戦わなかった日本人(2)

社会200805

戦後民主教育で育った日本人は、アメリカと戦うことを放棄し、今また、中国共産党と戦うことを放棄しようとしている。真に平和を愛する国民になったのだが、一方の諸外国は、「日本国憲法」にあるような「公正と信義」に値する行動をとっているかと言えば否であろう。そこが問題なのである。 

米中ともに、自分たちの得手勝手な思惑に則り、覇権を確立しようとしているのだから、そこを理解して対処していかなければならない。日本も優先順位をつけ、戦略的に行動し、戦うべきところでは、対立を恐れず、戦わなければならない。それがアメリカに対しできなかったから、今日の衰退がある。そういう論調は、ほとんど日本の場合、皆無である。事実を積み上げればそういう結論にならざるを得ないにもかかわらず、である。

戦うべき相手は、何も外国ばかりとは限らない。日本にも「獅子身中の虫」がいるではないか。これに対する戦いも、日本人は極めて甘い。だからいつまでも反省できず、政策転換ができない。これでは、太平洋戦争へと突き進んだ戦前と、何ら変わらないではないか。満州事変以降、新聞各社は一斉に戦争推進の旗を振り始め、国民世論を誘導していく。購読部数獲得競争のために、自らの意思で戦争礼賛記事を積極的に掲載していった。その性格は、今もって何も変わっていない。グローバル化を礼賛し支持してきた先輩に、遠慮しているのだろうか。それとも、スポンサーに遠慮しているのだろうか。速やかに「腰抜け世代」を卒業してほしいものだ。

実際の経済というものは、多様な要素から成り立っており、極めて複雑なのであるが、経済政策を提言する経済学は、そうした前提を置かずに、極めて単純化したモデルで済ませている。

しかも、そのモデルたるや、極めて「特定の価値観」に縛られ、かつ「特定の政治勢力」の利益拡大に直結している、という非合理性を抱え込んでいるのである。 

「特定の価値観」とは、例えば、ここ30年世界を席巻した新自由主義経済学は、市場は需要と供給を自ずから調整し、資源配分を適正化し、人類の厚生の向上に貢献するという「特定の価値観」に基づいていたが、先進国で格差が拡大し、その「特定の価値観」は、完全に否定された。 

「特定の政治勢力」とは、例えば、日本の「構造改革」を積極的に推し進めてきた勢力で、グローバル化へ向けて必須項目としてきた。ところが、国民の85%を占める「山の国」の住民には、賃金の低迷・下落により、却って不利益を被り、安定した生活を放棄せざるを得ない状況を作り出した。 

こうした状況が明確になったにもかかわらず、それを誰も反省せずに「ほおかぶり」しているのは、なぜなのか。経済学者の怠慢と言わざるを得ない。そして、そういうことを積極的に取り上げるべきマスコミが、この日本では機能していない。竹中平蔵の懺悔が、未だに聞こえてこない。レントシーカーの見本みたいな人物が、イケシャーシャーと、大きな顔をしている。 

また、長期にわたる経済停滞から脱却しようと、日銀は、ETFを購入するなど無茶苦茶な金融緩和をしているが、それでも物価が上昇しない。消費税を2%上げただけで、年率換算7%以上もGDPが低下したのである。総需要が減少している、としか考えられない。

「コロナ禍」で財政支出やむなきということになったが、緊縮財政派の学者たちは、どうしてしまったのだろう。霞んでしまって、何も言えないではないか。

事実を積み上げれば、いろいろな提言ができるはずなのに理論と食い違うということなのだろうか。

それだけ経済学者の専門知識は「タコつぼ化」し、現実から遊離しているのではないか。

学者ともいえない三橋貴明氏の方が、よほど正確に経済を理解している、と思うのである。

日本社会のいま

社会200803

世の中、「コロナ禍」で息苦しい毎日が続いています。「営業自粛要請」だけで第一波を乗り越えた日本ですがここへきて第2波ともとれる感染者急増で、安倍政権への批判が多く聞かれます。

外食業・観光業・イベント業等の方々の、窮状を訴える声も切実になっていますし、一方で、医療関係の方々の、報われない奮闘ぶりも伝わってきます。

社会は「自粛警察」が蔓延り、ギスギスした人間関係になりつつあるように感じます。

やはりここは「戦時」ととらえることが肝要だと思います。

それは「平時」とは違うリーダーシップが必要ということです。

安倍晋三という人は、これまで言ってきたとおり「空虚な器」ですから、「平時」ではそれがゆえに、長期政権になりましたが、「戦時」には向かないリーダーではないのでしょうか。

かといって、二階俊博や石破茂みたいな「売国奴」がリーダーシップを発揮すると、小泉純一郎の二の舞になってしまいます。難しいところですね。

自民党内にも「消費税廃止と粗利補償」を訴える安藤裕議員のような人もいるのですが、如何せん、少数派に留まっているようです。

もっと大規模な財政出動していかないと、私には「大恐慌」の足音が聞こえています。

 

それにしても、つくづく情けないと思うのはマスコミの報道姿勢です。

権力を監視し、多くの視点を読者に提供するという、本来の役割が全く果たせていません。

大本営発表と御用学者のコメントのみを伝え、独自の視点が全くありません。マスコミ人の世界観や歴史観は、お粗末の極みではないのでしょうか。

自分の頭で考える、という習慣がありさえすれば、自ずと身についてくるものがあるはずですが、本当に「馬齢を重ねる」しか能のない記者が多すぎるように思えます。

それとも、孔子の言葉にあるように、「苟くもこれを失わんことを患うれば、至らざる所無し」ということなのでしょうか。

(今の立場、ポジション、地位、名誉などを失いたくないと思いつめると、人間は何をするかわからないほどに、浅ましく愚かな行為をしでかしてしまう、という意味。なお、至らざる所無しとは、何をしでかすかわからないということ。大学に「小人閑居して不善を為す。至らざるところなし」とある。)
今の政治家や官僚、だけでなく、広くサラリーマン全体の心を見透しているような言葉です。

 

われわれが生きた社会は、一億総中流社会でした。それを前提に、安全・安心な、会社という共同体がありました。そこでは自由闊達な議論が行われていました。今の現役の人は、羨ましいのではないでしょうか。成果主義で窒息しそうだとか、上滑りの組織運営とかの声を、私は聴いています。

今は、トヨタの社長が「終身雇用は守れない」と言い、みずほホールディングのトップが「副業解禁」と言い放つ時代です。リクシルのオーナーは、「日本は相続税が高いから」と言って、シンガポールに移住しています。こんな人たちが、経営者として君臨していたのです。そこまで、日本は堕落したのですから、ひとりマスコミばかりを責めても、詮無いことかもしれません。日本という国のすべてが負のスパイラルに陥ってしまいました。

 

今回の武漢コロナウィルスは、未知の部分が多く、「なぜアジア人の死者が少ないのか」といった、いわゆる「ファクターX」と呼ばれる、疑問への解答を早く知りたいものです。

ウィルスは、遺伝子変異を繰り返すということから、警戒するに越したことはないでしょう。

お盆に帰省する方も多いでしょうが、高齢者特に糖尿病・高血圧などの基礎疾患がある方は要注意ですよ。それから若い人でも、後遺症が残る事例もあるようですから、くれぐれも御身大切に。

構造主義の社会学

社会200609

知識には、2種類あって、一つは職業に繋がる専門知識であり、もう一つは、いわゆる教養である。

教養が増えれば、その知識によって、自ずと「世界観・歴史観・価値観」が形成される。つまり視点ができる。その視点は、度重なる経験により、確固たる「世界観・歴史観・価値観」となり、言葉を換えれば、その人の「人生哲学」となり、それは応用動作のきく智慧となり、他者からはその人の見識と見られる。経営学用語では「コンセプショナルスキル」という。

さらに、大抵の人は、そこまでの認識には至らず、その視点が賛同を得られることは稀であるから、その見識に基づいて行動していくには、相当の勇気が必要となる場合が多い。それを世間では、胆識と言う。

世の中のリーダーには、そうした「知識・見識・胆識」が求められているはずであるが、実際にはそれを具備しているような人には、なかなか巡り合わない。

特に、日本のような同調圧力に強い社会では、大抵そういう人は、周囲から足を引っ張られ、潰されることが多いのが現実だろう。

事実、マスコミに登場するのは、ダーウィンの進化論を引き合いに出して、環境の変化に適合した者だけが生き延びる、とばかり流行を追うだけの「軽薄な輩」ばかりである。そこには、一貫した視点も見識も、そして嫌われる勇気も、感じられない。そんな「軽薄な輩」がけん引した平成の30年であった。教養なるものの値打ちが、地に落ちた30年であった。

 

自分史を、もう75年になる戦後史と重ね合わせながら、この閉塞感あふれる日本社会のことを考えてきた。大学受験の年を、安田講堂事件による入試中止という理不尽に遭遇し、まだ全共闘運動がくすぶる学園で青春を過ごした。実践を重んじるインテリたちは、サルトルの実存主義の影響を受け、「あるべき姿」という理念追及に余念がなかった。みんな、戦後民主教育で育った世代である。そこには、所詮「悔恨共同体」の枠がはめられていた。すなわち東京裁判史観と日本国憲法と日米安保体制という3つの制約から自由になれない。60年安保反対闘争は、そのうちの一つを破壊しようとしたが、権力の壁に阻止され、崩れ去っていた。彼らは、リベラルなアメリカと親和性が良い。「日本」を探求せず、社会人になってからは、もう「学習」を放棄したのであろう。集団としては雲散霧消して、個々バラバラに「腰抜け」になり果てたのであろう。

 

右派と呼ばれる人たちは「無念共同体」を形成して、大東亜戦争を弁護していたが、インテリには十分浸透せず、三島由紀夫の自決などは、ドン・キホーテとしか見なされなかった。私自身、当時の衝撃を覚えているが、「なんで三島ともあろう人が・・・」と絶句してしまったのを覚えている。今になって思うと、日本人の精神の荒廃と日本の衰退とを、予見していたように思うのである。1970年において、すでに経済的利益ばかりに執着し、自立心や自尊心をかなぐり捨てた保守層に、強烈な反省を求めていたのである。

 

1980年代以降、中曽根政権あたりから、日本の保守は堕落して、アメリカの属国になり果てた。

池田内閣の下で高度成長を実現させた下村治には、残念ながら後継者が存在しなかった。「一億総中流社会」は崩れ去った。1990年代には、ちょうど全共闘世代が、社会のリーダー層になっていたが、彼ら自身が「悔恨共同体」に汚染されており、流れを変える勢力にはなりえなかった。

 

社会学的に、日本社会を考察すると、現在と1930年代との類似性が多いと思う。今回のコロナ禍で「自粛警察」が話題になっているが、いつでも日本は「隣組」「国防婦人会」が成立しそうである。これをもって「民度が高い」ともいう。戦後も、日本社会そのものは、あの頃とあまり変わっていない。

雇用を求めての地方から首都圏への人口流入は一緒だし、農産物価格の下落による農村の疲弊は、コロナ禍による飲食・観光・文化などの個人・中小業者の疲弊と重なる。

1929年には、小津安二郎の映画「大学は出たけれど」が封切られたが、現代の学生たちの憂鬱と何がちがうか、と思う。当時すでに、戦後の「サラリーマン」社会はできあがっていた。

しかもそこには、慢性的労働力不足によって、終身雇用と年功序列は「掟」として存在したが、今やそれが風前の灯火である。現代の方が、より憂鬱なのではあるまいか。

 

少子化という流れは、これからの社会の変化に最も影響する。持続可能な社会から逸脱する要素が強い。ところが、これを是として、その前提で、政策が議論されているケースが多い。

移民の受け入れや日本的経営の放棄である。どこまでこの国のリーダーたちはお粗末なのか。

何が原因で「日本化」し、経済が長期停滞しているのか、そもそも、そこからわかっていない。

経済学を踏まえた社会学者の論考を期待する。

危険国家・中国(4)

社会200605

日本のマスコミは、どうして中国のことになると、本当のことを報道しないのでしょうか。かつて大変迷惑をかけたから、とでも思っているのでしょうか。どう考えても、遠慮ばかりしているようにしか思えないのです。ウソとハッタリだらけの空疎な大国、しかも危険極まりない国家ではありませんか。

そんなことだから、アメリカの親中派にも反論できず、属国に甘んじて、言いなりになってきたのではないのか。健全な世論形成に、何の役にも立っていないマスコミ報道を憂いている。

 

「五毛党」と呼ばれる、中国のサイバー部隊をご存じですか。国内外のネット上で、中国共産党に有利な世論を醸成することを狙う世論誘導集団だ。彼らの目的は中国共産党宣伝部の声を広げ、彼らにとって都合の良いストーリーを作り上げること。一般人を装い、ネット上のコメント欄やWeChat(微信)などを監視しながら、党に有利な書き込みや批判的なコメントの摘発を行っている。
中国共産党と異なる意見を持つ組織や人物を集団で徹底して罵倒したりレッテルを貼ったりし社会的に引きずり下ろす。

「五毛党」という名称は、中国共産党が当初、コメント1本につき、五毛(1毛=1・5円)支給していたことによる。2015年時点で1050万人いるとみられ、中国共産党政権によるSNSへの「やらせの書き込み」は年間4億8800万件にも上るという。もし、自民党が、こんな世論工作部隊を持っていたら、どのように報道するだろうか。こんなことをしている中国共産党と、その指導下にある中国など、金輪際、信用できるものではない、となぜ言わないのか。どう考えても、中国に甘過ぎる。

 

アメリカに対しても同様で、「日米構造協議」華やかかりし頃、「外圧を利用して、日本を変革する」といった主張を繰り返す論者が、マスコミを席巻していた。無責任極まる彼らは、どこへ行ったのか。

アメリカという覇権国は、まことに得手勝手で、「敵の敵は味方」であるから、なりふり構わず見境なく当面の敵を叩く。ドル基軸体制と先端技術と軍事力で、覇権を維持しているから、そこを突き崩されそうになると、遮二無二抵抗する。「トゥキディデスの罠」にはめて、徹底的に叩く。日本人は「お人好し」が多いから、相手が困っていると、理不尽な要求にも、戦わず妥協が先に立つ。

ところが、中国人は違う。しかも、日本の衰退を身近に見ている。

 

ドル基軸体制と先端技術は、中国からの挑戦を受けて、慌てふためいて、対応しだしただけのことである。南シナ海をはじめとして、軍事的にも覇権に挑戦を受けていて、それをはっきりと理解した。

何もトランプ大統領だからではない。アメリカは、民主党も含めて危機感を露わにしている。言ってみれば、スキームが変わった、と捉えるべきである。日本も、それに合わせて、宗旨替えをしなければならない。ところが、そのスキーム変更も理解できていない人物が、まだ日本のリーダーをやっている。日本のマスコミは、習近平の国賓来日に対しての報道も、全くの腰抜けぶりを露呈している。

あなたたちが、平成の時代にアメリカと戦わなかったから、今日があるのである。属国をあえて選択したから、今日の体たらくになっているのである。それを反省することもなく、中途半端な姿勢でいることは将来に禍根を残す。このままでは、昭和前期のようになる、と警告しておきたい。

英米勢力に経済的に追い詰められ、敵の敵は味方とばかりに、ナチスと組んだ。そういうことを回避するために、アンテナを高くしておくことだ。当面は、アメリカの尻馬に乗っておくことである。欧州勢を中国から離反させるために、自らも率先して離れていくことだ。

理由は人権でも知財でも何でもいい。ウソつきで危険であることを世界共通認識にしていくことだ。

歴史認識についても、そこから風が吹いてくることだろう。中国共産党の統治を終わらせない限り、中国とは公正な商取引などできず、さらに安全保障上の心配までしていかなければならなくなる。もう、腹を固めることである。それが、日本の大戦略であるべきだ。

危険国家・中国(1)

社会200512

日本のマスコミの主流は、米中関係の悪化を、さも困ったように、マイナスイメージで報道する。

そういう報道姿勢を見て、マスコミ人の教養不足、とりわけ世界観・歴史観の欠如を感じてしまう。

やっと、アメリカが、戦前から変わらない「中国の本質」に気づいてくれたのである。それ自体は喜ぶべきことである。「デカップリング」で今までの投資が無駄になる、なんて話は、それに比べれば枝葉の話だ。そもそも、親中派が席巻したアメリカと戦いもしなかったツケが来ただけの話である。

 

