著作集より

20年度学校重点方針                           平成20年4月4日

1.あたりまえのことが、あたりまえにできる組織にすること

  1)8時40分になったら、担任は教室に行き出欠をとること

  2)担任はしっかり清掃活動ができるクラスをつくること

  3)職場ごとに最後に帰る人はチェックシートに基づき戸締り等をすること 

2.報告・連絡・相談を、しかるべき時期にしかるべき人にしっかりおこなうこと

  生徒に関する情報交換をタテ・ヨコ・ナナメでよくおこないしっかり教職員全体で

  生徒に付加価値をつけること(知徳体にわたり大人に近づける)

  1)そのための方策として、(インフォーマル)コミュニケーションを心がけること

  2)そのための方策として、やっていることを徹底的に見直し教師自身が「ゆとり」をもつこと(手段の目的化を徹底して廃する) 

3.今年は多忙化解消に積極的に取り組む。昨年は工業高校副校長会の発案で、工業クラブの発表会と県の顕彰制度をとりやめた。

  1)工業部会としての多忙化解消策は何か

  2)学校としての多忙化解消策は何か 

4.朝読書は現行とおりとする。今後、朝読書の時間が有効におこなわれているかどうかは、学年長が責   任を負う。その他、読み書き計算力をいかに伸ばすかについてはチームをつくり検討する。 

5.しらけどり撲滅作戦を展開する。

  盛工生には「何かに熱中しろ」といいたい。クラブ活動で挫折しても、担任と科長が責任をもって新たに熱中できるものを探してやってほしい。若いときの時間は貴重である。「君たちがやるべきことはすべて学校にある。」指導方よろしく。 

6.入口対策担当   電気科長  土木科長  工業化学科長  による中学校まわり 

7.出口対策担当   進路部及び各科長  一流企業就職毎年3社ずつ増やす 

8.授業力強化    授業評価結果を参考にした教科別検討会 「鉄は熱いうちに・・・」 

                          

入学式式辞                 

本日は、ご来賓の皆さま並びに多数の保護者の方々のご列席の下、平成20年度入学式をとりおこなうことができますことを、心から御礼申し上げます。

本年度は、289名の新入生を迎えました。皆さん、ご入学おめでとうございます。

また、保護者の皆さまにおかれましても、さぞお喜びのことと推察いたします。

衷心より、お喜び申し上げます。

さて現在、工業高校はいろいろな意味で脚光を浴びています。

まずは、県の産業振興策の一環として、工業高校が位置付けられていることです。県は、「ものづくり企業」の誘致をてことして、雇用確保と県民所得の向上を図ろうとしています。関東自動車の増産も決まりましたし、東芝半導体工場の北上進出も本決まりのようです。こうした大企業の進出を、今後、地元地場企業がどのように活用していくかが大切です。品質・価格・納期等のレベルアップのきっかけにしてほしいものだと思います。

ここ十数年、輸出する工業製品はどんどん付加価値の高いものにして、日本のメーカーは力をつけてきています。最重要の部品だけを日本で作り、中国で組み立て、アメリカへ輸出するという貿易パターンになってきました。

更に、イノベーションの種が多くの分野で、明確な形になってきました。例えば、テレビは液晶ディスプレイとプラズマディスプレイが競争していますが、第3の方法として有機ELと言う方法も、実用化されています。これからとても楽しみです。

大企業ばかりでなく、中小企業においてもニッチな分野で、世界の何十%ものシェアを獲得している企業が日本には少なくありません。岩手県にもそうした逞しい企業も数多くあります。

今年は年初来から円高が話題になりました。しかし、1990年代の円高のときとは、様変わりしています。悲壮感はありません。それだけ製造業の国際競争力がついてきたのです。日本のものづくりは、今、輝いています。

そういうことがわかって、皆さんが盛工を選択したのならば、すばらしいと思います。

ものづくりは人づくりとよくいわれます。技術・技能の伝承はマニュアルだけでは難しい。なぜかというと、暗黙知といって人から人へとしか伝わらない知恵があるからです。職人技といわれる分野が典型的だと思います。皆さんには、3年間の体験を通じて、是非ものづくりの面白さを感じてもらいたいと思っています。

