1位はアップル、以下、アマゾン、グーグル、マイクロソフト、フェイスブックと続いていて、20位以内に中国企業が、アリババ、テンセントなど4社が入っている。デジタル技術革命に、すっかり置いてきぼりを食っている。想像力を欠いたリーダーたちの見識不足と言うしかない。

1989年には日本の1人当たりのGDP(名目)は世界第4位であった。米国は7位、フランスは13位、そして中国は120位だった。ところが、2017年には、日本は25位に落ち、米国は8位、オランダは13位、ドイツが19位となっている。中国は76位である。日本の「一億総中流社会」は地に落ち、今や格差社会となり貧困問題も顕在化、制度が維持できないほどの少子化、地方の疲弊や労働力不足、高齢化への対応不足など、「課題先進国」などと揶揄される始末である。

常々、私が不思議に思うのは、これほどの「経済敗戦」を喫しているにもかかわらず、誰も、まともに要因分析をしないことだ。こんなことでは、企業にしても、国家にしても、基本的な戦略すら立てられないではないか。

「経営」という言葉は、周の時代の紀元前800年ごろ、周の詩人の言葉に初めて出てくるそうだ。
文王が霊台(祭壇)を築いて建国のシンボルとしたことを追想して「これを経しこれを営す」と詠んだ。
「これを経し、これを営す」、そこから「経営」という単語に発展していく。
「経する」とは、無人の荒れ地を耕していくこと。「営する」とは、住まいをつくり、人が暮らせるようにすること。
つまり、経営とは、荒れ地を耕して収穫をつくりだし、人々を幸せにする行為をいう。

現代の言葉で言うなら、「経営とは、事業活動と人財育成を通して収益をあげ、収益を納税、分配、再投資して理想郷をつくりあげることである」となるだろう。

そういう経営が、果たして、日本で行われているだろうか。

因みに、経済とは、経世済民、即ち世を整えて、民を助けることだ。

 

時代の変化に遅れまいと「成果主義」と称して無理難題を押し付け、組織を疲弊させていないか。一般的に、ありがちなのは、KPI(Key Performance Indicator=重要業績評価指標)の単純化だ。かつては売上の数字のほか、長期的なリレーション、ステークホルダーとの関係など、多様な経営要素を冷静に検討していた企業も、そうした多角的な分析は蔑ろにされ、「とにかく売上を伸ばせ」と単純化され、やがて「どんな手を使っても売上を伸ばせ」となり、その先で越えてはいけない「一線」を越えて不祥事を発生させる……。郵政に限らず、そんな傾向がないのだろうか。「三方好し」の伝統的経営理念などは、どこかに置き忘れ、ひたすら数字ズラばかり追いかけてはいないか。

日本経営品質賞の考え方を復活させることこそが、これから行うべき「経営改革」であるべきだ。

顧客本位・独自能力・従業員重視・社会との調和の、4つの理念に立ち返ることだ。

それが、経済発展を支え、高度成長期に「ジャパン アズ ナンバーワン」を支える原動力だった。

市場に任せる分野と、公共を優先する分野とを峻別し、「混合経済体制」に戻すことだ。

今のように、決済機能を持つ銀行が、バクチをしていては、健全な経済社会は築けない。

なお、このブログの「基本的考え方」は、日本経営品質賞を解説している。ご参照ください。

リストラブームに想う

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日本的経営が崩壊の危機にある。株主資本主義が大企業を中心に定着し、資金効率優先の経営が行われている。最近のリストラブームが、その象徴である。経営危機でもないのに、中高年社員を放擲する会社が後を絶たない。2019年のリストラによる退職者数が、6年ぶりに1万人を超えそうだ。なぜ業績が悪くないのに、大量のリストラに踏み切るのか。

いびつな年齢構成を解消し新陳代謝を図るだとか、経営戦略見直しに伴う人材のミスマッチ解消だとか、成果主義人事制度導入に伴う社員の反発防止、とかの理由らしい。さらに、これから、「高齢者雇用対策リストラ」が増えるであろう、というのが専門家の見立てである。こんな社会にして本当にいいのだろうか、という根本的な疑問を抱く。「日本が日本でなくなり、特徴のない、均一世界が出来上がる。それは、企業における「育てる文化」などの、文化的基盤の消滅を意味するということにはならないか。

政府は現在、70歳までの就業を目指した高年齢者雇用安定法(高齢法)の法改正を検討中だ。来年の通常国会に企業に努力義務を課す法案を提出し、いずれは義務化も視野に入れている。今は法定定年年齢の60歳以降は、(1)定年の引き上げ(2)定年の廃止(3)継続雇用制度の導入のいずれかを選択することを求め、希望者全員の65歳までの雇用確保を義務づけている。長寿社会への対応として、政府は、これをさらに70歳まで引き上げようとしている。今、企業の約8割が、定年後の給与は半額程度とする1年契約更新の継続雇用制度を導入している。

希望者全員の65歳までの継続雇用制度の導入を企業に義務付けている高齢法下では、現役世代以上に60歳以上65歳未満の人を解雇することが難しい。そうであるなら、40〜50歳代にリストラに踏み切るほうが得策と考えても不思議ではない。近年、50歳前後の社員を対象にしたキャリア開発研修を実施する企業が増えている。65歳まで働くことを見据え、これまでの経験・技能の棚卸しと、今後のキャリアをどう築いていくのかを考えさせることを目的とされているが、それは建前で、本音は、研修を通じて、社外での活躍を促すことだろう。必ず退職金割増などの制度説明が行われている。高齢者雇用の回避リストラを含め、2020年の企業によるリストラは、2019年以上に加速する惧れがある。消費税増税による景気悪化も予想されるだけに、ここまで経済を痛めつけては、身が持たない事態も予想される。

私自身、51歳で会社を辞め、転職した経験者であるので、こういうニュースを耳にすると、他人事とは思えない。今は気楽な立場になり、学校や会社の「同窓会」に出る機会が増えたが、そんなとき、かつての仲間どおしで「人生行路」を語り合うことが多くなった。私など、つくづく運が良かった、と思わざるを得ない。中高年の転職がうまくいく例など、そうそうあるわけではない。「構造改革」でどの業界も過当競争に陥り、消費税増税で生活が大変なのに、満足のいく再就職など、至難の業である。プライドを傷つけられ、それでも生きていくために、家族のために、我慢を重ねてきた人が多いのではないか。同窓会に出て、愚痴を言い合う仲間はまだいい。どうしているのかと、心配になる「消えていった人」も多い。風の便りしか伺い知れないが、パッとした話はあまり聞こえてこない。

そもそも社会の構造をそのままにしておいて、年功賃金は時代遅れだのと勝手な論理を展開する経団連のお偉方など、その根性が腐っているとしか言いようがない。ヨーロッパは、教育費や住居費は、日本より格段に安い。アメリカは、高等教育の奨学金が充実していて、個人が自分への投資として大学へ進む、という文化である。韓国のように若者の就職までもがままならないと「ヘル朝鮮」になってしまう。社会の仕組みを勘案しないで、グローバル・スタンダードに追随するのは間違いだ。

逆に言うと、日本では、こういう費用は、中高年になって大きな負担になっていて、それを年功賃金はカバーしているのだ。そういう実態を見ずして、経営の都合ばかりを言い募っているが、片手落ちと言わざるを得ない。部分最適ばかりを図るから、全体最適が棄損されてきたのではなかったか。日本経済の停滞の主要因は、賃金の下落にあることは、客観的データが示している。

経営者は、株主の方ばかりを見据え、資金効率を高めたとして、ストックオプションだとかで、億の付くカネをご褒美に手にしている。こんな品位のない制度は、日本のものではない。経営思想が、欧米流の「卑しい精神」に汚染されてしまうと、日本の文化基盤まで狂ってくると思わないのか。  そういう発想のできない年代層を生み出し、平成の失敗を主導したのは、WGIPによって洗脳され、戦後民主教育のせいだろう。更に7700冊に及ぶ焚書と教科書や新聞の検閲システムで、すっかり「腰抜け世代」ができあがってしまった。この「腰抜け世代」の罪は重い。

顧客優先で、独自能力を磨き、長期的な視点で、従業員を幸せにすることに重きを置く経営にしていかないと、優秀な人材がいつかず、いずれ構造不況業種に転落してしまう。身近に見てきただけに声を大にして訴えたい。「成果主義」などを導入すると、優秀な人ほどいや気がさして辞めていく。事実、Doing(日常業務)とBeing(仕組み・構造)との違いが判る人は、優遇制度を使って、相当数辞めている。これから、Opinion(主張)のある人ほど、Exit(出口)を考えて仕事をするようになる。会社にとって、これほどの損失はない。資金効率も大事だし、技術の進歩に対応することは大事だが、一方で従業員を幸せにできない企業も確実に衰退するであろう。人の口に戸は立てられない。「三方好し」の、バランス感覚が重要、ということである。

的外れのアトキンソン (2)

経営191010

昔、清成忠男教授の「中小企業論」の講義を受けましたが、賃金格差という意味での「日本経済の二重構造」と共にその逞しいダイナミズムが経済を支えているという講義だったと記憶しています。実社会へ出て、数多くの中小企業主に出会い、それぞれの「個性」に触れて勉強させられました。個性は多様ですが、総じてわれわれサラリーマンよりも、器の大きな人が多かったように思います。いい意味でも、悪い意味でも、「板子一枚下は地獄」を知っている人たちでした。 

