『市場と権力』のご紹介

文化200907

菅新首相は、懲りもせず、さらに新自由主義的「改革」に邁進する気のようです。この人は、なぜ、日本の経済が停滞し、社会が閉塞しているかの理由もわかっていない。政策が対症療法に留まり、国家像も明確に描けていません。どこかで頭を切り替えなければ、日本丸は、もう沈没してしまう惧れすら出てきました。

会見を聞いて、政治の最前線に7年8か月もいて、習得できたものがこの程度か、とあきれざるを得ません。何の問題意識も持たずに、ひたすら調整作業をしていたのでしょうか。リーダーに必要な、物事の本質を追求するための「知的生産技術」が全く身についていません。

アメリカに追随し、「外圧を利用して、日本を改革する」という流れを作った戦犯は大勢いますが、その中心が竹中平蔵です。ここで、彼の評伝『市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像 』(講談社・2013年)佐々木実著の書評を紹介しておきましょう。 

引用:

1999年に小渕内閣の経済戦略会議が「個々人の自己責任と自助努力」をベースとする競争社会への変革を提言する。このとき公助もセットで言及されたが、結局は自己責任と自助努力が過度に求められる社会に向かっていった。この経済戦略会議に竹中平蔵はいた。その後、竹中平蔵は小泉政権に入り込んで構造改革や規制緩和を推し進め、非正規雇用を増大させるなど、社会の様相を変えていく。

本書は、大宅壮一ノンフィクション賞や新潮ドキュメント賞を受賞するなど評価が高いことに加えて佐々木実が取材によって掘り起こした、あるエピソードが載っていることでも知られている。例えば、竹中平蔵が初めての著書を出版するのは33歳のときのこと。それによってサントリー学芸賞を受賞する。ところがそこには他の研究者と共同でおこなったものも取り上げられているのだが、「共同研究に基づくものであるという事実が、巧妙なやり方でぼやかされ」、竹中個人で行ったものであるかのようになっていた。成果をひとり占めされた共同研究者はその著書を見て、泣きだしたという。本書に収められた数多くのエピソードのなかでも、これが特別ウケたようで、ネットでたびたび取り上げられている。それはなぜか。石井妙子『 女帝 小池百合子 』のマニキュアの話がそうであるように、ここに人物の本性が端的に出ているからだろう。それはひとびとが日頃から漠然とおもう、竹中平蔵のズルさだ。

肩書の使いわけもそうだ。90年代末、竹中平蔵は慶応大学の教授など様々な肩書を得る。そのなかには国際研究奨学財団(後に東京財団)の理事もあった。フィクサー・笹川良一が設立した日本船舶振興会からの資金で出来たシンクタンクである。しかし笹川良一のダーティーなイメージを嫌って「東京財団でやっていたことを書くときでも、慶大教授の肩書で発表していました。東京財団の名前は出さないことが多かった」という。これは今日、竹中平蔵が新聞やテレビ番組などで労働に関する政策について論じる際に、パソナ会長の肩書を隠して大学教授を名乗るのに通じる話だ。もっとも、こうしたズルさの最たるものは自らが進めた規制緩和によって儲けるパソナの会長になったことであろうが。

如才なく、悪くいえばズルく、身ひとつで這い上がっていく。その過程で「博士号取得工作」などをして大学教授にまでなると、今度はサイドビジネスとしてシンクタンクの職を得る。このあたりが『市場と権力』の読みどころだ。佐々木実は、竹中平蔵にとってシンクタンクは「政治に近づくための手段であると同時に、大きな報酬を得るための大切な収入源」であり、「経済学という知的資産を政治に売り込み換金する装置」であったと看破するのである。「ビジネスとしての経済学」に目覚めた竹中平蔵だが、凡百の秀才と異なるのは、シンクタンク程度にとどまることなく、政府のなかに入っていき、さらには小泉内閣の大臣にまでなってしまうことだ。こんな人物は、ほかに例があるまい。同時に、それが日本社会にとって不幸を生み出していく。

橋本健二著『「格差」の戦後史』に印象的な一文がある。

「1999年2月、その後の日本の運命を決定づけたといってもいい答申が発表された。経済戦略会議の『日本経済再生への戦略』である」。竹中平蔵はこの経済戦略会議の委員であった。そしてこの答申は平等・公平を重んじる社会から自己責任・自助努力の競争社会への転換を謳うのである。これによって規制緩和が進められ、労働市場の流動化を図った結果、非正規雇用の増大を招くなど、その後のデフレを決定的なものとし、経済成長から見放されてしまった。

経済戦略会議の委員だった中谷巌は「あるべき社会とは何かという問いに答えることなく、すべてを市場任せにしてきた『改革』のツケが、経済のみならず、社会の荒廃をも招いてしまった」と、文藝春秋2009年3月号掲載の「竹中平蔵君、僕は間違えた」と題する小論で自己批判する。 

もちろん竹中平蔵は「間違えた」などとは思ってはいまい。なにしろ規制緩和によってできた市場で儲けるパソナの会長になったくらいだ。安倍晋三が首相となった翌月の2013年1月、新設された産業競争力会議の場に、さっそく竹中平蔵はいた。そして今日にいたるまで政治に影響を及ぼし、菅義偉も安倍政権の継承をいうくらいだから今後もそれが続くだろう。佐々木実『市場と権力』は、竹中平蔵のピカレスク(悪者物語)であると同時に、この先も、社会が抱え続けるであろう宿痾が、いかにして生まれ、肥大化していったのかを知るのに役立つ本である。 (引用おわり) 

市場原理主義に内包された「卑しい精神」は、日本人の「卑怯を憎む」精神文化とは相いれない。竹中平蔵たちは、そういう日本人のエートス(民族の価値観)すら持ち合わせていなかった。

下山の思想

文化200904

五木寛之が提唱している「下山の思想」というものがある。これから、日本は衰退が必至なのであるから、それに備えて心の準備をしておきましょう、というやつである。

文学者が、門外漢のことを言うことを止めはしないが、あまりにも無知であるにもかかわらず、共感を覚える、という人が多いから困ってしまう。

人口減少を衰退の要因にしているが、とんでもない誤解である。例えば、ヨーロッパでは、黒死病による人口減少が、農民の地位向上につながり、「封建制度という契約社会」へ移行して、そこからルネッサンスや宗教改革といった新たな時代のうねりを生み出したのである。

日本が平和であった、ということに関してはご同慶の至りなのであるが、衰退の道を歩んでいることに対して、もう少し事実を整理して、因縁果を明確にしておく必要があるのではないか。

さらに、経済学、社会学、政治学、などの社会科学的アプローチを踏まえなければ、間違った方向へ社会を誘導してしまう。影響の大きい有名人の社会的責任であろう。

 

興味深い歴史事案に題材をとり、もっともらしく物語を紡ぐと、歴史小説が出来上がる。小説だから誰も事実関係を検証しないが、いつの間にか、特定の視点から、歴史を語ると、史観が出来上がる。「司馬史観」と言われるものは、そうして出来上がった。

江戸時代は遅れていたと決めつけ、明治時代を引っ張った元勲たちを持ち上げ、日露戦争以降の軍人は、組織が確立するとともに、勢力争いに明け暮れ、堕落していった、という視点が貫かれている。しかし、本当にそうなのか。私には、内向きの内部変化にばかり光を当て、諸外国の意図や事情、外部環境の変化を軽視しているとしか思えない。

政治上の大変革があった場合に、新政府は、自分たちの正統性を確保するために、前政権をあしざまに言うケースが多い。中国や韓国ほどひどくはないが、日本もそういう傾向は、若干なりともある。

明治新政府にとっては、江戸幕府の治世をマイナス・イメージにしておかなければならない事情があった、ということである。司馬は完全にその路線に乗っかっている。

 

近年、ヴェノナ文書が一部公開され、いかにアメリカのルーズベルト政権が、ソ連のスパイに蹂躙されていたかが明らかになっている。また、ソ連の崩壊により、公文書が公開され、例えばノモンハン事件の見方も変化しつつある。これなど、日本が、いかに「情報」を軽視していたかがわかる資料であるが、われわれは、今もってインテリジェンス軽視という習性を変えられてはいない。ところが、その習性ゆえに、戦前と同じ失敗を繰り返している、という自覚のある人は、未だに皆無に近い。

 

敗戦を契機に、勝手な史観を作り上げられ、それからの脱却の努力もせずに、放置しておくから、それが政治に影響し、経済に影響し、日本の誇る文化的基盤さえ近年、危うくなっているのではないか。白人由来の「卑しい精神」が、何かにつけ顔を出す。卑しさは、本来、日本人の最も嫌う要素であった。「武士道」である。そういう精神風土が、棄損されているのではないだろうか。

 

挙句の果てに「下山の思想」みたいな敗北主義が蔓延している。もう人口も減少する中にあって、経済成長は諦め、二流国になるのもやむなし、平和だけを唯一の価値といたしましょう、と聞こえる。

何を言っとるのか、21世紀は「日本の世紀」にしなければならなかったのではないかと私は思う。

それができたはずだと今でも思う。そして世界に平和のためには、そうしていかなければならない。

なぜなら、資本主義の考え方、民主主義のあり方、国家統治の考え方、すべてにわたって戦後の日本が、世界のお手本になりうる制度設計をしていたからである。

 

白人の驕りを世界で初めて諫め、中国の傲慢に鉄槌を加え、民のかまどの国を「一億総中流社会」という形で現出させた国ではないか。なぜ、そういう矜持が持てなかったのか。

1980年代から、そういう認識のない者が社会のリーダーになってしまった。そこが問題なのである。WGIPの一環として、仕組まれた戦後民主教育という「毒薬」が、日本全体の機能不全を招き、またしても、経済力の衰退という、取り返しのつかない失敗に繋がった、と言うべきである。

どこかで食い止め、反転攻勢しなければならない。

戦わなかった日本人(5)

文化200808

前回、共同体では、みんなが、同じ意識で、同じ方向を向いていなければ、効率が落ち力を発揮することはできない、と言いましたが、一方で、そういうことに対する危険性もまた存在します。強権的に価値観を統一していこうとする、大陸型国家権力です。日本とて、最近の風潮を鑑みれば、危うい側面がないとは言えません。わかりやすいだけの偽物が、跋扈しているように思います。権力によるウソやハッタリは、いずれ、長い歴史の審判のなかで、破綻することになると心得るべきです。

日本は、戦前も戦後も、アメリカを鏡にすることで失敗を繰り返しました。今回は、ちょっと日本人には耳の痛いコメントをご紹介します。協調性と称して同調を強い、議論を忌避する民族性についての外国人のコメントです。それは、2018年に日本初のアフリカ系学長として、京都精華大学の学長に就いたウスビ・サコ氏です。マリ共和国奨学生として中国、日本と渡り歩く中で偏見、差別や区別を体験しながら、ブレない芯を保ちつつ、自身を成長させてきたと言う人です。『「これからの世界」を生きる君に伝えたいこと』という著書の中で、多様化する世界で、日本人が自分の本音を言える環境を作ることの重要性を説いています。

引用:

人は自分が生まれてから見聞きした経験を記憶し、その記憶に基づいて物事を判断しようとする生き物です。だから、どんな人でも偏見や先入観を持っています。偏見や先入観を持つこと自体は否定できません。ただ、多様化が加速するグローバルな時代においては、当然ながらステレオタイプな発想から抜け出し、柔軟に受け入れる姿勢が求められます。

そこで重要なのは、まず、自分の偏見や先入観に自覚的になること。それが相手との違いを認め合いながら学ぶための第一歩となります。「違い」を受け入れるのが苦手な日本人は、「協調性」という言葉を誤解しています。たとえば、職場の会議などでは決して核心を突いた発言はせず、とりあえず同調したような態度を取る。こうやって同調することを協調性として捉えています。

しかし、そうやって実質的には全員賛成で物事が決められていく一方で、腹の中で異論をくすぶらせている人がいるケースも少なくありません。多くの人に「相手の考えを否定するのは気がとがめる」という思いと、「自分の意見を否定されるのはたまらない」との思いが同居しているのです。反対意見を提示されると、自分の人格を否定された気になり落ち込む人もいます。

私は自分の考えを否定されても傷つきませんし、むしろ自分の人格を認めてもらっていると実感します。私は「協調性」を、人と一緒に何かのゴールを目指すイメージで捉えています。ゴールを目指す過程では、お互いに意見を出し合う必要があります。そこでは当然、コンフリクト(衝突)が生じることは避けられないでしょう。むしろ、何一つ異論がなく物事が決まっていくほうが不自然ではないでしょうか。誰も意見を出さないまま「協調」するなんて、独裁そのものではないですか。

職場の会議では誰も反対意見を口にしないケースが多いのに、なぜかSNS上では、他人の意見どころか、人格そのものまでを否定するネガティブなコメント、マイナスの言説があふれています。「匿名だったらどんな誹謗中傷をしてもいい」というのは、やはり問題があります。SNSにかかわっていくときには、メディアリテラシーの重要性がますます高まっています。私は、メディアリテラシーを「自分の価値観を持つこと」と解釈しています。より具体的に言うと、何かの情報を見聞きしたときに反射的にコメントするのではなく、いったん立ち止まるべきです。そして、その情報を広める前に自ら複数の視点で調べてみるのです。

何かの犯罪が発生したとき、無実の第三者を犯人であると特定する書き込みが拡散されます。いわゆるフェイクニュースです。そういったフェイクニュースは人の素朴な正義感に訴えるので、「善意」のもとあっという間に広がります。しかし、こういった思わず広めたくなる情報に接したときこそ、自らの価値観に基づいて、きちんと検証する態度が求められるのです。

多様化する世界で相互理解を深めるには、他人の意見に流されるのではなく、本音で生きることは非常に大事です。しかし、日本では多くの人は本音を押し隠しながら生きています。表面上の人間関係は平穏なのですが、言いたいことが言えずにストレスをためています。

日本には、お酒の場では腹を割って本音で話せる文化があるのも知っています。これもちょっとずるいな、と思います。お酒の力を借りて口にする本音って、どうなのでしょうか。しらふでいるときにはずっと本音を隠しながら生活しているということなのでしょうか。お酒の場で本音が言えるのなら、日常でも語ってほしいし、お酒の場でいったん口にしたのなら、せめて責任を取るべきです。

本音とは、もっとも重要な心の声、あなたの「ヴォイス」です。多様化し、不確実さが増す世界では、「ヴォイス」をしっかりと持つべきなのです。何かの力に頼って本音を吐き出したつもりになっているではなく、真に突き詰めて自らの「ヴォイス」を見つけ出すことが、間違った価値観にも流されない、自分を作る第一歩になるのです。(引用終わり)

ダーウィンの『種の起源』を曲解し、外部環境の変化に追随し流行を追うことばかりに熱中し「日本」という国の原点を忘却したことのツケが、ここへきて露わになっています。『種の起源』は、たまたま環境の変化に適応した個体が生き残ったというレポートであり、それは、多様性の大事さを訴えているのであって、それを「社会の変革」のキャッチフレーズにすることが、そもそもの間違いだったのです。日本はまたしても、アメリカを鏡にすることによって失敗したという自覚が必要です。

構造主義の倫理学

文化200705

倫理学の分野を、構造主義の立場から論じるのに、とっておきの書物があります。鄭 雄一著『東大教授が挑む AIに「善悪の判断」を教える方法』(扶桑社新書、2018年)です。この本の書評を犬飼裕一氏が書いています。まずは、引用してご紹介します。 

引用:

『東大教授が挑む AIに「善悪の判断」を教える方法』(扶桑社新書、2018年)を読みました。著者の本業は医学者、骨、軟骨の再生医療の研究者です。そこから研究の範囲を広げて、道徳・倫理の問題に向かい、機械に道徳を教えて人間に役立つにはどうするか?という問題にこのところ集中しているのだという。

われわれは、ヨーロッパ人が、アフリカやアジア、あるいはアメリカで、過酷な植民地支配をしたことを知っています。自分たちの欲望のために、原住民を「人を人とも思わない」ようなやり口で虐殺し、支配領域を広げていった、という事実を知っています。彼らは例外なく「人類愛」を説くキリスト教徒でした。こうした矛盾を、どのように考えればいいのでしょうか。

われわれ自身も、身近でなじみのあることには愛着があり、関心が持てますが、海外ニュースなどのように、遠い世界の出来事には、私たちに累が及ぶことがないならば、いくらグローバルの時代といっても、関心は薄いものです。

在来の倫理思想はあいまいで、両義的な部分が多いので、機械にプログラムすることができない。
例えば、人殺しはいけないといって禁じておきながら、犯罪者を死刑にしたり、攻めてきた外国兵を大量に殺したりする。これでは機械はお手上げ。矛盾した命令で処理が止まってしまう。

そこで、編み出した著者の考えの根幹は、次の二つ。

一つは、生物としての人間全般と「仲間」を区別すること。

もう一つは、倫理には、影響力の違いによって、期待される段階がある、ということ。


たとえば、従来古代から無数の倫理思想家が「人殺しはいけない」と言ってきましたが、彼らはそれを生物としての人間全般だと考えてきた。だから、死刑や戦争と矛盾してしまう。

しかし、生物としての人間の代わりに、「仲間を殺してはいけない」といえば、凶悪犯や侵略軍は「仲間」ではないので矛盾しない。ところが、こうすると「狭い仲間意識を強調しているだけでは倫理ではない。むしろ危険だ。」となるのは当然でしょう。


そこで登場するのが、二つ目、立場・階層によって倫理には段階がある、という考えです。
著者の提案では、四段階。1.利己、2.信用、3.利他・自己犠牲、4.寛容性・多様性。