まずもって、共産党の統治している国家がどのようなことになっているかを、素直に報道すべきだ。

「日中記者交換協定」に縛られて「忖度」ばかりしているから「日本の世論」そのものがおかしくなる。

日本の政財官のリーダー層の、最近の「腰抜けぶり」は、もう末期的症状を呈している。二階幹事長は中国の、河村日韓議員連盟幹事長は韓国のスパイではないか、と思うほどにトンチンカンである。そもそも、習近平を国賓扱いするような首相が、日本で政権を維持できていること自体がおかしい。

 

もっと早くアメリカが「中国の本質」に気づいていたなら、「大東亜戦争」は、なかったかもしれないではないか。まことにもってアメリカという国は、大男には相違ないが、総身に智慧が回りかねている。

戦間期においても、平成期においても、同じ間違いを繰り返しているではないか。共産党に甘い顔をしてきたグローバリストたちに、報道機関と金融機関を乗っ取られ、国策を誤ったのだ。

フランクリン・ルーズベルトは、その象徴的存在である。ヴェノナ文書が、新たな歴史の視点を提供してくれている。われわれも、「情報戦」の大事さに気づかなければならない。中国共産党は選挙という統治の正当性がないので「プロパガンダ」を多用する。ありていに言うと「ウソつき集団」だ。

 

中国が危険な無道国家であることが、世界に認知されてきた。戦前から、日本が苦しみ、苛立ち、そして、諦めてきた道筋を、欧米各国も経験しているわけだ。いいことではないか。

WHOやWTOといった組織が、機能不全を起こしている。これも歴史の必然だ。

国連という戦勝国連合も、その理念・枠組みが崩壊し、歴史認識の修正が行われていくことだろう。また、そうでなければいけない。そのための、日本の世界史的役割が、あるのではないか。

 

キッシンジャーをはじめとするアメリカ親中派は、まことに罪深い。今回の武漢発新型肺炎騒動で、身にしみてわかったであろう。日本を叩き、中国や韓国を台頭させたことが、自らに跳ね返っているのである。核心的な技術までをも、ハッキングやスパイ行為で盗まれ、圧倒的な優位を脅かされている。政治手法もマネされて、「国家情報法」「国家安全法」「反テロ法」などが整備されている。

挙句の果てに、G2体制を提案され2049年の建国100周年へ向けての世界単独覇権確立への足掛かりにされようとしている。アメリカはようやく「中国の本質」を理解して対処しようとしている。

 

中国とは、どういう国か。詭道と言われている「孫子」を生んだ国である。詭道とは、人を偽り欺くことである。日本人的には、本質的に正しくない道という意味である。勝つためには手段を選ばない。確かに戦争ということになれば、騙しあいの要素もあることは理解できる。しかし、平時においても、のべつ幕なしに、こんなやり方を取っていれば「信用」を失くする。それがわかっていない。

中国人ですらも中国共産党政権の発表など信じていない。中国共産党政権は、常に自分たちの都合に合わせて数字を歪曲し、情報隠蔽してしまう。それがみんな、国民に知れ渡っている。

 

今回の武漢発新型肺炎にしても、中国共産党政権は当初、情報を隠蔽した。そして今でも、情報統制し,都合の悪い真実はねじ曲げる。そしてウソをねつ造する。それが中国なのである。

中国の検索エンジンでは「絶対に検索できない言葉」もあって、たとえば「天安門事件」と検索しても何も引っ掛からない。それは、中国政府が、国民に知って欲しくない言葉だからだ。

こんな国に、投資を重ね、それを反省もできない財界人の不見識を、改めて問題提起したいと思う。それを真正面から取り上げない、日本のマスコミの堕落を、心の底から憂うものである。

コロナショック(8)

社会200502

岡村隆史のラジオでの発言が物議をかもしている。今の世相を反映していると思うので取り上げてみたい。この発言は、「コロナの影響で、今後しばらくは風俗に行けない」というリスナーからの悩みの回答として述べられたもの。岡村隆史という独身の49歳の芸人は、このように言い放っていた。

「今面白くなかったとしても、コロナが収束したら、もう絶対面白いことあるんですよ。コロナ明けたら、短期間ですけれども、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。なぜかというと、やっぱり稼がないと苦しいですから。3カ月の間、集中的にかわいい子がそういうところでパッと働きます。それで、それなりの生活に戻ったらパッとやめます。」そして、岡村隆史はこのように結んだ。

「え、こんな子入ってた?っていう子たちが絶対入ってきますから。だから今我慢しましょう。今我慢して風俗に行くお金をためとき。仕事ない人も切り詰めて切り詰めて、その3カ月のために、がんばって、今、歯を食いしばって踏ん張りましょう。」「僕は、それを信じて今、頑張ってます。」

この発言は4月23日に生放送されたのだが、当然のことながら、経済苦に落ちた女性を手ぐすね引いて待ち望むような発言に批判が起きた。女性たちは生きるか死ぬかのギリギリの瀬戸際にまで追い込まれる。5月、6月になれば、困窮して、餓死や自殺に追い込まれる女性も出てくるだろう。こうした状況の中、岡村隆史は、我慢のしどころだ、と自分の体験を通じて、リスナーにアドバイスしたのだ。裕福な人気芸人の、苦しむ女性を見下した視点は、確かに人間性に欠けているし、こんな下品な会話が公共の電波に乗ることに批判が起きるのは当然だが、一方で、正論を振り回す論者の危うさも感じる。そもそもそんな「ふざけた」生活相談に芸人が「ふざけて」回答しているのである。

今のマスコミは、視聴率稼ぎのために、できるだけ面白おかしく、大衆の生活実感や理解レベルを考慮して番組制作しているのではないのか。岡村は、ある意味、番組スタッフの期待に応えていたのではないのか。日常のテレビのコメンテーターや解説者を見ていても、常に代わり映えのしない面々だ。体制内に安住し、体制の代弁か、体制の枠内で若干の違う視点しか提供できていない。スポンサーの経団連傘下の企業や与党や財務省に遠慮して自主規制し、言論の自由を自ら放棄している。だから、コメンテーターや解説者は、ほぼ全員が反省もできないサル化した面々である。サル化とは、今だけ・カネだけ・自分だけにしか関心のない輩である。テレビばかり見ているとバカになるよというのは本当だ。提供する情報は「偏り」が顕著で、いかにも軽い。アメリカにも中国にも韓国にも、まともに批判できていない。「社会の木鐸」としてのマスコミの機能は、もうとっくに放棄したものと考えざるを得ない。

それが証拠に、なぜ女性の貧困を、真正面から取り上げようとしないのか。少子化が、日本の一番の課題ではないのか。女性の非正規雇用者の割合は男性よりも圧倒的に多い。男女は必ず結婚することを前提として、男性の補完的役割としての位置づけしか与えられていない。しかし、グローバリズムによる株主資本主義化のせいで、男性の労働条件も悪化し、希望を持って結婚を考えられる層は限られる。時給いくらで仕事をしていては、求婚する気になれない、ということなのだろう。そこが問題なのだ。日本では、結婚したカップルは、二人以上の子供を産んでいる。

日本社会では働いている女性の半分は非正規雇用なのである。非正規雇用は、日本経済がバブル崩壊の後遺症で苦しむようになった1990年代後半から増えてきた。この雇用は従業員を「低賃金で雇えて」「景気が悪くなればいつでも解雇できて」「長く働かせても昇進させなくてもいい」というものだ。2000年代に入ってからこの雇用形態は「派遣の規制緩和」によって拡大していくことになるのだが、その形態に落とし込まれたのが女性たちだったのだ。「小泉改革」がいかに残酷な改革であったかが如実にわかるはずである。マスコミは、なぜ、そこを問題提起しないのか。岡村を攻めるよりも、よほど大事な観点である。

女性は正規雇用で働いていても、結婚すると妊娠・出産によって非正規雇用に転じることが多い。それは中小企業・小規模事業者では、妊婦のように一人前に働けない社員に賃金を出す余裕がなく、必然的に「妊娠=退職」という流れを女性に強いてしまう。

また現在では、3組に1組が結婚しても離婚に追いやられるのだが、シングルマザーもフルタイムで働きにくく、パートやアルバイトで働くしかなくなる。だから、女性たちは『20代女性の貧困率は15%を超えた』と男女共同参画局が述べるような状況に陥っている。

総務省が4月28日発表した3月の労働力調査では、全就業者数のうち、パートやアルバイトなど非正規労働者は2150万人となり、前年同月比で26万人減った。新型コロナウイルスの感染拡大による休業や営業時間の短縮、消費低迷で雇用の場が縮小し、非正規労働者が雇用の調整弁とされている実態が浮かんだ。岡村が、待ち望んでいるような状況に近づいているのは確かだ。韓国と同じように、それは「ヘル日本」になってきたということである。日本は、経済成長からも取り残されている。何が悪かったのか、サルでなかったら、反省してしかるべきではないのか。

コロナショック(6)

社会200410

「エリート愚民」という言葉を以前使ったが、我が国の政治家は、なぜこんなにお粗末なのか。

今回の10万円の一律支給の意味が分かっていない者の発言が、マスコミを賑わしている。つまり、10万円の一律支給に対し、収入の減っていない公務員や年金生活者、はたまた生活保護世帯に対するバッシングが行われているのである。「ルサンチマン社会、ここに極まれり」と言えるだろう。

それを橋下徹といった元選良が発言している。この男、経済実態が全く分かっていない。

アホか、と罵倒したくなるのは、私一人ではないだろう。なぜ、日本だけが経済成長から取り残される羽目になったのか、なぜ、格差が拡大してしまったのか、一度でも考えたことがあるのか。

本来なら、消費減税するべきである。ところが、安倍首相にしてみれば、そうすると、失政を認めることになる。昨年の10月に増税したばかりである。それで、年率換算で7%以上もGDPが下落した。その代替としての一律10万円の支給なのである。そこがわかっていない。

 

「持続化給付金」として中小企業は200万円、個人事業主は100万円を限度に、国もコロナショック対策をしようとしている。しかし、モタモタしている印象はぬぐえず、都道府県知事が「営業自粛協力金」を打ち出した。営業自粛を要請するのだから、「粗利補償」をするのは当然ではないか。

安倍首相の言質がぶれるのは、プライマリーバランスが、頭から抜けないからだろう。もう大恐慌に近い状況なのである。ここは、国家の指導者が、力強く方向性を明示しなければならない。

 

なぜマスコミはそこを指摘しないのか。

それは、このシリーズの「コロナショック(3)」で指摘した通り、政治家やマスコミは、MMTが理解できていないからだろう。主流派と言われる間違った経済学に洗脳され、現実が見えていない。

本当に、新聞を読んでいて、マスコミの経済部記者のお粗末さには、あきれてしまう。

安倍政権の第一の眼目である「デフレから脱却」もできていないのに、その理由も追求せず、日銀が、金融緩和と称して国債ばかりか株式にまで手を出すという「禁じ手」に言及すらしない。

こんなことをしていると、金融機関がやっていけなくなることは、自明の理ではないのか。これから、資金繰りに窮した中小零細企業の貸し出しが増えるだろう。返済が滞る可能性の大きな貸し出しである。地方銀行の体力が持つのか、心配だ。国による相当の支援が望まれる。

 

こんな時期にもかかわらず、マスコミは、アトキンズなどを呼んで、持論の生産性向上論を展開させていた。生産性の意味も分かっていない者に、政策提言させるマスコミの不見識に笑ってしまう。

まずは、財政を拡大すべき時であろう。それをしないのは、プライマリーバランスなどというインチキな指標に縛られているからである。需要不足から、過当競争になって、付加価値が確保できない、という原点を、しっかりと見据えるべきではないのか。

 

1930年代に似てきた。歴史は繰り返すことはないが、必ず「韻を踏む」。歴史をおさらいしておこう。ヒトラーのようなポピュリストが出現する危険性と隣り合わせに、我々はいる。彼らは、わかりやすい断定的な言葉で、力強く国民を洗脳していく。無責任と裏腹な関係にある。私のようなMMT論者も「同じ穴の狢」とする向きもあるが、それは違う。しかし、その見極めが難しいのも確かである。

 

アメリカでは、この5週間で、失業者が2650万人にも達している。中国は統計がないが、1億人にも達しているのではないかと推定されている。原油価格は、暴落し、低迷している。これも需要が、低迷すると見込んでいるからだ。「コロナ禍」も第2波第3波が予想され、早期終結には程遠い。

さらに、日本の場合、1994年をピークに、家計の世帯所得が、月10万円以上も下落していることに思いを致すことである。それがデフレの根本原因であり、平成の失敗の肝である。

今後、実体経済は、その深刻さがますます大きくなっている、と予想される。だからこそ、株主資本主義から公益資本主義に脱皮し、終身雇用・年功賃金・家族的経営の日本的経営に切り替えて、この難局を乗り切るべきではないか。

 

1929年の「大恐慌」は、当時のGDPまで回復するのに、10年以上の歳月を要し1940年までかかっている。しかも、それは、ニューディールのおかげではなく、戦争景気による回復であった。

戦争しか解決策がない、ということにしないようにしなければならない。正念場である。

「エリート愚民」という言葉(2)

社会200304

日本のエリートたちのお粗末さを指摘すると「上から目線」として「何様のつもり?」と、逆に反感を持たれるのがオチなのですが、誰かが言わないと、このままでは日本は地盤沈下するばかりです。

ですから、ここは影響力もないが責任もない「天下の素浪人」の出番と心得てまたコメントします。それが、育ててもらった「日本社会」への恩返しだ、と考えるからです。 

私は実体験から、学校秀才=エリートとはどうしても思えないのです。小浜逸郎氏も同趣旨のことを言っていますので、前回に続きもう一度登場してもらいましょう。

彼は、エリートがダメな理由を、

1−敗戦によってアメリカに魂を抜かれてしまい、その状態がいまだに続いていること。

2−「もうこれでいい」「このまま安眠を妨げないでほしい」と、どこかで思っていること。

と言っています。

私流に翻訳すると、

1−日本の原点である統治思想や平和主義を忘れ、近代では大東亜共栄圏の理想を軍国主義と一蹴され、「民族の物語」を失ない、価値観を形成できなかったエリートたちの精神の荒廃です。

・・・・・なお、「WGIPの影響力」(社会180801)も参照してください。

2−ソ連の崩壊により、アメリカの敵は、経済的に台頭する日本であった、ということも気づかずに、相変わらずの「対米追従外交」しかできなかったエリートたちの不見識です。

・・・・・なお、「学校秀才がダメな理由」(社会180607)も参照してください。 

そして、小浜逸郎氏は、処方箋として、みんなが学問に目覚めること、を訴え、福沢諭吉の『学問のすゝめ』を取り上げているのです。

「学問」とは、現実に立ち向かう「態度」であり、思考力を作動させる「構え」のこと。

そしてある結論に到達したら、それを公表し、他の人たちの考えと突き合わせて、理性的な議論を積み重ねることです。「万機公論に決する」ことです。

この態度や構えが実際に生きるために、一定の知識や情報はぜひ必要です。さらに、知識や情報を体系化し、世界観・歴史観・価値観を確立していくことです。

それを通常世間では「思想」と呼びます。

「事実」を大切にして、「事実」と「思想」を行き来することで、「情報選択能力」と「判断能力」を鍛えていくのです。こういうプロセスを、日本のエリートたちは踏んでいないと思うのです。 

私自身、「日米構造協議」の日本側代表団の弱腰に失望し、株主資本主義化に反対して、人生の軌道がすっかり変わってしまいました。しかし、時間が経過するにつれて、己の主張にも理があったのではないか、と考えています。

私の「持論」がそのまま通用したかどうかわかりません。アメリカの更に酷い仕打ちにあい、今以上に悲惨な結果になっていたかもしれない。

歴史に「IF」はないし、世の中のことに「正解」はないのです。

しかし、衆知を集めて議論しコンセンサスを形成していかなければ、日本の地盤沈下は止まりません。衆知の一端を担いたいと念じ、一つの視点をこのブログで提供しているのです。

「エリート愚民」という言葉

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日本の一般大衆のレベルは高く、立派な人が多いのに、なぜこうも、政・財・官・学・マスコミといった本来、日本全体を指導する立場の人間がお粗末なのか、永年、考えてきました。 私自身、中小企業の社長さんたちと交流し、なかにはその経営姿勢に多くの刺激を受け、感動をすら覚えたことがあります。最近も、このコロナウィルス騒ぎで仕事が減った観光バス会社の社長さんが、バスを売って資金を調達し、従業員の雇用を守ろうとしているニュースがありました。また、物まね芸人のコロッケさんは、各地の被災地で慰問活動を続けていますが、日本人特有の「利他の精神」や「お役立ち精神」にあふれた方なんですね。