そういうオーナー経営者から、事業伝承の相談を受けることが多くなりました。経営環境の悪化で、子供たちに同じ苦労を掛けたくない、とする人が増えています。従業員に継承させたいと思っても、金銭面と意欲面で躊躇するケースが多いように思います。今年、MAによる会社売却をお勧めし、思惑通り、成就することができました。オーナーのハッピー・リタイアのお手伝いができたわけです。今後、こういうケースが増えてくると思います。アトキンソンが心配しなくても、中小企業の数は、急減してくるでしょう。そういう年周りの経営者が多い。しかし、それはいいことではありません。経済政策の失敗の結果なのです。手塩にかけた事業をたたみたい人は、本来いないはずです。

一方の大企業ですがどんどん「育てる文化」が失われ「選ぶ文化」に置換しているように思います。ニュースを見ても、優秀な理系院卒に年収1000万円以上を提示したり、会社が存亡の危機でもないのにリストラ対象を40歳以上にしたり、事業を育てることなく海外企業の買収に血道をあげてみたり、全くもって資金効率至上主義・株主資本主義化が進み、アメリカナイズしています。従業員重視の姿勢など微塵もありません。それは即ち、日本の文化基盤が失われてきたことにほかなりません。経団連のお偉方が、もう終身雇用制は維持できない、と公言していますが、こんなリーダーの下では、企業のみならず、国家もどんどん三流国に転落することになるでしょう。それをアトキンソンのような「近代化論者」がバックアップする構図にこれからなりそうです。今後、一体誰が「国益」を追求するのでしょうか。さらに厳しくなる国際環境の下で、地位低下する日本丸のかじ取りを任せられる人が出現するのでしょうか。

コンビニチェーンのオーナーと会社側の、24時間営業についての見直しが話題になっています。オーナー以外は、全員が時給いくらで働くパートです。外食チェーンも店長以外はみんなパートのところが多いようです。大きな企業は、こんなプアな仕事しか提供できていないのです。それで、社会的責任を果たせているのでしょうか。人件費を切り詰めて、極力利益をねん出し、配当に回す。自分たちは、ご褒美にストックオプションで自社株を取得する。その自社株の値上がりを目指して自社株買いをする。真にもって「品性」の欠片もないような考え方がはびこっています。今度1万円札になる渋沢栄一は、草葉の陰で嘆き悲しんでいることでしょう。論語を忘れ、算盤にのみ習熟した経営者たちを叱責できるスーパー経営者の出現を期待したいものです。

生産性とは、粗利額のことです。中小零細企業も、独自能力を鍛え直して、競争に巻き込まれないようにしなくてはなりません。顧客本位を維持するためには、現場ニーズを吸い上げ、対応していかなければなりません。そのためには、従業員重視の姿勢で、育てる文化を醸成する必要があります。そして、地域と共に歩む姿勢を持つことです。即ち、社会との調和です。何のことはない、アメリカが日本封じ込めのために分析した日本的経営そのものです。そんな文化基盤に勝てそうもないから、アメリカは、非関税障壁という言葉を持ち出して、ルールを変えようとしたのです。そのルールのために、アメリカ自身が、そして世界中が、苦しんでいます。アメリカの得手勝手なフェアの精神が、資本主義を断末魔へと追い込んでいます。

平成の指導者たちは、彼我の文化の違いについて、疎すぎました。彼らは、キリスト教文化の中にあることを、もっと認識すべきでした。個人は神と直接つながっているのです。だから「努力して富を積み、そして社会を明るくする」という目標ができるのです。寄付文化が発達する所以です。一方の我々は、「社会を明るくするために努力し、そのために、富を共同で活用する」のです。生活基盤であり、安全・安心を担保する公共財は、平等を旨として運用し、それ以外は自由を旨として運用してきたのです。古からの日本の統治思想が、そうなっており、従って「市民革命」とは無縁であったのです。台湾や朝鮮の統治も、その原則で行われていました。アトキンソンをはじめとする近代化論者は、文化に裏打ちされた日本という国柄そのものが理解できていないのです。

日本では、個人は、共同体の中でこそ生かされるのです。封建制度の「本領安堵」と「御恩」の関係を、今もって持続させている民族です。自然災害の多い国土で、「持ちつ持たれつ」「おたがいさま」の精神を育んできた民族です。民主主義は、愛国精神の裏打ちがあって初めて成立します。企業は、愛社精神がなければ、衰退の道に進みます。単なる苦役としての労働ではなく、共同体での役割認識が提供できなければ、経営者失格ではないでしょうか。

認知的不協和ということ (5)

経営190905

失敗を糧に、学習する組織と、そうでない組織は、差がついて当たり前です。だから、多くの失敗学の本が出ています。『失敗の本質』戸部良一他著は、大東亜戦争における帝国陸軍の組織の問題を扱っており、人命にかかわる作戦行動にもかかわらず、繰り返す失敗に潜むなれ合いの恐ろしさを指摘しています。

『失敗学のすすめ』畑村洋太郎著は、人の失敗を責めないことが大事であると主張しています。

また、マシュー・サイド著『失敗の研究』は、人間の成長・成功のためには、失敗は「必要不可欠なもの」である、と言い切っています。

 

しかし、組織運営は、多変数から成る外部環境に対応する行為ですから、実験ができません。泥臭い人間集団のなかで、リーダーの「認識と信念」に基づいて仮説を立て実行していくわけですから、当然、「事実」に基づいた振り返りが必要です。それがマネジメントというものです。

ところが、認知的不協和という心理現象が誰にでも存在し、「事実」を素直に見ることなく都合の良いように曲解して、リーダーは「認識と信念」を貫きがちです。

組織の習性として、反対者は遠ざけられ、権力者の周辺はお茶坊主集団になるから、間違った「認識と信念」は、組織の総意として、無理に無理を重ねても、貫徹されるということになりがちです。

かくして、組織は泥沼にはまる、といったことを繰り返すわけです。歴史を紐解けば、上記で示した失敗学の本が、いろいろな角度から分析している通りです。

 

それでは、どうすればいいか。山口周氏は著書『劣化したオッサン社会の処方箋』のなかで、オピニオンとエグジットをキーワードとして取り上げています。(文化181107参照)

ところが、50歳を過ぎて実際に転職した身にすれば、若い人に対して、なかなかお勧めする気になれないのが現実です。「自立する」ことの大切さは理解しているのですが、評価し、処遇するのは他人です。自分の実力を正しく評価されるかどうか、極めてリスクの高い選択になってしまいます。

「8050問題」が、巷間、取りざたされていますが、まさしく悩ましい問題と言えます。家族を抱えて、自分の「市場価値」と向き合わなければならない不安との戦いなど、誰しも経験したくはないでしょう。

 

誰かが「今だけ、カネだけ、自分だけ」しか考えない人ばかりだ、と日本の現状を嘆いていましたが、私も同感です。過当競争社会になり、企業は付加価値が採れない。そんな企業の中で、従業員の給料は上がらない。大手企業に入っても、今や株主資本主義化しており、資本効率優先だから、いつリストラの対象になるかもしれない。人々は、そんな不安を抱えながら、この「閉塞感あふれる」社会を生きているのではないのでしょうか。

 

何かが間違っている、と思いながら、永年、考え続けてきましたが、ようやく行き着いたのが「国柄」というテーマです。ユーラシアの大陸国家が、未だに専制国家から離脱できないのに、日本が、曲がりなりにも、近代民主主義国家になりえたのか、という梅棹忠夫の問題意識とも通底しています。

なぜ、ヨーロッパと日本だけが、近代化に成功し、民主化できたのか。

古代史を紐解いても、「民のかまど」という物語を持ち、「三種の神器」という統治思想を持ち、巨大な中華帝国に対しても「日出ずる国」と胸を張ってきた国柄です。

また、承久の乱以降は、封建制度が確立していきます。封建時代という長い歴史を積み重ねて、その時代精神を、民族の倫理規範にまで昇華させていきました。

武士道は、武士だけに限らず、卑怯を憎む倫理規範にまで一般化されたのです。『平家物語』や『闘戦経』『神皇正統記』などの文学の影響が大きいと思います。

本領安堵と御恩、という関係を紐解く必要があるのではないか、と考えています。

この関係は、意外とドライな関係であったことが、分かっています。武士は、恩賞狙いで戦闘に命を投げ出し、本領安堵と引き換えに、官僚機構の中で、仕事をしていたのです。

日本人には、そこで育まれた倫理規範が染みついており、その体質に合わない制度仕組みは、うまく機能しないのではないか、と考えています。

かつて、工場勤務をしていた時に、現場の人たちまでもが「ウチの会社」と言っていました。株主資本主義などという制度が、不適合を起こすことぐらいは、この一事で証明できていると思います。もういい加減、そんな問題提起する指導者の登場を期待したいものです。

認知的不協和ということ (2)

経営190902

一番罪深いのが、平成時代をけん引した財界人です。アメリカの「卑しい精神」に汚染され、日本的経営を放棄し、資金効率ばかりを追求する株主資本主義にシフトしていきました。労働者の賃金を抑え、配当ばかりを重視する経営に舵を切っていったのです。プラザ合意により、不自然なまでの円高を強いられ、国際競争力を確保する必要があったとはいえ、日本の国柄を弁えない不見識を許すわけにはいきません。当のアメリカ自身が、株主資本主義を反省し始めています。日経新聞の記事を引用し、読者に情報提供します。 

引用:

米主要企業の経営者団体、ビジネス・ラウンドテーブルは19日、「株主第一主義」を見直し、従業員や地域社会などの利益を尊重した事業運営に取り組むと宣言した。株価上昇や配当増加など投資家の利益を優先してきた米国型の資本主義にとって大きな転換点となる。米国では所得格差の拡大で、大企業にも批判の矛先が向かっており、行動原則の修正を迫られた形だ。

19日公表した声明には同団体の会長を務めるJPモルガン・チェースのジェイミー・ダイモン最高経営責任者(CEO)のほか、アマゾン・ドット・コムのジェフ・ベゾスCEOやゼネラル・モーターズ(GM)のメアリー・バーラCEOなど181人の経営トップが名を連ねた。賛同企業は顧客や従業員、取引先、地域社会、株主といった全ての利害関係者の利益に配慮し、長期的な企業価値向上に取り組むという。

今回の宣言は米経済の根幹を成す「資本主義のかたち」を大きく見直すものだ。米ビジネス・ラウンドテーブルは1978年以降、定期的にコーポレートガバナンス(企業統治)原則を公表し、97年からは「企業は主に株主のために存在する」と明記してきた。JPモルガンのダイモンCEOは発表文で「アメリカンドリームは存在するが、揺らいでいる」と指摘した上で、行動原則の見直しは従業員や地域社会への投資継続を約束するものだと述べた。

「株主第一主義」の見直しは、米経済界に対する国民の批判をかわす狙いもありそうだ。トランプ米政権の税制改革で企業の利益水準は押し上げられたが、賃金の伸びは鈍い。余剰資金は自社株買いに回り、米株高を演出した。恩恵を受けたのは株式を持つ資産家や、自社株で報酬を得る経営者層――。そんな不満が富裕層増税や大企業解体などを唱える米民主党左派への支持につながっており、米経営者の危機感は強い。

80年代から2000年前後に生まれたミレニアル世代の存在も、行動原則の見直しにつながった。今回の声明に加わった米運用大手ブラックロックのラリー・フィンクCEOは、投資先企業に送った年初の手紙の中で、ミレニアル世代の6割が「会社の主な目的を利益追求より社会貢献と考えている」と指摘。経営者に対して社会問題の解決に取り組むよう求めていた。米経済界は優秀な人材の獲得や投資マネーの取り込みで、同世代の影響力を無視できなくなっている。

日本における株主と企業の力関係にも影響を及ぼす可能性がある。日本企業は近年、海外投資家から促される形で、株主重視経営への転換を迫られてきたからだ。すべての利害関係者の利益に配慮した経営は、日本の経営者が長年、主張していた経営思想と重なる。(引用終わり)

日本経営品質賞の考え方を、世界標準にすべきである、と訴えてきたが、ようやくその端緒が開かれてきたようである。アメリカが分析した日本的経営の特徴であるが、私は、その中に、日本人の倫理規範や古来からの日本の統治思想が内在されており、それは「21世紀の世界規範」になりうると考えている。ところが、平成の指導者たちは、「日米構造会議」などで、その優位性を主張できず、アメリカに飲み込まれていった過去を振り返ると、はなはだ無念としか言いようがない。なお、日本経営品質賞の考え方は、このブログの「基本的考え方」にも書いているので、ご参照願いたい。

アメリカ追随が正しいという「認識と信念」を、当のアメリカ自身が変わろうとしている「事実」があるにもかかわらず、変えようとしないのが、いまの日本の財界人たちです。日立やトヨタのトップが、「終身雇用は守れない」と言ってみたり、みずほ銀行が行員に副業を認める、といったニュースがありましたが、日本人の本質を弁えない暴論です。彼らには、是非、梅棹忠夫の名著『文明の生態史観』を読んでもらいたいものです。そして、江戸時代に既に確立していた「日本的経営」に、再度留意願いたいものです。それが、経済を発展させ、適正分配、即ち「全体最適」に通じる道です。もう一度、一億総中流社会を作り上げていきたいものですね。

流行の末路

経営190801

『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』という本がある。マッキンゼー、デロイトなど、超一流といわれるコンサルティング企業の経営理論など、実は何の意味もなかったという衝撃的事実を暴露し、全米が騒然となったそうです。

この本に書かれてあることは、基本的には、私が以前から言ってきたことと同じである。


企業が、組織を動かすためにつくる制度や規定、マニュアルなどの類いは、運用を前提に考えていないと使いものにならない。

運用とは、ルーティンワークに組み込まれ、だれもが迷わず使えていることであり、だれもが、その意義を理解し、メリットを感じながら、作業をすることである。

そして、増やす作業を付け加えるならば、減らす作業について検討しなければならない、というのが常道である。しかし、なかなか減らす作業は、議論にならない。

P―D―C―Aを回す、ということは、Dの段階終了後に、費用対効果でどうであったかを確認することであるが、えらいさんのお墨付きで始まった改革は、一旦始まったら止むことはない。

現場で頭を使う人間がいなくなれば、その組織は迷路に陥り、二度と脱出できない。

構造不況に陥った業界は、大抵、トップ企業の、経営のかじ取りの失敗によるものである。

 

MBA取得者の考えることは、大抵、そういう類の提案ばかりなのであったが、それを受け入れるお粗末な経営者は、今でも後を絶たないようだ。

業績悪化と不祥事で話題になる企業は、大抵そんなお粗末な経営者に率いられた過去を持つ。

彼らは、大抵「意欲的」に働くのが常で、何か事業をやっていると、「こういう事業もどうでしょう」「こういう機能をつけたらどうでしょう」「こういうイベントもやったらどうでしょう」と、たくさんアイデアを出しては実行したがる。ピント外れが多いのですが上司はその意欲を買います。

「成果主義」が普及してからというもの、なおさらそういう状況ではないのでしょうか。しかし、それらはすべて「増やす作業」です。「これを新たに増やすから、これを減らそう」「これを新たにやるから、その分これはカットしよう」という「減らす作業」がセットにならないと、増え続けて行くわけです。結果、職場は、みんな、身も心も、疲れ果てる仕儀となる。学校現場は、その典型です。

 

「働き方改革」などの議論を聞いていると、時間のことばかりが話題になり、減らす作業という発想が皆無である。作業を減らすためには、職場でよく話し合って、禁止事項を決めるとよい。こういう行為を「禁止」する、こういう商習慣を「禁止」する、と書き出す。「禁止」するのはなぜかというと、「時間を作り出すため」です。何かをやめることで、その時間が空く。何も考えずに惰性的にやっていたことをやめたら、これからもっと意義あることにその時間を使えます。

 

8割ぐらいで仕事をこなし、2割は、今後の仕事のために自己啓発に努める、ぐらいが一番いいのではないでしょうか。それだけの余裕を会社は認めるべきだと思います。その余裕が、新たな発想を生み、クリエイトなしごとにつながると思います。さらに、お客様だって、多忙な人と接するよりも、もっと余裕があって、話が面白く、楽しい人と接したいはずです。最近の若い人の話を聞いていると、そういう人材が、日本から消滅してしまったような気がしてなりません。かつての職場にいた「豪傑」は、伝説になってしまいました。私の知っている「豪傑」は、物事の本質だけは、しっかりつかんでおり、何かあったときには、的確なアドバイスをしてくれたものです。そういう人の言葉は、今なお、私の中で「光っています」。

 

それに対し、MBA取得者にしても、主流派経済学者にしても、自分たちが習ってきた学問を、自分の差別化の手段にして、出世の道具にしたいのでしょうけれど、彼ら観念論者は、悉く、問題解決能力を失ってしまっています。何一つ現状を説明できていません。タコつぼ知識だけを振り回し、世界観や歴史観、日本人としての価値観を鍛えていない者には、現実を直視できないでしょう。

頭の中だけで構成する理論などというものは、現実感覚からどんどんずれてしまい、事実を突きつけられて、あたふたする事例ばかりです。もうかつての「流行」は、終焉させなければなりません。

財界人の不見識 (7)

経営190702

文在寅政権の韓国の、一連の反日行動に対して、政府は、韓国との信頼関係が著しく損なわれたとして、輸出管理を強化することにした。菅官房長官は、「輸出管理制度は、信頼関係を土台として構築されている。韓国に対して、信頼関係の下に、輸出管理に取り組むことが困難になっている」と述べた。いわゆる徴用工の問題、慰安婦財団解消問題、自衛隊機へのレーダー照射問題、国会議長の暴言等いずれも今までの外交成果として積み上げてきたものを「ちゃぶ台返し」されてきた。日本としては、到底許しがたい韓国側の挑発言動である。

本来、サプライチェーンが国際的になっている現状において、こうした措置を取ることは、日本側にとってもマイナスではあるが、致し方ないと思う。ほかに文在寅に警告を発する有効な手段がないからだ。これ以上、もう放置するわけにもいかない、との政府の判断だろう。これでいよいよ、情報戦から経済戦に移行することになった。彼らはすぐに報復してくるだろうから、両国関係は泥沼に落ちることは必至である。これからは、官民挙げて知恵を出し、完膚なきまでに打ちのめすしか方法があるまい。冷静に、論理的に、作戦を立ててもらいたい。彼らは、強い者には弱い、事大主義の国である。圧倒的な差異を見せつけるに限る。