しかも、倫理というのは、従来の議論のように、禁止や抑制ではなくて、欲求として捉える。
つまり、人間は根源的な自己保存の欲求があるので、それが1.利己です。つまり自分さえよければよいという考え。そもそも、これは通常倫理とは呼ばれません。1.利己だけで社会生活を送ることは難しいのですが、仕事の種類によっては、そういう人でも大いに活躍できる。
次に、身近な他者との間で嘘をつかない、騙さない、相手の心を思いやる、という欲求がありえます。これが2.信用。ようやく倫理らしくなってきました。2人称の世界まで倫理を拡大できました。

ただ、この次元では、特定の集団の中で命じられたことをやるという人々です。人口の上では最大多数でしょう。
さらに、必要が生じたときに、自分が持っているものを分け与えて人々を助けることや、自分は犠牲になっても集団を守るといった欲求もありうる。

それが3.利他・自己犠牲。簡単にいえば、人の上に立つ人の倫理です。

会社がうまくいっているときは2.信用でも経営できるかもしれませんが、危機に陥ると、3.利他・自己犠牲がない人物に人は従わない。ただし、この倫理の適応範囲は、あくまで特定の組織や集団、自分の帰属する共同体の範囲だけです。

さらに、別次元の欲求があります。

国家の最高権力者や国際機関の幹部、グローバル企業のトップになると、「別の価値観」が、他の社会には通用しており、実は、それも意義があるということをよく知っていなければならない。

むしろ異なった価値を知ろうという欲求が生じる。それが、4.寛容性・多様性。互いに争い、しばしば戦う集団や組織、国家の次元を超えて互いを認め合う欲求としての倫理です。


大事なことは、四つの次元が、それぞれ人々の生き方や、社会的役割に対応していることであって、自分の食扶持のことだけ考えるフリーターと、会社経営者が同じ倫理に従うわけではない。また、

零細企業の経営者の倫理と国際機関の事務総長の倫理が同じである必要もない。と考えるのです。
ふさわしくない次元の倫理の人が、ふさわしくない地位につくと困る。2。の倫理の経営者はわかりやすいですが、2。や3。の倫理で考えるだけの政治家は、権力の私物化や利権化を起こしやすい。ナショナリズムをあおるだけの衆愚政治も、このような範囲に留まる場合です。

世の中おかしくなるのは、大抵はふさわしくない次元の倫理の人が、ふさわしくない地位につくからです。そう言われれば、周囲を見渡せば、心当たりがいっぱいあるでしょう。
それぞれの人は、それぞれの場に相応しく倫理的でありうるので、場違いな欲求や要求をすることの方がむしろ間違っているというわけです。そして、このように倫理をとらえなおすと、互いに矛盾することなく、機械にプログラムすることができる、と著者は考える。


さらに面白いのは、では機械、ロボットが搭載するべき倫理はどの次元なのかといえば、4の寛容性・多様性の倫理であるべきである。これがこの本の結論でもあります。

むしろ機械、ロボットはより高次元の倫理を体現することで、人間を助け、場合によっては、人間を導かなければならない、としているのです。 (引用終わり) 

非常に面白い指摘だと思うのですが、人間は、倫理だけで行動しているわけではありません。

感情も大事ですし、損得も当然考慮しています。それらが分かちがたく、いわば混然一体となって、行動の動機になっているわけです。

そして、同じ人間でも、状況によって、倫理的な行動ができる場合とできない場合がある、ということはよく知られています。また、人間は、属する共同体の「掟」に支配されがちだ、ということもあります。民族性の違いということに、構造主義は注目します。中国人の民族性は、AIと相性がいい。それが極めて危険である、と私は考えます。オーウェルの小説『1984』は、いみじくもそのことを示唆しています。

また、いい意味でも悪い意味でも、日本のように同調圧力の強い社会は、特別な設定が求められるのかもしれません。この書評を読んだ私の結論は、AIでの倫理的な判断は無理だということです。「コロナ禍」で、行政におけるデジタル化の遅れを実感しましたが、一方で、中国のような危険国家に近づくことのないようにしたいものです。

構造主義の歴史学

文化200703

歴史は、しばしば業績(Doing)を中心に、英雄史になりがちですが、それが事実としても、その背景(Being)を重んじる立場が構造主義の考え方です。個人の偉業よりも、それが偉業になった背景がより重要だからです。

時代のターニングポイントになった事件も同様で、それ自体もメルクマークとして評価するものの、やはりその時代背景を重視する立場を取ります。

それは、社会は集団戦だ、という思想があるからです。個人と共同体との関係も同じですが、業績(Doing)と背景(Being)は、お互いに影響しあいながら、時代は変遷していきます。

 

例えば、私が経済問題を論じるときに、一番重要視する「社会的共通資本」のあり方についても、不易である伝統的・民族的な価値観と、流行の社会環境や経済思想のせめぎあいのなかで、方向が決められていくという考え方です。構造主義の歴史学は、時代の変遷をダイナミックな動きとしてとらえ、ありのままを活写する立場です。

Beingには、伝統や文化に関わるもの、例えば、国民の価値観、国民性、生活習慣、気候と風土、蓄積されてきた文化の質、地政学的特殊性などが入ります。

Doingには、国民の生活そのもの、経済活動、諸外国との軋轢、災害などが入ります。

BeingはDoingに影響を与え続けますが、DoingによってBeingも変化していきます。ですから、「株主資本主義」が当たり前になり、日本が「日本」でなくなることに、警鐘を鳴らしているのです。

 

1920年に発足した国際連盟で、日本は4カ国の常任理事国の一つでした。これは1853年に開国してからまだ67年目のことでした。当時は、アジア・アフリカのほとんどの地域は、欧米諸国の植民地か、半植民地状態でした。しかし、その中で日本だけが、有色人種の中で、ただ一カ国、世界を指導する大国になったのです。これは世界史に残る偉業だ、と思うのですが、なぜ、日本だけが、こんな偉業を達成できたのでしょうか。私は、江戸時代の文化基盤を再評価する必要があると思います。

 

その後、わずか25年の間に、大震災や大恐慌を経験し、他の列強各国と同じように、不況を打開するための中国進出で戦争の泥沼に入り込み、ABCD包囲網で経済封鎖され、石油禁輸にまで至り、太平洋戦争に突入、結果、日本の都市は空襲を受け焦土化し、さらに、非人道的な原爆を落とされ、アメリカをはじめとする連合軍に無条件降伏をして、占領下に入ります。なぜ、そのような事態を招来してしまったのでしょうか。帝国主義的侵略があったとしても、それは、国際法上合法的な外交を積み重ねており、『アメリカの鏡・日本』を書いたミアーズの言う通りとしか思えないのです。

 

また、その後、経済復興に努力し、高度成長期を過ごし、25年もたたないうちに「ジャパン アズ ナンバーワン」と言われるまでになりました。GDPは、世界第2位となり、世界で18%近いシェアを獲得するまでになりました。なぜ、日本だけが、そこまで急速な経済回復が可能だったのでしょうか。朝鮮特需や冷戦構造が有利に働いたとはいえ、戦前から続く日本人の価値観・規範意識と関係があるのではないでしょうか。

 

しかし、その後、「日本化」と呼ばれる経済停滞・デフレの時代を過ごし、その打開の契機さえつかめないままに、今日に至っています。そして現在、消費税増税で景気が落ち込んでいるさなかに「コロナ禍」に襲われ、これと戦っているわけですが、さらに、相当程度経済の落ち込みが必至で、社会の混乱が長く続きそうな気配です。なぜ、日本だけが、踏んだり蹴ったりの閉塞状態が、長く続くのでしょうか。平和ボケと言われるぐらい「戦うこと」を忘れたリーダーたちの精神構造、それを形成させた戦後民主教育の影響ではないのでしょうか。

 

こうした歴史的事実を前にして、統一的な歴史の見方を史観と呼んでいますが、東京裁判史観や日本人の好きな司馬史観は、ごく短期間の、矮小化された事実しか扱っておらず、しかも、極めて一方的・独断的な、私に言わせると「笑止千万な史観」でしかありません。

もっと幅広い史観で、上記の日本の盛衰を説明する「方法論」が求められています。それに正しく対応できるのは、メタイデオロギー(思想を超越する方法論)たる構造主義の歴史学だと考えます。

コロナ禍から学んだこと(2)

文化200608

「ダボス会議」で提唱された「ステークホルダー資本主義」は、とりもなおさず、日本型経済制度であり、日本型経営である、と前回言及したが、これが「至誠・慈悲・智慧」を尊び、「利他の精神」を身に付け、「公共の福祉」を尊重する日本人の倫理規範と共鳴して成長と繁栄をもたらしてきた。

しかしながら、平成の時代に、なぜそうしたシステムがあっさり放棄され、アメリカに追随し、株主資本主義化されたのだろうか。

 

それが、私の永年の問題意識であり、いろいろ考えてきた。その結果、平成年間をけん引してきた指導者たちは、戦後民主教育の優等生たちだった、という結論にたどり着いた。戦後民主教育は、「自虐史観」という歴史観が貫徹しており、「日本国憲法」という枠組みに押し込まれ、「日米安保体制」という属国体制を前提にしている。アメリカにしてみれば、これら3つのシステムに通底するGHQのWGIPが、戦後30年を経過して見事に開花した、と言えるのではないか、と考える。

日本人からするとリーダー層が見事なまでの「腰抜け」ぞろいになってしまったということである。

 

戦間期も、台頭する大日本帝国に対し、アメリカはこれを抑えようと、オレンジ計画を策定した。

長期にわたりその戦略に基づいて、折に触れて軍縮条約などで日本は追い込まれていくのである。

グローバリストたちは、そういう戦略を練るのが得意である。逆に言うと、日本人は、世界を相手に、そういう構想を練り、何十年にもわたって、その路線を歩むといったことを経験していない。

政治の世界で原則を打ち立て、中長期的に構想していく、ということができるのは、アメリカと中国とロシアぐらいなものだろう。彼らは、世界覇権や地域覇権を維持するという必要に迫られてそういう体質になるのに対し、現代日本人は、ハナからそういう意識がない。ウチ向きでお人好しが多い。国内ではそれでいいが、海外に出ると、相手は魑魅魍魎と考えなくてはならない。外交やビジネスで鍛えられた人なら、そういうことがわかるはずである。だから最後は「日本に帰ってホッとする」のである。

 

少々悲観的になっていたら、ルトワックが「日本人は、なかなかどうして、戦略的思考ができる民族ではないか」と言っているそうだ。260年の平和をもたらした「江戸幕府」、欧米の植民地支配を回避した「明治維新」、戦後復興を急速に果たした「戦後」などは、見事な戦略的思考によるものだ、ということだ。

戦略とは捨てることだ、とするならば、「江戸幕府」は、外交を捨て、「明治維新」は、歴史を捨て、「戦後」は、自立を捨てた。

これからは、自立するために「悪友」を捨てるべき時期に来ている、と感じている。

 

もう日本は経済大国ではない。豊かな社会を維持している先進国であり続けるためには、全方位外交をする必要もない。日本を評価する国と重点的に付き合えばいい。中国や韓国のような「悪友」からは距離を置くことだ。こちらからケンカを売ることはしないが、あまりあてにせず、期待もしないというスタンスで臨むことだ。彼らは、今の姿勢では、必ず自滅する。時間の問題だが、どんなことがあっても、助けてはならない。

 

今回のコロナ禍では、いまだに解明されていないことが、多々ある。何よりも、あまりにも政府の対応がお粗末なのに、それほどの惨状にはなっていないことの説明がつかない。例えば、なぜ、日本人が、欧米人に比べて、今回の新型コロナ肺炎での死者が少ないのか、よくわからないという。1918年から流行が始まった「スペイン風邪」も、日本人は、比較的に死者は少なかったという。山中伸弥教授がファクターXと言っているが、これも時間が過ぎればだんだん解明されてくることだろう。

 

何事もやってみて、わかることも多い。大事なことは、よくフォローをして、教訓をつかみ、次世代が、より賢くなることである。

少なくとも、平成の時代の「改革」は、失敗の連続であったという教訓は、早く国民で分かち合い、軌道修正していかなければ、どんどん日本は衰退してしまうことだけは確かである。

「国際派日本人養成講座」に集う人たち

文化200602

2000年に及び、日本人に蓄積されてきた伝統と文化、とりわけ、日本の統治思想や人生哲学には、時代を超えて、われわれを覚醒させてくれるものがあります。それはいまでも「山の国」の倫理観を形成していますが、そこに気づくのは、「海の国」を経験した人が多いようです。欧米流のビジネスに明け暮れたものの、何か「違和感」を感じ続け、自分なりに勉強してきた方なのでしょう。

そうした人たちの中に、このブログでも、たびたび取り上げてきた伊勢雅臣さんがいますが、彼の主宰する「国際派日本人養成講座」に集う受講生も素晴らしい。かいつまんで引用し、ご紹介します。

引用:

1.「曾祖母の私に伝えたかった日本人らしさ」
「曾祖母が良く言っていました。虫・動物・植物・鳥にも心があると。それだけ、自然を大切に敬い、人の命をつないできたのですね。「養成講座」のお陰で曾祖母の私に伝えたかった日本人らしさが整理できました。先祖の生きてきた道のりを孫たちに伝えます。最近、「死者を含めた民主主義」という表現に出会いました。われわれの世代だけの浅薄な浅知恵だけで、「根っこ」をないがしろにしてはいけない、ということなんですね。

2.日本語が育てる自然との「いのちのつながり」を感ずる感性
ご先祖様たちの自然への思いは、日本語の中に籠もっています。たとえば、英語では"Insect Sound"(虫の音)と言いますが、日本語では「虫の声」です。日本人は、虫や自然の音を、人間の言葉と同様に、言語脳(左脳)で「声」として聞きます。これは「生まれ」ではなく、「育ち」の違いです。「虫の声」を左脳で聞くというのは、人種は関係なく、日本語やポリネシア語を母語として育った人間の特徴です。日本人でも、英語を母語として育てば「虫の音」を右脳で聞くようになりますし、アメリカ人でも、日本語を母語として育つと、「虫の声」として左脳で聞くようになります。そして、日本列島の恵まれた自然の中で生かされ、万物を「いのちのつながり」と感じる感性を育ててきました。これはかならずしも日本だけのものではなく、たとえば古代のゲルマン民族などは木や森を神聖視する文化を持っており、それは日本人の縄文以来の感性と根っこは同じです。ただ、多くの民族が文明化の過程で、この感じ方を忘れつつあるなかで、日本人は日本語のお陰で、この感性を現代に至るまで受け継いできました。妙なる日本語も、ご先祖様からの贈り物です。

3.ご先祖様の草場の陰からの問いかけ
森林業の方から、「40年育てた木を売ったが、手元に残ったのがわずか40万円だった。これでは森林業としてやっていけない。」という発言がありました。国土の70%近くも豊かな森林に恵まれながらも、外国材を輸入した方が安いという理由で、国内の森林業は立ちゆかなくなっています。伐採の手が入らないために、森林は荒廃の一途です。農業や水産業も輸入依存となり、日本列島のもともと豊かな田畑や海も相当部分が放置されています。日本の素晴らしさを国土の点から解説いただき、自然を大切にしなくてはという思いを新たにしました。効率だけで突っ走るのではなく、自然を守りながら発展するという根っこに基づいた決定をしてもらいたいです。私たちもその努力をしなくてはいけません。農業にしても、林業にしても、エネルギーにしても、単なる商業ベースによる生産性だけではなく、持続可能な国土維持と安全保障の観点から必要な投資をしていくべきだと思います。

4.「日本人本来の豊かな生き方」を思い出すべき時
日本人はなぜか自国のことを知らなすぎるが故に、「勿体ない」という精神も死語にしてしまいかねません。グローバリズムや人工知能が侵食する産業分野や人口減少といった問題を抱える中、今一度日本古来の資源や産業を見直す時期にきているのではないかと思います。
この度の「コロナ禍」で、グローバリズム偏重の弊害、そして経済至上主義的な人類の今の歩調に盲目的に倣ってしまっている私たち現代日本人の思慮の浅さが浮き彫りになった気がします。
5.国土を預かっている現世代の責務
我々の国土に関する怠慢と不見識は、国際的危機をも招いています。北海道は中国になりそう。水道法について、ちょっと触れられましたが、欧米でのひどい実情を紹介されて、日本の水が危機であることに時間を割いて欲しかった。また種子法改正がコロナの陰で進められて、日本の農業・食料生産が外国企業に支配される日が現実味を帯びている事も、広く知らしめて欲しかった。食・森林・エネルギー・危機の際の必要物資などの自給力を高める政策には、地方で生活する人々を増やして食糧や水源・森林などを日本人が守らないといけないですね。もう日本人も「高度成長期」思想から抜け出す時が来たのだと感じました。外国資本の日本の水資源の買い占め、水道事業の外国資本へのアウトソース、他国の森林資源の蚕食、低い食料自給率など経済的な効率の観点からだけの行動は知ってはいましたが、何もしないで今まで来ました。いずれも現代の日本人が考えなければならない喫緊の課題です。

6.「目指す目標を同じくする代表の選出に注力して行きたい」
その責務を果たすために、我々がすぐできる事に、地方自治体の首長や議員、国会議員の選出があります。先人たちの築いてきた日本の自然との共生した社会をより良くする為に国民はもっと自然との共生した社会を目指す必要があるように感じました。その為にもよく考えて行動をする必要があります。まさに「一隅を照らす これ即ち国宝なり」です。
7.自給できれば「自立できて自由にもなれる」
日本は、その気になれば自給できるものが沢山あるのに。そしたらもっと自立できて自由にもなれる。戦前はアメリカとの対立から石油や鉄鋼を止められ、ついには「座して死を待つよりは」と追いつめられて、開戦に至りました。グローバル化という美名のもとに、エネルギーや食料を輸入に依存することは、自立と自由を放棄することです。食料やエネルギー輸入のシーレーンを他国に止められたら屈せざるをえない、という事では、真の独立もありません。エネルギーや食料の輸入依存度を下げるために、祖先からいただいた豊かな国土と海を大切に活用していくことが、我々の自立と自由を増す道です。この事を、江戸時代までのご先祖様たちは、身を以て示してくれています。
福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」と言いました。「一身独立」とは、経済的な自立だけではありません。自ら考え、己の地において国を支えよう、という精神的独立が含まれていると考えます。(引用終わり)