一方で、政財官や学・マスコミといった指導層は、この30年、何をしてきたのでしょうか。世界競争力ランキングで日本がナンバーワンだったのは1980年代のこと。今は30位まで低下し、30年前には、世界企業トップ50のうち、32社が日本企業だった。今は1社だけ。かつて2位だった一人当たりGDPも、2018年に26位に転落。28位の韓国に迫られている。「地方創生」と言いながら、地方は疲弊したまま。「一億総活躍」は口先ばかりです。「働き方改革」も却って労働条件悪化の逆効果。「少子化」に歯止めもかかりません。女性も若者も、この「生きずらい世の中」で、結婚も出産も難しくなっている。                                     肝心の「デフレからの脱却」もできていない。それどころか、消費税を10%に上げたことで、GDPは年率6,3%の下落。そこへきて、今度の新型肺炎騒ぎである。もう経済はボロボロだ。あちこちで貧困が身近になり、今となっては「一億総中流」という言葉が懐かしくさえある。

グローバルなネットワークに棲みつき、ノーブレス・オブリージュを放棄して、市民としての最低限の責任すら放棄したエリートたち・・・彼らを総称して小浜逸郎氏は「エリート愚民」と呼んでいる。彼らは、日産のゴーンやGEのウェルチを見習い、その卑しい精神を受け継ぎ、国境を超えて流動する経済に酔いしれ、カネの亡者となり果ててしまった。最近では、彼らは「ヘル朝鮮」の象徴であるサオジョン(45歳定年制)さえ導入しようとしている。どこまで愚かなのか、と絶句してしまいますが、そうした人たちが、この30年、日本をけん引してきた典型的な指導者だったわけです。みんな、市場原理主義の主流派経済学というバカな宗教の信者です。

日本は、この30年、衰退の一途であることに気づいている人は、たくさんいるはずです。

しかし多くは面倒なので、気づいていないことにしている。P―D―C―Aなど面倒なので、
気づいていないということにする・・・・・このことが、日本の衰退をよけい加速しています。

これは、経済力だけのことではありません。政治力も文化力も、すべてにわたって言えます。要するに、日本人と日本社会は、間違いなく「劣化」している、ということです。国際的な面では、アメリカや中国などの大国の意向に常に翻弄されています。彼らの顔色を窺う政治が続いています。国内的な面では、政治が求心力を欠き、もうリーダーたちは「あきらめの境地」にあるようです。どうしてこうなったかを分析もせずして、「みんなで下山の準備をしましょう」などとテレビに出てくる識者は語っている。社会全体が思考停止に陥っています。

それでは、日本人は、どのようにすればいいのでしょうか。小浜逸郎氏は、福沢諭吉の『学問ノススメ』に、ヒントがあると言っています。傾聴に値する意見ですので、ご紹介します。

引用:

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」とは、人間は平等だと、世間では言われているが、世の実態はそうなっていない。それはなぜか。
それは日本の牢固たる身分制度、門閥制度が幅を利かせて、一人一人の自主独立の精神を阻んでいるからだ。だから、この自主独立の精神を養うことこそが、いま求められている。
それには、まず知識・情報を蓄積し、次にその知識・情報を活用して現実に起きていることを正しく認識すること、そうして得た広い視野を、社会をよりよくするために役立てること、それが彼の言う「学問」であり、ベストセラーになったこの本は、そのススメだったのです。

では、いまの日本の課題は何でしょうか。私は、福沢の時代と同じだと思います。
言い換えると、現代日本は彼の時代から140年経った現代でも、「一身独立し一国独立す」が果たせていないのです。グローバリズムの大波が、日本に押し寄せてきて、いろいろなところで、その弊害が出ています。欧米ではすでにグローバリズムに対する反省が沸き起こっているのに、日本のいまの政権は、愚かにも、この大波を積極的に受け入れています。
こうして現代の「愚民」は、一般民衆であるよりは、むしろエリートたちだと言えるでしょう。
しかも始末に悪いことに、彼らは世俗の権威を手にしているので、その権威を傘に着て、自分たちの誤った信念を一般民衆に押し付けています。
日本のエリートたちの多くは、国策にかかわる部分で、この誤った信念に固執しています。
それで、国民はその被害をさんざんにこうむってきました。
ですから、今の日本にとって最重要な課題は、むしろこうした「エリート愚民」の精神の腐敗をいかに駆除するかという点にあります。この課題を果たせずに、グローバリズムの浸食から国民生活を守ることはできません。実を言えば、これはもう手遅れなほどに、深く浸食されてしまっているのです。時間はもうあまり許されていません。まずなすべきこと・・・自ら考える力を取り戻し、日本に蔓延る害虫「エリート愚民」を見つけ出して、即刻駆除することです。 (引用終わり) 

武漢発新型肺炎の報道に接して(3)

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水際作戦が失敗し、いよいよ日本でも、市中感染を覚悟しなければならない局面がきたようです。

それにしても、ダイヤモンドプリンセス号における感染拡大は、すさまじい勢いでしたね。外国報道機関からは、ウィルスの培養施設とまで酷評される始末。この調子で感染者が増え続けると、日本もまた、世界から「隔離」される恐れがあります。

前回、ご紹介した北野公伯氏のメルマガに、武漢発新型肺炎のこれからの対処法について、大変説得力のある文章が出ていましたので、引用してご紹介します。 

引用:

テレビのトップニュースは、たいてい新型コロナウィルスのこと。
ところが、次に映し出されるのは、野党が「桜を見る会」の件で、安倍総理を追及している映像。
平時であれば、そういうのもありでしょう。しかし、緊急事態の今、やることでしょうか?
今、日本で起こっていることは、明らかな人災です。国民もようやくそのことに気つき、安倍内閣の支持率が下がってきた。それで、少しは焦りがでてきたみたいです。

<政府、広がる批判に焦り「水際で失敗」、支持率に影 新型肺炎  時事 2/19(水) 7:11配信 
新型コロナウイルスによる肺炎への政府対応に批判が広がっている。安倍晋三首相が先頭に立って取り組んだ水際対策は奏功せず、国内で感染が拡大。
横浜港に停泊中のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」に対する措置でも、乗客乗員を船内にとどめ置いた判断が「かえって集団感染を悪化させた」と指摘された。「未知の感染症」への国民の不安は内閣支持率にも影を落とし、政府・与党は危機感を強めている。>

「批判が広がっている」のは、当然でしょう。
<政府は当初、発熱症状や中国・武漢市への渡航歴、武漢滞在者との接触がある人らをウイルス検査の対象にしていた。ところが2月に入り、感染経路の分からない感染例が続出。
首相側近は「1月時点で中国人全ての入国を止めるしかなかったが、もう遅い」と頭を抱えた。>(同上)

ところで、日本政府は、なぜ中国人全ての入国を止めることができなかったのでしょうか?
<政府関係者によると、習近平国家主席の国賓来日を控えて中国側から「大ごとにしないでほしい」と要請があったといい、これも後手に回った要因だとみられる。>(同上)
結局、日本政府は、「中国のために」入国禁止措置をしなかった。つまり、「日本国民の命」よりも「中国政府のご機嫌」を優先したのです。
安倍内閣の優先順位が「中国のご機嫌」>「日本国民の命」というのは、とても深刻な事態です。もちろん、「こんな大ごとになるとは思わなかった」のでしょうが。 

過去のことをあれこれいっても仕方ありません。これからどうすべきなのでしょうか?

参考になるのは、プーチン・ロシアの措置です。
<中国人の入国禁止へ 新型肺炎対策でロシア  2/19(水) 15:31配信 
【モスクワ時事】ロシア政府は18日、中国での新型コロナウイルスの感染拡大を受け、中国人のロシアへの入国を20日から当面禁止することを決めた。ミシュスチン首相が政令に署名した。
入国が禁止されるのは就労、就学、観光目的の中国人。19日から入国申請の受理も中止する。>中国から、毎日毎日感染者がどんどん入ってきていることが根本問題なのです。彼らは無意識に、日本国内の感染者を増やしていきます。だから、この流れをカットすることが最優先課題でしょう。
ちなみにロシア政府がこの措置を決定したのは2月18日です。日本政府も、今からでもやるべきなのです。私はプーチンを全然尊敬していませんが、今回の件では実に立派な対応をしています。

その結果。
<ロシアは中国との国境検問所を封鎖し、中ロ間の旅客列車の運行を停止するなどの対策を取ってきたが、一層の厳格化に踏み切った。ロシア国内でこれまでに確認された感染者は2人で、いずれも中国籍。>(同上)

毎日毎日感染者が増加している日本とはずいぶん違うでしょう。
プーチンは独裁者ですが、少なくとも、「ロシア国民の命」の方が「中国のご機嫌」よりも大事である
ことを知っています。ロシアにとって中国は、「事実上の同盟国」であり、関係は非常に良好です。
しかし、国民の命を守るために必要な措置をとる。一方、我が国の安倍総理はどうでしょうか?これまで、・中国への忖度・中国観光客の金目当てで、国民の命を危険にさらしてしまったことは、誰も否定できない事実です。

しかし、過去のことは過去のこととして、日本国民の命を守るために、必要な措置をすぐに講じてほしいと思います。
1、中国全土からの渡航を禁止する
2、中国への渡航を禁止する
この二つが全部ではありませんが、これをやらないことには、(感染者がドンドン入ってくるので)他の対策は、ほとんど意味のないものになってしまいます。(引用終わり) 

日本のリーダーは、アメリカや中国といった大国に遠慮して言うべきことも言えない「腰抜け」ぞろいになってしまったということではないでしょうか。事実を歪め、過ちを認めない。

消費税増税後の経済悪化も同様です。世の中、ウソが蔓延しているようです。

そうしたリーダーばかりでは、国家も、会社も、衰退していくのは、当たり前ですよね。

中村哲氏への追悼文から

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ペシャワール会の中村哲医師を悼む文章を、奥山篤信氏が書いている。日本国民の多くが、同じ思いをしていることだろう。まずは引用してみよう。

引用:

私は、ヨハネ福音書にある言葉「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、日本の伝統的思考や文化との関連性について研究してきた。日本では切腹や玉砕や特攻など、自ら命を捨てても他者のため、共同体のため、国家のため、に自己犠牲する文化が存在していたし、今でも存在する。他人や共同体のために命を落とす、これは日本史に流れる日本人の魂だ。


中村哲さんはキリスト教プロテスタント・バプティスト派のクリスチャンだ。その政治的信念は、まさに護憲派であり、常々「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感があります。体で感じた想いですよ。武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。それが具体的な形として存在しているのが、日本という国の平和憲法ですよ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれている。9条があるから、海外では、これまで絶対に銃を撃たなかった日本。それが、本当の日本の強味なんですよ。」と語っていた。


全く私とは異なるお考えの人である。特にイエス・キリストの思想は理想論として同意できることはあるにしても、最近の法王のように、それを叫んでも祈っても、それは虚しく偽善でしかないという現実主義者であり、聖書などは<神話化>して、イエスキリストは<道徳の師>と位置つけたら良いとの考えである。イエスの考えには、現実論としては無理としても人間の生き方の<道しるべ>になるからだ。

さらに、私は憲法を真っ向から否定する憲法廃止論を主張している。そんな考えから見れば、中村さんはカテゴリーに分けたら<サヨク>だろう。しかし、中村の実践行動は、あの物見遊山のシリアやイラクにいったお騒がせ人間とは異なる。
最も大切なのは、この中村さんの人生哲学からの理想より、そのパッションから40年も戦争に苦しんでいるアフガニスタンの人々を救うため、医療活動や彼らの食料生産のための灌漑設備を逆境の中で命がけで活動してきた。そして今回、テロの銃弾に倒れ殉死された。


人間として最も美しい生き方は、人のために自分を犠牲にして死ぬ覚悟の人間だ。まさに吉田松陰の言を噛み砕いて言うと、人間の寿命はその時間的尺度にあるのではなく、その中で社会にどれだけ貢献したのかということ、短い人生でも、人間の果たすべき使命は、そこにある。
中村さんは、イデオロギーに関係なく、誰が見ても、一切の私的世界を捨てて、最後は命をも捧げ、世界のために貢献された。
左翼であろうと右翼であろうとかかる命を捨てて他者を救おうとする行為こそ、最高の人生の価値であることを次世代に伝えていきたい。思想信条に関わりなく、素晴らしい日本人として私は尊敬する。安らかにお眠りください。(引用おわり)

 

私も、奥山篤信氏同様、現実主義者である。国際政治の現実は、国益を巡って、激しく情報戦、経済戦が繰り広げられている。個人として、美しい物語を紡ぐことは確かに立派なことであるが、国の指導者が、同じことをすることには反対する。誰も、その結果に責任が持てないと思うからだ。核の脅威に晒されている現実社会にあって、理想論は無責任である、とも言える。誰しも戦争などは望まない。究極の理不尽だからだ。しかし、「平和を望むなら、戦争の準備をしろ」というのが現実的だ。古来、日本の歴史は、文武一体の思想で貫かれている。

 

アメリカという国も酷い国だが、今の中国は、それ以上に酷い国だ。こんな国に覇権を握られてはたまらない。共産党一党支配を切り崩すべく、戦略を練らなければいけない。習近平の「国賓扱い」など、もってのほかの行状だ。天安門後に、中国は天皇を招致し、これを政治利用されて、西側諸国の結束を乱した歴史を忘れたのか。しかも、この後、江沢民は「反日教育」を強化している。そういうことを平気でする国だ。政界も財界も、巨大市場に惑わされてはいけない。アメリカの変身を、われわれは喜ばなければならない。アメリカのパンダハガーは駆逐された。それは100年来の日本の悲願ではなかったか。

 

日本という国は、庶民の民度の極めて高い国だと思う。庶民には中村氏のような立派な方々が、実に多い国だと思う。しかし、残念ながら、国や企業の指導者層に人を得ない国でもある。

歴代総理大臣を見ても、長く政権を維持してきたのは、政策よりも政局に長じた者のみである。

最近の経団連のお偉方の発言も、がっかりさせられるものばかりだ。根っこが腐っている。

特に、文化系学部の卒業生は、勉強していないし、知的生産をするクセもついていない。これについて、出口治明立命館アジア太平洋大学学長は、「これは企業が100%悪い。採用に当たって、成績を度外視し、協調性ばかりを重視するからだ。」と語っている。将来のエリート層の採用すら、従順で使いやすい、という視点で選別している、というのだ。ただでさえ同調圧力の強い社会なのに、これでは「媚びて、群れて、流される」サラリーマンばかりになってしまう。

これでは、国際競争力などつくはずがない、ということだ。私もそう思う。

ギャップを埋めるために

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前回、ジェネレーション・ギャップについて言及し、私たちの子供の世代は、私たちよりも、確実に貧しくなっていることに触れましたが、同世代においても時代認識に大きなギャップが存在します。

世界観・歴史観・価値観の違いは、なかなか埋まるものではありません。

人々の知識のカバーする分野でも埋めがたいものがありますし、その人との問題意識の相違や、考え方の傾向は、もっと埋めがたいのではないでしょうか。

人間は、そもそも「わかりあえないもの」と諦めるべきかもしれませんが、一方でそこをなんとかしようと努力をするのも、また社会的存在である人間であるように思います。

 

私も、講演会に呼ばれることがありますが、日本のこの30年のアメリカ追随を批判的に述べたところ、追随したおかげで日本は平和が保てたのだ、という反論に会い、閉口した経験があります。

なるほど、そういう風に考える人もいるのか、と世間が広くなった思いがしましたが、それでよかったとはとても思えない現状です。

1人当たりGDPはもはや世界26位、18%あった経済の世界シェアは6%にまで落ち込み、少子化、格差拡大、地方の疲弊は、止まることがありません。

しかも「国の借金」が膨らみ、やれ公務員を減らせだの、無駄な公共投資はするな、などのルサンチマン・プロパガンダが横溢しています。そして、既得権益を攻撃し、「構造改革」を声高に叫び、わが利益を拡大しようとするレント・シーカーなる輩が後を絶ちません。

また、事実を検証することなく、無責任極まる言質が、マスコミにあふれています。

失敗を認めず、恥知らずなポジション・トークが増え、日本人の知性の劣化が止まりません。

そして、すっかり「希望」という二文字からは無縁の国になってしまいました。

やはり何かを間違ったのではないでしょうか。

 