歴史という言葉を英訳すると、日本ではヒストリーだが、中国ではプロパガンダ、韓国ではファンタジーになる、と宮脇淳子女史が、うまいことを言っている。中国のプロパガンダは、だんだんアメリカが見抜けるようになってきた。戦前に見抜けるだけの智慧がアメリカにあったらなあ、と思うが、致し方ない。せめて、韓国のファンタジーぐらいは、日本が、世界に明らかにしてはどうか、と思う。そして、そんなファンタジーというウソと、それを世界に公然とばら撒く恥知らずの行動が、通用しないことを、彼らに知らしめることが肝要である。そして今、そのチャンスが訪れている。日本も少しは海外との情報戦・経済戦に慣れていった方がよい。「お人好し」を卒業することだ。

今後は、徹底的に無視し、何一つ協力せず、何があっても救済しない、という国民のコンセンサスを確立すべきだ。再びの「脱亜論の時代」であるという共通認識を持ちたいものだ。そのうえで、どうすれば早くそういう状況が作り出せるか、考えるべきではないのか。官民挙げての意思疎通が必要になってくると思う。

7月3日付の朝日新聞天声人語氏は、この件に関して、トランプのあくびが、飼い犬にも伝染したとして失礼千万な安倍批判を行っている。いかにも朝日新聞らしい反権力記事である。しかし、それよりも、こんな時期に消費税を上げるという暴挙を糾弾すべきだと思うが、そこは財務省の言いなりになり、全く逆の主張をしている。消費は減退し、景気が悪化し、狙いであった税収も減り、散々なことになるに違いない。MMTに関しても、理解できている編集委員はいない。戦後の空襲で供給体制が壊滅したときのインフレを持ち出し、緊縮財政を維持しないと、そういう事態になると警鐘を鳴らす。まともな経済部記者は、一人もいない。

それとも、朝日新聞は、日本を貶めることが社是であるから、その方がよいのだろうか。そうだとしたら、どうしようもない「反日新聞」だ。

そういえば、原発事故の際の「吉田証言」の誤報記事は、日本人の信用を世界で貶めた。

そして、「従軍慰安婦問題」をここまでこじらせたのは「吉田清二」のウソ証言を、何度も取り上げた朝日新聞のせいである。そうした反省もなく、今度は韓国に感情移入した報道に終始している。

これでまた、発行部数を減らすだろう。

 

ただ一点、同日の天声人語氏に賛成できるのは、自由貿易を求める財界の立場からは反対声明が出されてしかるべきで、財界人のコメントがないことに対する不満を表明していることだ。おそらく、財界人も、この30年の、壮大な社会実験の結果が出ているので、自信が持てないでいるのだろう。それは当然だ。さらに言うと、腹をくくって軌道修正するだけの見識もない、と言うことかもしれない。

ただ穏便に、穏便に、という姿勢で、アメリカに追随してきた。単に、それが楽だったに過ぎない。当たり障りのない言動ばかりしてきて、それを「大人の態度」と言わんばかりに人格者風を吹かし、その結果の、この「日本の体たらく」ではないのか。せめて、お隣の国に対してぐらいは、毅然とした態度を見せてほしいものだ。

トランプは、お粗末な大統領だが、ある部分、アメリカの中間層の心情を理解し、代弁している。

いかんせん、ソロスが言うように、戦線を拡大し過ぎており、戦略家でないことが、重大な欠点だ。中国を主要敵国とするなら、それ以外のところへの攻撃は緩めるべきだろう。今のアメリカに、世界のすべてを敵に回すだけの力はない。日本にも、ソロスのような「戦略の分かる経済人」が必要だ。

財界人の不見識 (6)

経営190701

ロシア革命を支援し、コミンテルン(国際共産主義運動)を支えていたのは、ユダヤ金融資本である。理念を掲げ、世界を同じルールで縛り上げ、そこに自分たちの利益追求の方途を見出していく、という手法は、近代の国際政治の特徴である。政治では、覇権(ヘゲモニー)という言葉が、経済では、標準規格(デファクトスタンダード)という言葉が、今ほど大きくなっている時代はない。

今やグローバルな政治情勢に利害得失が左右されるのは、金融のみならず、食糧、エネルギー、デジタル、通信、物流、情報、軍需産業など多岐にわたる。

多国籍企業は、国家の枠を極力小さくして、自分たちの利益極大化を目指して暗躍している。

すべてが「カネの効率」という観点で評価され、余剰利得の獲得へ向けて「工作」がなされる。

アメリカのこれらの業界で、ロビー活動を中心として、さまざまな利益誘導活動を巨大資本は続けているのだろう。世界には、レントシーカーがあふれている。国家資本主義の中国は、レントシーカー=国有企業=共産党ではないか。その利害がうごめいているのが、国際政治というものである。

 

そういうリアリズムに則り、外部環境を自社経営のかじ取りに取り込んでいる日本の財界人がいるのだろうか。日本国憲法の「諸国民の信義と公正」など、全く信じてはならない、と思うのだが、そんなお人好しばかりが目立つ。

こんな財界人ばかりになるのは、政治や宗教をタブーとしてきた日本社会の弊害が出ている、と最近考えるようになった。

政治や宗教を論じるということは、その人の世界観・歴史観・価値観がモロに出る。

だから、特にビジネスの場では、関係修復不可能となるリスクを避ける知恵である、と思っていた。

しかし、ここまで世界観・歴史観・価値観が鍛えられないまま財界や政界のリーダーになってしまう人が多いと、本当にこんなことでいいのだろうか、と思ってしまう。

世の中は実際、国際化しており、多様性にも対処していかなければならない、と同時に、事実に基づいて物事を、論理的に突き詰めて考える習慣を身につけていかなければならない。そして何よりも組織をマネジメントしていく能力が問われているのではないだろうか。

 

巨大資本や各国情報機関が暗躍する国際世界にあっても、

日本人の価値観に沿う日本的経営と混合型経済体制下で、日本は高度成長を遂げ、一億総中流社会を現出させたこと、

その後のグローバル化の中で、経済の停滞を生み、格差社会になってしまい、少子化が進行しているということ、

その2つの「事実」だけは、誰しも認めざるを得ないであろう。

 

それでは、どうして、そのような事態になったのか。財界人は、まともに答えられるのか。

財界人と言えば、組織のマネジメントをしてきた人たちである。ところが、その肝心の、マネジメント能力の低さが問題なのではないだろうか。ロジカルシンキングができないから、自分の思い込みで事を判断する。こういう人に限って、仮説を検証する、ということをしない。PDCAが回ることがない。

こういう人が偉くなると、組織は確実に腐ってくる。サラリーマンなら誰しも経験するだろう。媚びて、群れて、流される、という無責任集団が出来上がる。組織で必須の項目は、凡事徹底と言うことだ。マネジメントは、ある時期が来たら振り返り、歩んできた道を検証することだ。その真摯さに尽きる。

「万機公論に決すべし」を実践し、冷静に論理的に議論できる組織風土を醸成することが肝要だ。

ところが、トップに立つ人が、この真摯さを持ち合わせないと、同調圧力ばかり強くなり、優秀な人は一人去り、二人去りして、結局、その組織は機能低下に至り、やがて崩壊する。

 

上位の職位に立つと、コンセプショナル・スキルと言う判断力・直観力が大事である。それは、世界観や歴史観、そして人生経験から蓄積された価値観、を鍛えることから身についてくる。問題意識を持って、人の話をじっくり聞いて、現場と理論を行ったり来たりして、身についてくるものだ。

幅広い知識が必須であるが、実に勉強している人が少ない。そもそも学生時代に勉強する習慣がついていない人も多い(特に文科系)。企業の採用基準から見直さないといけないのではないか。

 

「問題を発生させた考え方で、その問題は解決しない」(アインシュタイン)のであるから、従来の考え方を変えるべきではないのか。結論は、新自由主義思想に立脚した金融資本主義・株主資本主義では健全な社会を作れない、ということだと思う。チョムスキーの言う「恥ずべき行動原理」を追放しなければならないのだ。それは、平成の時代に進めた「構造改革」を逆転させる「構造改革」即ち令和の政策ピボットが必要、というではないか。

財界人の不見識 (5)

経営190611

なぜ、平成の時代に、こんなにまで厚顔無恥な連中がのさばるようになってしまったのか。やはり、戦後教育の弊害ではなかったかと、私は思う。戦後は、戦前の日本を、徹底的に否定することから始まった。二度とアメリカに対抗する勢力になりえないようにする、ということがGHQの主目的であったから、文化基盤の破壊は、当然のことであった。7000冊あまりの焚書がなされ、民族の蓄積が失われたのである。学問の系譜が断絶し、立派な業績が消えてしまっている。そして調子に乗って、アメリカに媚を売る「民主的勢力」という名の、「反日勢力」が国内でも形成された。「戦後民主教育」というものは、そうした時代背景の下で生まれ、歪められた価値観の下で、人づくりをしていった。成績の良い人間ほど、「民主的な価値観」を刷り込まれていったのであろう。平成の指導者たちの、「腰抜けぶり」を、間近にみてきた私としては、そうとしか考えられないのである。

 

戦前は、アメリカの帝国主義を見習い、中国市場で真正面から衝突し、大東亜戦争に至った。

戦後は、グローバリズムに引き込まれ、ルールを変更されて、国力を衰退させた。戦争がなかっただけよかった、という言い方もできるが、未だに民族の習性への問題意識が浸透しないのはなぜか。