ここで表現されている意見は、まさに日本の特殊性を訴えるものばかりです。「日米構造協議」に際して、アメリカの主張してきた「グローバルスタンダード」に照らせば、「非関税障壁」のオンパレードであることは間違いない。それなのに、戦いもせず、あっさりと白旗をあげて、属国化してきたところに、今日の閉塞感がある、ということではないでしょうか。「日本のグランドデザイン」が描けていなかった、ということだと思います。

民族と言語(2)

文化200406

今回の新型コロナウイルスについての報道では、実にカタカナ語が多用されています。例示すると、「パンデミック」は「感染症の世界的大流行」、「オーバーシュート」は「患者の爆発的増加」、「クラスター」は「小規模の感染者集団」、「ロックダウン」は「都市封鎖」、「トリアージ」は「患者治療の優先順位」という意味で使われています。これらの報道でのカタカナ語はそのまま使う意味があまりないので、誰にでもわかりやすく言い換える方が良いと思います。

しかし、カタカナ語のなかには、「思想性=ある価値観」を含んでいる言葉があるので、注意が必要です。具体的に指摘しておきます。 

まず、「コンプライアンス」と「アカウンタビリティ」という言葉を取り上げたいと思います。

これらは、それぞれ「法令遵守」「説明責任」と訳されていますが、日本を近年苦しめてきた「株主資本主義」を良い制度であることを前提としています。株主が、経営陣に求める最低限の義務として、使われる言葉です。日本が渋沢栄一以来の公益資本主義を、時代遅れとして彼岸へ追いやった、私に言わせれば、犯罪的言語です。本来こうした言葉を使うときには、その言葉が用いられる背景、思想的相違にもっと神経を使うべきでした。不用意に導入した結果、「株主資本主義」に紛れて、欧米流の「卑しい精神」に、日本人も感染してしまいました。この結果、経済成長が止まり、社会格差が拡大し、今日の閉塞社会が出来上がってきたのではないでしょうか。こうした言葉を使う場合、カタカナ語そのままを表示し、日本語の意味を示すとともに、「思想性=ある価値観」の違いを際立たせておかないと、いつのまにか、その精神が浸透し汚染されてしまう、ということがあるものです。 

消化されにくいカタカナ語は、一人歩きしがちになり、その言葉を使う人の邪な意図が、見え隠れする場合があります。典型的なのが「ヘイトスピーチ」という言葉です。「ポリティカルコレクトネス」と結びついて、人々の思考を停止させる惧れのある言葉です。施光恒氏がとてもわかりやすく書いた文章がありますので、それを引用しておきます。私も、全く同感です。

引用:

法務省は、民族差別的な言動「ヘイトスピーチ」を防止する啓発活動を強化しました。「ヘイトスピーチ、許さない」をスローガンとするポスター掲示やリーフレットの配布、インターネット広告の掲載などを進めている。これまで公的機関のリーフレットなどには使われていなかった「ヘイトスピーチ」という言葉を前面に押し出すということです。

私は、法務省が「ヘイトスピーチ」という言葉を積極的に用いることは望ましくないと思います。「ヘイトスピーチ」というカタカナ語を使わず、「国籍や人種に基づく不当な差別発言」、あるいは「憎しみを顕わにする攻撃的発言」という具合に日本語で正確に表現したほうがよいと考えるのです。

「不当な差別発言」という言葉を用いた場合、「何が不当なのか」「在日朝鮮人・韓国人と日本人との間での不当ではない公正な関係性を作るにはどうすればよいのか」などの問いが自然と浮かんできます。また、「憎しみを顕わにする攻撃的発言」と称した場合、「憎しみはなぜ生じているのか」「解決や融和をもたらすためにはどうすればよいのか」という方向に考えが向くはずです。

「ヘイトスピーチ」というカタカナ語を、そのまま用いてしまえば、このような思考が働きません。結果、この言葉が独り歩きしてしまい、単なる「レッテル貼り」になって、議論を封印してしまう惧れがあります。「ポリティカルコレクトネス」が、大手を振ってしまい、人々の思考を停止させかねません。教条的な「ポリティカルコレクトネス」が人々を不幸に陥れた例は、歴史上枚挙の暇がありません。

また一部報道によれば、法務省の啓発活動は、具体的なヘイトスピーチの内容は例示しない意向だとしつつも、「ジャパニーズ・オンリー」などの掲示を行うことはよくないことだと知らせる内容になるとのことです。私は、法務省が「ジャパニーズ・オンリー」を差別の事例として挙げることに関しても、この言葉が独り歩きしてしまわないだろうかと懸念を覚えます。確かに、賃貸住宅などの入居の場面で貸主が「日本人のみ」などの掲示を掲げたり、条件をつけたりするのはよほどの合理的理由がない限り慎むべきでしょう。しかし、国籍の有無を正当な基準とすべき問題も多々あります。

例えば、外国人地方参政権の問題です。私自身、国政レベルでも地方レベルでも、参政権は国民固有の権利であり、外国人地方参政権は認めるべきではないと考えます。あるいは外国人に対する生活保護をどの程度認めるべきなのかということも、最近しばしば議論になります。地方参政権や生活保護受給権を日本国民に限定すべきだという立場自体は、不当でも何でもないはずですが、法務省が「ジャパニーズ・オンリー」はヘイトスピーチの事例だと掲げてしまえば印象が変わります。地方参政権などを日本人に限るべきだ、という主張を展開する側に、いわれなき心理的ブレーキをかける効果を持ちかねません。人権や表現の自由の問題は非常に重要なので、事態を正確かつ丁寧に見つめながら話を進めなければなりません。ヘイトスピーチといった新奇な言葉ではなく、日常感覚と結びついたわかりやすい言葉で議論を進め、解決策を模索していくべきだと思います。(引用終わり)

私が良く使う「パンダハガー」や「レントシーカー」という言葉も、「思想性=ある価値観」に由来したものでしょう。SNSが発達し、ググればすぐに意味が分かるはずだ、として多用してきましたが、これからは、自戒したいと思います。

民族と言語

文化200405

私はこれまで、日本の政・財・官をはじめとするエリートたちのお粗末さを指摘するとともに、一般庶民のレベル、いわゆる民度は、世界でも屈指である、と言ってきました。

この30年は、その特徴が顕著に表れていた、と思うのです。

 

エリートのお粗末さの原因を、戦後民主教育による自虐史観、外交・情報・軍事・経済(いわゆるDIME)の基本すら教えない文科系エリート教育、学業実績を問わない企業の採用方針、PDCAマネジメントを実践しない組織運営、同調圧力の強い組織風土、等に求めてきました。

 

一方の民度の高さについては、その要因を、民族の倫理規範、集団的規範を重んじる学校教育、伝統や文化に磨かれた統治思想、和語に練りこまれた自然と労働への感謝の精神、神道・仏教・儒教を統合・構築した武士道精神、等に求めてきました。

 

2つの層に分けて論じてきましたが、同じ共同体を形成しています。表現を変えると、民族の特徴が、エリート層にはマイナスに働き、一般庶民にはプラスに働いているとも言えるのです。

それを、日本語という言語の特徴から解説する文章に、最近、出会いました。

施光恒氏が、言語社会学者の鈴木孝夫氏の説を参照しながら論じているのですが、私なりに再編集して、文章化してみたいと思います。

 

民族は通常、話し言葉に由来する言語を持ち、それを表記する手段として文字を持ちます。大和民族は、漢字かな交じりで表記する日本語という言語を持ち、その言語は、伝統と文化に磨かれて、共同体の価値観や規範にまで影響を及ぼしています。

例えば、「いただきます」や「おかげさまで」「おたがいさま」という言葉には、そこに込められた民族の価値規範がある、ということです。

 

言語社会学者の鈴木孝夫氏は、『日本語と外国語』岩波新書のなかで、日本語の表記システムに漢字があることが、一般庶民と知識層との間に、諸外国のような際立った格差ができない一因だと述べています。特に、日本の漢字には、中国と異なり、「音読み」と「訓読み」があることが、知的格差を作らないという点で大きいと論じています。

たとえば英語だと、知識層が使うような専門的語彙は、ラテン語やギリシャ語に由来するものが大部分で、一般庶民には初見ではまったく意味がわからない言葉がほとんどなのに対し、日本語の専門的語彙は漢字で表記され、漢字には「音読み」だけでなく、「訓読み」もあり、なじみのない言葉でも、表意文字の漢字から、意味を類推しやすいのです。

日本語の場合は、かなり専門的な言葉でも、一般の人々がある程度の理解が可能で、そういう意味で、日本語は、格差を作り出しにくい言語なのです。

その結果、例えば、2013年のOECDの国際成人力調査のように、日本人は、「読解力」「数的思考力」トップで、しかも、国民の間の知的格差が非常に小さいことが、話題になったりするのです。つまり、多くの普通の人々、庶民レベルの学力が、おしなべて高く、そこに、日本の国力の源泉があるのではないか、という議論がなされたのです。

 

その時に、欧米を中心とした外国人は、どういったかと言うと、漢字のような難しい文字を学校で詰め込むから、「日本人は批判的思考力を養う機会が奪われ、クリエイティブな仕事ができないのだ。」と言うのです。悔し紛れにしても、彼らは自分中心の視点しか持てない証明でもあるのではないでしょうか。

 

そんな外国人の視点を、全面的に採用したのが韓国です。アメリカやIMFの言うことを真に受けて、漢字も廃止し、一時グローバル化の優等生と呼ばれたが、「改革」をやり過ぎたせいで、失業率と自殺率が高く、レイプと放火が多発する、惨めな国になってしまいました。「ヘル朝鮮」と自らを蔑んでいますが、その一事で、民族にとって言語が大切だということがわかります。

平成の日本も「日米構造協議」などで、アメリカなどの外国から「改革」が必要だといわれると、ホイホイ追従してきた。そんなことを繰り返してきたから、衰退の一途をたどり、閉塞感あふれる今日の日本になったのではないでしょうか。

あまり外国人の視点からの改革提案を真に受けずに、われわれは、自分たちの常識や生活感覚を信頼してやっていけばいいのではないでしょうか。彼らの改革提案は、必ず、彼らの利益に合致するような利益誘導にすぎません。はっきり言いますが、IMFもWHOもWTOも「日本の敵」だと私は考えています。

難しいことを考える必要はありません。私たちの常識や生活感覚に対する自信を取り戻せばいいだけの話です。記紀の時代からの統治思想=「民のかまどの国づくり」を、心がければいいだけの話です。「日本語」や「国のかたち」そのものが、私たち日本人を、豊かで格差の少ない社会へと誘ってくれるからです。

『幸福な監視国家・中国』の書評から

文化200403

犬飼裕一氏が、梶谷懐・高口康太著『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書、2019年)の書評を書いています。考えさせられる文章なので、取り上げてみます。

引用:

悪名高い現代中国の監視社会。ジョージ・オーウェルの『1984年』さながらのディストピアのように語られることが多いのですが、ビッグ・ブラザーがすべての国民を監視していて、全員がロボットのように動く。だれも監視の目を逃れることはできないというわけですが、ではどうやってそんなことができるのか。そんなことが可能なのか、という問題意識から、この本は出発しています。

そして、現場で取材してきたジャーナリストが、実際に行われていることを伝えているのが本書です。

中国でこのビッグ・ブラザーにあたるのは中国共産党。

独裁政権には選挙という正統化の回路がないので、常に民意に注意を払っていなければならない。暴力的な手段で反対者を抑えることはできますが、暴力を使って、もし失敗したら回復はできない。文字通り、権力者側も命がけ。中国の高度な国民監視というのも、もちろんこの延長上にある。

しかも、巨大な組織を動かしていくには、組織を構成する無数の人々が同意し協力しなければならない。そして、現代中国の「監視社会」は、営利目的の民間主導で半ば暴走している、というのだ。

規制に一貫性を持たせるのは難しい。規制はザルで、逃れようとする無数の人々との間で、イタチごっこになる。権力が巧妙になるのと同じだけ、規制をすり抜けようとする人々も巧妙になります。

それでも、しばらくイタチごっこを続けていると、重要な問題に到達します。
1.検閲はあくまでも利用者視点で、利用者の利益に沿ってやること。むしろ利用者にとって利益になり、みずから協力したくなるように仕向けることが重要。
2.理念としての言論の自由や民主化を望んでいるのは、実はネット草創期のヘビーユーザーだけであって、大半の利用者は、理念や政権の在り方には興味がないことが判明。

中国にはアメリカ発のグーグルやフェイスブックに代わる自前のサイトやSNSがあります。

アメリカ勢をいきなり強権で禁止すると利用者が反発して、強権の存在を嫌でも意識するようになる。
しかし、利用者にそれとわからないような形で嫌がらせをする。数日に一度くらい接続状況が悪くなり、詳しくない一般の人間はよくあるネットの不調だと思う。これに対して、中国発のサイトやSNSは好調で、多くの人々は「こっちの方が便利だ!」ということで誘導されていく。

そして、傑作が「信用スコア」。オンライン上に個人の「信用」が点数化され、低得点者は不利な扱いを受け、高得点者は優遇される。しかも、管理基準は不明瞭で、具体的な基準もよくわからない。この結果、多くの人々は互いに監視しあい、信用向上に有効な行動について噂しあう。多くの人々は理念や政権の在り方などには興味がないので、自分が高得点をあげて種々の優待を受けることに夢中になる。つまり、一般の人々が自発的に「望ましい行動」をするようになり、結果として、政権の安泰につながり、強面の「権力」には不可能な高度監視ができてしまう。

ついに見えてきた「ビッグ・ブラザー」とは、人々が自発的に作り出す「社会」のことだったのです。

おそらく問題は、この本の著者が考えているよりも、さらに深いところにつながっていくのでしょう。(引用終わり)

 森友問題で、自殺した赤木氏の遺書が公開されたにもかかわらず、まともに取り上げない政府や財務省、そしてマスコミ各社を考えると、日本も中国のことを言っていられないほどの状況になってしまっているのではないか。

「いま ここ 自分」しか関心のない人が、日本にも蔓延しているように思う。空間軸や時間軸を拡大して、自分の立ち位置を鳥瞰し、客観視できる人が減ってきているように思う。それだけ日本人も、経済的にも、精神的にも、「余裕」をなくしてきているのではないか。

「国民のレベル以上の政府はできない」とよく言われるが、世界を見渡してみても、真実だと思う。

政府だけでなく、会社にも、どんな共同体にも、言えることではないか。「社会は集団戦」とはそういうことなのだと思う。

こんな中国のトップを国賓として招待するということが、いかに自らを貶めることか。中国に対しては、あなた方とは違う、ということからスタートしなければならない。それは、アメリカに対しても同じだ。

平成の時代を通じて、日本には、そういう凛とした指導者は現れなかった。それが、今日の日本に繋がっていると思う。

だからと言って、諦観からは何も生まれない。せめて、若い人たちが、われわれ年代よりも賢くなることを期待して、情報発信し続けたいと思う。

『平家物語』の序文は、いつの時代においても輝いている、と思う毎日である。

『平和はいかに失われたか』の書評より

文化200310

グローバリズムが行き詰まり、米中の覇権戦争や欧州の混乱、今般の「コロナウィルス禍」に象徴されるように、現在の世界は経済的にも社会的にも閉塞し、ここへきて「世界恐慌」を心配しなければならない事態に至り、各国のエゴがむき出しになっています。皆さん、こういう状況、既視感があるのではないでしょうか。そうです、戦間期の歴史に似ています。

大正の世も、グローバリズムの時代でした。第1次世界大戦の悲劇を経て、国際協調=グローバリズムの時代だったのです。日本では、「幣原外交」が展開された時代でした。それは、国際協調と称するものの、実態は、覇権国に妥協を繰り返す「軟弱外交」にほかなりません。 

平成の世も、アメリカとの貿易摩擦から「軟弱外交」を繰り返し、ついには「日米構造協議」と称する内政干渉を受け続けました。

そして、経済発展を抑えられ、相対的地位を低下させ、中国の台頭を許し、日本は今、地政学的な脅威にさらされています。そういう時代認識をどれほどの日本人が持っているのでしょうか。

 

既視感があるのは当然なのです。昔、歴史で習った通りになってきたからです。戦前は、昭和になってから「大恐慌」を契機に自国第一の保護貿易が蔓延、露骨なブロック経済化へと進展します。

日本は、ABCD包囲網を仕掛けられ、その後ついに、アメリカは対日石油禁輸に踏み切ります。

ハル・ノートに象徴されるような、戦前のアメリカの独断的な外交について、日本を擁護する立場からアメリカの外交官が本を書いています。ジョン・マクマリー著『平和はいかに失われたか』です。

平成を振り返り、令和のこれからを考えるうえで、大変参考になる本だと思いますので、書評を引用して、ご紹介します。

引用:

ワシントン会議に参加して国際協調主義の立場から九ヶ国条約の締結に尽力しました。この条約は、列強諸国が支那を保護し、支那の独立を支援するという、まさに国際協調主義的条約でした。
その後、ジョン・マクマリーは駐支公使となり、九ヶ国条約を支那の地で実行する立場となりました。
ところが、支那の現実はジョン・マクマリー公使を打ちのめしました。
列強が支那を独立させるために成立させた九ヶ国条約を、当の中華民国政府が破りつづけたのです。マクマリー公使は支那政府の要人に繰り返して条約を遵守するように訴えました。しかし、支那の政府は、中華民国政府にせよ、軍閥政府にせよ、条約を破りつづけたのです。
このためマクマリー公使は本国政府に請訓します。「中華民国政府に条約を守らせるために艦隊を派遣せよ」と。奇妙なことに、マクマリー公使の請訓電がマスコミに流出し、マクマリー公使は「砲艦公使」という悪名をつけられてしまいました。
さらに不思議なことに、アメリカ政府は中華民国政府の条約違反を全く問題にしませんでした。
理想に燃えて赴任したマクマリー公使でしたが、九ヶ国条約が米支両国政府によって踏みにじられていく現実がマクマリーを追い詰めます。結局、進退窮まったマクマリー公使は退職します。その後、マクマリーは外交官として復帰しますが、閑職でした。
そんなマクマリーは「マクマリー書簡」を書きました。この書簡には日本にとって重要な事実が記載されています。その事実とは、次のようなことがらです。
ワシントン条約締結後の十年間、九ヶ国条約を守りつづけたのは日本であり、破りつづけたのは中華民国でした。アメリカ政府は、不可解にも、この事態を無視しつづけました。

このため日本は、中華民国にもアメリカにも失望します。そして、国際協調主義にも絶望し、ワシントン条約が欺瞞だったと認識します。
そして、だからこそ満洲事変が発生します。
極東裁判史観は、すべてを満洲事変から語り起こします。これがフェイクなのです。

なぜ、ワシントン条約から語り始めないのでしょう。それは、連合国にとって都合が悪いからです。

アメリカが、ワシントン条約によって日本を騙した事実がわかってしまうからです。
日本が満洲事変を起こした原因は、ワシントン条約締結後の十年間にこそありました。

日本は懸命に条約を守った。中国は破った。アメリカは見て見ぬふりをした。
日本が怒ったのは当然です。
日本外交が国際協調路線を捨てて、自主外交路線へと転換した理由をジョン・マクマリーは明確に書き残してくれました。外交官としてのマクマリーは不遇でした。

マクマリーが理想とした国際協調主義はアメリカ政府によって否定されたのです。

しかし、マクマリーは立派な記録を後世に残してくれました。
フランクリン・ルーズベルトとヘンリー・スチムソンは恥ずべき戦争屋でしたが、ジョン・マクマリーには敬意を表します。アメリカにはマクマリーのような反共親日の政治家や外交官も数多く存在したのですが、彼らがことごとく政権中枢に無視されたことはきわめて残念な事実です。(引用終わり)
 

昨年9月食道がんで亡くなったぐっちーさんこと山口正洋氏の口癖は、「失敗したことをしっかりと受け止め、次は失敗しないようにする、という当たり前のことが、日本人は苦手である」という言葉であり、私はそれに共感していたのですが、それはマネジメントサイクルを回すという基本動作をないがしろにし、こうした先達の残してくれた歴史の教訓を軽視してきたからではないのでしょうか。

『暗黒大陸中国の真実』の書評より

文化200309

武漢発新型肺炎の蔓延への抑え込みに成功したとする中国は、責任をアメリカ軍に転化しようとし、今度は一転、「世界は中国に感謝すべし」などと言っています。

格好ばかりをつけたがり、嘘やねつ造を繰り返しそれをプロパガンダする恥知らずな共産中国・・・。それは、今に始まったことではありません。

古来から、そういう民族なのです。人口の多さ=市場の大きさに目が眩み、それを見抜けなかった欧米人は、バカが多いということでしょう。何の見識も持てず、そのバカに付き従ってきた平成の日本のリーダーたちは、それ以下ということになります。

 

しかし、その民族の本質を理解していた少数派もいることを、われわれは理解しておかなければなりません。一例をあげると、ラルフ・タウンゼントです。彼は『暗黒大陸中国の真実』という本を1933年に書いています。これを読むと、中国の本質はほとんど変わっていないと感じると同時に、中国のプロパガンダが、いかに巧妙であるかがわかります。

当時の中国の状況が、アメリカ本国およびアメリカ国民に伝わっていなかったことは、アメリカ及び日本のその後の歴史を考えると、極めて不幸なことだった、と言うしかない。

著者の中国観は絶望的と言ってもよい。個人から国家レベルまで、平然と嘘をつく体質と、それを恥じない傲慢さが描き出され、「アジアの問題児は中国」とまで言い切っています。

 

現代の日本も、正しい情報を発信し続けなければ、また不幸なことが起こってしまう。

アメリカのパンダハガー(親中派)が駆逐され、中国との覇権戦争に乗り出しているにもかかわらず、日本のリーダーたちの現状認識は、何とも厳しさが足りない。

「デカップリング」に向けてどう準備するかを検討しなければならないのに、その覚悟がない。

「コロナ禍」が世界を覆い、中国とどう向き合うか、が大きな課題となっている日本人にとって、改めて読むべき良書である。書評を引用して、読者に情報提供しておきたい。

引用:

ラルフ・タウンゼントはアメリカの外交官でした。中華民国に赴任しました。そして、中国の実態を知ります。恐るべき実態を知ったタウンゼントは、帰国後に官を辞しジャーナリストとなって中国の真実を訴えました。
この本の書かれた1933年頃、アメリカでは大嘘の中国観が蔓延していました。

中国はすばらしい巨大市場である。中国人はクリスチャンである。中国はアジアの希望である。中国人は道徳的である。中国人は民主主義的である。・・・

今もそうですが、アメリカ人は中国を誤解しています。頭がバカなのです。
中国のおぞましい実態を知っていたラルフ・タウンゼントは、アメリカにはびこる捏造中国観のひどさに驚き、真実の中国がどのような実態であるのかを世に広めようとします。本を出版し、パンフレットを頒布し、ラジオに出演し、講演をくり返しました。
タウンゼントの語る真実の中国はひどいものでした。ごく一握りの大金持ちと貧困層の極端な階層社会であり、文盲率が高く、不道徳で退廃的で、軍閥がはびこっていました。

こんな国がアメリカの市場になるはずはありませんでした。キリスト教は普及しておらず野蛮でした。それが真実の中国でした。
たとえば、アメリカのキリスト教会は、多くの宣教師を中国へ派遣し、教会を建て、病院や孤児院や学校を建て、中国人に無償で献身しました。それなのに中国人はキリスト教にはまったく関心を持たず、アメリカに感謝もしませんでした。キリスト教の孤児院で育った中国人が大人になると、盗賊になって教会を襲いにきたのです。
それが現実でした。中国は無法地帯だったのです。混沌の軍閥割拠状態でした。
しかし、アメリカ社会はタウンゼントの意見に耳を貸しませんでした。マスコミによる捏造中国観が浸透してしまい、その先入観を覆すことは困難だったのです。

その捏造中国観をルーズベルト大統領は修正しようとしませんでした。
それでもタウンゼントは困難な事業を続けます。中国を美化して描いた有名な小説家パール・バックの欺瞞を容赦なく暴露したりもしました。タウンゼントは勇気をもって真実を訴えたのです。
しかし、1941年、日米戦争が始まると、ラルフ・タウンゼントは逮捕され、一年間を獄中につながれました。親日的な言動がルーズベルト政権ににらまれたのです。
ラルフ・タウンゼントは真実を訴えたジャーナリストでした。しかし、時の権力はタウンゼントを弾圧し、沈黙させたのです。アメリカには言論の自由などありませんでした。実際、憲法では検閲を禁じていながら、検閲局という官庁をもっていたのです。 

タウンゼントは不遇でしたが真実のジャーナリストでした。(引用終わり)

 

日本が「日本」であるために

文化200205

私の書いた『新版国民読本』は、副題に「日本が日本であるために」とあります。このままでは、日本の良さが消滅し、凡庸な国家になり下がるのではないか、との危惧から、そういう題にしました。

案の定、日本経済は長期停滞から脱することはできず、日本企業は、世界の中で、相対的地位を下落させ、経団連は、とうとう、「日本的雇用制度の見直し」を言い出しています。

識者も、労働組合も、マスコミも、時代の流れとばかり、あまり抵抗感がないようにも見えます。

こうして、一つの文化が滅んでいくのだな、と歴史の変節点を、私は、興味深く眺めています。

 

ダニ・ロドリックは、グローバル化と主権国家と民主主義は、鼎立しない、と喝破しました。

事実、日本は、アメリカの属国ですし、中国は、民主主義になりそうもないし、アメリカは、アメリカ・ファーストで、グローバル協調体制から離脱しています。

日本の民主主義を守り、主権国家を維持していくためには、グローバル化を「ほどほど」にしておかなければなりませんが、平成の30年は「構造協議」という形で、アメリカに内政干渉までされてきたにもかかわらず、付き従ってきました。その結果の、この閉塞社会なのですが、その反省もなく、さらに「日本」から離脱しようとしています。

政財官の日本のリーダーたちの不見識は、留まるところがありません。絶望的な気持ちになってしまいます。

 

なぜ、このようなことになったのか。それは、戦後民主教育のなせる業のように思えるのです。GHQのWGIPが、効いているとしか言いようがありません。例えば「八紘一宇」という言葉は、平和主義のシンボルなのですが、禁句にされ、この言葉を出すと、今の日本では「右翼」というレッテルを貼られます。こうした事態が象徴するように、戦前の日本=軍国主義の悪い国という形を刷り込まれた年代がリーダーになっていったのが、1980年代以降の日本でした。もちろん、戦前の日本は、問題がなかったということではありません。しかし、パリ講和会議で人種差別撤廃条約を通せなかったのですが、それ以降のアメリカの反日政策は徹底していました。欧米先進国に追い詰められ、自衛の戦いに踏み出さざるを得なかった、というのが大東亜戦争の公平な見方ではないでしょうか。

平成もまた「プラザ合意」「構造協議」に象徴されるように欧米に追い詰められてきた時代、という認識が必要です。

 

しかし、そうした歴史観を持つこともなく、DIME(外交・情報・軍事・経済)をまともに勉強することもなく、日本のエリートたちは、外交や貿易の最前線に立ったのでした。覇権国の猛者にしてみれば、それこそ赤子の手をひねるように、まんまと騙され追い詰められ続けることになってしまったのです。

そういう構造を理解して、警鐘を鳴らす人々も、どういうわけか、民間企業出身者に多いのですが、そのうちの一人に、関野道夫氏という人がいます。残念ながら、多勢に無勢、なかなか私たちの主張は浸透しませんが、読者の皆さんに、彼が書いた本『日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦』(自由社ブックレット)を紹介し、出版社の広報を引用しておきます。

引用:

占領軍GHQの「日本人洗脳プログラム」の証拠書類を発掘!
「憲法九条を守れば日本は永遠に平和」「狂気の軍国主義にかられ、無謀な大戦に突入し、アジア諸国に侵略し暴虐をきわめた」などとして定着している概念が、GHQの狙いどおりの成果だとしたら……。
日本はじめ、米中韓など世界の国々に広く流布した戦争犯罪国家のイメージが、GHQが仕組んだ洗脳工作の成果だとしたら……。
WGIP=War Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)の証拠文書は従来発見されておらず、真偽不明だった。

日本をおおう暗い影を直感的に感じていた著者が、2万5千点のGHQ文書の中から、タイトルに「War Guilt Information Program」とある文書、及び関連文書を多数発掘。新聞、ラジオのマスコミ操作、数百万の郵便物の検閲、教育への露骨な介入、7700冊に及ぶ焚書、伝統文化の否定等々、GHQの舌をまくほど絶妙な心理戦略が、このブックレットによって、白日のもとにさらされる!
戦後70年にして、日本を米国に恒久的に隷属させる作戦の呪縛からようやく解き放たれる!

狂気の軍国主義にかられ無謀な大戦に突入し米国やアジア諸国にひどい被害をもたらした。

・・・日本はじめ、米中韓など世界の国々に広く流布した犯罪国家のイメージが、実は、占領軍の精密巧妙な洗脳工作の成果だとしたら・・・自動車メーカー関連会社米国法人社長を務めた著者が、GHQの2万5千点の文書から、幻だったWGIPの証拠文書を発掘した! (引用終わり)

 

「日本」を取り戻せ

文化200109

欧米流の卑しい精神が蔓延し、企業は株主資本主義化し、国の政策はアメリカ資本の顔色ばかりを窺っている。こんな姿を見て、わが民族のご先祖は、どう感じているだろうか。

日本語には、「清貧」という言葉がある。「武士は食わねど高楊枝」という表現もある。

身の不運にさらされても、じっと我慢して、「臥薪嘗胆」してきたのが、わが民族ではなかったか。

今の世の中、その高潔な精神性というものが失われ、カネまみれの卑しい精神があふれている。

明治初期に、日本各地を旅行したイザベラ・バードは、貧しい身なりではあるけれども、子供たちの幸福そうな表情を見て、この世の「桃源郷」として、日本を世界に紹介した。日本の田舎の子供たちに「希望」を見て取ったのであろう。

 

最近の日本を見ていると、希望は失われ、これから、どんどん悪くなりそうな気配を感じている人が多いのではないか。少子化は既定事実化され、それに合わせてシュリンクする体制を整えるべしとして、地方を切り捨てるがごとき議論が目立つ。格差が拡大し、貧困問題が露わになっても、「自己責任」という冷たい言葉が囁かれている。「国の借金」という言葉を使い、何かにつけ緊縮へ導こうとする議論が主流を占める。なぜ、このような閉塞感あふれる社会になってしまったのか。その因縁果をまずはっきりさせることからスタートしなければならない。結論から言うと、根本的に間違っているのは、「日本の形」が崩れてしまったからではないのか。「日本」を知らない日本人が、この30年、日本を統治してきたからではないのか。

 

私は「日米構造協議」の只中にいたことがある。だからわかるのだが、日本のエリート層にはアメリカという国の本質がわかっていない。さらに言うと、中国や韓国の本質も理解していない。

それは、まともな歴史教育を受けてきていないからである。GHQに歪められた戦後民主教育により、狂った世界観・歴史観を持たされているのではないか、と思う。勉強の良くできたエリートほど、その毒を多く飲まされている。そして、「日本の形」すら勉強する機会もなく、アメリカの属国になり果てても、それに気づくこともなく、平気でいることができるのであろう。

平成の時代に席巻した「新自由主義の嵐」を、いとも簡単に受け入れ、日本を改造してきた連中は、未だにその反省もない。世界中で、反エリート運動が起こり、民主主義の危機の瀬戸際にあるが、日本では、そうした動きもなく、ただ静かに、穏やかに、衰退の道を歩んでいる。

 

何かが間違っている、と思う人は多いのだろうが、どこから手を付けたらいいか、どういうヴィジョンを描き、どういうシナリオを書けばいいのか、事が大きすぎて、誰も言い出せないように感じる。

ただ言えることは、安全・安心な社会をなかで、身の程を弁えた豊かさ、穏やかな人生を送りたい、とする人が多い、ということである。そのための環境整備をしてほしい、ということだろう。

カジノなど、日本にいらない。観光客など誘致してもらわなくてもいい。移民を増やすなどもってのほか。中国人や韓国人は、どのような歴史教育を受けてきたのか、わかっているのか。

それよりも、安全な食の環境であるとか、インフラ老朽化の対策とか、エネルギー自立の模索とか、長期的な観点で、国民生活に直結する問題に、政治家には取り組んでもらいたいと思う。

 

カネの追求ばかりするから、行動の根本を間違えるのである。

業績主義に陥り、Doingのレベルでしか、ものを考えないから、そういうことになる。

なぜを繰り返し、物事の本質、即ちBeingのレベルにまで掘り下げることが肝要だ。

・なぜ、経済成長できなくなったのか。

・なぜ、こんなに少子化が進むのか。

・なぜ、貧困が問題化するようになってしまったのか。

そしてまず、現状の社会と本来の「日本」の差異に気づくことだ。

そして「日本」を取り戻すことだ。結果は、後からついてくる。

「日本の形」とは、どういうことか。日本の統治思想とは、どういうことか。「三種の神器」は、何を象徴しているのか。「武士道精神」とは、何か。そうしたことを、とことん突き詰めることから、道は開ける。先人の残してくれた資料は豊富にある。まず大人が勉強することである。

柴山桂太氏の書評より

文化200103

柴山桂太京都大学准教授が、ロナルド・ドーア著 『幻滅―外国人社会学者が見た戦後日本70年』の書評を 『表現者クライテリオン』に寄稿している。

かつて私も、徳川家広氏の書評を引用して文章を書いたが、(社会150808参照)柴山氏の書評も核心を突いており、参考になると思うので、改めてこれを取り上げる。

経団連会長が日本的雇用制度は維持できないと言ってみたり、副業を認める会社が出てきたり、倒産の危機でもないのにリストラをする企業が多くなっている現在、改めて読み返すべき本である。