対策を考えていくにも、海の国と山の国、上級国民と下級国民、高齢者と現役世代、などに国民が分断され、共通の言葉が見当たりません。

まずもって、共通の言葉を作り出していく必要があるのではないでしょうか。

そのうえで、広く会議を興し万機公論に決すべく、コンセンサスを形成していく必要がある。

そういう考えの下で『新版国民読本』を出版しましたが、全然話題にもならず、売れませんでした。

「いま ここ 自分」のことで精一杯という人が多いように感じます。どういう立場にしろ「いま ここ 自分」を大事だと思うならば、空間軸と時間軸を広げて鳥瞰的に物事を見る視点が必要です。

 

そういう意味で、次の言葉は、いま今の問題を考えるうえで、必須の言葉だと考えます。言葉を知ることは、その概念から一つの視点を得るということであり、考える拠り所を得るということです。

厳選して10個だけ提示します。是非ウィキペディアなどを活用し確認してもらいたいと思います。

これらの言葉が、国民の共通語として、誰もが理解できる状態になることを希望します。

1)   ヘゲモニー (覇権)

2)   デファクト・スタンダード (世界標準規格)

3)   パンダ・ハガー (アメリカの親中派)

4)   トゥキディデスの罠 (覇権争い)

5)   年次改革要望書 (在日米国商工会議所の要望書)

6)   レント・シーカー (自己利益のために政治に介入する輩)

7)   ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム (GHQの対日文化政策)

8)   株主資本主義 (アメリカ流資本主義の真髄)

9)   ミンスキー・モーメント (バブル崩壊に至る時点)

10) エートス (民族の伝統的倫理規範)

ジェネレーションギャップ

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大企業を体験し、高校で多くの若者と接してきた経験から、海の国と山の国に分断されている現状を憂い、「日本が日本であるために」何をすればいいのか、考え抜いた末にこのブログを立ち上げ、情報発信しています。希望という二文字が失われた日本、どうにかせにゃいかん、との想いばかりが先行し、絶望感すら感じる今日この頃です。

そういう想いを共有できる文章に出会いました。山岡鉄秀氏の文章です。引用して、ご紹介します。

引用:
先日、ある団体から、青年向けの講演を依頼されました。
私はよく、講演や講義の冒頭で、「日本の国力がこんなに衰退した理由はなんだと思いますか?」と聴衆に呼びかけます。
しかし、その日は、ふと別の考えが頭に浮かんで、次のように呼びかけました。
「日本の国力が驚くほど低下してしまったと思う人、手を挙げてください」
びっくりしたことに、会場の半分ぐらいの人しか手を挙げていません。
顔を見ると、中年以上の人が多いような気がします。次に、こう聞きました。
「日本の国力はずっと変わっていないと思う人、手を挙げてください」
するとなんと、残りの半分の人たちが手を挙げているではありませんか。
そして、顔をみると、皆若く、20代、30代、といった感じです。
そのうちのひとりに、なぜそう思うか質問してみました。すると彼はこう答えました。
「雇用環境が改善しているし、日々普通に生活できますから。バブルの時代が異常だっただけだと思います」
この答えを聞いてはっとしました。失われた20年がいつの間にか30年。すると今の30代が物心ついた頃、日本は既にバブル崩壊後。20代ともなれば今の低空飛行が当たり前です。
だから、彼らの目には、日本は変わっていない、
むしろ、アベノミクスによって、雇用状況は良くなったのだから、事態が改善されているように見えてしまうのです。考えてみれば当たり前ではありますが、衝撃でした。
今の20代、30代の若者とは、元気だった頃の日本のイメージを共有できないのです。

平成元年においては、時価総額世界の上位100社に日本企業がひしめき、トップ10社のうち7社が日本企業でした。技術力も最先端でした。当時、世界のGDPのうち18%を占めていた日本のGDPが、今や6%に落ち込んでいます。
まさか、ここまで後退するなんて、あの頃の日本人は誰も考えていなかったでしょう。

特にバブル崩壊と共に海外に飛び出した私は、その後目の前で日本国および日本企業の存在感がみるみる低下していくのを目の当たりにしました。
それどころか、なんとか日本法人を助けようと努力して顰蹙までかっていました。
アメリカ人の上司にこういわれたのを今でも覚えています。
「君の努力はわかるが、日本なんて、ヨーロッパにおけるイタリアと同じじゃないか。特別扱いする理由はないんだよ」

この経験が今の危機感の根底にあるわけですが、なんと、期待すべき若い世代とその危機感を共有できないのです。
彼らが安倍政権を支持しているのは、少しはましな環境を作ってくれたからで、必ずしも「元気だった日本を取り戻す」ためではないのです。
懇親会の席で同じテーブルに座ってくれた若者たちは、みな大人しくて礼儀正しい好青年ばかりで好感が持てました。ただ、なんとなくアルパカの群れに囲まれているような感じもしました。要するに「草食系」でしょうか。ほのぼのしています。
私の隣に座った青年が言いました。「僕、ゆとり世代なんです」彼が26歳と聞いて私は言いました。
「そうか。僕はちょうど君の歳に、日本が窮屈で、自分の人生をリセットしようと海外に飛び出したんだよ。」

彼の私を見つめる瞬きしない目が語っていました。「そんな恐ろしいこと…」

今、観光業が盛んになったとは言っても、産業構造はどんどん二流、三流先進国のそれに近づいています。遠からず、イタリアかスペインかポルトガルのような国になるのでしょう。
同時に、中国の属国になっているかもしれません。なんとかしなくてはと焦ります。
しかし、バブル崩壊後のデフレスパイラルの日本がベンチマークになっている今の若者と、この危機感を共有できないとしたら!
「おじさん、あなたの時代がちょっと異常だったんですよ、悪い夢だと思って忘れてくださいよ。僕らは今のままがハッピーなんですよ」と言われてしまったら!
このジェネレーションギャップが日本復活の最大の障害になってしまうのかもしれません。
これこそが、あまり長く停滞することのリスクなのでしょうか。 (引用おわり) 

平成の30年に及ぶ日本の凋落を目の当たりにしてきた世代として、反省すべきは物事の本質に迫る問いを発してこなかったからではないでしょうか。物事の本質とは、例えば,

・三種の神器に象徴される日本の伝統的統治思想とは何か、

・日本国憲法はウェストファリア条約の流れをくむ国際法の趣旨に照らして合法か、

・アメリカの核の傘は、いざというとき本当に有効に機能するのか、といったことです。

習近平を来年国賓として招待するという安倍晋三に、こうした物事の本質を見据えている,とはとても思えないのです。無念を忘れた知識人の怠慢が、この社会の閉塞感の所以ではないでしょうか。

朝日新聞の偏向記事

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11月13日付朝日新聞多事奏論に編集委員の原真人氏が「国家破産の日は突然に」という文章を寄せている。MMTへの批判記事である。全くトンチンカンな記事であり、朝日新聞の不見識を象徴しているので、反論しておこうと思う。

 

「彼ら(MMT論者)は、自国通貨を発行できる国家が破産し滅びることはあり得ないと主張する。」

誰がそんなことを言っているのか。現に韓国は、ウォンという自国通貨を発行しているが、1997年に破綻した。通貨の信用を無くし、二進も三進もいかない状況に追い込まれIMFの救済を受け(つまり借金して)国家の立て直しを行った。その際、IMFの意向で経済改革し、いまの「ヘル朝鮮」が出来上がったわけだ。

彼ら(MMT論者)が言っているのは、自国通貨が発行できる国家でも、インフレという制約を受けており、無尽蔵には通貨発行ができない。逆に言うと、デフレに陥っている日本は、もっと財政を拡大し、デフレから脱却することを財政再建よりも優先すべきではないか、と言っているのである。

ケインズの弟子、アパ・ラーナーの「機能的財政論」そのものである。これをトンデモ理論とするのは、経済学の素人である。原氏は、複式簿記や貨幣論の基礎から勉強しなおした方が良い。

 

「国際通貨基金(IMF)のデータが日本政府の財政不健全性をはっきりと突きつける」との主張。

国際通貨基金(IMF)という組織は、国際金融資本の牙城であり、利益代表である。そんな仕組みもわかっていないのか、と言いたい。彼らは寄ってたかって「日本封じ込め」をしてきた連中である。

その象徴が「プラザ合意」ではあり、「日米構造協議」ではなかったか。それによって、彼らの「市場」は拡大し、博打場が増え、儲かるチャンスが増えた、ということではなかったか。日本人にとっては、間接金融で資金調達できており、何にもメリットはなかったではないか。それにもかかわらず「外圧を利用して日本を改革する」として、調子を合わせてきたのは、どこの新聞であったのか。

その反省ができていないばかりでなく、財務省のルサンチマン・プロパガンダから未だに覚めていない不見識に呆れてしまう。財務省は、国益を忘れ、彼ら国際金融資本の下僕になり下がっている、という理解が必須である。

 

韓国映画『国家が破綻する日』まで持ち出して「その日は突然やってくる」と主張している。

ここまでくるとアホかと言いたくなる。成程それで、朝日新聞は反日親韓なのかと妙に納得がいく。

ウォンと円では国際信用度がまるで違う。家計負債や株主構成など、社会構造がまるで違う。

円は国際通貨であり、日本は世界一の純債権国で、毎年20兆円の黒字の所得収支国である。

韓国は、逃げ足の速い外資に席巻されている国ではないか。特に問題なのは、まともな金融機関は、存在しないことである。さらに「小中華の国」であり、ウソと腐敗が蔓延している国ではないか。

原真人氏は、『反日種族主義』李栄薫著や『日本人を狂わせた洗脳工作(WGIP)』関野通夫著でも読んで、勉強しなおすべきではないか。

 

こんな財務省へのお追従記事を書いていると、ますます発行部数を減らすぞ、と警告しておきたい。いくら、消費税の据え置きの「恩恵」を受けたとしても、それとこれとは話が別である。社会の木鐸としての役割を自覚し、もっと幅広い視点から、われわれに情報提供してもらいたい。多面的な視点を参考に、判断するのは、われわれ読者である。

センメルヴェイスの悲劇

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長いこと、日本の衰退の要因を考えてきた。経済は成長せず、若い世代は、われわれの世代よりも、貧しくなっている。トゥキディデスの罠にハマった日本は、覇権国アメリカに強いられ、グローバル化と称するアメリカ化に付き従ってきた。

それは、とりもなおさず、新自由主義という思想の受け入れであり、国際金融資本の傘下に入ることを意味していた。

結果、日本は衰退し、比較的人件費が安かった中国・韓国の台頭を許してしまった。 

アメリカのそうした動きをした背景には、パンダハガーという親中派がいたが、彼らの認識は、戦前のアメリカ人の中国観と何ら変わらない。彼らにとっては、日本人と中国人・朝鮮人とは、区別がつかないのである。

敵の敵は味方とばかりに覇権国の特権を利用した。戦後、アメリカは多くの地域で、同じ間違いを繰り返し、徐々に覇権の力を削ぎ落してきた。

今では、台頭する中国に覇権を脅かされてくる始末である。AIIB、一帯一路、南シナ海、国内民主派弾圧、サイレント・インベーション、台湾、香港、ウイグル族弾圧、等でやっと目覚めたのである。 

巷間、人口が減少する日本で経済成長は見込めない、などという因果関係を逆転させた論理が、喧伝されているが、笑止千万である。知的水準の高いインテリほど「センメルヴェイス反射」が強いという。平成の指導者たちは、この「センメルヴェイス反射」に犯されているのだろう。決して、PDCAを回そうとはしない。

だから、勝手に検証作業だけしておくと、失敗の要因は、「株主資本主義化」「緊縮財政」「構造改革」の3つに集約できる。

大企業は、資金効率第一主義になり、しかも株主配当を優先、従業員の人件費を抑えることにより、目的を達成しようとした。内需が縮小するのは当たり前である。

さらに、内需拡大が見込めないから、投資先は海外が主体となり、設備投資も落ち込むことになる。

それを埋め合わせるのは、公共投資である。しかし、小さな政府が、新自由主義のイデオロギーであるから、これも緊縮に走った。先進各国のデータを見ると、財政支出の伸びと成長率は、見事にパラレルしている。

にもかかわらず、「構造改革」と称する競争促進政策ばかりに熱心に取り組み、企業は過当競争を強いられ、ネット通販や異業種参入で収益が悪化、特に海外進出のできない「山の国」企業は、家計所得の減少により、経営基盤を脆弱なものにされてしまった。粗利額という指標で表現できる「生産性」は下がり、給料に回す原資がなくなり、ますます家計所得を減らす要因を作っている。 

かくして、デフレ・スパイラルに陥り、成長が止まったのである。くれぐれも、因果関係を間違ってはいけない。これだけ時間がたち、きちっと「事実」が明らかになっているのだから、対処法を熟議するときである。本来、原因が究明できれば、対処法は簡単なはずである。センメルヴェイスの悲劇を繰り返してはいけない。

注ーセンメルヴェイス反射

通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向のこと。 細菌がまだ認知されていない時代、オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務していた医師センメルヴェイスが産褥熱、今日で言う接触感染の可能性に気づき、その予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱するものの、存命中はその方法論が理解されず大きな排斥を受け、不遇なまま生涯を終えた史実に由来する。

認知的不協和ということ (6)

社会190906

結局のところ、平成を通じて、一億総中流社会を壊し格差社会にし、貧困問題を発生させて、地方の疲弊を引き起こし、ここまでの少子化へ誘導したのは、政財官の指導者の不見識によるものです。

1)国際競争力を確保するとして日本的経営を放棄して、賃下げに血道をあげた財界人、

2)法人税を下げるために消費税という大衆課税をしてきた政治家、

3)国際金融資本の下僕になり果てた財務官僚、等の日本の指導者たちである。

日本という「国柄」を弁えず、日本タタキに過ぎないアメリカの戦略を、「グローバル・スタンダード」と誤解して、悉く日本の強みを削ぎ、構造改革という名の競争政策ばかりに熱心に取り組んだ結果が、現状である。国内では、需要不足からデフレが定着し、一人当たりGDPが、世界25位にまで落ち込んだわけである。国際的には、ウソつき国家中国の台頭を許し、韓国にまでなめられる始末である。東アジアの地政学的リスクは、確実に増大している。

そこまで因縁果がはっきりしているのだから、その反対のことをやればいいのだが、それが未だになされないというのは、その指導者たちが、認知的不協和に陥っているからである。

「事実」に素直に向き合えば、何のことはないのだが、なかなかそれができないのが世の常だ。

「日本」という伝統と文化に根差した価値観によって生まれた「混合経済型資本主義」を取り戻し、「日本的経営」に復帰することしか方法がない、と私は考える。

まだ、日本社会は落ち着いているが、世界経済に不穏な影を見る現在、これからどんな波乱が待ち受けているのか、はなはだ心配である。昭和初期のような事態になるかもしれない。

杞憂であればいいのだが、カジノ経済化は止まることを知らず、これからどうなるのだろうか。

中国経済やアメリカ経済の崩壊、ドイツ銀行の破綻、予期せぬ軍事衝突、新興国の通貨危機、・・・世に心配のタネは尽きない。

ここで大事なことは「国柄」を再確認しておくことだろう。『神皇正統記』では三種の神器の意味を、一人称、二人称、三人称で捉え、己に対する至誠、他人に対する慈悲、社会の智慧としている。

それぞれの個人が、そういう姿勢で臨み、社会全体で、知恵を出すべき時期に来ているように思う。

閉塞感あふれる社会を象徴して、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の風潮がはびこっている。

こうした風潮を断ち、俯瞰した視点で学び考えることのできる人をもっと増やしていくことだろう。

熱狂が、理不尽の究極の姿=戦争に追いやることは、歴史の習いである。そういうことを考えざるを得ない時代背景になっている。肝心のマスメディアが機能不全を起こしていることも、心配のタネである。情報が知識として集積され、対話を通じて社会の知恵となる。その根本の情報が偏っていれば、結局、社会の智慧も偏ったものとなり、民主主義社会では、選択を誤る。社会は集団戦である。

庶民は一隅を照らすことしかできないが、それでもそれを国の財と信じよう、と思う。

8月に想う

社会190804

今年も終戦記念日が近づいてきた。国民全体で過去を反省し、平和の誓いを新たにするのですが、反省内容が、ピント外れになっていては、その意味がありません。

マスコミの論調は、何を反省すべきか、という視点からすると、いつもピント外れを繰り返しています。戦争は、究極の理不尽です。絶対避けなければなりませんが、それを可能にするのは「バランス オブ パワー」です。それが世界の常識です。唯一の被爆国だからと言って、世界の公理から離脱することはできません。そういう意味では、もう少しリアリズムに則った報道を期待したいものです。