まことにもって日本の指導者層の不見識を憂うのであるが、にもかかわらず暴動がおこる気配もなく、平和で穏やかな社会が続いている。考えてみれば、日本の庶民は辛抱強く、日本という国は大したものだと思うのだが、それに甘えていて、いわゆる「茹でガエル状態」になってはいないか。

一人当たりのGDPが25位までに落ち込み、その弊害が顕在化してきているのに、その要因分析すら誰も手掛けない。騒いでいるのは、みんな私のようなアウトローばかりである。

 

財界人の頭の中には「市場」しかないように感じる。それは、新自由主義というアメリカが日本を封じ込めるために編み出した「悪魔の思想」であるが、それを信奉し、金融資本主義・株主資本主義化に邁進してきたからに他ならない。まともな人物ならば「市場」だけでなく、「国家」や「地域社会」のことも、視野に入るはずである。「いま ここ 自分」しか考えられない人間はリーダーの資格はない。

 

世界の潮流も変わってきた。アメリカ自身がトランプを生み、イギリスもEUからの離脱に苦しんでいる。グローバリズムそのものが終焉に向かっている。世界環境は「いつか来た道」になっている。

大正時代のグローバリズムが、昭和恐慌を引き起こし、第2次世界大戦につながる歴史をもう一度おさらいしてわが民族の習性を確認しておこう。われわれは「いつか来た道」に戻ってはいけない。

勇ましい意見がネット上で飛び交っているが、日本という国の、世界史的役割は、その文化的基盤にある、と確信している。伝統に裏付けられた民族の価値観こそ、真に守るべきものである。

もちろん、それを可能にする経済的基盤も必要だし、その経済的基盤を確保する政治軍事的基盤も整えていかなければならないが。

 

そして、もう「アメリカ流の自由と民主主義」を信仰するのを止めよう。彼らが言うときは、必ず「己の利益」が含まれている。だからいつも、得手勝手なダブル・スタンダードになるのである。

ベトナム戦争の契機となったトンキン湾事件も米軍の自作自演であり、湾岸戦争時の油まみれの鳥の映像も、少女の証言もアメリカのねつ造であり、イラク戦争のときの大量破壊兵器もアルカイダへの支援も、ニセ情報であった。今度のホルムズ海峡の日本タンカーへの攻撃も、アメリカが「イランがやった」と主張しても、国際社会からあまり信用されていない。

戦後の上記のような戦争は、すべて市場という勢力圏を維持し、覇権を維持するための戦争である。「ドル基軸通貨制度」を守るための戦争である。これはまさに他国からの収奪システムなのである。こんなアメリカにとって都合の良いシステムを、安保の片務性と引き換えに、属国日本は損することを覚悟して支えてきた。プラザ合意で、外貨準備金の価値が、半分以下になっても忍従した。

 

そういう覇権体制そのものに、中国が挑戦してきたから、アメリカの態度変容に至った。「中国製造2025」はまさしくG2体制へ向けての宣言であった。もうパンダハガーは一掃された、と考えてよい。

貿易戦争という形をとっているが、実質は、技術覇権、金融覇権、軍事覇権をめぐる壮絶な争いである。どちらかの体制破壊まで続くと私は見ているが、財界人はノー天気で、市場の大きさに目が眩み、さらに中国に投資しようとしている。安倍総理は、来春、国賓として習近平を招待するそうだ。

国家の上に共産党が乗っかっている中国という国が、まともにこのまま発展すると思っているのか。

アメリカが、レジーム・チェンジしているのに、そのことになぜ気づかないのか。

財界人の不見識 (4)

経営190610

年金審議会の老後資金に2000万円必要との報告を財務大臣が受け取りを拒否する、ということがニュースになっている。単純に夫婦二人所帯の老後年金の受取額が平均20万円で、生活費が平均26万円かかり、その赤字穴埋めをするために、平均寿命を考えれば、その程度の貯えが必要という単純な話である。

われわれ庶民にとっては常識的な話であるが、それが100年安心年金の前提に反する、ということらしい。何か子供じみた議論に感じる。

100年安心年金とは、制度の持続性維持を言っているのであって、個別の老後計画を保障するものではない。今のように、非正規社員が増えると、退職後の年金では、生活保護所帯以下の生活しかできないことは、以前から指摘されていることである。

逆に言うと、非正規で働くという「むごさ」がわかろうというものだ。にもかかわらず、非正規社員が全労働者の4割近くにも達している。小泉・竹中路線の弊害が、はっきり表れている。

非正規が許されるのは、本来、奥さんの家計補填のための就労ぐらいに考えるべきではないのか。

 

いかに経団連が1995年に発表した「新時代の日本的経営」が、実態を無視したものであるかを、今回の騒動が証明した、と言ってよい。経営者のその感覚が、日本を没落させたのだ。大企業は、下請けにコストダウンを強要し、労働分配率を下げ、拡大した利益は、株主配当と自分たちの所得向上、そして社内蓄積に回している。そうしたことは、各種経済データが裏付けている。本業が調子悪ければ、すぐにリストラを繰り返す。欧米流の「自分勝手な卑しい精神」に汚染された、としか言い様がないではないか。

 

そして、今頃になって、政府は、ロスジェネ世代の救済に乗り出すという。将来の社会保障費増大を食い止めるためだ。こんな「弥縫策」ばかりが話題になるが、「根本」がおかしくはないのか。

考えても見てほしい。

時給1000円で、1日8時間、1か月25日働いて、20万円稼いでも年間240万円で、20歳から70歳まで50年間働いて、生涯賃金は1,2億円である。夫婦で、同じ働きをしても2,4億円である。

日本の物価水準で、これだけの稼ぎで、衣食住足りて、子供の教育費まで捻出できるだろうか。

こう考えると、少子化を促進させた主犯は経団連であり、国内消費を減退させて自分で自分の首を絞めているのである。自分たちは、世界に投資をして、国内を顧みることがない。

国内の内需に依存するしか方法のない中小零細業者はたまったものではない。大店法もアメリカの圧力で廃止され、今は、業容を超えた競争環境にさらされている。これらはすべて「構造改革」の仕業ではないのか。

 

彼らは、強者の論理しか理解できない、想像力の欠如したバカ集団かと言いたくなる。世の中には、周囲の配慮がなければ生活していけない障害を抱えた人が1割いて、ガラスのハートゆえに人間関係を構築するのに苦労している大勢の人がいる、という事実に気づいていない。

そういう弱者を包含して、社会を運営していくべきだ、という基本的なことがわかっていない。

例えば、知的障害を持つ子供たちとも接してきたが、彼らは、損得とか好悪とかを超越して、何が正しいか、だけで物事を判断する。だからこそ近江学園では「この子らに、世の光を」ではなく「この子らを、世の光に」というスローガンを掲げている。われわれ凡人に、己の「卑しい精神」を気づかせてくれる貴重な存在なのである。

最近、「ひきこもり」が話題になっている。40歳以上の中高年になってから、ひきこもり始めたという人も60万人近くいると聞く。ガラスのハートは、子供たちに限った話ではない。

職場の人間関係に悩み、退職したことがトラウマになって、なかなか再起できないでいるのだろう。また、離婚しひとり親となって子育てしている貧しいお母さんを、学校現場で何人も見てきた。

 

地域の企業主から、「校長、障害のある子は、その旨、はっきり知らせてくださいね。地域の子は、地域で何とかしていかないといけないことはみんな分かっていますから。」と言われたことがある。

経団連のお偉方よりよほど立派だと感動したが、彼らSomewhere族の苦境は想像するに難くない。

一億総中流社会を、ここまで追い詰めてきたのは、だれの責任か。功成り名を遂げた財界人と言われる皆さんに申し上げる。あなた方は、何か根本的なところで間違ってはいないか。そこを、じっくり考えて、言動を変えてほしい。ヒントは、わが日本国の歴史にいくらでも見いだせるはずである。

財界人の不見識 (3)

経営190609

今また、「働き方改革」とか言って、本業での稼ぎの不足を補うための副業を解禁しようとしている。会社への忠誠を問わない、ということなのだろうが、こんなことをしていて、日本そのものが崩壊してしまうのではないか、という危惧を私は持つ。一番大事な「ヒトへの投資」がおろそかになりはしないだろうか。

問題は、企業側が本当に終身雇用を廃止したとき、それに伴う代償を支払う覚悟ができているかどうかである。日本が「日本」でなくなってしまったときに、どうなってしまうのだろうか。このままでいくと、おそらく日本は、単なる「アジアの一小国」になり下がってしまうだろう。問題の本質は、先進国の中で、日本だけが経済成長から取り残されてしまったことだが、これに対して、財界人は誰も、自分の見解を表明しない。都合の悪いことから逃げているように感じる。物事の本質から逃げていては、リーダーたる資格はない。

欧米など海外の国々では、「職務記述書」という形で会社と個人が職務を限定して契約し、一人ひとりが、専門の仕事を続けながらキャリアアップしていく。それに対して日本企業では人事部主導のもとに、採用や配属が決まり、本人の希望とは無関係に異動させられていく。よく言われているように「就職」ではなく「就社」である。そのため、ジェネラリストは、社外で通用するような専門性は身につかない。一部の専門職以外は「プロになれ」と言ったところで困難なのが現実だ。中高年の転職が、これほど困難を極めるということは、それなりの理由がある、と考えるべきだ。