引用:
ロナルド・ドーア氏には数々の著作があるが、評者にとってはやはり日本型経済システムを分析した『イギリスの工場、日本の工場』(ちくま学芸文庫)や、『日本型資本主義と市場主義の衝突』(東洋経済新報社)が印象深い。
後者は、小泉構造改革が華やかだった頃の本だが、末尾にはおおよそ次のように記されていた。
アメリカ発の金融資本主義が世界を飲み込んでいるが、日本経済の長所はいまも失われていない。
新自由主義に毅然と背を向け、日本がふたたび自分たちのやり方で進んで行けば、力強い発展が再開されるだろう……。
この期待は残念ながら裏切られた。日本人は自分たちのシステムをもう信じていなかったのである。
だから自らの研究史を振り返った本書が『幻滅』と題されているとしても、驚くには当たらない。
本書は、60年にも及ぶ日本との関わりを回顧した自伝的エッセイだ。
戦時中に日本語を学び、25歳で来日したドーア氏の見た1950年代の日本は、いまだ豊かな農村文化が息づく国だった。
その後の日本経済の発展と、ドーア氏が研究者として成長していく過程は重なっている。
農村文化、学歴社会、雇用制度、そして日本型経済システムへと関心は拡がり、ドーア氏は国際的にもっとも著名な日本研究者の一人になっていく。
丸山眞男、加藤周一、鶴見俊輔など名だたる知識人との交遊録も興味深い。
当時は知識人のサークルがあちこちにあった。若きドーア氏は彼らとの交流から多くを学んでいく。
「1950年ころ、東京の知的雰囲気は実に刺激的だった」という記述を読むと、この時代が少々うらやましくなる。では、日本社会はいつ頃から変質したのか。1980年代前半からだというのが本書の見立てである。
日本が、新自由主義の風潮に染まっていくのはこの頃からだ。都会出身者が増えたことで農村のルーツが忘れられ、農村共同体を母胎に育まれてきた日本の「社会連帯意識」が見失われていく。
アメリカ留学帰りのエリートが社会の中枢を占めはじめ、アメリカかぶれの政策を吹聴しはじめるようになる。
日本型システムの長所を何も知らず、アメリカを「ご本尊」と仰いで、日本の政治と行政を壟断した「留学組」に対する著者の怒りは激しい。
もう一つの嘆きは、知識人の劣化に対して向けられている。
かつて、あれほど知的な刺激に満ちていた日本の論壇は、いまや画一的で、当たり障りがないものばかりになってしまった。
政治的立場が異なる者同士の対話も少なくなり、誰もが真摯な議論を避けている。
日本は「知的砂漠になってきた」という記述は、古き良き時代を知る者の言葉だけに重い。
かように著者の悲しみは深いのだが、嘆いてばかりもいられない。日本人は、いつ道を誤ったのか。どこで自己を見失ったのか。ドーア氏の声に耳を傾けながら、われわれはそれを何度でも確認しなければならない。 (引用終わり)

1994年の日本の家計所得が664万円あったものが、今や120万円以上も下落している。このことが、日本経済不調の主因である。こうした状況を現出させたのが政治における「構造改革」であり、経済における「株主資本主義化」であり、文化における「日本精神の忘却」であるという事実認識は、日本人がしっかりと持たなければならない視点である。早くそうした視点を取り戻さないと、格差の拡大、地方の疲弊、少子化といった日本衰退の構造的問題は解決しない。

そして、私は、アメリカという「ご本尊」が、これから塗炭の苦しみにあえぐ日々が来ることを予言しておきたい。「良い品・良い考え」はすべてに通じる。国家もよい統治思想で運営されなければ、国民は不幸になる、というのは不変の真理であると確信しているからだ。

日本のグランドデザイン

文化191202

私とて治安維持法という悪法によって人権が抑圧された戦前を肯定するわけではない。日本特有の同調圧力によって、軍国主義に傾斜していった昭和初期を、反省しなければならない、と思っている。

さらに言うと、もっと前の、第1次世界大戦後の、アメリカに仕掛けられた外交戦に負けたことから反省しなければならない、と思っている。

ところが、そういう分析もなしに、日本精神とか国の形とか言うと、すぐに「右翼」というレッテルを張る社会風潮がある。とりわけ、教育勅語、八紘一宇、大東亜共栄圏、といった言葉は、現代日本の禁句になっている。

 

それに代わって使われる言葉は、ハラスメント、コンプライアンス、アカウンタビリティ、といったカタカナ語である。

ハラスメントという言葉は、人種差別を解消するための米公民権運動でできた言葉であり、コンプライアンス、アカウンタビリティ、という言葉は、私の嫌いな「株主資本主義」を体現する言葉ではないのか。そんな言葉が、日本で一般化すること自体が問題だ、と私は思う。

日本人なら、卑怯なことはするな、の一言で、すべてをカバーするではないか。

そしてカネは天下の回りもの、カネに執着するなどということは、最も卑しいこととされていたのではなかったか。

 

私が生きてきた平成の歴史を解析すると、大正と似た経緯であるとつくづく思う。だから、令和に入り、再びの昭和初期にならないように、と念じて情報発信している。金融恐慌のマグマが増殖し、今にも地上に噴出してきそうな勢いである。もう「右」とか「左」とか言っている時代ではない。グローバル化をどうとらえていくか、の方がより重要である。新自由主義経済思想を肯定するかどうか、の方を対立軸とすべきである。

私が賛同するMMT(現代貨幣理論)は、アメリカ民主党左派の唱える経済理論である。

彼らは、格差是正、環境重視の政策を展開するために、その財源確保の根拠にMMTを主張している。

日本では、それを一部の保守陣営が取り上げ、財政の拡大政策の裏付け論拠としている。

 

いま、大事なことは、日本という国の統治思想は何か、日本人のアイデンティティとは何か、を考え抜くことである。

・日本の学校に、なぜ、二宮尊徳像が、多く置かれていたのか。

・「三種の神器」は、何を象徴しているのか。

・『闘戦経』は、なぜ出版されたのか。何が書かれてあるのか。

そんなことを考える日本人が、ほとんどいなくなった。物語を失った民族は亡ぶ、と言われている。

 

森嶋道夫は、日本経済の衰退の要因を、日本人のエートスの喪失に求めた。

福田恒存は、日本人から「無念」が喪失されていくことを憂い、盛んに警鐘を鳴らしていた。

両者とも、今になって思えば、さすがの慧眼であったと思う。

1980年代から社会のリーダー層になっていったのは、戦後民主教育で育った人たちである。

アメリカに「プラザ合意」を仕掛けられ、アメリカの言われるままに「構造改革」を実施し、アメリカ的価値観の「株主資本主義」を取り入れ、IMFの指導通りの「緊縮財政」を進めてきた。

もう結果は出ている。日本の相対的地位は、凋落の一途である。

平成のリーダーたちを、私が「腰抜け世代」と呼ぶゆえんである。

なぜ「腰抜け」になったのか、を考えると、やはりGHQの占領政策WGIPに思いが至るのである。「日本悪者論」に汚染され、「無念」を忘れ、日本人の矜持を失った世代と言わざるを得ない。

 

昭和初期の国際情勢を理解すればするほど、なるほど、そうして日本は追い詰められ、国際的に孤立していったのだ、という思いに至る。

われわれが生きた20世紀の末から21世紀にかけては、幸い戦争には至らなかったが、覇権国に追い詰められ、経済的な競争力を削ぎ落された歴史を生きてきたではないか。

日米貿易摩擦の時代に、産業界に身を置き、「日米構造協議」に出くわした経験から、一所懸命、このブログで発信しているが、読者は、都市部の高齢者、かなりのインテリ層に限られる。

田舎のインテリ層である学校の先生方に、グローバル企業の実態を説明しても、なかなか通じないもどかしさを散々味わってきた身であるからして、どのようにして、この日本国の旗を立てるべきか、思い悩む次第である。

 

「右」も「左」も、先入観にとらわれた理念を振り回すのではなく、虚心坦懐に事実関係を整理すれば、自ずと方向性が見えてくるはずである。

頭の中だけで考えず、生活実感を踏まえながら、冷静に、現実的に対処していけばいいのではないか。なぜ、日本から「希望」が消え失せてしまったのだろうか、を考え抜くことだ。

米ソ冷戦が終結して30年になるが、世界の危機は、従来にも増して深刻になっている。

日本が、本来の日本を取り戻せば、もっと世界平和に貢献できるはずだ。そういう伝統的文化基盤がしっかりとある国だ。21世紀は、そういう意味で、日本の世紀にするべきだと思う。

残念ながら、経済力は衰退してしまったが、文化力は、まだ一流だ。それが、穏やかな国を維持している理由だと考えている。島国という環境に恵まれていた、ということもあるが、「国民国家」のお手本を示す、それが、日本のグランドデザインになるべきではないか。

『天皇の祈りと道』書評から

文化191008

即位礼正殿の儀が無事に終わった。令和の時代が、平和で、かつ豊かな国民生活を取り戻すことができるように祈りたい。

このブログのテーマは、なぜ日本は閉塞感あふれる社会になってしまったか、を探求し、その処方箋を明示することである。

結論は、グローバリズムに隠された「卑しい精神」から脱却し、日本人の「根っこ」を身に付けた国際派日本人を育てることである。

それは、とりもなおさず、「いま ここ 自分」だけでなく、世の中のことに興味・関心を抱く人であり、「なぜ」という問いを生涯にわたり発しながら、物事の本質に迫る人のことである。

そして、「和の国=民のかまどの国」に向けて、新たな気持ちで国づくりをすることである。

万機公論に決すべし、という教えの原点に戻ることである。今日はそれに相応しい書評を紹介する。

引用:

中村正和『天皇の祈りと道』(展転社)

帯に、『古事記』に描かれた民族の浪漫、横溢する精神世界とその価値観、とある。
著者はヤマトタケルの物語に、日本人の『人のために生きる』という崇高な精神の根源を見出す。
日本人の「こころ」の原点は、天皇の「祈り」と、我が国の「道」にあると説く。戦後教育によって久しく忘れられてきた共同体意識、我が道だけが良く他人は放置して顧みないというエゴイズムは本来、日本人の生き方にはなかった。しかし、農耕社会から近代工業国家に発展すれば、農業を基軸としてきた日本社会の在り方は根底が崩れる。社会的価値観が棄損され、なにが伝統的に尊重されるべきことなのか、見分けの出来ない衆愚が増える。
伝統的価値観の喪失は、近年のグローバリズムとかの怪しい思想によって、さらに凋落に拍車がかかり、原日本人的な生き方や価値観、死生観は顧みられなくなった。

著者は、ニーチェを基調におきながら、三島由紀夫の思想と行動に迫り、哲学的見地から「存在」の意味、生きることと死ぬことの意味を考察していく。
人のために生きるという意味は、戦いを避ける、争いごとを治めるということなのであり、ヤマトタケルの遠征に従った弟君の橘比売は、海の怒りを静めるために自ら犠牲となって果てた。
父の景行天皇は、息子の帰還に際して凱旋の栄誉も休息も与えず、すぐに東征へ向かえと命じられ、悲壮な決意のもと、ヤマトタケルは勇躍して旅に出る。
世の中の安寧と平定のために粉骨砕身、しかし帰路途中の伊吹山にて没した。著者は言う。
「倭建命(ヤマトタケル)は国のために誠を尽くし、戦い続け、ついに国のために身を捨てたのである。その倭建命が、懐かしい故郷である大和の国を想い、謳った」
―大和は国のまほろば たたなづく青垣 やま籠もれる倭(やまと)しうるわしー。
この詩は「最後に謳った渾身の絶唱である」とする。
昭和天皇は開戦三ヶ月前に謳われた。
―四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむー。
だが、英米の巨大な野望を前に日本の和平工作実らず、開戦のやむなきに至って、昭和天皇は詔書を発せられた。
「東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立、またまさに危殆に瀕せり。事既に此処にいたる。帝国は、いまや自存自衛のため、蹶然起って、一切の障害を破砕するの他なきなり。皇祖高宗の神霊、上にあり。(後略)」
大東亜戦争は、英米の野蛮を打ち砕き、その阿漕な植民地からアジア諸国を解放するための戦いでもあった。しかし敵の圧倒的な物量と、謀略によって武運つたなく敗戦に至る。その過程については多くが語られた。英霊の鎮魂は道半ばである。
終戦の詔書においてGHQは人間宣言を強要したが、当時の日本人は現人神も人間であることは十分に承知していた。
それより重要なことは、昭和天皇が、この詔の前文に、「五箇条のご誓文」をさらりと挿入されていることである。近代国家の礎、その国家の基本方針が書かれた五箇条のご誓文こそが、その後押しつけられたヘイワケンポウとかの規律を超えて、日本人の規範であることは指摘するまでもない。(引用終わり)

 

『ネット右翼の歴史社会学』の書評から

文化191005

伊藤昌亮著『ネット右翼の歴史社会学』の書評を、宇野重規氏が書いている。それによれば、

ネトウヨとも言われるネット右派運動は、1990年代初頭、米国による日本異質論に対する反発から生まれた「反日国家」の枠組みが、やがてその対象を、米国から韓国、そして中国へと移すことで発展した、とある。

私も、日米構造協議を経験し、米国のあまりにも身勝手な論理に憤慨し、日本側代表団の不甲斐なさに切歯扼腕したものだ。その悔しさは、後日、TPP論争のとき、あまりにも実態に疎いマスコミの報道に接して、新聞投稿という形で表現した。(参考:お問い合わせに答えてーその他120411)

時代が流れて、最近の韓国の横暴ぶりや、党が国家の上位にある中国という国を批判していることから、ネット右翼の生成過程と、私のキャリアはぴったりと一致する。

 

しかしながら、だからと言って、ネット右翼と言われては、不愉快である。批判はするが、根拠を示しており、決してヘイトスピーチのような下品な行いをしていない。保守ではあるが、右翼ではないつもりであるから、同じくくりをされるイワレはない。事実、この本によると、「この運動の担い手は、異なる思想と文化を持ち、異なる動機と目標に基づいて、固有の行動を取ってきた複数のクラスターが、たまたま利害を一致させ、共通の敵を設定することにより、いわば呉越同舟の状態で、寄り合いながら営んできた」と言っている。

共通の敵とは、啓蒙主義、理念主義、設計主義といった、いわゆるリベラリズムである。現実に私はリベラリズムを批判しているが、それは現実を見ていないからであって、自由や人権、民主主義も、近代精神として受け入れているつもりである。

ただ、それらは、安全・安心・豊かさといった状況を前提としており、その前提は、伝統的な文化や慣習に依っているところが大きいと言ってきたのである。換言すれば、リベラリズムは保守思想の上にしか成り立たないのではないか、と言っているのである。

品位のないネトウヨと呉越同舟などと言われると反論したくなるが、それは、学者の表現の自由だから、それはひとまず、置いておこう。

 

ところで、社会学という学問分野も、私に言わせれば、経済学と同じく、「タコつぼ化」しているように感じる。そもそも、社会学の始祖は、オーギュスト・コントであろう。彼は、フランス革命後の混乱期に、当時の産業主義と合理主義を前提として、社会学を「秩序と進歩」に寄与するための学問で、歴史学、心理学、経済学を統合する実証主義的な科学的研究でなければならないとした。ところが、社会学者で、経済学の知見を持つ者は、極めて少ない。隣り合わせの学問なのに、常識的なレベルぐらいは、勉強しておくべきだろう。日本社会の閉塞状態は、経済の悪化と無関係ではあるまい。

伊藤昌亮氏も、ご多分に漏れず、社会心理学的に近現代を切り取っているが、経済学的な言及はほとんどない。そこに、この本の限界を感じるし、社会学の課題を見出すのである。

 

経済学も同様で、単純化したモデルを多用する前に、分析する社会の文化基盤について、一通りの知見を持つべきだろうと思う。経済学の始祖、アダム・スミスは、「神々の見えざる手」で有名な『国富論』を書く前に、『道徳感情論』において、キリスト教社会の「共感的態度」を取り上げ、それを前提に、論理を展開している。しかし、最近のカジノ資本主義化は、その前提が崩れているのは、明らかである。欧米社会の「強欲」が、世界に蔓延している。

伊藤昌亮氏には是非、経済学の分野にも翼を広げていただき、真っ当な社会学を構築してもらいたいと思う。

DoingとBeing

文化191002

われわれの日常は、単純な繰り返しがほとんどである。あまり考えもせずに繰り返している日常(Doing)は、蓄積され、慣習となり、やがて、構造・制度・仕組み(Being)となる。

そうした構造・制度・仕組みは、長い年月をかけて、伝統となる。

その伝統には、その民族の文化がしみこんでいる。民族の持つソフトウェアが、倫理や道徳という規範になり、それが日常の挨拶といった言語に凝縮される。それが民族性を形成する。

すなわち、慣習・伝統・文化といったBeingは、自然や土地や時間によって創生されてきた「ありてあるもの」なのである。

その成果物である構造・仕組み・制度なども、同じく「ありてあるもの」であり、本来、軽々しく「改革」などと言うべきではない。

改革するにしても、そこで生じるマイナス面をよく吟味し、「全体最適」に近づけなければならない。ゆめゆめ短慮に陥ることなく、全体観をもってコトを運ばないといけない。肩に力の入った指導者は、とかく謙虚さを失い、己の力を過信し、大仰な改革を断行しようとする。失敗事例は引きも切らない。

 

文化に裏打ちされたものが、民族の倫理観(エートス)と呼ばれるものである。

これが、善悪の基準となり、個人の生き方を左右する。

そして、この善悪の基準を基本として、社会生活を営む上での規範・掟ができ、道徳となる。

道徳は、自然の摂理、歴史の重み、地域共同体からは、自由になれない。

人間は、本来、こうして自然・時間・土地に縛られて生きているのである。

 

国家の誕生と共に,そこには統治思想が必要とされる。「古事記」「日本書紀」に記載された物語は、神話には違いないが、その統治思想が現れている。仁徳天皇の「民のかまどの物語」は、その典型である。聖徳太子の17条憲法は、世界最古の憲法であろう。「和をもって貴しとなす」は明治維新での五か条のご誓文「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に受け継がれている。

また、その象徴としての「三種の神器」が存在する。神皇正統記では、至誠・慈悲・智慧を意味すると解説している。現代的な解釈では、文化的基盤・経済的基盤・政治軍事的基盤と、私は考えたい。

 

文化は規範を生み、規範は言語に現れる。顕著に表出されている日本語が「いただきます」「おかげさまで」「おたがいさま」である。ここに、日本人の、自然や社会に対する見方が凝縮されていると感じる。こうした言語が、自然と感性に影響し、BeingがDoingに影響を与え続けているのである。

一方で、若者言葉である「キモい」「ヤバい」などという表現も通用している。Beingも、未来永劫に不変ではなく、Doingが常に影響を与えている。

言葉だけではなく、すべてのDoingは、Beingに影響を与え続けていることも事実である。最近のわれわれのDoingは、Beingに良い影響を与えてきたであろうか。

 