 

日本人の歴史観を歪めているものとして、自虐史観・内向き史観があります。いつの時代も覇権国と対峙して、公正なルールを設定しようとすると軋轢が生じます。どこかで妥協しながらも、最低限の国益を確保していくことが、日本にとってどれぐらい難しいものか、少し歴史を勉強すればわかるはずです。

ところが、GHQのために、あるいは戦後民主教育のために、外部環境を無視した歴史観が広く浸透し、結果的に、戦前と同じ失敗を繰り返しています。日露戦争終了後から、明らかにアメリカは、日本を仮想敵国として、日本いじめを繰り返してきました。1980年以降も、貿易摩擦という軋轢の中で、日本いじめが始まりました。そういう視点からの報道は、ほとんどありません。

 

日本は過去、20年間以上も長きに渡り、デフレーションという病に苦しめられてきました。

結果、1996年からほとんど経済成長していないという恐るべき事態を招いています。

「日本は成熟国だから成長しなくて当たり前じゃないか」という意見もあります。

しかし、先進国の代表であるアメリカ・イギリスは順調に成長しています。また、欧州の劣等生であるフランス・イタリア・ドイツですら、40%以上成長しています。「成熟国だから成長できない」わけではなく、単に「経済を成長させることに失敗」してきたのです。

結果、社会は閉塞感にあふれ、国民はどんどんと貧しくなり、明日への希望を失いつつあります。

 

なぜ日本は経済成長することができていないか?それは、経済に関するウソ・欺瞞が溢れており、誤った経済政策ばかりを行っているからです。アメリカに強いられた「構造改革」にうつつを抜かし、現実を無視しているからです。そして、「国の借金で破綻する」「公共投資の過剰で財政悪化した」「消費増税しなければ社会保障が賄えない」「少子高齢化で成長できない」などというウソが、まかり通っています。事実・データを分析すると、これらが間違っていることは明らかですし、これらを前提にした政策は経済に深刻なダメージを与えきました。

事の本質は、株主資本主義化であり、グローバル化という名のアメリカ化を強いられてきたからです。

にもかかわらず、そうした観点からの報道は、ほとんどなされていません。

このままでは、いずれ「鬼畜米英」になってしまうのではないかと、むしろ逆に心配します。

 

一方で、中国が台頭しています。一番危険な国です。幸い、アメリカがそれに気が付いて軌道修正しています。これについても、ネガティブな報道ばかりが目立ちます。株価や為替の変動が激しくなるとか、結果、日本経済にも悪影響が生じるとか、の話に終始しています。情けない限りです。

中国共産党の統治体制を問題視する視点は皆無と言っていいでしょう。それほど、大手報道機関は歪んでいると思います。朝鮮半島の問題も含め、われわれの地政学的な課題を、じっくり論じる重厚な議論を、8月には、特に期待したいものです。

民主化絶望国家・中国 (2)

社会190606

こんな中国が、世界の覇権をアメリカと二分しようとしているのです。考えてみれば、こんな恐ろしいことはない、と思いませんか。地政学的にも、歴史的にも、日本は、絶対に中国の世界覇権を認めるわけにはいかない。そんなことをすると「倭人自治区」にされ、チベット・ウイグルの二の舞です、

今やっと、アメリカが中国の本質に目覚めてくれたわけで、日本はラッキーと思わなければならない。政権も議会も「中国タタキ」に躍起になっていますが、1980年代の対日貿易摩擦を彷彿とさせます。「構造改革」という内政干渉までされても、それを「グローバル化」と読み替えて、日本は従順に付き従ってきました。その結果の日本の衰退ですから、その姿を見てきた中国は、そういうわけにはいかないでしょう。ましてや、共産党が、国家の上に君臨しているような国です。そして未だに「無謬主義」に犯されている国です。共産党統治の崩壊まで、この覇権争いは続くことになるでしょう。また、私は、そう望みます。そうしないことには、中国の民主化はあり得ない。

 

ところが、平和ボケをした日本の主流派は、そう考えてはいないようです。米中対立が早く収まり、世界経済に悪影響が出ないように、という論説があふれています。そんな腰抜け姿勢だから、平成の30年で没落してしまったのです。カネ儲けの話ばかりするから、カネも儲からなくなったのです。

大きな観点で考えることのできる日本の指導者が、極めて少なくなってしまった。そこが問題です。

 

庶民レベルでも、極めて不寛容なムードが、社会に横溢しています。ネットの炎上などを見ていると、どうでもいいことに、なぜそんなにムキになるのか、理解できないことがあります。

「ルサンチマン」という言葉で解説が試みられているようですが、人間が幼くなっていると同時に、社会に閉塞感があふれていることの証左である、と考えています。

PC(ポリティカル・コレクトネス)といって、正論を振り回す輩がいますが、頭の中で考えたことを現実化させる手段としては、とても稚拙だと思います。自由や人権が大切であることは言を俟ちませんが、それは、「安全・安心・豊かな社会」が前提となっていることを理解しているでしょうか。

「安全・安心・豊かな社会」は、伝統や文化などに裏付けられた民族の倫理規範に依っています。

自由や人権を主張するリベラル派は、保守思想によってもたらされている恩恵を基盤にしている、ということに想いが至らなければならない。頭で考えることは大切ですが、同時に、感性も動員し、地に足の着いた議論にしていかなければなりません。

 

さて、この先、中国がどうなるのか、いろいろな識者が見解を述べています。

かつて、「中国の将来と日本の今後」(経済150904)で、トッドの分析をお示ししましたが、そのときの私の見解は、今も変わっていません。中国は、国家資本主義による「中国製造2025」という手段で、経済と軍事の世界覇権を狙っていますが、習近平の強気路線が、アメリカの怒りを買い、悉く阻止されようとしています。中華の夢は、近隣諸国の悪夢ですから、これは何よりのことなのです。

 

日本は、アメリカにより、プラザ合意やBIS規制という手段でいじめられてきました。しかし、そういう理解ができている人はごく少数です。マスコミなどは、未だに理解していない。それでみんな、グローバル化は時代の流れ、自由貿易こそが日本発展の道、と信じ込まされてきました。

そして、それに対応できる大企業は海外進出し、国内は製造業を中心に空洞化、日本的経営すらも放棄され、家計所得が目減りして、国内需要が減少、デフレが定着してしまいました。

日本の経済力の国際的地位は、低下の一方です。こんな日本に誰がした。

それは、平成の政官財の、われわれの指導者だったとしか言い様がありません。彼らは、「大東亜共栄圏」を達成できなかった、という無念からは、縁のない人たちでした。

世界観を鍛え直し、歴史観を鍛え直し、民族の倫理規範に合致した価値観を身に付けた「令和の指導者」の出現を期待したいと思います。

 

幸いなことに、もう中国は、賃金水準が高くなりすぎて、外国企業も中国企業も生産拠点を他国に移し始めています。それが正解でしょう。発展段階という観点では、成長期を終えつつあります。

投資を中心に経済発展してきましたが、過剰設備や過剰債務は深刻です。それに、社会保障制度が不十分なうちに、少子高齢化が進みます。「公の精神」の欠如した民族の寄り合い所帯です。

これからどんな断末魔に至るのか、相当の混乱が必至だ、と私は予測しています。

ついでに言うと、韓国は、アメリカと中国の「股割き」にあって、いずれ国家崩壊に近い形になります。そういう経済構造になっています。日本は出過ぎた真似をしてはいけません。関知せず、救済せず、の姿勢を貫けばよいのです。両国とも事大主義の国です。日本は、この経済停滞から早く脱却し、成長路線に乗せることのみを考えればいいのです。消費税増税などは、信じられない愚策です。

米中覇権戦争の報道について

社会190505

米中の関税の掛け合いという貿易戦争の本質は、覇権戦争であり、これから長く続くことが予想される。新しい冷戦構造が出来上がった、とみるべきである。

ところが、新聞・テレビの報道機関は、このような構造変化ではなく、株価がどうなるとか、保護主義に勝者はいないとか、世界経済への悪影響にばかり言及している。ピント外れとまではいわないが、マスコミ各社が、物事の本質を見逃しているのは確かである。

そもそも共産党独裁の国家をWTOに参加させたのが間違いのもとでなかったのか。そして、そのWTOが機能していないことが問題ではないのか。

さらに言うと「ピルズベリーの書いた本」(文化151105〜07及び政治151108)でも指摘した通り、アメリカ親中派の根本的な認識不足にある。

そして、戦前から正しい中国観がアメリカの多数派であったなら、太平洋戦争はなかった、と思うのである。

 

また、ペンス副大統領が2018年10月4日にハドソン研究所で行った演説も軽視している。そして、

「トゥキディデスの罠」に関する解説もない。「覇権」という意味を解説することもない。

かつて、「外圧を利用して日本を改革する」などと言う「識者」のコメントを垂れ流していたときから、報道機関は全く成長していない。日本が閉塞状態に陥ったことへの反省もしていないから、いつまでたっても真っ当な報道ができないのだ。

日本が貿易摩擦で矢面に立たされ、「日米構造協議」という内政干渉を受けてきたが、そのお鉢が中国に回っていっただけの話ではないか。

中国は、日本の衰退という先例があり、それを参考にしている。だから「いかなる国にも重要な原則があり、原則問題では絶対に譲歩できない」と主張しているのだ。

日本と違って、民主主義国家ではない。選挙という統治の正当性を担保する手段のない国だけに、国民生活の窮乏は体制変革になりかねない。だからこそ、おいそれとは妥協できない。逆に言うと、日本にとっては、フォローの風が吹いてきた、ということではないか。

欧米諸国は、「敵の敵は味方」「分断して統治しろ」という大戦略で、覇権を握り、世界から富を収奪してきたという歴史的事実がある。

ここはこれまで通り、子分に徹して、対米従属を決め込むときだ。そういう環境変化に留意すべきではないのだろうか。

 

中国は、地政学的に日本にとっての仮想敵国である。朝鮮民族も、永年の冊封体制で、易姓革命と事大主義が伝染し、まるで小中華の国である。こういう近隣諸国に囲まれていることを、政治家なら自覚してほしいものだ。

同時に、日本の国柄について、想いを致してほしい。和の精神は内政のみとして、外交では国益追及の鬼になって、情報戦・外交戦・経済戦を勝ち抜いていってほしい。

庶民の「お人好し」は微笑ましいが、リーダーの「お人好し」は犯罪である。多くの弱き者を不幸に陥れるからである。そんなことは、平成の30年で、われわれは、十分に勉強してきたではないか。 

中国の特殊事情 (2)

社会190406

次の産経新聞記事をまずお読みいただきたい。

引用:

国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)は、中国による情報操作の実態をまとめた報告書を発表した。中国が日本を含む世界各国で意図的に虚偽情報を流し、混乱をもたらす活動を広げている実態を明らかにした。各国で対抗措置が求められる、と訴えている。報告書は「中国が追求する新世界のメディア秩序」と題され、先月下旬に公表された。

情報操作の実例として、昨年9月の台風21号の影響で、関西国際空港に取り残された台湾人旅行客に対する台湾の出先機関による支援が不十分だったとする情報がインターネット上に流れ、後に虚偽情報だったと分かったことを挙げた。中国当局が台湾に混乱をもたらす目的で意図的に虚偽情報を流す活動だったとの見方を示している。当時は、台湾当局に対する批判が噴出。その後、台北駐大阪経済文化弁事処(領事館)の処長だった蘇啓誠氏(61)が自殺した。

報告書はまた、虚偽情報を流す活動の対象が、中国の軍事拠点化が進む南シナ海周辺の東南アジア諸国連合(ASEAN)域内にも広がっていると警告した。「トロイの木馬政策」と題する章では、中国の英字紙「チャイナ・ウオッチ」について、「チャイナ・デーリーのチームによって執筆され、発行部数は1300万部とみられる」と指摘。広告記事を使ったプロパガンダを、外国メディアを通じて各国の「エリート層」に浸透させる試みと強調した。同紙は日本など世界各国の30の有力紙に折り込まれているとしている。

外国人記者に対する扱いについては、昨年7月3日に在スウェーデン中国大使館がスウェーデン紙の男性記者を非難する声明を出した事例を紹介した。男性記者は、9年にわたり中国に駐在していたが、16年7月、査証(ビザ)の更新を拒否された。産経新聞や米紙ニューヨーク・タイムズなどの記者についても、非常に短い期間のビザが発給された。報告書は、中国による虚偽情報を流す活動を見抜く力を養うため、メディアに関する市民教育の重要性を訴えている。(引用終わり)

こういう国と日本は、「日中記者交換協定」を結んでいる。日中間に正式な国交のない昭和39年4月、日本と中国は、記者交換協定を結び、昭和43年3月、それまでの協定が破棄され、新たに親中派の代議士が仲介する形で、日本の新聞は、中国側が条件とした「政治三原則」を守らなければ中国に記者を常駐できないことになった。その3原則とは、@中国を敵視しないA二つの中国をつくる陰謀に加担しないB日中国交正常化を妨げない、というものだ。
つまり、日本のメディアが中国に記者を常駐させたければ、以上の三原則を守れ、というわけです。
三原則のBは、いまや無意味ですが、相手国の方針に従うことを事前に約束しているのです。これが日本のメディア各社の実態なのです。中国批判を控えている、と疑われても仕方ないと思いませんか。例えば、南京大虐殺が捏造であることを批判しなかったり、尖閣諸島に中国軍艦・中国漁船が侵入しても批判しなかったり、拘束の原因が不透明なまま日本人がスパイ容疑で中国に逮捕されても批判しなかったりと、今なお日本のメディアは中国問題について真実を調査し報道することを控えているように思う。

オーストラリアでは、クライブ・ハミルトン教授が『Silent Invasion〜China’s Influence in Australia(静かなる侵略〜オーストラリアにおける中国の影響)』という本を出版。政治家への資金供与や大学への寄付、企業買収などにより、オーストラリアが中国に「侵略」されている実態を克明に描き、話題になっている。

戦前から、中国という国は、プロパガンダという情報戦を得意としてきた国柄である。アメリカは、そんな中国に、100年以上も騙され続け、最近ようやく、AIIB,一帯一路、南シナ海、中国製造2025、孔子学院、「中華の夢=G2体制」で、中国の正体を見極めるに至ったということである。

「白髪三千丈」の不実な国民性、「孫子の兵法」の国と言う意味を、しっかりと、理解しなければならない。一番理解できるのは、2600年も付き合っている日本人ではないか。

引用した報告書が示すとおり、中国による虚偽情報を見抜く力を涵養する情報リテラシー教育が、日本人にもアメリカ人にも必要、ということなのだろう。

歴史の逆説(2)

社会190205

「自由・平等・寛容・民主主義・人権・法の支配」といった価値は、近代社会が到達した大切な価値ではありますが、それらはあくまで「良い社会」をつくるための手段であって、それ自身を「目的化」したがために、多くの失敗事例を人類は経験しています。

人間の理念先行で生まれた概念で設計した社会は、大衆には、その「重圧」に耐えきれないのです。これらの「きれいごと」は、従来からの伝統的な規範によって、補強されなければ危うい。

例えば、「自由」という理念は、「寛容」とか「責任」という理念と対になって初めて、その真価を発揮します。それを無視して「自由」を振り回すと、「公共の福祉」と衝突することは、火を見るより明らかです。いわゆる「社会の成熟度」といった限界を踏まえて、「自由」を考えなければならないのです。

「自由」という理念は、家族とか地域社会といった身近な伝統社会に息づいた道徳や倫理規範という「文化基盤」に裏打ちされていなければ、バラバラな孤独な群衆にされ、アイデンティティも喪失し、「ポピュリストの扇動による熱狂」という、とんでもない弊害を、われわれは経験しています。

良かれと思って、ある理念を中心に設計した社会が、いつも裏切られる・・・それが「歴史の逆説」といわれる現象です。「リベラルリズム」は、共産主義やファシズムといった暴政を招き、その先には、今までの歴史の中では、「破綻」が待ち受けていたのです。

 

平成という時代、ソ連という国が崩壊し、自由経済圏が計画経済圏に勝利しました。それ以降、

「市場原理主義」という理念に立脚し、国境を越えた資本の行動の「自由」を最大限配慮する政策がコンセンサスとなり、その結果は、またもや無残な状況に陥っています。

「自由と民主主義の国」アメリカの主導で始まった近年のグローバリズムは、当のアメリカ自身が耐えられず、トランプ大統領を生み、保護主義に転換、中国と貿易戦争・技術覇権戦争をしています。