また辞令一本で、たとえ本人の意思に反していても転勤させられる。転居をともなう転勤は本人の仕事だけでなく、家族を含めた生活全体が大きな影響を受ける。まして海外への転勤となればなおさらだ。企業としては定年まで雇用し続ける以上、社員に職種や仕事、勤務地などをえり好みさせることはできないし、社員も働かせてもらうためにはワガママを言えない。だからこそ、会社に忠誠を誓った者に対する処遇は、しっかりと保証してやらなければいけないのではないか。

それだけてはない。日本企業と社員の間には、終身雇用を媒介にした暗黙の合意=心理的契約と、それに基づく相互の信頼関係があり、それが日本的経営を支えてきたといってよい。まず、日本企業が相対的に低い賃金で若くて優秀な人材を確保できたのは、働く人にとって将来にわたり、安定した地位が得られ、長く勤めれば賃金も上がり、生涯所得では損にならない、という期待がもてたからである。社員がしばしば短期的な利害や打算を超えて会社のために頑張るのも、定年まで自分と家族の生活を守ってくれる会社への恩義と信頼があったからだということを忘れてはいけない。「本領安堵」と引き換えに、「ご恩」に報いる、というメンタリティが働いているのである。

会社としても、社員に安心して仕事を任せられるというメリットも大きい。海外では、社員を監視するために有形無形のコストをかけているケースが多い。中国に進出している企業ならば、よくわかるだろう。それに対して、日本では現場の人までが「ウチの会社」と言う。封建時代の武士のように、禄を食む、という意識で仕えてきたわけである。

終身雇用がもたらす会社側のメリットは、このように大きかったにもかかわらず、今回、もはや終身雇用を維持できないと経済界のトップが公言した。「パンドラの箱」を開ける以上、企業が終身雇用によって受けていた多くのメリットも失うことになるだろう。企業なら、その意思決定に対するP―D―C―Aを、是非回してもらいたい。平成の30年の凋落は、一体、誰の責任なのか、も議論されることがない日本の組織風土である。同じ要因で、同じ失敗を繰り返さないためにも、社内で要因分析ができ、責任の所在ぐらいは明らかにできる「システム」を導入してから、改革すべきだ。

財界人の不見識 (2)

経営190608

経団連の中西宏明会長が、「終身雇用を守れない」と公言したり、トヨタ自動車の豊田章男社長が、終身雇用制の継続について経営者側のインセンティブが働かないと発言するなど、経済界を代表する人物の発言が波紋を広げている。彼らの発言は、1995年の経団連「新時代の日本的経営」の延長線上でしかものを考えられないということを証明している。政府は、「骨太の方針」で今の40歳代のロスジェネ世代の救済策を打ち出しているが、なぜ今頃、こんなことになっているのか、彼らには理解できないのだろうか。自分たちの不見識を棚に上げて、解雇規制などの更なる制度変更を要求してくるのだろう。その見識の欠如、厚顔無恥ぶりにあきれてしまう。 

1995年の経団連「新時代の日本的経営」のような発想から、日本の停滞が始まったという反省が、未だにできていない。「部分最適」にしか頭が回らず「全体最適」に至らないのだ。渋沢栄一、鮎川儀介、安田善次郎などは、草葉の陰で、嘆き悲しんでいることだろう。ここまで時代が閉塞感に包まれている現実があるのに、こんなことを言っているのだから、よほど知能程度が低いのか、欧米流の「恥ずべき行動原理」(チョムスキー)に犯されたのか、どちらかしかない。ロナルド・ドーアを初め欧米人にも、日本的経営のファンは多かったのだが、さぞ無念の想いに苛まれていることだろう。日本の神話―「古事記」「日本書紀」―も理解せず、「三種の神器」が何を象徴しているかすら考えず、日本人のアイデンティティに考えが及ばない人たちに、リーダーたる資格はない。

社会は、多変数から構成される複雑系であり、現状は「ありてあるもの」なのである。働く人の教育訓練や退職金・年金などの制度、それに各種の保険や住宅ローンなども含め、社会のシステム全体が、終身雇用を暗黙の前提にしており、会社のシステムも然りであることを見逃してはいないか。私自身、51歳で会社方針になじめず転職の経験をしたが、古巣の同僚と会話をするたびに、消えていった優秀な先輩たちのことが話題になり、無責任な発言をしていた経営者たちに改めて怒りを覚える。そして、欧米の「卑しい精神」に汚染されて、金融資本主義・株主資本主義に舵を切っていった経営者たちに猛省を促すべき、との結論に達するのである。

同時に、金融資本主義・株主資本主義化が、アメリカの「日本封じ」とも気づかずにいる、そのノー天気ぶりに怒りを通り越して、あきれてしまう。日本のエリートたるものの底の浅さ、人間の軽さを痛感する。そして、それは、対米戦争へ発展した戦前と同じ構図である、と思い至る。日露戦争以降のアメリカは、日本を仮想敵国として、軍縮条約から始め、着々と「日本封じ」を計画していたことは、歴史を紐解けば理解できるはずである。おそらく、そんな知識も持ち合わせずに、上司に媚びて、多数派で群れて、時代に流されて、功成り名を遂げたご仁たちなのであろう。「ヘゲモニー」という言葉の意味も、その歴史的変遷についての知識も乏しいに違いない。

アメリカは、さすがに覇権国である。負けたと思うと、負けた要因を調査分析し、その負けた土俵で相撲を取らずに、土俵そのものを変えてくる。日本的経営を分析(それが経営品質賞につながる)混合経済体制を世界標準と異なるとして、非関税障壁と言い募り、構造協議という名のもとに内政干渉をしてきたのである。にもかかわらず、日本の指導者たちは、グローバル化は時代の流れ、などと、対米従属の「言い訳」にしてきたのである。それが楽な道であるからだ。

「構造改革」という競争政策を取らされ、あらゆる業界で過当競争にさらされ、企業は付加価値が確保できず、従業員は所得が伸びず、重要不足から、すっかりデフレが定着し、もう20年も、経済は停滞したままである。その結果、少子化、格差拡大、地方衰退などの問題を抱え込むようになった。因果関係を間違えてはいけない。少子化が進んだから、経済が停滞したのではない。政策を間違え、経済が停滞したから、少子化が進んだのだ。今、一番の課題が、この少子化である、という認識が必要になっている。彼らには、日本を背負うといった気概がない。

財界人の不見識 (1)

経営190607

昨今の財界人の、世界観・歴史観の欠如と、日本人としての倫理規範の欠如は、目を覆いたくなるほど、酷いものになっています。欧米人の「卑しい精神」に汚染され尽くして、人格・識見とも劣化の一途ではないでしょうか。逆に言うと、平成の時代は、こんな軽い人物しかえらくなれなかったのだ、と思います。組織は集団戦ですから、どこかでボタンを掛け違ったのでしょう。

「民のかまど」の国・日本という国柄を弁えない輩が、平成の御代に世の中を席巻してしまったことを憂慮しつつ、日本社会の課題について、考えていきたいと思います。

 

浜崎洋介氏が、5月29日付産経新聞にある小林喜光氏(三菱ケミカルホールディングス会長・前経済同友会代表幹事)のインタビュー記事「令和時代のキーワード『ゆでガエル』回避へ危機意識を」に猛反発しています。私も、浜崎洋介氏と全く同意見です。

引用し、読者の皆様と、シェアしたいと思います。

引用:
いちいち新聞記事に目くじらを立てていたのでは、切りがないのですが、しかし、この記事は見過ごすことができませんでした。べつに、「平成は敗北と挫折の時代だった」との認識に異論はないのですが、その後に続く、次のような言葉には引っ掛からざるを得ませんでした。小林氏は言います、「日本人は『井の中の蛙』にもなっている。留学者数からして少ない。若い人は『面倒くさい』と海外へ行きたがらず、親は子の安全を気にしすぎてリスクを取らない。この30年で、日本人の知的ハングリー精神はすっかりなくなってしまった。日本が活力を失ったのは、少子高齢化やデフレマインドのせいではなく、根源的には心の問題だ」と。
これが、今の財界人の認識かと思うと、心底げんなりしますが、以前「大学改革という悪夢─デフレスパイラル化する知性」でも触れておいたように、「日本が活力を失った」ことと、「デフレマインド」は間違いなく関係しています。いや、関係しているどころか、「デフレ」こそが、「日本が活力を失った」ことの主要因だと言ってもいい。

つまり、「デフレ」とは、単に経済問題である以上に、日本人の「心の問題」だということです。
では、そもそも、「デフレ」とは何なのか。
経済学的な定義を言えば、それは、供給に比べて需要が少ない状況が続くことによって、モノの価値が持続的下落していく一方で、カネの価値が上がっていく現象を指します。その結果、モノを売る企業は赤字となり、労働者の賃金は下がり続け、最悪の場合、人々は倒産と失業の危険にさらされることになります。また、カネの価値が上がるので、人々はカネを使うよりは、カネを貯めるようになり、借金は実質的に膨らんでいくことにもなります。これが経済的な「デフレ現象」です。
しかし、だとすれば「デフレ」が、「心の問題」と関係しないわけがないでしょう。先ほどの経済学の定義だけでも明らかだと思いますが、「デフレ」で消えてしまうのは、何よりもまず、モノが売れることの信頼感、すなわち「生活(生業)の持続感」であり、また、その持続感の延長線上でなされる「将来への投資」なのです。そして、逆に現れてくるのは、今、現在、手元にあるカネへの執着であり、悪い意味での「守り」の意識です。
その意味では、この「デフレ現象」の悪影響を最も強く受けてしまうのは、ほかでもない、「将来への投資」を最も必要としている世代、つまり若い人たちの「心」だと言えます。
まず、「何とかなる」という将来に対する楽観が消えてしまうことによって、若い人たちは「実験」をしなくなります。「実験」と言って分かりにくいなら、「試行錯誤」と言ってもいい。