平成の時代、われわれは、国際化、情報化、高齢化、の流れに対応する課題を与えられた。

Beingをしっかり受け止めながら、うまくDoingをハンドリングできたであろうか。

Doingばかりに気を取られ、肝心のBeingへの配慮が疎かになってしまったのではないだろうか。

資金効率ばかりを追いかけ、短期的な視点での経営手法がはびこっているが、最近の企業不祥事の頻発に関係していないのだろうか。

成果主義という人事評価により、却って、収益基盤を損なうような事態になってはいないだろうか。

BeingとDoingの区別もつかない、アメリカというリベラル国家に付き従ってきたために、肝心の日本のBeingが棄損されてきたのではないだろうか。

引退してもうずいぶん時間がたつが、未だにそんなことを考える日々である。

時間がたつに従って「事実」が積み上がり、徐々に頭の整理ができつつある。

リベラリズムの失敗 (3)

文化190909

マズローの欲求5段階説というのを、昔習った覚えがあります。改めて記述すると、

1)   生理的欲求

まず、人間には、食欲・性欲をはじめとする本能的欲求がある。「ダーウィンが来た」などの番組を見ると、動物の行動は、ほとんどが食糧を確保することと、自分の種を保存することに費やされているのがわかります。

2)   安全欲求

生理的欲求が満たされると、次に安全を確保する欲求が目覚めます。命あってのモノダネですから、当然でしょう。弱きものは群れるのです。

3)   所属欲求

次が、仲間を作り、その一員になって安心感を得る。この辺から「人間らしさ」が現れます。

これも、わかりやすいですね。

4)   承認欲求

さらに、その共同体の中で、評価され、「自分の居場所」を得ることが大事になってきます。

注意すべきは、Doingだけでなく、Beingで評価されることが必要だ、ということです。

5)   自己実現欲求 

そして、人間の最後の究極的な欲求は、そういう共同体との関係を離れても、自分の思い描く人生を歩む、ということだということです。そこにこそ、人間の普遍的な完成形を見出せます。

この考え方で、大事なことは、

1)   人間の欲求は、重層的な関係になっており、

2)   より低次の基本的な欲求ほど、必達条件となっているということ、

3)   そして、より高次の欲求ほど、知性が試され、達成確率が低くなる、ということです。

事実、自分の思い描いた人生を、予定通り歩み、満足している人は、どのぐらいいるでしょうか。

 

われわれが、社会に対する期待についても、重層的で、低次からより高次へと積みあがります。

1)   安全な社会

平和で、治安が良い、ということが最低条件ですよね。

2)   安心な社会

医療や教育、社会インフラが整い、安心して暮らしていけることも必須条件ですよね。

3)   豊かな社会

憲法にある「健康で文化的な生活」は、誰しも手に入れたいはずです。

4)   公正な社会

理不尽が少ない社会を目指す、と言って反対する人はいないでしょう。消極的自由(〜からの自由)をはじめとする人権が守られ、法の支配が行き届いていることが、公正な社会を担保する最低限の条件です。

5)   より自由で民主的な社会

近代の社会思想である自由という概念は大事です。さらに、民主主義も、近代社会に必須とされています。いわゆる西側世界が、普遍的価値とするものです。

しかし、よくよく考えると、積極的自由(〜への自由)は、自由の衝突につながり、公共の福祉と矛盾しかねません。民主主義も、ムードに流され、衆愚政治に陥る危険があります。

この概念を重視する立場を、リベラリズムと言いますが、近年、そのリベラリズムの失敗が、顕著に表れています。それは、何がより重要かを考える視点を欠き、バランス=全体観を喪失しているからだと考えます。ことのほか、リベラリズムが、政治から経済の分野に浸透した結果、世界は理不尽の塊とでもいうべき格差社会になってしまいました。

二進も三進もいかない状況に陥った場合、熟議のない、強権的な政治権力を生み出す恐れもあります。ヒトラーも、最近のブレグジットやトランプ大統領の選出も、民主主義の産物です。

 

「大道廃れて仁義あり」という老子の言葉があります。さらに続けると、「仁義廃れて道徳あり」となり、「道徳廃れて法律あり」「法律廃れて強権支配あり」となるのではないか、と私は考えます。

最後に、この理念優先の頭でっかちの強権支配は、必ず混乱を招き社会を崩壊の道へ導きます。お隣の韓国が、好い例を提供してくれるでしょう。

 

それでは、根本の大道とは何か。それは、自然の摂理(ロゴス)だと考えます。自然を畏怖し、自然から学ぶ姿勢を貫くことだと思います。自然の前で人間は謙虚にならなければならない。

先日、NHKで「人体」の特集をしていましたが、各臓器は「メッセージ物質」を出し、人体全体でコミュニケーションを図っているそうです。37兆個の細胞にある100兆個もの「エクソソーム」にある「マイクロRNA」が、そのメッセージ物質の正体だということです。

情報科学の進展も急速ですが、生命科学の進歩もそれに劣らずすごいですね。

こうした科学の知見が、実際の組織運営にも影響を与え、閉塞状態を打開する役割を担うことを期待したいと思います。

 

注― 「リベラリズムの失敗」シリーズ(1−文化190506)、(2−文化190807)も、ご参照ください。

河東哲夫著『ワルの外交』の書評より

文化190810

日本人は、己に対しては至誠、他人に対しては慈悲、をモットーとしている。国内では、美徳であるが、外交の世界では通じない。もっとワルになれ、と説く元外交官の本である。共感を覚えるので、その書評を引用して、読者に提供する。国益のために、企てのできる人になれ、ということである。 

戦争論の基本だが、戦闘に入る前には、情報戦、外交戦、経済戦がある。それに強い、賢い国家づくりが肝要である。平成の失敗に鑑み、「国際的日本人」を、もっともっと育てなければいけない。 

引用:
・この本は二つのことを提案する。
一つは、日本人はもっと「ワル」になって、巧妙・老獪な広報・宣伝合戦を展開していこうということ。
もう一つは、この世界を動かすものは高邁な理念とか理想より、赤裸々な利益であることを肝に銘じ、高邁な理念のウラに隠れた真実の動きを見極めてから行動しよう、ということである。


・無批判に信じ込みがちな「自由」とか「民主主義」といった価値観も、アメリカが「イラクは大量破壊兵器を作っている」という偽情報をかざして武力で攻め入ったとき、その意義を失った。国益という泥臭いものを覆い隠すためのベールに過ぎない。昨今の国際情勢をみれば、理解できるはずだ。

 

・外交とは、実は、他国とのがさつな力比べ、相手国への食い込み競争なのである。外交官というのは、すれっからしの現実主義者、ほとんどヤクザ、それも敬語で罵り合うヤクザだと思えばいい。


・ものごとは理念より利益で動く。「根回し」は外国でも大事なのだ。外交交渉では、総理、外相、あるいは交渉団長の判断とパフォーマンスが重要なことは事実だが、その前に国内の諸勢力の間に根回しをして、交渉の落としどころを探らなければならない。いずれの国でも「外交は内政の延長である」と言われるが、超大国のアメリカもその例外ではない。


・だから大きな外交問題を片づける時には、官房長官・副長官を筆頭に立てて各省を調整し、関連議員・業界・地方を納得させ、マスコミを通じて世論の了解も取っておかないといけない。外交官と言うが、実はその半数以上は、国内の本省や総理官邸に勤務していて、関係各省庁との間でいつも調整をしている。案件に関与している国会議員や政党要職者に説明をして歩き、関係諸団体や業界から話を聞き、マスコミの論説委員や記者たちに案件の説明をする。


・国連や国際政治の場では、各国政府や代表個人の利益や思惑がからみ、もつれ合う中で、ものごとは決まっていく。首脳と首脳の間の好き嫌い、首脳の間の「貸し借り」の関係もものを言う。貸し借りとはカネのことではなく、「この前、案件Cでは譲ってもらったから、今度は案件Dで向こうの首脳に譲ってやろう」というような関係のことである。


・ワシントンでも大使や館員が手分けして役人や議員、そして議員スタッフに会い、毎日のように開かれるセミナー、シンポジウムに出席しては、日本の立場を効果的に、聞き手の共感を呼ぶようなやり方を工夫し、刷りこんでいる。「毅然として」より「しれっとして」発言することが大事である。

 

・アメリカを味方につけることを、どの国も行っている。ロシアや中国は、いつもアメリカにたて突くくせに、他ならぬそのアメリカに多額の資金をつぎ込んで、広報やロビイングをやっている。ロシアも中国も、英字新聞を発行したり、衛星テレビを流して、涙ぐましいほど努力している。


・最近、G7の先進諸国が世界を治める力は、BRICS以外の諸要因によっても侵食されつつある。先進国のNGO、英米の金融大資本、軍産共同体、そして、闇の世界で活動するテロ、麻薬、傭兵のような勢力が、国際政治を大きく動かすようになっているからである。


・外交や国際ビジネスに携わる日本人はタフでなければならない。ワルでなければならない。優等生ではだめで、「何くそ」という気持ちでいつも生きていく。外国人の中にとけこんで自らリーダー、参謀、そして情報機関の三役を兼ねる、クールな「何くそ」なのである。


・この本は、日本人が忘れてしまった「自立のスキル」を取り戻すためのものである。
世界という大海の波は荒い。そこでは自由とか民主主義とか美しい言葉は、各国の都合に最もかなった意味を与えられ、論戦での武器として互いに投げつけられている。
そんなものに惑わされず、これを自分の武器として使えるようにするにはワルにならねばならない。言葉や理想のためではなく、自分たちの利益のために戦うのが外交である。


・同じことは、企業の国際化も言える。買収した企業を指図するのでなく、指図されるようになってしまうような、ひ弱な「会社員」ではなく、少々英語はできなくとも外国人を平気で使いこなせるワルの「企業」を増やすことが、これからは必要である。 (引用終わり)

 

私は韓国を許さない (2)

文化190809

許さないなどという感情的な言葉を使うのは、関係修復を望めないし、また望む必要もない、という判断に基づく。断交も含めて強気な態度で臨むべきだ、と考えるからだ。李明博の時代には、通貨危機を助けたのに、竹島上陸という反日行為をして、恩をあだで返した。朴槿恵の時代には、中国の「反日統一戦線」の尻馬に乗って、安重根記念館の開設に協力した。いずれも、保守政権であったが、支持率が下がると、反日で点数を稼ぐ、と言われている。こんな国と友好を保つ必要があるのか、ということだ。ましてや、いまの文在寅政権は「北朝鮮と協力して、日本に対抗する。2度と負けない」などと言っている。国際社会も、だんだんと相手にしなくなるだろう。 

彼らのウソで塗り固められた歴史観を、真正面から正していかないと、いつまでも同じ状況から脱出できない。国どおしの約束を違えることは恐ろしい結果を生むということを体験させるべきだ。幸い、韓国は、構造的な経済問題を抱えている。米中のはざまにあって、得意の半導体、液晶、自動車、造船、鉄鋼などの分野は、危機的状況にある。これを支える金融は、極めてぜい弱だし、最低賃金を急激に上げるという政策ミスもあって、経済崩壊の危機が迫っている。チャンスが到来しているとみるべきだろう。ここは「ワルの思想」で外交すべきである。

歴史観に齟齬が生じている中国と韓国、アメリカとは、機会をうまく捕まえて溝を埋めていく必要がある。物語を失った民族は亡ぶと言われているが、今の国連の諸システムは、戦勝国体制とも言えるもので、日本民族の物語は、これらの国から排除されている。正論は歴史修正主義とされる状況から、脱却するという課題が日本にはある。そういう問題意識を持ち続けていく必要があると思う。急ぐ必要はないが、戦後74年もたっているのも事実だ。チャンスがあるたびに、一つ一つ課題解決へ向けて前進していきたいものである。現状の日韓関係を、チャンスにしたいものだ。

そういう観点から、読者にご紹介したい本がある。韓国で、7月に発売された『反日種族主義』という本である。韓国人学者ら6人による共同著作で、反日種族主義(反日民族主義の意味)の嘘や、その危険性を解説したものである。韓国にも、まともな人は、もちろん大勢いる。執筆者の一人である李宇衍(イウヨン)・落星台経済研究所研究委員は、次のように語っている。

引用:

「今まで韓日関係は正常な関係ではありませんでした。なぜならば、歴史問題において韓国側から歪曲された話が多く流布され、日本は大きく傷つけられてきた。特に慰安婦問題と徴用工問題では、事実を歪められ、日本を非難するための道具にされてきた。今の韓国政府は(日韓基本条約が締結された)1965年以降、最も反日的な政府です。いつこのような事態(日韓経済摩擦など)が爆発してもおかしくない状態でした。だから私たちは、文在寅大統領を始めとする反日種族主義者たちと討論し、正していくことが必要だと考えてこの本を執筆したのです」

「徴用工へのヒアリングを重ね、資料を研究した結果、強制連行や奴隷労働はなかったといえる。韓国人は日帝時代、多くの人が強制的に引っ張られ奴隷のように働かされたと思っています。しかし、日本の制度的にはそうしたものは存在しなかった。それは次の3つのことからも明らかです。【1】徴用工の賃金は正常に支払われた。【2】労働者には自由があった。【3】お金も自由に使えた。

「徴用工問題は、日本は絶対悪、韓国は絶対善と考える反日種族主義者たちによって、歴史認識が歪曲されたものだと私は考えています」 (引用終わり)

なお、彼は、7月のスイス・ジュネーブ国連欧州本部で開かれた国連人権理事会のシンポジウムにおいて、徴用工が日本で差別的な扱いを受けてきたという韓国側の主張について、「賃金の民族差別はなかった。強制連行や奴隷労働はなかった」と講演している。

リベラリズムの失敗 (2)

文化190807

われわれは、どのような社会で暮らしていくことを望んでいるのだろうか。そういう原点に立ち返ったとき、見えるものがあるように思う。以前にも言及した「リベラリズムの失敗」(文化190506)をさらに掘り下げてみたい。

誰しも願うことは、安全・安心な社会で、人々が、何不自由なく暮らしている、ということだろう。これを1)安全 2)安心 3)豊かさ として、「幸せの必要条件」としておこう。安全とは、平和で治安が良く、安心とは、医療・教育・インフラが整い、豊かさとは、誰もが健康で文化的な生活を営むことができる、ということだろう。これらは、自然環境に基礎を置き、そこから生じた伝統や文化、それらに由来する人々の倫理規範、それによる統治理念といった、インフォーマルな秩序に由来する。

しかし、これだけでは十分ではない。世の中では、理不尽なことが尽きないが、そうしたことが、できるだけ少ない社会でありたい、と誰しも思う。そのために、人と人の関係を調整する知恵を、人類は積み重ねてきた。近代の成果ともいえる、人権や法の支配、自由と民主主義、などの概念である。日本人は、ヒューマンビーンズを「人間」と訳して、人間相互の関係性を、古来から重視してきた。いわゆる西側諸国でたびたび言及される「普遍的価値」というものである。これを表現を変えて、「幸せの十分条件」としておこう。しかし、この概念、はなはだ恣意的に運用されるのが常である。それは、国際社会というものが、極めて得手勝手な国家というものから構成されているからである。

そこで、新自由主義思想という経済学由来のイデオロギーは、国境の壁をなくし、ヒト・モノ・カネが自由に交流し、市場という概念を中心に据えることで、人々の福祉は向上する、という神話を、作り上げた。神話と言ったのは、それが嘘っぱちであることが、この30年で証明されたからだ。

こうしたリベラリズムが、格差拡大と国民分断を生み、社会を混乱に陥れていることは、日々の国際ニュースでたびたび取り上げられている。今の日本の置かれた状況を考えても、誰もが納得するのではないか。マスコミでは、これらの流れに抵抗する動きをポピュリズムと総称して報道しているが、エリートに対する大衆の反乱、という観点だけではなく、諸民族の文化的基盤の再興といった観点から捉えなおす必要があるのではないか。なぜなら、追い詰められ、バラバラにされた個人は、拠り所を求めて民族単位で集結し、再び「いつか来た道」を模索し始めるからである。

リベラリズムや共産主義といった理念主義・設計主義が失敗するのは、頭でっかちな理論を振り回し、現実を見ていないからである。彼らは、常に「反文化」である。文化とは、非法律的、非政治的でインフォーマルな社会的慣習、規範、人々の教養のことだが、人々が望む社会の「幸せの必要条件」は、「幸せの十分条件」を云々する以前に、そんなインフォーマルな秩序で成り立っているのだ。すなわち、「幸せの十分条件」は「幸せの必要条件」を前提にしているのだ。そこのところの認識不足、すなわち、人間に対する理解、文化や社会に対する理解が、根本的に間違っているところに、リベラリズムの失敗の要因がある。

そこを、彼らは、敢えて見ようともせずに、「卑しい精神」に突き動かされ、自分たちに利益誘導を図ってきた。その枠組みに組み込まれたのが、わが財務省役人や経団連のお偉方であり、政治家たちである。アメリカというリベラル国家のレントシーカーたちの口車に乗り、「構造改革」して「生産性」を落とし、労働者の賃金を切り下げて消費を減らし、デフレに追い込み、一人当たりGDPを世界25位にまで落とし、韓国にまでなめられている・・・我が国の現状を見るに忍びない。

さらに言うと、それにもかかわらず、なぜ、そうなったかを考える余裕すら、なくなっているような気がしてならない。今、世の中を見渡してみて、「いま ここ 自分」しか関心のない人が、横溢している。リベラリズムは、文化の破壊を通じてデモクラシーの基礎となる市民意識を消滅させ、また特定の歴史、特定の場所と、人とのつながりをなくしていこうとする。リベラル化が進めば進むほど、人々の共同体に対する愛着は薄れ、社会や政治に無関心になる、という。そのせいではないか。