先進国の中産階級の雇用が失われ、上位26人の大金持ちの資産が、下位38億人の資産に匹敵する、というように、格差が拡大、資本主義に対する疑念さえ生じる事態になってしまいました。

「市場が、見えざる神の手となり、資源配分を適正化し、効率的な社会にしてくれる」という教義に基づく新自由主義思想、その思想に基づいた「構造改革路線」は、もう破綻しています。

「改革により新しい時代を切り開く」などという「わかりやすい言葉」が、悲惨な歴史を生み出してきました。不穏な空気が、世界中に、漂っています。

 

最大の被害者は日本ではありませんか。GDPの世界シェアは、3分の1にまで落ち込み、小国化が止まりません。「構造改革」という設計主義による不遜な取り組みが、この30年間され続け、「一億総中流社会」は、すっかり変質してしまいました。

それでもなお、一部の経済学者や政治勢力は、「改革」が足りない、と主張しています。

「事実」を冷静に分析したら、そういう結論にはなりえないはずです。

将来に向けて前向きに対処していかなければなりませんが、過去の分析が、日本人は、どうも苦手なようです。

アメリカは、負けたと思ったら、全力でその要因を分析し、相手の弱点を突いてきますが、日本人はそういう組織的な動きができない民族のように思います。

中国の「一帯一路」に対する政財界の姿勢、韓国の一連の反日行動、など最近のニュースを見ていると、私は苛立ちばかりが募ります。どこまで「お人よし」なのでしょう。

失敗を明確にする、ということは、人間関係を重んじ、秩序を大切にする、日本の組織風土になじまないのでしょう。そういえば、大東亜戦争の失敗でも、何が間違ったのか、どこで間違ったのか、「総括」していないではありませんか。

しかし、水にばかり流していれば、いつまでも「学習する組織」ができません。

 

「理念」は大切ですが、社会の実態を踏まえて、より現実的な対応が必要です。

そのためには、資本を制御する「国家」の復権が必要不可欠です。

「自由・平等・寛容・民主主義・人権・法の支配」といった価値についても、国家という暴力装置との関わりの中で、論じられなければなりません。

政治的には、保守の復権です。多数派であることだけで、横暴な振る舞いは止めることです。

生きている者だけで、何でも決めるのではなく、過去からの伝統や慣習を重視することです。

経済的には、「機能的財政論」に立脚し、「混合経済体制」に復帰することです。「市場」の機能は重要ですが、社会インフラ、医療、教育は、平等を旨とし、社会主義的に運営すべきです。

寡占・独占という不公正の問題、環境などの外部不経済の問題、などは国家の関与が必須です。

経営者は、「株主資本主義」から離脱し、三方好しの「日本的経営」に戻すことです。

そして従業員を大切にし、終身雇用と年功賃金を、復活させることです。安定した社会の基盤です。

日本が「日本」であることは、多くの人たちが、望んでいるのではないでしょうか。

認識不足のマスコミ

社会190201

右肩下がりの時代にどう生きるか、などというテーマで、番組を組まれることが多くなった。

ここでは大抵の場合、右肩下がりを前提として心の持ちようで成長しない時期にも幸せに暮らせる、ということを説く。

こうすることにより、自分たちの不見識に「ホウカムリ」をして、何事もなかったかのようにやり過ごす。こうして、戦前と同じ失敗を繰り返しているのが、今の日本ではないのか。

未だに、アメリカの敷いた国際化というレールに、何の疑義も唱えてこなかったこと、中国という国に対する警戒感もなく、ひたすら「日中友好」を唱えていたこと、これらの不見識への反省は、微塵もない。そしてまた、1000兆円を超えた国債残高を取り上げ、「国が破綻する!」などと叫んでいる。

 

確かに、国家には発展段階というものがある。生成期・発展期・成熟期・衰退期である。

日本は、1990年代から成熟期に入り、高度成長というものが望めなくなったのは、事実であろう。しかしその後、他の先進諸国が概ね3%程度の成長をしているのに対し、ほとんど成長していない、という事実を、どう説明するのだろう。概ね3%成長しておれば、20年で倍以上になる。1000兆円以上のGDPになっているのが通常ではないのか。なぜ、成長から取り残されることになったのか。

「構造改革」という理念主義の失敗を取り上げようともしない。

 

国家の経済政策の主要要素は、雇用と物価と成長である。その目的は、人々に良質な職業を確保し、安定的な経済環境を提供し、今日よりも明日、明日よりも明後日、希望をもって、より豊かに暮らしていけるようにすることだ。

その経済政策が失敗していることは明らかであるにもかかわらず、どうして、こうした事態になったのか、ということに対して、全く「問題意識」を持っていないように感じる。

それとも、そういう問題意識を持つこと自体が、組織から疎外される要件にでもなるのだろうか。

 

もし、そうした「忖度」がマスコミに蔓延っているならば、それはマスコミの自殺行為であり、「いつか来た道」へ誘う惧れすらある。ウソは情報戦という形での戦争の始まりである。

そんなことを心配するほど、財務省や日銀の広報担当者ではないか、と思われる報道が目立つ。また、外国になぜ、そんなに遠慮するのか、理解できない報道も目立つ。事実を報道し、それによって権力を監視し、「社会の木鐸」たらんとする気概が、最近の記事や報道に、全く感じられない。

それでも主権国家のジャーナリストか、とハッパをかけたくなるのは、私一人ではあるまい。

 

政治や経済といった硬い分野だけではない。バラエティ番組では、健康に関することが多くなった。

高齢化社会を反映して、孤独な身の上の人が多いのかもしれないが、こともあろうに、「孤独を賛美する」論調も目立つ。「自分一人を楽しむ時間」とか「同調圧力に屈しない」といったレトリックを使い、高齢者を慰めている。

人間は、生きている以上、孤独なものだ。それはいつの時代も変わらない。だからこそ、人間は「絆」を求めて、「社会」を形成する。その中で、自分の居場所を見つけて一隅を照らす。

他人のお役に立ち、「感謝」されて、ストレスホルモンの分泌が抑えられると、「健康寿命」が延びることは、科学的に証明されている。逆に、人間関係の紛争を抱え、ストレスをためると、「健康寿命」に悪影響を及ぼす。治安のよい社会、格差の少ない社会、は「健康寿命」を延ばすことが、統計的に証明されている。穏やかな環境で、周囲の人と和気藹藹と暮らすことは、「健康寿命」に直結する。

 

マスコミは、こうした事実を踏まえ、高齢化社会に相応しい環境整備を心掛けるべきではないのか。それが持続可能社会の、「一丁目一番地」ではないのか。

消費税を上げ、移民を増やす、水道まで市場原理にさらす、などという今の政治の方向性を、どのように考えているのか、今の報道機関の姿勢に疑問符ばかりがついてしまう。

それどころか、低俗なスポーツネタと芸能ネタであふれかえっている。商業主義の悪弊そのものではないか。「社会の木鐸」を放棄しているように思えてならない。

それとも、そもそもそんな意志すら持ち合わせずに、ジャーナリズムに入った人たちなのだろうか。上司や組織に媚び、仲間と群れ、ただ日々、流されて生きている連中の集合体なのだろうか。

 

「尖った人材」が、こんなにも少なくなった日本の社会は、これから本当に大丈夫なのだろうか、と思わざるを得ない今日この頃である。若い人の勉強不足、特に、将来のリーダー層の勉強不足は、目を覆うばかりだ。文科系学部を縮小する動きもあるが、確かに、もっと勉強させる工夫が必要だ。

「美しく老いる」と言えば聞こえはいいが、こんなユデガエル状態が続くと、その先は恐ろしい悲劇が待ち受けているような気がしてならない。

ロナルド・ドーア氏逝去の報に接して

社会181108

イギリスの社会学者ロナルド・ドーア氏が亡くなった。彼の『日本への幻滅』については、このブログで一度取り上げたが(社会150808)単なる「知日派」であるだけではなかった。イギリス労働党の支持者であった彼は、日本企業の、労働者と経営者が、「同じ釜の飯」を食うという意識に驚嘆し、終身雇用と年功序列の「日本的経営」を高く評価していた「思想家」でもあった。 

それがグローバリズムによって崩壊しつつあることを喝破した『働くということ』(中公新書)は今でも読むに値する名著だと思う。ドーア教授の「日本に対する好意が冷めた」のは、80年代の前半からである。中曽根内閣が、レーガンに寄り添い、「プラザ合意」にみられるような、「売国化」をしてきた日本のありように、彼は幻滅したのである。中曽根行革は、「教条主義的な新自由主義の表明」であり、「国有の五現業の労組を潰す目的があった」という評価は、的確だと思う。

さらに、90年代から、アメリカに言われるままの「構造改革」を実施してきた平成の日本については幻滅以外の何物でもなかった。細川から橋本、小泉へと、市場主義的な改革が進展した時代で、「サッチャー主義の時代」と言い換えることもできる。「弱肉強食」の思想を奉じるサッチャーが、イギリス社会を決定的に悪くしたと考えるドーア教授としては、当然だろう。彼にとっては、自分の惚れた日本文化や息づく慣習が、それほど底の浅いものであったのか、ということだ。

私は、ドーア教授と結論は同じだが、違う視点を持っている。それは、1980年代以降の日本の指導者が、残念ながら、GHQWQIPに汚染された戦後教育で育った、という事実である。平成の日本の指導者たちは、アメリカによって、真に「腰抜け集団」にされてしまった。「戦前の日本=悪者論」がこの世代のコンセンサスになってしまったから、アメリカに日本の特殊性を突かれると、さも悪いことをしているように思い、国際標準というアメリカ化に舵を切らなければならない、という風潮が出来上がってしまった。当時、「外圧を利用して、日本を変革する」などということをいけしゃあしゃあとマスコミでのたまうご仁が多数いた。覚えておいでだろうか。

その結果、経済成長から取り残され、日本は、小国化の道をひた走ってきた。しかも、共産党一党独裁の中国の台頭を許し、その脅威にさらされることになってしまった。そういう事実があるにもかかわらず、そのことに触れることは、どうやら、「日本のマスコミ」ではタブーになっているらしい。「戦前の日本=悪者論」を信奉する反日メディアが多数派になるほどに、この国は、堕落してしまったのだろうか。

アメリカが主導してきた、新自由主義経済思想は、ここへきて「転機」を迎えている。アメリカ自身が格差拡大によって、国民の分断を生み、ばくち打ち経済化をアンフェアだとする層が、トランプ大統領を生みだした。そして、そのトランプは、脅威となった中国に対して覇権戦争に打って出ている。

アメリカとは、そのように、真に得手勝手な国であり、その覇権を争う相手の中国は、昔から「民主主義」など、根付くはずのない国なのである。梅棹忠夫が『文明の生態史観』で分析した通り、封建時代を経過しない国には、民主主義は根付かない。事実、中国は「易姓革命」を繰り返し、「帝国」しか生んでこなかった。そういうことが、アメリカの親中派には、理解できなかった。目先の利益獲得を目指す欲ボケの欧米エスタブリッシュメントたちの限界であろう。戦前から、彼らに中国の理解が及ぶことはなかった。その結果の「大東亜戦争」ではなかったか。

いま、いみじくも、日産のゴーンの逮捕が報道されている。「強欲」を絵にかいたような人物である。コストカッターとして労働者の賃金を押さえつけ、一方で自分は「世界標準の経営者報酬」を得ていた。まさしくそれは、日本的経営、日本型資本主義の終焉である。これを良しとする風潮にドーアは幻滅していたのだ。それは、「日本精神」の喪失に他ならない。

ゴーンの逮捕に、時代の変遷を感じている。一方で、利他の精神といった日本人庶民のエートスの素晴らしさを、ジャック・アタリが、『21世紀の歴史』に世界理念となるべきものとして称賛している。私も同感だ。日本人の、そうしたエートスを身に付けた若者が、これから国際舞台でどんどん活躍していってほしいものだ、と思う。そして一日も早く、強欲な西洋文化を終焉させてほしい。

失敗を認め発想を変えよう

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人間ごときが、偉そうに、わかったふりをして、「イデオロギー」という魔物を振り回し、複雑な現実社会を単純化し、力づくで制度まで変えようとするから、いろいろなところで、不具合が起きてくる。

そんな単細胞馬鹿が、跋扈した「平成」であった。おかげで、この日本、見事に小国化してしまった。

世界のGDPシェアは、21%から6%を切るところまで、落ちてしまっている。真にもって無念である。

 

特に「経済学」という未熟な学問は、複雑な世界を極めて単純化するから、ある一部の層の、利益代表になることが、これまでの歴史的経緯である。

具体的に言うと、経済学の主流派による「新自由主義」という「イデオロギー」は、市場原理主義とも呼ばれるように、基本的に「レッセ・フェール、レッセ・パッセ」なのであるが、カネのあるやつ、情報のあるやつが、得をするのに決まっている。基本的に不公平なシステムだ。

ヒト・モノ・カネを自由に世界中で動かす利便性を供給してきたが、そんなものは一部の金融機関やグローバル企業しか恩恵がない。庶民には、却って邪魔なだけだ。

現実には、誰もが感じているように「弱肉強食の世界」にしてしまい、先進諸国では中産層が分解し、「分断社会」になり「寛容の精神」が失われ、「民主主義」そのものの危機が訪れている。

 

なぜ、ここまで、新自由主義が猛威を振るってきたか。

フランスのこれ以上の停滞を回避するためにEU離脱が不可欠と確信し、新たな政党を立ち上げたフランソア・アスリノ氏は、その政治活動の過程で、次のような『真実』に辿り着きます。
そもそも2000年以降、我々はある意味で1つの戦争状態に入ったと言えるのではないかと思います。その戦争と言うのは銃とか爆弾といった形で行われる戦争ではありません。「情報戦争」です。
この戦争の結果、いわゆる先進国地域のメディアが、完璧に多国籍企業や金融界に牛耳られ、メディア空間が、恣意的な形で歪められています。

経済政策や外交政策などは、庶民には難しすぎて、あまり関心を持つ人は多くありません。日本でも、「お上にお任せ」なのではないでしょうか。そこで、メディアの役割が重要なのですが、このメディアが国民の方ではなく、多国籍企業や金融界あるいはお上」の方を向いている、というのです。

 

アメリカや中国のなりふり構わぬ「プロパガンダ」の醜さは、つとに有名ですが、われわれのメディアすら、そういう「情報戦」に組み伏せられているとしたら、空恐ろしいことだと思いませんか。

戦間期には、日本でも商業新聞に煽られた民衆が、国際連盟脱退を支持し、「鬼畜米英」に走ったのです。その新聞社は、戦後は一転して、GHQのWQIPのお先棒を担ぎ、「日本悪者論」を展開し、中国や韓国に迎合し、反日姿勢を堅持しています。なんという無定見なことか。

 

これほど日本が小国化しているということは、われわれが享受してきた豊かさが、子供たちの世代に受け継がれていかない、ということを意味する。しかし、そういう大事なことの要因にたどり着けるような記事は、一行でも、最近の新聞に書いてあるのか。

それでも、日本人は、実に「穏やかに」生活しているではないか。実に、大した民族であると、私は感心するのである。

しかしながら、消費増税が予定され、さらに反日教育を受けた連中が、日本中にばらまかれるようになると、どこかでおとなしい日本人も、切れだすのではないかと心配する。

 

NHKで「人体」シリーズを放映しているが、組織運営も「人体」を見習い、もっと風通しの良いものにしていかなければならない、というのが、私の持論である。各臓器が、「メッセージ物質」を発散させ、それが全体の調和を保つ機能を担っている。必ずしも「脳」という選別された上位機関が、全体を統制しているわけではないのである。「脳」もまた、体の一部に過ぎない。

日本人も、もっと、学び、考え、発信していかなければ、いい社会が出来上がらないのではないか。

 

これ以上、間違ったイデオロギーに基づく「改革」をすべきではない。このような状態をこのまま放置すると、人々は追い詰められ、さらに「分断」が進み、寛容の精神が失われ、民主主義国であれば、大衆迎合から「ヒトラー」が生まれてこないとも限らない。