緊縮と成果主義によって追い詰められた若い研究者が、実験的な研究に向かえないのと同じように、失敗できない若者たちは「安定」の二文字にしがみつき、たとえば、大学での自由な思考、研究、実験、出会い、遊び、読書など…つまり、「試行錯誤」に時間を割けなくなってしまうのです。
しかし、「試行錯誤」ができないということは、つまり、失敗を通じた「経験」ができないということでもあります。右に向かって壁にぶつかり、左に向かって壁にぶつかり、ようやく人は、自分自身の「資質」に目覚めて行きますが、その「試行錯誤の経験」が持てないのだから、若者は、自分の「限界」を知ることもできなければ、その「限界」に基づいた「自信」も「覚悟」も持つことができないということにもなりかねない。

しかし、それなら、この「試行錯誤の経験」のないままに歳を重ねてしまった人間が、どうして「四十にして惑わず」、「五十にして天命を知る」などと言うことができるでしょうか。自分の「資質」や「限界」への接続がなければ、「経験」は行き当たりばったりの記憶しか生み出しません。
すると、いつまでたっても己の一貫性(一つの「生き方」に基づいた充実感・生の強度)は手に入らないから、人は次第に、その場その場の「受動的感情」(スピノザ)に囚われていってしまう。

つまり、他者との間に生じる嫉妬や、焦燥や、不安のなかで、人は、その活動能力を低下させてしまうのだということです。

この失われた30年間で、私たちは、「経済成長」のみならず、まさに「生きる気力」そのものを失っていってしまったのだということです。カネが「天下の回りもの」なら、それが回らなくなったとき、人は「天下」のことを考える余裕を失って、「今、ここ、自分」のことだけを考え始める。そして、それが、ますます人々を疑心暗鬼に駆りたて、「心のデフレスパイラル」は止まらなくなってしまうのです。
その意味で言えば、「デフレ」とは、単なる「カネ」の問題を超えて、その「カネ」を通じて生活している私たちの「心」に直結した問題だと言ってもいいでしょう。

つまり、消費増税批判、緊縮批判を含めた「脱デフレ」の闘いとは、私たちの活力、元気、能動性、優しさ、明るさ、楽天性を取り戻そうとするための闘いだということでもあります。
「デフレ」の恐ろしさが何であるかも分からずに、「日本人は『井の中の蛙』にもなっている」などと言うこと自体が、いかにも「井の中の蛙」の言葉ですが、そんなに「井の中の蛙」が嫌なら、少なくとも、今の世界の動静の必然くらいは、しっかりと理解しておくべきです。 (引用おわり)

 

ドイツ参謀本部人材登用基準

経営190408

ドイツ参謀本部人材登用基準というのを、読者諸兄はご存じだろうか。最近の企業不祥事の頻発を見ていて、昔、学習したことを思い出しつつ、記述してみたい。

 

ドイツ参謀本部の人材登用の基準は、

  1 能力があって、意欲のない者

  2 能力も意欲もない者

  3 能力も意欲もある者 という順で出世させるべし、というもの。

そして絶対に出世させてはいけないのは、

  4 能力がなくて、意欲だけはある者 だったと言われている。

少し注釈を加えると、ここでいう意欲とは、上司に従順で、真面目な働き者という意味である。

組織で働いてきた人ならば、なるほどと合点がいく基準だと思われる。

堺屋太一氏は『歴史からの発想』PHP文庫で、この登用基準を肯定的に言及しており、天木直人氏は『さらば外務省』講談社で、「有能な者と無能な者、よく働く者と働かない者、どの組み合わせがいいと思うかい。無能でよく働くのが一番困るんだ。無能な者はむしろ働かなくてよい。有能で、何も仕事をしない者が一番いいんだ。」と言っている。

 

能力があって、意欲のない者を上に据えると、部下が育つ。部下は自分の頭で考えて仕事をするようになるからだ。ゴーイングコンサーンの企業なら、組織の永続性が必要だ。そういう観点から、部下の育成に注力できる人材を幹部に据えていかなければならない。

能力も意欲もない者は、メンツを気にしないから、わからないことをわからないと言える。そして出来のいい部下に任せることができる。従って、大きくは間違えない。組織にとって大事なことである。

能力も意欲もある者は、参謀本部では、あまり必要ではない。自立できる人材だから、現地司令官向きである。現場の最前線で活躍できるし、その方が向いている。

能力がないのに意欲だけある者は始末に困る。分析力がないから、物事の軽重がわからず、それでいて真面目なものだから、一所懸命汗だけはかく。最近のように、成果主義人事制度ができると、アピールできそうな仕事を選んで、それに邁進する。業績が上がらないと、他者のせいにして、自分を擁護する。こんな職場風景が、あちこちで見受けられるようになった。

最近の企業不祥事が頻発しているが、おそらく、そんな職場環境の会社ではないのだろうか。

四半期ごとの短期収益重視主義と成果主義人事制度が、日本の組織を蝕んでいるような気がしてならない。日本は「構造改革」と称してこの30年、グローバル化という名のアメリカ化を図ってきた。

それを支えた主流派経済学のでたらめが明らかになり、当のアメリカ自身が、耐えきれず、トランプという大統領を生んだ。もうそろそろ日本人も目覚めるときだろう。

 

このブログの主要テーマである経営品質賞の考え方は、アメリカが分析した「日本的経営」である。

和の国・日本でしかできない、従業員の育成を中心に長期的視野に立った経営の在り方である。

アメリカがさすがだと思うのは、負けたと思ったら、徹底的に調査し、相手の強みを発揮させないような仕組みを構築する戦略的能力だ。それが覇権国たるゆえんである。

覇権という意味は、自分たちの弱点を把握すれば、それをカバーできるように、ルールを改訂できるパワーのことだ。

平成の30年は、アメリカのパワーに押し切られて、日本の強みを放棄させられた時代である。

その結果の、この閉塞感であるにもかかわらず、大多数の日本人には、その自覚がない。

未だに、能力がないのに意欲だけある者が、「改革」と叫んで、あらゆる分野で影響力を発揮しようとしている。もういい加減にしてもらいたいものだ。

文化基盤というもの

経営190310

ある経営コンサルタントのメルマガにこういう記事があった。

引用:

日本人の働き方改革を妨げているものは「勤勉を美徳とする評価基準」である。
楽してはいけない。労働者は額に汗し寸暇を惜しんで勤勉に働くべき、という信念が私たちの身体に染みついていないだろうか。
ドイツの軍人ハンス・フォン・ゼークトはこんな教訓に満ちた言葉を残している。
有能な怠け者は司令官に、
有能な働き者は参謀にせよ。
無能な怠け者は、連絡将校か下級兵士にすべし。
無能な働き者は、すぐに銃殺刑に処せ・・・
有能な怠け者を最上位に置き、無能な働き者を最下位に置いているのだ。
ビルゲイツもそれに近いことを言っている。・・・
難しい仕事があるとき、私は怠け者に任せる。怠け者は、仕事を簡単に片づける方法を見つけ出すからだ。(引用終わり)

 

無能な働き者の弊害を論じているのだが、組織人としての半生を振り返って、いちいち納得がいく記述である。会社をダメにするのはいつも「従順で真面目な馬鹿」である。さすが、老練なコンサルタントだけに、多くの事例からの、生きた智慧であろう。

ここで言う働き者とは、まじめで従順、忠誠心が強い者、怠け者とは、クールで意欲や熱意が表面に出ない人材のことを言う。

有能・無能は、分析力や判断力などの作戦立案に必要な能力で、物事に軽重をつけることができ、優先順位を考えられるか否かで判別すればよい。

日本人は、追い詰められれば、必ずと言ってよいほど「根性論」が出てきて、冷静さを喪失してしまいがちだ。そうしたときに、気持ちに余裕のある「怠け者」が貴重な存在になる、ということだ。

大久保利通は、天の時を待ち、一気呵成に攻める「自然の機」というものを重視したし、広田弘毅は「風車 風が吹くまで 昼寝かな」という歌を残している。二人とも、平常時は、充電にいそしんだことは言うまでもない。いつもいつも一所懸命では長持ちしない。

 

最近の大企業では、アメリカ流経営管理が行きわたり、短期的収益に拘泥し、成果主義人事制度が導入されている。トップダウンで、「コミットメント=必達目標」で追い込むから、どうも職場がギスギスし、人間関係に苦労している若者が増えているように思う。

相談を受けても、どうアドバイスすればよいか、時代が変化しているので、いつも悩むのである。

現場では、苦し紛れに、数字をごまかすことから、不正につながっていく。「怠け者」が真価を発揮する環境だというわけだ。

 

私は、自分を押し通してきたが、周囲を見渡してみて、必ずしもお勧めの生き方とは思っていない。

中高年になってからの転職は、想定よりはおそらく厳しいものになる。何ができるか、と厳しく問い詰められて、自己肯定感の薄い日本人は、たじろぐことになりがちだ。

転職とか離婚とかは、やらないに越したことはないが、それでも自己肯定感を失うことなく、しっかりと「オピニオン=意見」をもって、「エグジット=出口」を模索しながらも、力強く生きていってほしい。

 