さて、盛岡工業は勉学や技術の習得だけでなく、クラブ活動にも力を入れています。

レスリング、アーチェリー、ウエイトリフティング、ラグビーの4つのクラブは県の強化指定になっていますし、ソフトテニス、スケートは強化推進校になっています。陸上部をはじめ、その他のクラブも、昨年は立派な成績を収めています。

また、ロボット大会や省エネ自動車レース、高文連のマーチング大会全国大会出場や世界アーティストサミットへの参加等、先輩たちはいろいろな分野で、めざましい活躍をしています。若いときに何かに打ち込めるということは、とても良いことです。そういう人は、社会人になっても、ここぞというときに踏ん張りが利くのでしょう。総じて、社会へ出てからの評価も高いようです。就職にしても、進学にしても安定的な数字が残せています。こういうところが伝統校のブランド力といえます。今年秋に、110周年記念行事をおこないますが、伝統の重みを感じていただきたいと思います。

繰り返しますが、どうか、新入生の皆さんも、勉強以外に、何かに熱中できるものを持ってください。若いときに何かに熱中するということは、とても大切なことです。

最後になりましたが、新入生の激励のためにご多忙中にもかかわらず、ご臨席いただきましたPTA会長さま、同窓会会長さまをはじめ多数のご来賓の方々には心からの御礼を申し上げます。

新入生諸君が、ここ盛工で 充実した3年間を送ることができるよう、祈念して式辞といたします。 

   

職員会議資料                       平成20年6月18日 

コンセプショナルスキルということ 

職業人とは、仕事をして報酬をもらい経済的に自立できる人のことである。組織で仕事をするということは、その仕事を通じて誰かに満足感を与え、そのことにより、自分も働き甲斐を感じるということである。そういうことを繰り返すうちに、組織の人々から信頼を得、より高度な仕事を任してもらえるようになる。いわゆる出世をするということである。個々の仕事に必要な実務知識(technical skill)と他の人を巻き込む人間関係能力 (human relation skill) は仕事を始める最初の段階から必要である。しかし、職位があがり、より難しい仕事になると、これだけでは足りない。これまでの経験を踏まえ、その組織を貫徹する「ものの見方・考え方」を発見し、それと整合する企画を立てていかなければ、却下され、上司の信頼は得られない。組織の課題を正確に理解し、優先順位について上司と認識が一致していなければならない。意見が違う場合は、冷静に事実に基づき相手を説得する必要がある。人間関係能力の必要性はいくら職位が上がっても変わらないが、職位が上がるほど、実務知識に変わってこの「考える」能力要件の重要性は比重を増してくる。トップに近づけば、もうその人の経営に対する理念や人生哲学の問題になってくる。こうした「考える」という能力要件をコンセプショナルスキル (conceptional skill) という。

それでは、このコンセプショナルスキルはどのようにしたら身につくのか。それは、より多くの考える視点(point of view)を持っているということ、即ち本当の意味で「教養」(culture)があるということであろう。活字や人の話から学ぶということが習慣化されており、多くの学びから自分の頭のなかで反芻・編集し定着させる・・・そうした繰り返しの作業の積み重ねでしか得られるものではない。一朝一夕には身につくものではないのである。知的な喜びを感じる体験が出発点で、これを私は「知的テイクオフ」と呼んでいるが、果たしてどれぐらいの高校生がこのテイクオフを体験して卒業していくのだろうか。

また、学校の教師という職業人の三つのスキルは具体的にはどのような能力を言うのだろうか。授業力はテクニカルスキル、クラス運営や部活指導、分掌業務遂行力はヒュマンリレイションズスキルと言えるのだが、コンセプショナルスキルらしきものを鍛える仕事が見当たらない。校長になると、学校経営などということをいわれ、このスキルを磨いてこなければリーダーとして苦しむと思うが、どういう機会にそういう能力を鍛える場があるのか、ちょっと考えにくいのである。法や規則に縛られ、前例踏襲のみで運営してきた思考停止状態から、経営品質のレベルに至るのは、なるほど遠い道のりであると最近考えるのである。

 

工業高校校長各位                   平成20年7月31日

全工協(全国工業高等学校校長協議会)への疑問 

 最近、全工協の会議に理事という立場で出席し、またその後のやりとりから全工協の、「ものの考え方」に疑問を抱くようになった。まず、工業高校出身の有名人を調査し報告せよ、とか工業高校出身者からノーベル賞受賞者を出したい、とかいう発想についてである。