経済的な問題もさることながら、根本的な文化的価値規範すら崩壊すると、日本が日本でなくなってしまう。そういう危機的状況にあるのではないか、という気も最近してきた。例えば、教育の方向性である。大阪で、非認知能力という意味も分からない人間が成果主義を掲げ、偏差値教育にシフトしていたり、日本教育の真髄がわからない人間が、タコつぼを次々と準備して、そこに子供たちを押し込もうとしている。レベルの低いアメリカの教育を真似ている。情けない限りだ。

時代の変化に対応することも必要だが、もっと大事なことは、日本語をしっかり身に付けさせ、リベラルアーツ(教養教育)を学び、人格を陶冶し、人徳(virtue)を身につけ悪しき欲望にとらわれない、自律的個人としての自己を完成させることだろう。社会へ出てから、「自彊止まず」の精神で自発的に学び、考える習慣の付いた人間を育てることだろう。

この30年の深甚なる反省から見出した、私の結論である。

公正と信義ということ (1)

文化190711

日本国憲法前文には、「諸国民の公正と信義を信頼して」という表現があります。諸国民は、本当に信頼に足る人々なのでしょうか。憲法問題というと、第9条ばかりが問題になりますが、私は憲法前文の前提が崩れ去っている、と思います。 

どの民族にも、優秀な人もいますし、立派な人もいます。ところが、集団となったとき、民族性というものが顕著に表れるのはどうしてだろうか、と最近の日韓の軋轢を見ていて考え込んでしまいます。

森嶋通夫先生から、私は「エートス」という言葉を学びましたが、長い歴史と伝統から「滲み出てきた」ものであり、一朝一夕には、如何ともし難いものではないか、と考えるようになりました。日本人は、あきらかに中国人や韓国人とは違うエートスの持ち主であり、そこに大きな壁がある、と思うのです。 

中国や韓国は、自国の利益のために、ウソをねつ造し、派手にプロパガンダ戦に明け暮れ、外国を騙そうとすることを常態としています。中国は、GDPの政府発表すらウソ、と言われています。

韓国の歴史的な宗主国である中華帝国は、とにかくウソとプロパガンダの塊そのものです。我々の先人たちが、1930年代から1945年まで、「平気で嘘をつき、世界に拡散する」支那人を相手に、どれだけ苦しんだか。支那事変は、軍事的な戦争以上に「プロパガンダの戦争」だったのです。
詳しくは、F・V・ウィリアムズの「中国の戦争宣伝の内幕―日中戦争の真実」 やラルフ・タウンゼントの「暗黒大陸 中国の真実」を読めば理解できます。わかっている欧米人もいるのですが、大抵は、繰り返されるウソに騙されていきました。プロパガンダ戦を仕掛けてくる蒋介石に、日本軍というか「日本国」は翻弄され続けました。それが戦前の歴史でした。 

戦後も、今度は中国共産党というウソつき集団が、歴史をねつ造しています。そうでもしないと統治の正当性が確保されないからです。韓国の、ファンタジー史観も同様です。反日種族主義を唱えないと、自分たちの惨めな過去を「物語化」できないのです。
われわれ日本人は、「嘘をつかない」「嘘をつかずとも構わない」文明を構築し、歴史を積み重ねてきました。現在にしても、「平気で嘘をつき、嘘に嘘を重ね、それを世界中に拡散する」韓国や中国といった国の隣に位置しているのは、本当に我が国の悲劇ですが、運命と捉えて対応することです。 

アメリカというリベラル国家は、自国利益を追求するあまり、そうしたウソが、自分たちの利益と一致するならば、敢えて正そうとはしません。非戦闘員を空襲により、何十万人も殺し、あまつさえ、2発の原爆まで落とした自分たちの国際法違反を正当化するためには、彼らのウソを利用することの方が賢明だという判断でしょう。日本が野蛮国家であったことの方が、自分たちには都合がよい。 

中西輝政氏の『世界史の教訓』には、アングロサクソン文明の「秘中の秘」の特徴は、「偽善」である、と喝破しています。アングロサクソンの「自由と開放」も、みんなの利益を尊重しているように見えて、
実際には自分たちの利益の最大化につながるよう巧妙に仕組まれている、というのです。
誰であれ自己利益の極大化は当たり前だが、アングロサクソンのモラルでは、それを露出させてはいけない。「隠す」ことが大切なのだ。だから普遍的な価値観が、ことさら強調されるというわけです。 

そして、歴史の浅い国だけに、文化や伝統、民族性などに疎い集団です。「大男、総身に智慧が回りかね」という川柳通りの国です。戦後は、世界中で紛争に介入し、多くの民族を悲劇に突き落としてきました。特にソ連崩壊後は酷かった。イラク、アフガニスタン、リビア、イエメン、シリア、・・・

民族の自尊心を粉々にし、「そこのけ、そこのけ、アメリカさまが通る」といった手法では、誰からも尊敬されず、影響力をどんどん低下させています。 

覇権国が、自国第一と言ってはいけません。トランプは、アングロサクソンでは「異端」です。アメリカがそこまで追い詰められてきたのです。技術覇権が揺らぎ、「ドル基軸体制」にまで挑戦されてきて、最近ようやく中国の台頭に、危機感を持って臨むようになりました。

日本タタキをして、自分たちが儲けることのできる市場を日本に作り上げ、さらに儲けることのできる市場を中国にも拡大しようとしたのですが、ここは共産党独裁の国なのです。指導者は日本のように腰抜けではなかった、ということです。それに、日本の「体たらく」を、彼らはよく勉強しています。

「豚を肥やそう」としましたが、肥えた豚は、餌やりをしていたご主人様に噛みついてきたのです。

しかしアメリカが遅まきながら、中国人の本質を理解したのはとてもいいことです。時計の針をアメリカが「排日」を開始した第1次世界大戦後まで戻してそこからの歴史を検証してほしいものです。

3層構造の倫理規範

文化190703

制度や仕組み(Being)といった分野は、諸外国の猿真似をしていたのでは、いつかそれの運用(Doing)に困り破綻する。なぜなら、運用にあたって、「芯のぶれない基準」が明確化されないので、いつのまにか、その制度や仕組みの目的そのものが曖昧になり、実態から乖離して崩壊するのだ。

頭で考えた理念を設計図として社会を変革していこうとするリベラルな人たちは、そこに思いを致すことがない。そういう事例を数多く経験してきた立場から、いわゆる「改革派」に対して、私は警鐘を鳴らしてきた。グローバル化というアメリカ化が日本に相応しくない、として抵抗してきたわが半生である。

 

それでは「芯のぶれない基準」とは何かというと、日本人の倫理規範(エートス)ではないかと思う。

日本人の倫理規範(エートス)に依拠した制度や仕組みにしないと永続性が担保されない、と思うのだ。平成の時代の「構造改革」は、アメリカに無理強いされたものだけに、すべて、日本人の倫理規範にはなじまないものであった。そこに「居心地の悪い思い」をしている人も多かろう。

コンプライアンスとかアカウンタビリティという言葉は、ビジネスの世界ではすっかり一般化しているが、それらは、株主資本主義を肯定する倫理規範と通底している。こんな「ばくち打ちの思想」が、日本人の倫理規範となじむわけなどない。日本の規範は「至誠・勤労・分度・推譲」ではないか。

ハラスメントという言葉も、国際化の中で、受け入れざるを得ない情勢であることは理解しているが、これも、人事担当者の悩みのタネになっているはずだ。なぜなら、人種差別を克服してきたアメリカの公民権運動の概念であり、日本人にはなじみが薄い。むしろ日本の倫理規範で論じるならば、それは「卑怯を憎む心」であろう。

そうした日本人の倫理規範に合致する制度仕組みの典型として、私は、禄を食むという意識を育てる「日本的経営」と、公共経済分野と市場経済分野とを区別する「混合経済体制」を推奨してきた。

 

それでは、日本人の倫理規範(エートス)とは何か、ということであるが、私は三層構造から成立していると考えている。「自然崇拝」と「封建制度」と「近代思想」である。

 

自然崇拝は、神道と仏教に由来する。

われわれは、神社で何を祈願するのか。無病息災・家内安全・子孫繁栄・五穀豊穣・商売繁盛・結婚成就・合格祈願などであろう。現世的利益を含めて、そこには生存への願いが込められている。

また、仏教は、生老病死のサイクルの中で、煩悩を抱えたわれわれに、何かにすがることを教えてくれる。いずれも、自然を畏怖し、崇拝し、己の小ささを自覚して、謙虚に、感謝して、生を全うすることの大切さを教える役割を担っている。

それは、あいさつの言葉に現れる。「いただきます」「おかげさまで」「おたがいさま」といった言葉は、決して意味のない言葉ではないのである。

 

封建制度は、ギブ&テイクの規範を、日本人に植え付けた。本領安堵とその御恩に報いる、という上下関係の規範を確立させた。意外と知られていないのだが、この封建制度を確立させたのは、日本と西洋だけである。他のユーラシア大陸の国々は、古来から帝国しか成立させていない。これは、天下万民は、皇帝一人に属するという制度である。一方、日本の封建時代では、テイクがあるからギブをしたが、テイクがなくなると、意外にドライな関係に戻れるのである。

 

近代思想は、自由・平等・寛容・人権・法による支配などの、いわゆる普遍的価値である。もちろん、こうした近代思想の普遍的価値の重要性は言を俟たないが、その価値基準の基層に、日本人は上記の二つの価値基準を持っていることを強調しておきたい。

なぜなら、そのことを無視して、安易に「構造改革」をしてきた失敗が、日本のあらゆるところに出てきてしまっているという現実を見据えることにつながるからである。

近代思想を錦の御旗に掲げるグローバリストやリベラル派は、この3層構造についての理解が欠如しているのではないか。近代思想の理念も大事だが、その前提として、安全・安心・豊かな生活が、より重要であり、それらは伝統や文化に裏付けられた社会規範がカギを握っているのである。

 

さらに言うと、近代思想の普遍性は、欺瞞に満ちている、ということである。欧米各国の得手勝手なご都合主義に騙されてはならない。普遍性とは言うものの、必ず対立概念が存在するではないか。

他人の自由は、私の不自由であり、公共の福祉ともぶつかる。寛容な思想は、非寛容な思想に対しては、非寛容である。国の統治権は、民族の自主権と、常にぶつかる。

また、国による文化の違いや発展段階、民族の習性を無視してはならないということである。

 

これから世界は、2つに分断されていくことだろう。当面は、欧米と協調しつつ、中国と対峙しなければならないが、決して欧米の論理に埋没することなく、日本は独立不羈(どくりつふき)の姿勢を堅持することである。世界の覇権を狙う共産主義者も、資本主義の中核にいる国際金融資本家も、グローバリストであることに留意しなければならない。彼らの行動原理は、己の利益のみを追求するあまり、ダブル・スタンダードは言うに及ばず、ウソと欺瞞に満ちあふれている。その点では、アメリカも、中国も、ロシアも、「似た者どおし」である。

民主化絶望国家・中国 (1)

文化190605

施光恒氏が、またまたとてもいい文章を、「表現者クライテリオン」に書いています。読者の皆さんとシェアしたいと思います。

引用:

国土が広大で、民族や宗教の構成も本来的には非常に多様な中国は、国全体をまとめ、安定した秩序を作っていくのが非常に難しいのです。「自由民主主義」という穏健な政治制度では、なかなか統治しきれないのでしょう。
法文化論や刑法学などが専門の一橋大学教授の王雲海氏の著書『「権力社会」中国と「文化社会」日本』(集英社新書、2006年)はとても興味深い観点を提示しています。
王氏は、日本と中国の社会を比較して、日本を「文化社会」、中国を「権力社会」と称しています。王氏によれば、中国の社会を作り上げているのは根本的には政治権力です。
「中国社会の原点は国家権力にほかならず、国家権力こそが中国社会における至上的なもの(原理・力・領域)である」。
他方、日本の場合は、社会を作り上げているのは「文化」だと王氏は述べます。

ここで「文化」とは、いわゆる常識、慣習、慣行、人々の伝統的道徳意識といったものを指します。王氏は次のように書いています。
「社会の原点が何かという点から見ると、日本社会の原点は文化であって、文化こそが日本社会における第一次的なもの(原理・力・領域)である。いいかえれば、日本社会においては、社会現象をもっとも多く決定し、個々の国民の行動や生活にもっとも大きな影響及ぼすのは、権力でもなければ法律でもなく、むしろ、それら以外の「非権力的で非法律的」な常識、慣習、慣行などの、公式化されていない、民間に存在している文化的なものである」
王氏の分類を私なりに解釈すれば次のように言えるでしょう。
広大な大陸国家である中国は、伝統的に民族の移動が激しく、様々な王朝が頻繁に入れ替わってきた。「文化」も入れ替わり、継続性に乏しく、共有もされにくい。中国では、文化を育むはずの村落などの地域共同体(中間共同体)もあまり発達しなかった。国民相互の連帯意識や愛国心の育成も困難だった。そのため、秩序を作るためには強大な政治権力に頼るしかない。中国では伝統的に強権的な中央集権国家しかほぼ作られてこなかったのはそのためである。
他方、島国である我が国は、人の移動があまりなく基本的に定住型の社会を作ってきた。地域社会の形成も進んだ。そのため、常識や慣習、慣行などの「文化」が継承されやすい。国民相互の連帯意識や愛国心も比較的育みやすい。強大な政治権力頼らずとも、人々の常識や慣行、規範意識、連帯意識によって秩序形成は比較的容易である。実のところ、日本で自由民主主義のような穏健な政治が可能なのは、日本が「文化社会」だからであろう。
天安門事件から30年が経過しましたが、「権力社会」としての中国の特質はあまり変わっていないようです。
だが国家による管理の手法は、非常に進化したように見えます。最近、英語圏の論説で「デジタル権威主義」という言葉をよく目にします。「デジタル権威主義」とは、国家がIT(情報技術)やAI(人工知能)などの科学技術を駆使して国民生活を隅々まで監視し、管理する体制を築き上げていくことを指します。
最近、中国は電子マネーを急速に普及させ、キャッシュレス社会の実現を進めているが、これは金の流れを記録し、国家管理を強めるためでもあります。国民の信用度を数値化した「信用スコア」の政府による利用も進んでいると聞きます。新しい形の権威主義国家体制の構築が進んでいるとみることができるでしょう。
では、我が日本はどうでしょうか。日本は、自由民主主義を今後も続けることができるのでしょうか。現在のままだと、私は少々悲観的です。
天安門事件があったのはちょうど平成元年ですが、そのころから日本は、徐々に構造改革を進め、「グローバル化」(多国籍企業中心主義化)を目指してきました。
その結果、国民生活は疲弊し、多くの地方は廃れ、少子化や東京一極集中も進んでいます。
今年からは、人手不足を補い、多文化共生を進めるなどの名目で外国人単純労働者の受け入れも始まりました。
グローバル化を目指すこうした構造改革が今後も進めば、日本社会も徐々に「文化社会」から「権力社会」へと移行せざるを得ないのではないでしょうか。
日本でも「文化」の共有の条件は崩れ、秩序を作り出すのが非常に難しくなります。
「文化」の共有のないバラバラの個人の間に秩序を作り出すためには、中国のように管理国家化を進めざるを得なくなります。
日本でも最近、中国に倣ってか、「信用スコア」という言葉をときおり目にします。日本も、テクノロジーを使った外見上ソフトな管理国家化に進んでいくのではないでしょうか。「グローバル化」を進めるとすれば、そうでもしないと安定した秩序は作れませんからね。
いやですよね、こういう流れは。私は、日本は「文化社会」であり続けてほしいと思います。
天安門事件30年を、日本や中国の社会的特質の相違、今後の日本社会のあり方について改めて考えてみるきっかけにするべきではないかと思います。 (引用終わり) 

中国と韓国、最近何かと違和感を覚える両国ですが、やはりそこにはそれなりの理由があるのです。権力闘争に明け暮れ、それがために虐殺行為も厭わず、また、歴史を歪曲して平気でウソをつき、ねつ造したフェイクニュースを利用してプラパガンダに明け暮れる・・・。

戦前から、何も変わっていないではありませんか。なにゆえに、そういうことになるのでしょう。

彼らには、民族のアイデンティティの裏付けとなる「文化基盤」が欠如しているからにほかなりません。

それが統治を難しくして、「易姓革命」を繰り返すことになっているのです。

こうしたところを反面教師として、われわれ自身が、グローバル化の中で、失ってはいけないものを再確認しておく必要があるのではないでしょうか。

そして、総身に智慧の回りかねている大国アメリカの指導者に、根気よく説得するべきでした。至難の業かもしれませんが、それができなかったところに、今日の日本があるのです。

リベラリズムの失敗

文化190506

平成の30年で、日本は壮大な社会実験をしてきました。理念主義・設計主義=リベラリズムの国・アメリカに付き従い、新自由主義思想=市場原理主義政策を、「構造改革」という名の下に展開してきたのです。その結果は、もう言うまでもないでしょう。「構造改革」という競争政策は、労働生産性の低下を招き、デフレを定着させました。経済の成長は止まり、その悪影響が随所にみられます。最も悪影響を受けたのは日本ですが、世界の先進国も、すべて共通の閉塞感に覆われています。フランスのエマヌエル・トッドは、こうした閉塞状況を「Gloaization Fatique=グローバル化疲れ」と名付けましたが、この言葉は、あっという間に、世界に浸透しました。それではそもそも、どこが間違っていたのでしょうか。そして、これから、どうすればよいのでしょうか。 

パトリック・J・デニーンというアメリカの政治学者は、『リベラリズムは、なぜ失敗したのか?』という著書のなかで、リベラリズムは、人間を生まれながら、理性や知性を備えているものとして捉え、国や社会は、そうした理性的存在である人間が、合理的に設計していくべきものとしてみなすので、文化や伝統は軽視され、あるいは敵視され、普遍的で合理的だと思われる標準に合致した政治や経済の秩序を目指すこととなり、人々から「時間と場所の感覚」を喪失させてしまった、と指摘しています。