現役を離れて、友人たちと談笑する機会が多くなった。グローバルに活躍した人たちからは、欧米人もアジア人も、日本人と違って、自分をものすごくアピールする、という話を聞くことが多い。こちらが恥ずかしくなるほど、彼らは廉恥心が欠けている、というのだ。

文化基盤が違う、といえば一言で済んでしまうのだが、そういう文化基盤にあるわれわれは、それに合致した制度・仕組みを維持するべきではないのだろうか。森嶋通夫が、「エートス」という言葉を使って、日本経済の衰退を分析したのも、そういう趣旨であるのではないか、と思う。

事業というもの

経営190308

カネがすべてで、カネを儲けるためには何をしても良い、という「新自由主義」が蔓延しています。効率を優先し、カネを中心に据える思想です。日本人の倫理規範に反するにもかかわらず、グローバル化と称して、この平成の御代に一般的になってきました。日本の大企業の殆どがこれを取り入れ、運営されています。いわゆる株主資本主義ですね。儲けをため込み、労働者には分配せず、株主配当ばかりに重きを置き、「時間を買う」とか言って企業買収に走っています。

もう、その結果は、皆さん、おわかりですよね。日本全体が「小国化」しています。しかも、社会格差が拡大、地域が疲弊し、少子化が進み、デフレが止まりません。「幸せ」のかたちは人それぞれで、さまざまなはずなのに、価値観が一元化してしまいました。その結果、組織は余裕をなくし、多様性や寛容性が失われていきました。そして、閉塞感漂う社会になってしまいました。

それでも、諸外国のような暴動に発展することもなく、落ち着いた世の中ではありませんか。一面では、日本人というのは、大した民族ではないのか、という気になってきます。庶民のレベルは、この上なく、高いのではないでしょうか。そのDNAは、どのように育まれたのでしょうか。最近、そういう問題意識を持つにいたりました。いわゆる司馬史観からの脱却が必要のようです。

平成の指導者たちに、なぜ、こうした閉塞状況を招来したのか反省しろ、という趣旨のことをテーマにすることが多いのですが、将来を論じるには来し方を見極めることが肝要です。平成の指導者には、日本という国の「日本たる所以」を語れない人であったから、ということ以外考えにくいのです。森嶋道夫著『なぜ日本は行き詰ったのか』(岩波書店)を読んだときに、エートスという言葉を知って、そのことにハッと気づかされました。欧米の「卑しい精神」に振り回されている自分に気づき、それからの決別を誓いました。会社の中では、孤立していきましたが、何とか糊口を注ぐことができ、現役を離れてから、育ててくれた社会へのご恩に報いるために、こうして蓄積してきたものを発信し、少しでも社会の正常化に寄与したいと念じています。

巷間、「改革」と称して、こうすれば劇的に日本は良くなるというインチキ政治家があふれています。元気になる“特効薬”などありません。そのような“劇薬”を他者に求めること自体が誤りです。一人ひとりがどうすればよいか、自らの頭で考え、行動することが重要です。

例えば、事業というのは、カネもうけを主眼にするものではありません。世の中に必要なモノやサービスを提供する、ということです。それが受け入れられれば、もちろん黒字経営となり、おカネが回ります。利益がたまれば、さらに投資ができ、良い循環になります。ところが、「新自由主義」が拡散し、これが災いし、事業=カネもうけ=悪、ボランティア=社会奉仕=善、という価値観を持っている人が増えているように思います。ですが、ボランティアは、市場経済を歪める側面を持っている、ということも指摘しておきたいと思います。もちろん、善意の行動を否定するつもりはありませんし、短期的な助け合いは、立派な行動だと思いますが、ボランティアや補助金行政は、短期にとどめておくべきです。最初の「呼び水」としての実効性はありますから。

最近、その「自らの頭で考え、行動している人」を、知る機会を得ました。

静岡県浜松市の都田というところで、住宅建築のみならず、17個のカフェやレストランを運営している都田建設の蓬台浩明社長です。

ライフスタイルの美、心の美、社風力による独自のマネジメントを世界に発信。人格教育、社会貢献、収益を同時に叶える「道徳経営」をモットーとしている人です。17年無借金・黒字経営を持続しながら、本社のあるライフスタイル・キャンパスは、全国のみならず海外からも人が集まるそうです。

彼らが行っているのは、都田というまちづくりを通してのライフスタイルの発信です。そんなビジネスもあるのですね。そんな「志」を実現しながら、おカネがきちっと回わっている。これを本当の事業家というのではないでしょうか。
地方の疲弊が問題になり、地方創生などという言葉も生まれていますが、こういう人の事業実践が、一つの解決策だと考えています。

小城武彦著『衰退の法則』の書評から

経営190304

私はこれまで、日本の組織の悪しき部分を指摘し、そうならないような工夫を訴えてきました。一言で言うと、それは風通しの良い組織、自由闊達な組織にすることで、上意下達だけでなく、現場のファクトをトップが把握する仕組みを構築することにほかなりません。ツーウェイ・コミュニケーションということですね。

「媚びて、群れて、流される」サラリーマンの習性を考えると、トップは、とかく「裸の王様」になりがちです。文科省でのヒアリングでもそういう話をしましたし、PDCAが回らない、学習しない組織ばかりが増えては、日本がますます衰退し、小国化の道を歩むことになるからです。

日本の指導者たちは、DIME(外交・情報・軍事・経済)をまともに勉強していないし、覇権(ヘゲモニー)という意味すら理解していない。日本を「日本」たらしめている文化的基盤についての理解もなく、彼我の違いを認識できない人たちだったように思います。そういう人たちの牽引してきたグローバル化だったのです。なぜ、そのような人たちが増えたのか永年考えてきましたが、GHQのWGIPによる戦後教育に行き着くのです。自虐史観・ウチ向き史観が身についてしまいました。

そうした気持ちを共有してくれているのが小城武彦氏です。産業再生機構の社長だった小城武彦氏が、破綻企業の共通点を研究して上梓した『衰退の法則』という本があります。副題に「日本企業を蝕むサイレントキラーの正体」とあります。その書評を引用して読者に提供したいと思います。

引用:

破綻企業の特徴はよく言われるとおり、社内の対立を回避するために社内調整が大変なこと。官僚以上に官僚的だったりします。そして何を言ったかではなく誰が言ったかが重要視されること。事実をベースにした議論や方針決定がされていないのです。

破綻企業には、1社内の対立を極力回避する、役職や入社年次といった社内秩序を強く重んじる、といった二つの共通点が存在する(p52)

そして、破綻企業には、負のスパイラルがあるという。それは、事実をベースにした議論ができなくなり、社内に派閥を持つ無能な人が出世する。無能な人が出世すると、さらに事実をベースにした議論が通らなくなっていく。これが破綻企業のスパイラルです。結局は、だれを出世させるのか、というところに落ち着くのです。人事が大事なのですね。

幹部は無能なのに偉い。実務のことをわかっていない・・われわれ(再生機構等)が関与してから、その場で意見を出し合ってモノを決めるということをやり始めたため、彼らの無能さがあからさまになってしまった(p92)

・再生専門家の指摘は、こういうものが多かったようです。「組織内に危機感がない」「社内では顧客の視点や競合の話がなく、内向きの話ばかり」「トップも社員も表層的な数字ばかりを追いかけ、議論が現場の実態に迫っていない」(p5)

 1過剰な「和」思考・・
 2経済合理性から離れた内向きの合意形成・・
 3「社内評論家」や当事者意識の低い人間、自分の仕事を部下に「丸投げ」するような管理職・・
 4経営リテラシー不足(p14)
・有力な部長でも派閥の役員が言うとしっかり動くが、派閥外の役員に言われても面従腹背(p60)

・事前調整・・・特に、いわゆる「声の大きい人」、すなわち政治的な集団に属し、大きな影響力を有する人物に対しては、会議の場で不規則発言を言わないように、周到に根回しが行われる(p75)

・人事評価は、好き嫌いだったりする。基準は、上司との折り合いの善し悪し。そのコミュニティで嫌われてしまうと良い点がつかない・・人間関係が上手か下手かの基準だった(p85)

・破綻企業では「偉い人ほど暇になる」傾向があり、平日の夜と週末の予定だけが立て込んでいる・・平日の昼は何をしているのかというと、自らイニシアティブをとって戦略的に顧客先や提携候補先などに出向いたり、各事業所などの現場を訪問するというよりも、スタッフからの説明を受けたり、社内行事に参加したり、外部からの表敬訪問を受けるといった「受け身」の業務がポツポツと入っている程度のことが多い(p217)
・事業は縦割り。他人のことに口を差し挟まない・・横と話をするのは本部長のミッションではなく、
 上からそれを促進する人もいなかった。インフォーマルな中間組織がなく、人事交流もなし。横串を刺す人もいなかった(p248)
・自分たち(再生機構等)が入って、月次の経営会議で競合の売上げデータをなぜ見ないのかと言ったら 『そんなことやるんですか?』みたいな感じで、初めて競合の状態を見るようになった。それまでは、自社だけ見ていたということ(p256)

・対照的に、優良企業の議論は事実をベースにしているため、年齢の若さ、経験の少なさがハンディとなりにくい。市場、顧客に接している最前線の人間、それも若手の意見が、事実をベースとして理論武装されている限り、通りやすい風土が形成されている(p208)

・優良企業の特徴・・・
 1事実をベースとした議論を尊重する規範
 2人事部局の統制に基づく公正な人事登用プロセス(p236)  (引用終わり)

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