そういう校長先生は自校をどんなコンセプトで学校経営をしようとしているのか、甚だ疑問と言わざるを得ない。盛工では、育成すべき人材像を「技術と技能をつなぐ中堅のエンジニア」としている。そのために必要な育成ポイントを「4つの積み木」として、3年間でしっかりと身につくような仕掛けを整備してきた。一般科目は、普通科高校の6割しか授業時間が取れないから、特に入学時の読み書き計算の基礎学力が一定限度を超えることができるよう、中学側に随分働きかけをしてきたつもりである。更に、足りない分をいかにして補っていくか、学校全体で現在カリキュラムの見直しを進めている。最初のコンセプトが、即ち工業高校に対する社会的期待の認識が、ずれているとしか言いようがない校長が、まともな学校経営などできるはずがないと私は思う。ノーベル賞を持ち出すよりも、伝教大師の「一隅を照らす、これ国の宝なり」の精神を教えるべきだ。

 また、岩手・宮城内陸地震の復興ボランティアを募集するという。誰が面倒みるのか知らないが、来られた方も迷惑だと思う。そして何よりも、工業高校生には、他人の世話をするより自分のために本の一冊でも読めと言いたい。現実にしっかりと向き合うべきである。大学進学率が上がった都会の工業高校は「落ちこぼれの受け皿」になっていると仄聞する。新しい産業振興法制定に向け努力することに水をかけるつもりはないが、工業高校としての体をなさない学校が出てきていることに危機意識はないのか。まず足元を固めてから、他へ働きかけるべきではないのか。学校現場がいろいろな課題を抱えて大変なことは誰よりも私自身が実感している。実態を知らない素人の提言に、プロの文科省が反論できていない状況が臨教審以来続いている。今回の学習指導要領改訂も、中教審の答申の総花的な内容の丸呑みである。優先順位も何もない。文科省にプロとしての見識は微塵も感じられない。中央官僚の知性の劣化が甚だしい。また、学校現場も「お上意識」が抜けきれず、従って自分の頭で考えるという習慣が身についていない。教員ムラ社会という狭い社会と上意下達システムに慣れきっている先生方は、コンセプショナルスキルを磨く機会を与えられないまま校長になる。よくいわれる「人格・識見」のうち識見は経験を踏んできたというだけという人物もいる。大分県で不透明な人事が問題になっているが、こんなところに根本原因があるのだろう。そして、すべての根幹にあるのがグローバリズムに対応するという名目でなされた、角を矯めて牛を殺す類の「改革」であり、その結果としての日本人としての価値観の喪失ではないか、と考えている。

 

職員会議資料                        平成20年5月19日

英語教育について  

私の遠縁に中野好夫という英文学者がいる。英文学者のくせに「英語のできる奴は馬鹿ばかりだ。」とよくこぼしているという話を、昔聞いていた。

私自身、かつて働いていた会社で「MBAというのは、るでかのつまりか。」と喝破した経験をもつ。おかげで私の方は、国際化していく会社のなかで、だんだん席が窓に近いところに移っていった。しかし、古巣の現状を見聞きするたびに、私の方が正しかった、と今でも思う。改革という名の破壊であったとしか思えないのである。

さて、英語教育についての論議がかまびすしい。「グローバル化が進展するなかで、英語を自由に扱える日本人を増やさなければ、日本は世界の孤児になりかねない。企業の人材募集もそうしたニーズは強まっているし、管理職試験にTOEIC等を導入している会社も多くなっている。」英語教育推進派の言い分のここまでは理解できる。しかし、なぜそのことが小学生から英語を学ばなければならないのか、そこが問題である。生徒たちの実態を見ていないとしか思えないのである。

アメリカ国務省の外国語習得難易度によれば、日本語はアラビア語と並んで最も習得が難しい言語のひとつになっているという。相手から難しいとされることは、こちらからも難しいのは当然であろう。日本人が英語をものにするには、それだけ時間と労力をかけざるをえないということである。英語ができる奴は馬鹿が多い、というのは、それだけ英語に時間と労力をかければ、他の勉強をする時間がなくなるということであろう。