また、イギリスのジャーナリストのディヴィット・グッドハートは『どこかに続く道』と言う著書の中で、エリートに代表されるAnywhere族は、生活様式や思考様式に決定的な影響を与えているのは、言語的・歴史的・文化的紐帯という基盤であり、その基盤によって、われわれは安全や安定した秩序を享受し、自由を謳歌できている、という現実を忘れているのではないか、と指摘しています。そして、今回のブレグジットは、そうしたAnywhere族に対するSomewhere族の反乱である、としています。

デニーンやグッドハートの指摘が正しいとするならば、私が主張している、日本人の倫理規範を21世紀の世界標準にすべきだ、という論理に繋がります。われわれは、日常会話の中で「いただきます」「おかげさまで」「おたがいさま」「お世話になっています」といった自然に感謝し、相互依存を前提とする言葉を多用します。自然に生かされ、生きとし生けるものはすべてつながり、支え合って生きている。それゆえ、人は万物に恩を感じ感謝して生きなければならない。それが、日本人の倫理規範=エートスだと言い、これに基づく国づくりをしなければならない、と言ってきたのです。

また、今のわれわれがあるのは、あるいはわれわれの暮らしがあるのは、過去の人々のおかげである。だが、過去の人々は亡くなっているので、その人々に直接恩返しするわけにはいかない。その代わり、過去の人々がわれわれにしてくれたように、われわれは将来世代に対し、何か良いものを手渡せるよう努める。そうした「心掛けや気構え」が、リベラリズムの生み出すどこか根無し草的で、無責任なAnywhere族に対する、Somewhere族の反撃材料になるものと考えます。こうしたことが、私が、保守思想の復権を主張する背景になっています。日本人の85%は、Somewhere族だと思いますが、残念ながら、社会を主導しているのは、財務省役人や経団連のお偉方、それに付き従うエリートという名のAnywhere族、という構図になっています。Anywhere族の精神再興が、日本の課題になっていると思うのです。

浜崎洋介氏の文章から

文化190410

『表現者クライテリオン』メールマガジンの浜崎洋介氏の「日本人の人格について」という文章は、「令和」を迎えるにあたって、日本人には必読の素晴らしい文章です。読者諸兄と共有したいと思います。

引用:
前回、「令和」改元を機に、その出典である『万葉集』と、それを「危機」において、繰り返し参照してきた日本人との関係について論じておきました。『万葉集』を引き合いに出して、「『政治』によって抑圧され、排除された感情を、再び『文学』によって取り戻そうとする姿勢は、その後の日本文学を貫く根本性格」を形作ってきたのだと書きました。が、それ以上に、この「外的なもの」によって「内的なもの」を抑圧しながら、その実「内的なもの」を排除し切らず、それを密かに保存しようとする傾向、その微妙さこそが、日本人の性格なのだと言うべきなのかもしれません。

もちろん、その性格は、表で律令制国家の確立(日本の中国化)を目ざしていた古代の日本人が、しかし、その裏で、貴族から庶民までの歌を『万葉集』において編んでいた事実においても示されていました。が、それはまた、「外」に向けて漢文で書かれた『日本書紀』を正統の歴史書としながらも、「内」に向けては土着言語(神話・伝説)を保存した『古事記』を伝え続けてきた日本人の「生き方」によっても示されている性格です。
そして、この「内と外」の二重性は、まさに「真名」(漢字)を「建前」としながらも、そこからこぼれ落ちた「本音」を、「仮名」(土着の音声言語)において掬い取ろうとする伝統を形成しながら、後に「義理と人情」、「文語と口語」、「漢文脈と和文脈」、「ますらをぶりとたをやめぶり」、「洋才と和魂」、「顕教と密教」などの日本的観念に変奏されながら、私たちの生活に「かたち」を与えて来たのでした。

なるほど、それゆえ日本人は、「曖昧」だとか「二枚舌」だとかいう非難も浴びてきました。が、しかし、その「内」と「外」の回路が自覚されている限り、この二重性は、大して問題ではなかったのです。

言い換えれば、「内的なもの」に沿って「外的なもの」を「編集」する余裕がある限り、日本人は、自然に「本音と建前」を使い分けることができたのだということです。実際、中国の儒教を輸入した日本人は、その巧みな「編集」によって、科挙や宦官制度などは輸入しなかったのです。

しかし、それは逆に言えば、「編集」のための距離感=余裕を失い、「内」と「外」の回路(バランス)をなくしてしまえば、日本人は簡単に「分裂病」の症状(自然喪失の症状)を呈してしまいかねないということでもあります。たとえば、精神分析者・エッセイストの岸田秀氏は、近代日本人における〈分裂気質〉を指摘して、かつて次のように書いていました。
「一つの集団の歴史は、一人の個人の歴史として説明できるという立場に立って、私は幕末から現代に至る日本国民の歴史を一人の神経症者ないし精神病の患者の生活史として考察してみようと思う。(中略)はじめに結論めいたことを言えば、日本国民は精神分裂病的である。しかし、発病の状態にまで至ったのはごく短期間であって、たいていの期間は、発病の手前の状態にとどまっている。だが、つねに分裂病的な内的葛藤の状態にあり、まだそれを決定的に解決しておらず、将来、再度の危険がないとは言えない。現在は一応、寛解期にある。」
「日本近代を精神分析する」1975年、『ものぐさ精神分析』中公文庫所収

岸田氏によれば、「ペリー・ショック」(トラウマ)によって、江戸(前近代)のナルシシズムを破られた日本人は、その後、他者(西欧)への適応を専らとする「外的自己」と、そこから切り離された「内的自己」とに分裂していくことになります。19世紀の帝国主義時代を生き延びるために、「西欧化」(文明開化)を強いられた「外的自己」(洋才)は、その仮面をますます厚くしながら、それに関与し得ない「内的自己」(和魂)を無視し、それを無意味なもの、生気を失ったものと見做していったのでした。
が、「抑圧されたものは必ずいつか回帰」します。

そして、近代日本における、その最大の「回帰」現象、それが大東亜戦争だったのです。

つまり、「外的自己と内的自己との分裂が悪循環的に進行し、外的自己が内的自己にとって耐えがたく重苦しい圧迫となって限界に達したとき」、それまで内奥に押し込められ、現実との接触を断たれていた日本人の「内的自己」(和魂)は、「外的自己」(洋才)の仮面をかなぐり捨てて、「対英米戦争」として現れたのだということです(まるで、『昭和残侠伝』の高倉健のようです!)。

 

しかし、この日本人における「分裂」は、決して「戦前」に限った話ではありません。
「ペリー・ショック」ならぬ「敗戦ショック」によって、再び「内的自己」の抑圧を強いられた「戦後日本人」は、今度は「平和と民主主義」を「外的自己」の仮面としはじめるのです。

そして、国際社会に対して「憲法九条」(建前)を高々と掲げながら、その裏で、「国家」に対する欲望(本音)を「経済戦争」のなかに見出していったというわけです。なるほど、それも、「外的なもの」への適応によって、いつか「内的なもの」が取り戻せるという幻想が生きられていた冷戦期(戦後の昭和期)はよかったのかもしれません。

が、その「夢」も、「平成デフレーション」の三十年間で、完全に潰えてしまった。
戦後45年もの間、アメリカへの適応を習い性としてしまった日本人は、冷戦が終わっても、なお対米依存の悪癖を払拭することができず、「日米構造協議」(1989年)から「年次改革要望書」(1993年)に至るまでの流れ(グローバリズム)のなかで、それまで辛うじて担保していた自己表現の回路(経済成長)さえ失ってしまったのでした。

しかし、だとすれば、今、再び、「外的自己(対米依存)が内的自己(日本人の生活意識)にとって耐えがたく重苦しい圧迫となって限界に達し」はじめていると言えはしないでしょうか。

もちろん、だからと言って私は、単に「内的自己」を取り戻せばいいと言っているわけではありません(それでは、「戦前」の二の舞です)。なるほど、「外的自己」を排して「内的自己」に回帰すれば、「内」と「外」の葛藤は解消されます。が、それによって、私たちは「内」と「外」の回路=バランスをも見失ってしまうことになるのです。

その意味で言えば、やはり問題は、どちらか一方を取ればいいという話ではない。

そうではなくて、いかに「内的自己」と「外的自己」を循環させ、均衡させ、その両者を包括し得る「人格」(自己同一性)を立ち上げることができるのか。いつでも問題は、その「人格」の立ち上げ(真のナショナリズム)にこそあるのだということです。そのバランス感覚は、日本人が生きてきた過去からの「持続感」の上にしか築けないことだけは確かでしょう。

来たる「令和」の新時代を、「分裂」の時代とするのか、「統合」の時代とするのか。それを決めるのは、私たち一人一人の歴史意識だと言っても過言ではありません。(引用終わり)

 

日本の文化力は大丈夫か(2)

文化190307

前回、言葉の問題から、日本の文化力衰退に触れましたが、中間層の縮小による衰退を危惧する人もいます。『表現者クライテリオン』に投稿された施光恒氏です。全く同感です。引用します。

引用:

「江戸の園芸熱──浮世絵に見る庶民の草花愛」という展覧会を見てきました。
江戸時代の日本では、当時、世界一といっていいほどの園芸文化が花開きました。武士から庶民まで、非常に多くの人々が園芸に興味を持ち、庭木や草花を育てていました。品種改良も盛んで、江戸生まれの園芸植物は、欧米の園芸文化の発展にも大いに寄与したと言われています。
江戸時代の園芸文化の隆盛は、浮世絵にも大いに表れています。人々の日常生活を題材とした浮世絵に多種多様な鉢植えや庭木、草花が描かれています。

江戸時代の人々がこれほど園芸に親しみ、江戸の園芸文化が大いに栄えた理由について、植物学者の中尾佐助氏はかつて、「庶民までをふくめて日本人に中流意識が普及した」ことが一因ではないかと述べていました(『花と木の文化史』岩波新書)。

つまり中間層が分厚く存在し、多くの人々がいくばくかのお金と余暇を園芸につぎ込めたことが、園芸文化が非常に栄えた理由ではないかと推測するのです。
中尾氏は、江戸時代の人々の識字率の高さや階層間の通婚の多さなどに触れつつ、「江戸時代は士農工商の階層構造の社会のようにいわれるが、それは表面的な建前であって、実質的にはかなり違っていた…」と述べています。特に、江戸時代も後半に至ると、実際は、中流意識を持った人々が分厚く存在していたのではないかと見ます。こうした分厚い中間層の存在が、江戸時代に世界最高水準の園芸文化が花開いた要因だったのではないかと指摘するのです。

アニメや漫画、ゲームなどの現代の大衆文化も、同じことが言えそうです。

日本の大衆文化が、海外の人々まで引き付ける力を持ち得たのは、やはり、日本社会に分厚い中間層が存在し、多数の人々がある程度のお金や余暇を費やしつつ趣味に熱中できたからではないかと思うのです。
特に、昭和から平成にかけて「一億総中流」などと言われたころに、魅力的なコンテンツを多数生み出すことができたことが大きいのではないかと思います。
ただ、そうだとすると、今後のことが少々心配になります。なぜなら、ここ20年間の新自由主義に基づく構造改革の結果、日本の庶民がだんだんと生活のゆとりを失ってきているからです。
ひと月ほど前ですが、興味深い記事がありました。
三矢正浩「『無趣味になっていく日本人』の実態と背景事情」(『東洋経済オンライン』2019年2月)この記事の著者の三矢氏は、博報堂生活総合研究所(生活総研)の時系列調査の結果などを参照しながら、日本人の趣味の変化について語っています。
それによると、この20年間で一番はっきりと見えてくることは、残念ながら、日本人の「趣味離れ」なのです。時系列調査で扱っている50種類の趣味・スポーツのうち、「2018年にスコアが過去最低を更新したものは、なんと29項目。全体の6割にも」及ぶと報告されています。
三矢氏はこの原因として、可処分所得の低下などに見て取れるように、この20年間、日本人の生活が貧しくなり、趣味に余裕をもって取り組むことが難しくなったことをあげます。つまり、経済状況の悪化が、日本人の趣味離れを招いていると指摘しています。趣味のサークルや団体に参加しなくなったことの背景にも、一つは経済的要因があるでしょう。

90年代以降、経費節減、あるいは企業に関する考え方の変化(「従業員の共同体」という見方が薄まり、「株主に奉仕する利潤獲得のための組織」という見方が強まるなど)のため、趣味やスポーツのサークルがある職場は減ってきています。趣味にお金や余暇を費やすことができる余裕ある中間層が減ってきているわけです。趣味を通じて、人々がつながりをもつ場も少なくなってきています。これでは、日本の大衆文化の力は弱まっていく一方でしょう。

相変わらず、政府は「クールジャパン戦略」なるものに力を入れていますが、こんな政策は小手先のものです。魅力的な大衆文化が栄える社会的条件を整えることに力点を置くべきです。
つまり、分厚い中間層が育まれる経済政策や社会政策をとることです。

日本人の大多数が余裕ある生活を営み、お金や余暇を安心して趣味に費やすことができる経済的条件を整えなくてはならないでしょう。また、職場や地域社会で、趣味やスポーツのサークルや団体が広がるような社会的条件も整えるべきです。
これは、現在の新自由主義に基づく構造改革路線との決別を意味するはずです。
そうしなければ、日本の大衆文化、ひいては日本文化の力が次第に弱まっていくのを避けることはできないのではないかと思います。(引用終わり)

 

アメリカに追随するしか能のなかった平成の指導者の不見識が、こんなところにも露見してきているということでしょう。そういう経緯を踏まえて、今後どうすればいいのか、という問題意識を持たなければなりません。ここにも書かれてある通り、大衆文化が栄える社会的条件を整え、分厚い中間層が育まれる政策を実行すること、です。

すなわち、現行の新自由主義に基づく構造改革路線と決別して、かつての混合経済体制に戻し、「一億総中流」社会を目指すことです。企業経営者は、「日本的経営」に回帰することです。

日本の文化力は大丈夫か

文化190306

人間は言語でものを考える。言語の限界が思考の限界なのである。一切の思考活動は、言語活動とも言えるのである。だから、母国語といった思考の基盤は、大切にしなければならない。

語彙が豊富だ、ということは、それだけ概念の幅が広く、思考が深堀りされ、正確に記述されているということである。母国語による文章を読むことにより、論理力が鍛えられるとともに、その内容から、情緒も感得し、道徳や倫理にまで影響を与え、それが民族のアイデンティティにつながる。

 

一方で、使用する言語は、それ自身である特定の価値を表現することがある、ということも理解しておかなければならない。

ある意味で、言語によって、そこに表現された概念は、一人歩きを始めてしまう。特にカタカナ言葉は要注意である。

コンプライアンスとか、アカウンタビリティといった言葉は、グローバル化によってもたらされた株主資本主義・金融資本主義を、肯定する価値観が含まれている。

「忖度」という日本語は、本来、空気を読み気を利かせる、という日本社会の肯定的な道徳観であったが、昨今の官僚の文書改竄、統計改竄の不祥事によって、すっかり悪いイメージにすり替わってしまった。大抵は、コンプライアンスやアカウンタビリティの観点からは、悪である。

 

こうした時代の流れの中で、徐々に社会規範が変化し、民族の持っていた「価値観」までもが変化する、ということはある程度は致し方がない。しかし、現状の流れは、本当にそれでよいのだろうか。現下のグローバリズムは、日本を抑え込むためのアメリカ資本の「卑しい精神」から出ずるものゆえ、いずれ破綻する。アメリカの分断、米中の覇権戦争、EUの混乱は、その前触れである。

内政干渉の大義名目がグローバリズムであり、「構造改革」という理不尽を強いられたに過ぎない。

そして、そういう理解が未だ一般化せず、今度は、中国がグローバリズムを掲げて国益を追求しようとしている動きに乗っかろうとしているのが、政財界の主流派である。全く政治音痴が揃っている。

 

こういうことだから、私の目下の危惧は、日本が日本たらしめていた要素がますます薄弱になって、民族の衰退を招く結果になるのではないだろうか、ということである。

例えば、日本人は、卑怯なことを憎む、という規範の強い民族であった。だからこそ、『孫子』という軍法書だけでなく、『闘戦経』という軍法書も書かれたのではなかったのか。正々堂々と死力を尽くして真正面から戦いに挑む、ということも、場合によっては必要だ、ということである。

また、「判官びいき」という言葉もある。敗者にやさしいのである。武運つたなく、敗れ去ったとしても、その敢闘精神をほめたたえ、長く語り継いできたではないか。義経ものや忠臣蔵は、いまでも人気演目である。お隣の「易姓革命の国」中国や韓国では考えられないことである。彼らは、統治の正当性を確保するために、常に政敵を弾圧し、不都合な歴史を改竄することを繰り返す。

 

日本のGDPの世界シェアは、一時の三分の一まで落ち、小国化が進んでいる。総中流社会から、格差が拡大し、少子化が進み、地方では存立の基盤が危うくなってきた地域も出てきた。にもかかわらず、それに対する因縁果を誰も追求しようとはしない。日本には、「武士の情け」があり、「言挙げ」しない国民、ということなのだろうか。白黒つけずグレー部分を、そのままはっきりさせないで、傷つく者を救済する。そういう社会の「掟」があるような気がしてならない。

 

誰それを糾弾するということではなく、国家や会社においては、「学習する組織」にしていかないと、また同じ失敗を繰り返す。事実、戦闘こそなかったが、アメリカにまたもや経済敗戦を喫し、閉塞感あふれる社会にしてしまったではないか。それでも、穏やかな平和が続いており、諸外国のような暴動にはなっていない。日本の文化力のなせる業のように感じているが、その肝心の文化力さえ、使用言語の変化から、いつまで維持できるか、というところまで来ているような気がしている。

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