民主主義は、資本主義と兄弟であるが、そこには「平等」に関する文化的基盤が必須条件である。

日本は古来から「民のかまど」の国であることを再認識しておく必要があるのではないか。

そういう視点に立つのが、保守主義である。社会の変遷を冷静に観察し、その因縁果を見定めることから始めなければならない。なぜ、こういうことになったのか、を正確に分析しなければならない。今、そこが求められているのではないか。いずれにせよ、著しい格差社会は、表現の自由を奪われた社会と同様、健全な民主主義を維持できなくなることは、歴史が証明している。

社会性の5段階論

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マズローの欲求段階論という考え方があります。組織に属する人たちのやる気を引き出すために、心理学を取り込んだ経営学の学説です。さらっとおさらいすると、次のようなことです。

第一階層の「生理的欲求」は、生きていくための基本的・本能的な欲求。

この欲求がある程度満たされると、次の階層「安全欲求」を求めるようになります。

第二階層の「安全欲求」には、安定的に、安全・安心な暮らしがしたい、という欲求です。

この「安全欲求」が満たされると、次の階層である、居心地の良い場所を求める第三段階の「帰属欲求」になります。

この欲求が満たされない時、人は不安を感じやすくなり、生産性が落ちると言われています。

ここまでの欲求は、外的に満たされたいという思いから出てくる欲求(低次の欲求)で、これ以降は内的な心を満たしたいという欲求(高次の欲求)に変わります。

「帰属欲求」の次に芽生える欲求は、第四階層である「承認欲求」(他者から認められたい)です。そして、その「承認欲求」が満たされると、最後に「自己実現欲求」が生まれます。

 

当たり前すぎて、それでどうなの、と言いたくなりますが、案の定、ハーズバーグが出てきて、職場の不満を分析、これらを「衛生要因」と「動機づけ要因」に二分して、モラール論を展開します。

ちなみに、その時の不満の三大要因は、会社方針、職場の人間関係、労働条件です。昔も今も、全く変わらないように思います。

 

さて、このマズローの5段階欲求論に倣い、社会性の5段階論を提唱したいと思います。

1−「いま ここ 自分」の段階

 社会を考えるといっても、自分の体験から自由にはなれません。しかも、人は誰でも「いま ここ 自分」が大事なのです。しかし、この段階にとどまっていたならば、大事な「いま ここ 自分」が正確に見えてきません。俯瞰する、ということが必要です。自分の属する共同体(会社や地域社会)の実態に目を向けざるを得ないのです。

2−共同体指向の段階

 人は、一人では生きていけません。社会を構成し、その一員として、生きています。それに気づき、どうすれば身近な共同体の中で、居心地よく暮らしていけるのか、という社会性に目覚めることになります。会社で管理職などを経験すると、いやが上でも、こういう意識が強くなるはずです。サラリーマンは「媚びる、群れる、流される」という三大性向を持っている、と言われていますが、それはこの段階にとどまっている、ということにすぎません。

3−経営指向の段階

 共同体の内部事情に精通するだけではなく、一方で、外部事情を考慮して、物事を判断していかざるを得ないレベルです。トップの資質として「人を見る目、時代を見る目、孤独に耐える精神力」などと言われる所以でしょう。能力を総動員して空間軸、時代軸を拡大し「いま ここ 自分」を俯瞰して、適切な意思決定をする必要があります。教養とコンセプショナルスキルが試される段階です。

4−国家指向の段階

 さらに社会性を拡大すると、国家のレベルに到達します。社会の在り方といった理念にまで及ぶ価値観を問う世界へ突入します。こうなると、「いま ここ 自分」という現実から遊離して、理念だけの論争になりがちです。日本の共同体では、通常「政治と宗教」はタブーですが、組織の生産性を阻害する、とされているからにほかなりません。

しかし、グローバル化の進展によって、これだけ社会にひずみが出ているわけですから、もうこれ以上、避けて通ることができないのではないか、と私は考えています。天下の素浪人の気楽さで、現役時代には決してしなかった政治面にも、コメントするようになりました。

5−人類指向の段階

 国家や民族のレベルを超える概念が、人類、自然、地球、宇宙といった抽象世界です。これまた、「いま ここ 自分」に関連はしているのですが、ちょっと遠すぎて、普段は議論の対象にはなりませんが、気候変動とか原発再稼働とか遺伝子操作とかの大きな政治課題に関心を寄せると、避けて通ることもできません。

ただし、どこまでがわかっていて、どこからがわからないのか、どういうところで見解が分かれているのか、ということを正確に理解して、議論してもらいたいものだ、と思います。

 

気をつけたいのは、「タメにする議論」です。自然科学の分野はよくわかりませんが、経済分野では、明らかに近年「レント・シーカー」が存在します。「トリクルダウン」などと言っていた連中です。今も、「財政が破綻する」と騒いでいる連中です。日本を小国化してその反省もせず、胡麻化してばかりいる財務省官僚や御用学者どもです。彼らの唱える「構造改革」で、儲けた人たちもいるのです。「ハゲタカ」やパソナなどの人材派遣会社です。

 

私が強調したいのは、なにも、より高次のレベルが、高尚な議論とは限らない、ということです。その場にふさわしいレベルがあるはずです。いま、ここでの議論を、どこのレベルでするのがふさわしいのか、という観点で、考えてみてください。議論が白熱し、かみ合わなくなったときに、考えを整理する方法として、この「社会性の5段階論」は使えるのではないでしょうか。

浜崎洋介氏の文章から

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『表現者クライテリオン』に、浜崎洋介氏が、説得力のある文章を書いているので、引用してご紹介します。私の視点と共通するので、注釈を織り交ぜています。

引用:
この頃の米メディアとトランプ大統領の泥仕合を見ていると、つくづく「ポスト・モダン」の成れの果てというのはこういうものなのだろうかという感慨を深めざるを得ません。
去る8月16日、自身に対して都合の悪い報道を「フェイクニュース」と攻撃するトランプ大統領に対抗して、ボストン・グローブ紙の呼びかけに応える形で、全米の350紙が報道の自由の必要性を訴えて、一斉に「メディアは国民の敵ではない」といった趣旨の社説を掲載したといいます。

なかでも、ニューヨーク・タイムズ紙は、「気にくわない真実をフェイクニュースと主張し、記者を国民の敵ととがめるのは民主主義にとって危険だ」として、約70紙の社説を紹介するなど異例の特集を組んだとのことです。


ただ、ここで注意すべきなのは、このニューヨーク・タイムズの主張は、その「視点」さえ変えてしまえば、簡単にトランプ陣営の主張に転換できてしまうという事実です。

たとえば、「フェイクニュース」を「反知性主義」と、「記者」を「ポピュリズム」と書き換えてみてください。すると、それはそのまま、「気にくわない真実を反知性主義だと主張し、ポピュリズムを国民の敵ととがめるのは民主主義にとって危険だ」というトランプ陣営の主張=メディア批判の言葉に書き換わってしまうことが分かるでしょう。
つまり、メディアもトランプ陣営も、自らを「民主主義」の保護者(救世主)に擬して、自分の「敵」を批判しようとする構図は、お互い様だということです。

注―日本の与野党も、マスコミの論調も、全く同じ構図ですね。ダイアログ(対話)には、リスペクト(相手への敬意)とサスペクト(自分への疑問)が必要ですが、全く存在しません。「常識」の違う者が観念論を振り回しても、対話にはならず、民主主義は機能しないのです。


実際、主要メディアの言葉を信じないトランプ支持者のなかには、最近、正体不明のネット投稿者「Q」の言葉を信じる人間が急増しているといいます。

「Q」とは、昨年10月に突如ネット掲示板に登場し、トランプ大統領を熱狂的に擁護する一方、多くの主要メディアが悪の秘密結社と関係しているという陰謀論を繰り広げる正体不明の投稿者らしいのですが、驚くことに、すでにネット上には、「Q」とは別に、その「Q」の主張を「真理」として信じ解釈しようとする「QAnon」という陰謀論集団が形成されているらしいのです。
一部報道によれば、ユーチューブの「Q」関連の動画は13万件あり、月に800万以上のアクセスがあるサイトもあるそうですが、それらを閲覧している「Q」の信奉者たちは、「Qは政府内の機密情報を知り得る人物で、嘘と、不正にまみれた主要メディアに抗して、この世界の救世主であるトランプ氏の真実を伝えている」と思い込んでいるというのです。
さすが、「宗教国家アメリカ」だと言いたくなりますが、規模が違うにしても、憶測と、それによる批判、匿名による罵詈雑言が行き交う、日本のネット状況も似たようなものなのかもしれません。

注―社会が混迷するたびに「陰謀論」が流行るのは、洋の東西を問わないようです。

 

考えてみれば、この基準が溶解した「ポスト・トゥルース」の時代の醜悪なドタバタ劇を、今から100年以上も前に正確に「予言」していた哲学者がいました。フリードリッヒ・ニーチェ(1844─1900)です。ニーチェは、あるがままの「事実」などは存在せず、存在するのは「ただ諸々の解釈だけ」だと言います。「解釈」とは、生成流転するこの世界の一部を切り取った図式であるがゆえに、どうしても、ある「視点」からの「遠近法」、つまり〈虚構=仮象〉にしか成り得ないというわけです。

そして、あらゆる「解釈」は、ただ自分自身の「力の維持と昂揚」に役立つ限りで採用されているにしか過ぎず、それゆえ「真理」の標識は、ただ「権力感情が上昇」するか否か、つまり、支配にとって有用であるか否かによって決定されると言うのです。

注―アメリカや中国といった覇権国家は、常に我田引水の「解釈」で正当性を主張します。トランプも習近平も、正直者なのか、露骨ですよね。こうした知能指数の低いやり手がトップになった組織は、これから塗炭の苦しみを味わうことになるでしょう。歴史が証明しています。


これが、ニーチェによる、かの有名な「力への意志」説ですが、だとすれば、これほど見事に、現代社会の性格を描いている言葉もないと言うべきかもしれません。

ただ、問題は、ニーチェが描き出している状況が、ほかならぬ近代の「ニヒリズム」だという点にあります。『力への意志』の冒頭、ニーチェは、こう書いていました。

「私が物語るのは、今後の二世紀の歴史である。私が記述するのは、やがて来るもの、つまり、もはや別様には来たりえないもの、すなわち、ニヒリズムの到来である」(『力への意志』渡邊二郎訳)と。

注―民主政治が混迷し衆愚政治に陥り、それに嫌気がさして、自暴自棄に陥ることから、ニヒリズムが始まるとしたら、次に警戒すべきなのは、「第2のヒトラー」ということになるのでしょうか。

過去の例を見ると、それは大抵、マスコミがあおり、敵を作ることで生み出されます。第2次世界大戦では、「ユダヤ人殲滅」であり「鬼畜米英」でした。


しかし、それならやはり、この時代において頼れるのは保守的な態度以外のものではないと言うべきでしょう。エドマンド・バーク以来、「保守」は「偏見」(前もっての-判断)を語ったことはあっても、「真理」を語ったことはありません。

言い換えれば、常に自分の「解釈」が一つの「文化」による「解釈」でしかなく、それが普遍的に世界に当て嵌まるなどと思い上がることはなかったということです。

そして、だからこそ「保守」は、一方で、誰より深く「歴史」に眼を配ってきたのではないでしょうか。

注―仏教でいうところの「因縁果」を常に意識すべきだということです。奢れる白人文化に同調して構造改革を繰り返してきましたが、それはまさしく戦前と同じ間違いであることに気づいている人は、この日本に数えるほどしかいません。


べつに、私たちが語る言葉が絶対的「真理」である必要はない。が、「嘘」だけが行き交う世界に、「超人」でもない普通の「人間」が耐えられるわけもない。

とすれば、何が「人間」を支える持続的な言葉となり、何が時代の中で消え去っていく現象でしかないのか、それを「歴史」のなかに見極めようとする姿勢が、どうしても必要になってきます。

注―「不易流行」という日本語をかみしめる必要があるということです。アメリカ式株主資本主義の悪影響で、成果主義が蔓延し、BeingとDoingの区別もつかない経営者が増えました。


そして、ニーチェが言うように、どんな「解釈」も一つの「誤謬」でしかないのだとすれば、私たちは、そこで語られた「内容」以上に、その「語り口」に目を向けるべきだということにもなるでしょう。自分の語っている「内容」に対して、その人が、どのような距離を担保し、それとどう付き合っているのか。言葉の「本当らしさ」は、語られた「内容」のなかにではなく、それを語っている「調子」のなかにしか示すことができません。
とすれば、「ポスト・トゥルース」の時代にこそ必要なのは、「解釈」の整合性を担保する「論理」と、その「論理」を展開していくときの「調子」とを結びつけ、その「全体感」から一つの判断を下す力、

つまり「常識」の力だということになります。

注―私は、ここで言う「常識」とは、世界観・歴史観・価値観の3つから構成されると考えています。


昔なら、こんなことは言うまでもないことだったのでしょう。が、ここまで「ニヒリズム」が進行してしまうと、敢えてでも「常識」の在処を問わなければ、私たちの「判断」を守り切ることはできません。時代はそこまで劣化してしまったということです。

注―なぜ劣化したかというと、あらゆる組織が、P―D―C―Aを回していないからです。

 (引用終わり) 

私は、「世の中に正解はない」としていますが、一方で、「自分の正解を求めて、一生涯、勉強するのが人間というものだろう」とも言っています。ましてや人生100年時代、せっかくの与えられた時間を有意義に過ごしていきたいものです。そして、ソクラテスではありませんが、知らないということを知ることに人間としての成長があるように思います。

国家意識の大切さ

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日本には、立派な人も多いし、優秀な人も多い。その日本が、21世紀の世界の希望であることが、私の理想です。同じ思いの人のあるメルマガへの投稿記事をご紹介します。少々右翼チックですが、この30年の流れのアンチテーゼとして、読み応えのある文章です。 

多様性を尊重することも大事ですが、一方で、集団としての凝集性も大事です。そして、人間が社会的存在であることを、現代ほど強調しなければならない時代はない、ということでもあります。 

引用: 

現在の多くの人が、人権主義と多様性を認める法治国家の下での自由な社会が、最も進んだ優れた社会・国家だと思っているようです。
ところが、私はその先に人類の未来はないと断言できます。 

実際、現在の日本は、そういう国家・社会に一応はなっているようですが、その日本に未来があると思えますか?おそらく誰もあると断言できる人はいないと思います。
それはどうしてか?
国家がないからです。 

人権主義と多様性礼賛によって助長された即自的なエゴを、対自的な法の力で抑えている法治国家は、人類の国家としてはまだ下等の部類に属するものでしかないからです。
なぜなら、そもそもの原点である法という規制を持たない動物の本能の、バージョンアップされた対自的な国家の客観精神と即自的な感情とが融合一体化した、人間的な人倫によって国家が有機的に統一された人倫国家こそが、人類が創り上げるべき国家のあらまほしき姿なのです。

実は、それを、日本は、すでに江戸時代に世界の中で唯一実現していたという実績があります。
だから、その当時の日本人の認識がどういうものであったかを、あるポーランドの政治家が『光は東方から』の著書の中で、次のように客観的に分析しています。
 「日本は偉大でなければならず、未来永劫生き永らえねばならない。それをその全ての息子が望み、そのためなら全てを投げうつ覚悟がある。この熱意、全てを捧げるという心構え、それこそが、まさしく日本の財産であり、強さの源なのであり、勝利の秘訣なのだ!」
二十世紀もの長きにわたり、国家として存続してきたというその連続性の力は、この民族を統合し、団結させた。
その結果、日本人においては集団的本能が個人的本能をしのぐことになった。日本人は個人である以上に社会の成員なのであり、自らの行動においては個人的利益より全体の利益を優先する。」
ここにこそ日本の未来、人類の未来があるのです。
人権主義と多様性ではなく、国家の普遍性・客観精神を基軸にした国創りをしなければ、日本の未来はないということです。
個人のエゴは放っておいても育つものですが、国民として持たなければならない対自的な国家の普遍性は、教育されなければ絶対に育たないものです。
だからこそ、教育の現場においては個性尊重ではなく、国家の普遍性・国民としての普遍性の教育に重点が置かれなければならないのです。
そして、それを通してはじめて本当の意味での個性・多様性が華開くものなのです。それなしの個性尊重ばかりでは、人類の、国家の歴史性の高みを踏まえない、自然権らしい低レベルでの同質性でしかない野生児的個性しか育つことはありません。
つまり多様性を追求した結果は、低レベルの同質性しかならず、国家の歴史性・普遍性を身につけたところに本物の多様性が生まれるのです。
そして、ここにこそ、国家発展の本物の原動力が生まれるのです。
さらに言えば、ここに現在の人類の喫緊の課題として浮上している、グローバリズムとナショナリズムとの対立の解決の糸口が存在しているのです。
今あるグローバリズムには、金融資本主導の経済的グローバリズムと、マルクス主義的共産主義グローバリズムと、チャイナの自己中心的グローバリズムとがあります。
三番目の自己中心的グローバリズムは論外として、金融資本的グローバリズムも、共産主義グローバリズムも、共通するのは、国家を軽視・敵視した経済偏重のグローバリズムだということです。
そもそも経済は国家・社会(当然にもその一員としての国民)の生命活動・社会活動を支えるものとして生まれたものです。
ですから経済は、初めは国家の経済として政治の権力を握っていた者が、同時に経済の権力も握って、政治と経済とは不可分の一体のものでした。
それがやがて、政治の権力を持たない平民の中に、たとえば、金融資本家や産業資本家などが、次第に経済的な力を蓄えて、政治家に金を貸したり献金したりして弱みを握って、政治から独立して自由に活動できる権利を獲得していくことになります。
この場合の自由とは、資本独自の論理である資本の自己増殖を、政治の干渉を受けずに追求する自由という意味です。
しかしながら、この自由、すなわち政治からの独立は、あくまでも国家の生存を侵さない範囲での自由であり、独立なのですが、その資本が大きくなり、多くの国にまたがって展開するようになると、その相対性が希薄になって行って、国家と対立するようになる可能性が高くなります。
今でいうならば、アマゾンがその典型です。
この問題の正しい解決の答を導き出そうとするならば、ヘーゲルの、人類史は国家の生成発展の歴史である、という観点を堅持することが必要であり、自由の問題も、ヘーゲルの自由論に依拠して答えを導き出すべきです。

すなわち、政治と経済との対立矛盾に関して言うならば、もともと政治と経済とは一体のものであったという原点から、経済が政治から分離独立するという否定的媒介運動を始めて発展し(第一の否定)、
そうして多国籍企業に発展した経済勢力が、再び本来の原点へと回帰して、己の増大した力をその国の発展のために尽くす(この場合、国籍を有するそれぞれの国家に対しても、人類史の発展に寄与する形での発展に貢献するように、ということも含む)−これが第二の否定です。
つまり基本は、国家の国家としてのまともな発展を第一に考えて、元々その一部に過ぎなかった経済勢力も、自らの原点に立ち戻って協力するようにならなければならないということです。
それを自らの利益ばかりを追究して、国家を意のままに従わせようとするのは、本末転倒として生きていけないようになるべきです。
本物のグローバリズムは、国家が、かつての日本が達成したような人倫国家として熟成することが必須の条件となるのです。
実際、そのモデルを日本は見事な形で提供しています。国家第一主義が隅々まで浸透した当時の人倫国家は、各藩すなわち小国家の連合体でした。
それが、外圧を媒介にした明治維新によって中央集権的に統一された国家に見事に変身しました。
実は、日本にとってこれは初めてのことではないのです。
日本の国創りの原点も、これだったのです。
大陸に隋という強暴な軍事大国が出現したことを媒介として、それまで平和な小国の連合体であったのが、聖徳太子の見事な指導力によって、国家の普遍的な客観精神たる国家理念を憲法として制定した画期的な中央集権国家を創り上げた経験を持っていたのです。
こういうことが可能となったのは、古代および近代の日本が、人倫国家としての客観精神が隅々まで浸透していたからです。
これこそが人類の未来像のモデルケースなのです。だから、日本は「偉大でなければならず」「未来永劫生き続け」人類の未来のために、その模範を示していかなければならないのです。
それができるのは日本しかないからです。世界の多くの心ある人たちも、それを望んでいるはずです。
その人倫国家における自由とは、見かけだけの個人の勝手なエゴの発露などではなく、高貴な国家の普遍性である客観精神が、国民個人個人の対自的認識としてしっかり定着し、それが個人としての即自的認識との統一を成して一体化した認識の、主体性の発揮のことをいいます。
つまり自らの主体性の発揮がすなわち国家の発展であり、国家の発展が、すなわち己の発展でもあるような自由をいいます。
たとえば、或る特攻隊員の自分の娘への手紙(遺書)は、とても穏やかで慈愛溢れるものになっていました。これから死に向かう者が、どうしてこのように穏やかでいられるのか?
それは自分の死が単なる個人の死ではなく、客観精神たる国家を活かすものであり、自らももその客観精神として生きづづけるものであることが分かっていたからです。それが、「お父さまに会いたくなった時、九段にいらっしゃい」という言葉に現れています。

 

(引用終わり)

WGIPの影響力

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戦後教育で育ったわれわれ中高年世代が、なぜ、対米従属を繰り返してばかりの「腰抜け」になったのか、いろいろ考えてきましたが、やはり、WGIPの影響が大きいのだと思います。 

戦前の日本を悪者にして、歴史の真実に向き合わなかったことが、大きく作用しています。 

福田恒存が、生前警告していた「無念共同体」の喪失にある、と思います。 

その結果、戦争こそしていないものの、戦前と同じ失敗をしてしまった、というのが私の見解です。 

もうすぐ終わる平成という時代は、大正と同じ、日本にとって失敗の時代と位置付けられるでしょう。

外圧をはねつけられずに、衰退の枠組みを構築されてしまった。しかも、それは、日本の文化基盤を棄損しつつあることを認識しなければなりません。カジノ資本主義という下劣な資本主義だけでは飽き足らず、本物の「カジノ」を誘致するそうですが、一体、だれの利益に資するのでしょうか。

 

上島嘉郎氏は次のように語っています。

「われわれが知っている戦後日本は、アメリカによって思想改造され、洗脳された敗者であり、今もそれは続いています。我らの祖国というのは、睡眠薬を飲まされた上で繰り返し、アメリカや中国、そして韓国や北朝鮮から執拗に蹂躙され続けています。

そしてマスコミとは、そうした「敗者の戦後」を維持するための装置であり、番犬として機能していることが理解できるはずです。

われわれが幼い頃に学校で習った「戦後の民主化」とは全く別の、GHQによる徹底した洗脳の実態を教えてくれます。

日本人に戦争への罪悪感を植え付けた洗脳工作「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP=War Guild Information Program)」。日本のマスコミは、戦前は戦争拡大を煽り、戦後は一転して「南京大虐殺」や「慰安婦問題」をねつ造し扇動しています。

日本の新聞から「大東亜戦争」「八紘一宇」「教育勅語」が消えた理由をご存知ですか。

GHQが7100冊もの書物を焚書し、言葉狩りをしてまで日本人に忘れさせたかったのは、「自衛のための戦争だった(1952年のマッカーサーの議会証言)という歴史の真実でした。」

 

ミアーズの書いた『アメリカの鏡・日本』が発禁になったのも同じ理由からです。また、ルーズベルトの悪辣さについて、フーバーが書いた『裏切られた自由』は、21世紀になってから出版されています。

いみじくも、「アメリカファースト」などと露骨な自国優先主義の大統領が誕生しましたが、考えてみると、すべてのアメリカ大統領は、アメリカファーストでした。トランプは、わかりやすいだけです。

自分たちの有利なルールで世界を取り仕切る。それが覇権というものです。

主に中国を意識して、貿易戦争を仕掛けているのも、ようやく中国の人権に言及しだしたのも、覇権を脅かされてきたからにほかなりません。

それまでは、14億人を抱える大市場の魅力が、覇権の維持よりも優先順位が勝っていたにすぎません。

 

日露戦争以降は、台頭する大日本帝国を警戒し、いかに抑え込むかが戦略の中心でした。日本は、主要な敵となったのです。その敵の敵が中国でした。(例:オレンジ計画、排日移民法)

戦後は、経済での脅威が日本でした。日本を叩くとともに、中国に肩入れし、製造拠点とするとともに、市場の拡大を図りました。

日米の貿易摩擦は、アメリカのそういう戦略の一部であったことは、ピルズベリーが正直に語っています。   

参照:「ピルズベリーの書いた本」 (文化151105〜07及び政治151108)

しかし、親中派の思いもむなしく、民主化することなく、かえって一国覇権に挑戦されてきたのです。

アメリカは、中国に、戦前から幻想を抱いていました。日本は2000年の交流があるから、中国の本質はつかめていましたが、アメリカには、そういう本質を見抜く知恵が欠けていました。

 

にもかかわらず、そうした視点が、日本のマスコミに取り上げられることはありません。上島が言う通り、アメリカやそれに付き従う財界の番犬になっているようです。西側の通信社の記事を垂れ流すか、戦前の日本悪者論の象徴である「南京大虐殺」や「従軍慰安婦=性奴隷論」をねつ造、拡散させることしかしていません。これでは、反日メディアと呼ばれても仕方ありません。

これらは、敗戦国の「戦後レジーム」です。戦勝国連合である国連の「歴史観」=東京裁判史観なのです。もうそろそろ、そういった誤ったレジームから脱却していく必要があります。

 

太平洋戦争という失敗の要因を日本として総括していないから、同じ失敗を繰り返すことになるのです。

外交史を紐解きながら、司馬史観という内向き史観や、東京裁判史観を超えていかねばならなかったはずです。

平成史も、早く総括し、なぜ、日本だけが経済成長から取り残され、デフレで苦しむことになったのか、その要因を特定しなければなりません。民族には、前へ向かって進むための「物語」が必要です。

傷つくことになる人が大勢出ますが、それを気にしていては、何もできません。

そういう議論が、ほとんどなされていないことが、日本が停滞から抜け出せない根本原因です。

学校秀才がダメな理由

社会180607

これまで多くの学校秀才にお会いしてきました。 

幼くしてよくお勉強のできた人たちは、物事の要諦に敏感に反応し、割り切りが素早く、そして環境の変化に柔軟に対応できる、という特徴を持っています。 

この30年、グローバル化にいち早く対応し、日本を牽引してきた人たちは、その学校秀才が多かったように思います。 

かつて、人事評価の一項目に「格遵性」という言葉がありました。

格遵性に富むとは、ルールに忠実であるとか上司の命令に従順である、という意味です。

学校秀才は、この格遵性に富んだ人たちではないのでしょうか。

 

ところが、彼らは、与えられた問題に対しては効率的に正解を出す、ということに長けていても、状況を見て新たな課題を設定する、ということに慣れていない人たちです。

例えば、自分に有利なルールを提唱するといった、クリエイティブな頭の働きは、苦手な人が多いようです。魑魅魍魎が跋扈する外交交渉などでは、絶対に必要な能力です。

交渉相手という変数に、どうアンチテーゼを突きつけ、落としどころを探るか。政治でも、ビジネスでも、交渉ごとの苦手な日本人が多いように思います。

知識があり、理論は知っていても、それをどう応用するかなどの実地訓練は、社会へ出て初めて行うものばかりです。しかも、世の中は、学校で学ぶ理論ほど単純ではない。

前にも言いましたように、多変数方程式でできており、実際は正解がないのです。

そうしたときに、どう判断すればいいのか。

 

学校秀才が、ついつい頼るのが、上司の指示でなければ、思想や理論です。

共産主義思想や新自由主義思想といったグローバル化思想に走ったり、単純化した理論に簡単にのめりこんだりしがちです。オウム事件を起こしたのは、学校秀才たちです。

そして大抵は、やはり権威に従順です。先生や教官の指導に、素早く対応できたがゆえに学校秀才になれたものと思います。

枠をはみ出すことなど考えられず、思考様式がタコツボ化しているのです。これでは、新しい時代の枠組みなど、構築できるはずがありません。

さらに言うと、寄り道をせず、効率的に「合目的的」に生きてきた人たちには、見えていない現実があるような気がしてなりません。

寄り道をしていないということは、多様な人々の実態を知らない、ということです。

自分が恵まれていると思うならば、そこには必ず責任や役割がある、ということに思い至らない。私の言う「4つの積み木」の一番下の「人間としての基礎・基本」ができていない。

 

世の中のことには、正解がなく、歴史にイフは、ありません。しかし、自分の正解を求めていく過程の中で、あるべき姿は描けるはずです。

いろいろな視点から洞察し、因縁果を紐解き、その可能性を追求していくしかないのです。

学校秀才は教えられたことに忠実なあまり、この「いろいろな視点」というのが、どうも苦手なように思います。

社会に必要な能力というのは、仮説を立て、その仮説の下で、課題を設定する能力です。いろいろ実践してみて、仮説を検証し、そこから教訓を得て、少しずつ賢くなることです。

学校秀才に共通する欠点は、この課題設定能力がない、ということです。

コンプライアンスやアカウンタビリティという言葉の中に株主資本主義を感じ、その株主資本主義の中に、欧米エスタブリッシュの傲慢かつ卑劣な精神を見いだせなかった日本のエリートたちのお粗末さは、そうした能力の欠如によるものです。

学校教育で刷り込まれた東京裁判史観から一歩も出ようとはせず、何かにつけてアメリカに指導を仰ぐという姿勢を取り続けました。

 

「属国・日本」の蹉跌という人もいますが、むしろ、日本人の昔からのメンタリティが、なせる業のように思います。加えて、戦前の軍国主義を、さんざん反省させられることで、自信喪失となり、アメリカの言いなりになって、今日があるのです。

戦後教育が、日本人の良い面ではなく悪い面を引き出した、としか言いようがありません。

本来ならば、日本人が2000年以上もかけて培ってきた「日本精神」が、21世紀の世界規範になるべきなのに、それが遠くへ追いやられていることは、残念でなりません。

アメリカの下劣な思想に汚染され、日本人自身が変質するのではないか、と恐れます。

改革を叫んで、グローバル化にのめりこんだ学校秀才たちに、この閉塞感あふれる社会の現状を分析し、その因縁果をぜひ解説してもらいたい。虚心坦懐に聞きたいと思います。

藤田祥平氏のフェイスブック記事から

社会180504

平成生まれの文筆家でゲーム批評家の藤田祥平氏の書いた「日本が中国に完敗した今、26歳の私が全てのオッサンに言いたいこと」という記事が、昨年12月、ネットに掲載された。

20代の若者が中国のバーチャル・リアリティ市場を調査するために現地を訪れたところ、その活気にあふれた様子に衝撃を受け、若者たちを搾取し続ける日本のオッサンたちに苦言を呈したこの記事は、同世代の圧倒的な共感と、中高年世代の反感を背景に、10日間でフェイスブックの「いいね」が2,7万件に達するなど、大きな反響を呼んだ。

その藤田氏が、雑誌のインタビューに答えて「同世代の意見を代弁するつもりで書いたわけではないんです。ただ、僕らの世代って、生まれてからずっと不景気なんですよね。

そういう気持ちが背景にあって、中国に行って向こうの活気に驚き、書いたのがあの記事なんです。」と言っている。真に素直なコメントである。

 

彼ら若者にとっては、経済的に停滞し閉塞感あふれる日本と比べると、中国は輝いているように思えるのだろう。そこで「中国に完敗した」という認識につながるのだろう。また、デフレの恩恵を受けているのは、完敗への道へ日本を誘ったわれわれオッサン連中だ。

そのオッサンたちに、若者は「搾取」されている、という印象を持っている。

本当のことであるからして致し方ないことではあるが、その背景や要因分析については、少し待ってほしい。私は、まさにこの若者と同じ問題意識で、このブログを書いている。

丁寧に読んでもらえればわかると思うが、日本はアメリカに「してやられた」のだ。

 

アメリカにしてみれば、敗戦国の日本に経済で負けるわけにはいかない。政治的な敵はソ連だったが経済的な敵は日本だった。それがわからないオッサン連中だったということだ。

プラザ合意で円高誘導され、競争力をなくし、「日米構造協議」で日本の強みを悉く封じ込められた。その結果、リスク分散のため、やむなく製造拠点を海外に移転せざるを得なかった。それが最終的には、中国をはじめとするアジアの台頭につながっているのだ。

 

反省すべきなのは、なぜこんなにも無抵抗に、アメリカの言いなりになってきたのか、ということである。アメリカのエリート層の「卑しき精神」に未だに気づかずに来ているのか、ということである。アメリカという国の本質がわかっていない、ということである。

アメリカの国民自身が、そんな「卑しき精神」に導かれた経済体制に耐えかねて、トランプのような何でもディールする「お粗末大統領」を選んだ。所詮、その程度の国に、付き随ってきた日本の指導層こそ、深甚なる反省をすべきではないか。

 

戦前と同じ「情報不足」から、戦前と同じ過ちを繰り返している。そして、日本の「原点」を忘れた「報い」が来ている、と考えるべきではないか、と思う。

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