確かに、映画や英語の小説などを理解するのは本当に難しい。Slungが多いし、発音も方言が入ればお手上げである。しかし、ビジネスの世界や学術的な分野では、technical termが多いので、それさえ覚えればそれほどの苦労せずとも何とか通じる。私もインドの子会社勤務を打診されたことがあったが、とにかく現地の人になめられないように「俺は怒っているんだ。」ということさえ理解させられれば何とか勤まるよ、といわれたものである。

現在も盛岡工業高校の校長として、英文の卒業証書を発行することが度々あるが、就労ビザ用である。一人前の技術者になれば、海外子会社の現場指導者として、あるいは管理者として渡航せざるを得ない経済環境になっているのである。その卒業生たちが、英会話力が堪能だとは思えない。それよりも度胸であろう。何とかコミュニケーションを取りたいという熱意であろう。子供の方が対応力があるのだが、素直な心、わだかまりのない心の、なせるワザのような気がしてならない。経産省のいう社会人基礎力の「前に踏み出す力」の方が、大切だと思う。

さて、肝心の英語教育であるが、来年から小学生から英語の時間を設けるという答申が中教審から出された。今の子供たちの現状を知っていてこんな答申を出したのか、本当に首を傾げたくなる。日本語の読み書きがこれほど水準が下がっているのに危機意識を抱かない方がどうかしている。限られた時間なのである。どちらが優先順位が高いのか、そんなこと言うまでもないであろう。高校までの中等教育までは、しっかりと従来の枠組みのなかで教育すればいい。英語を武器に職業を選択するというのであれば、大学からもっともっと日本人は英語圏の大学に留学すればよい。先ほどMBAを誹謗したが、彼らは日本人のいわゆる「教養」に欠けるからで、実感がないと理解しにくい経営学を英語で講義を受け、英語の教科書で勉強して単位を取ってきたのである。それはそれですごいなと少々私はコンプレックスを抱かざるをえない。また、日本の大学ももっと外国人に開放し、留学生を受け入れればよいと思う。他の言語の習得の機会にもなるし、なによりも勉強しなくなった日本人学生の刺激になるだろう。

繰り返すが、職業を睨んだ段階である大学等の高等教育でこそ、生きた語学学習を位置付けるべきで、高校以下の中等教育レベルでは、もっと日本人としてのアイデンティティの習得に意を用いることが必要であると、高校の現場にいて考えざるをえない。「バツが悪い」とか「蚊帳の外」といっても通じない生徒を前にして、何とかしてくれよと叫びたくなるのは私ひとりではあるまい。それほどかように日本語力の衰退は深刻である。おそらく家庭での会話ゼロ、新聞も取っていない家庭で育つと、こんな日本人になるのだろう。子供は言葉を浴びて育つのであるが、格差社会のなかで、とても教育的とは言えない家庭環境で育った子弟も預かっているのである。人間は言葉で思考するのである。言語力が貧困ということは、思考力が貧困であることと同義である。ピーター・フランクルも、祖国ハンガリーのノーベル賞受賞者が多いのは、ハンガリー語が難解であり、その習得に時間をかけざるをえないからだと言っている。

国際化の進展のなかで、猿真似グローバリズムのために、日本人の劣化が進んでいるとでも表現した方がよい状況である。しかるべき人たちの覚醒に期待したい。

なお、ここで「英語ができる」というのは、英文のナナメ読みができるレベルのことで、高校で英語の教師をしている人が常識に欠けるとは言っていないので、誤解のないように願いたい。

 

学校改革の方向性                     平成20年7月31日 

東京都和田中学での民間人校長藤原和博氏による学校改革が、橋下大阪府知事が取り上げたことで、再度注目を集めている。同じ民間人校長として、義務教育である中学校と高校の違い、都会と地方の違いはあるが、まず、彼の取り組みを考えてみたい。

公立中学における学力格差を目の当たりにして何とか「浮きこぼれ」も「落ちこぼれ」も出さないようにしようとした。その狙いは同じ学校現場にいる者としてよくわかる。

その手法が夜スペシャルという外部進学塾の活用である。公立中学と進学塾の提携というのは、なじまない。そこで、地域本部というものをあみ出して、そことの契約という形をとった。民間感覚からいくと生徒・保護者は顧客、地域住民が株主、校長を始め管理職は取締役、教職員は従業員、進学塾は構内下請、という位置付けは至極わかりやすい。しかし、そういう位置付けは、保護者をして学校を教育サービスを享受する場として認識させる。また、生徒をして教師と対等という誤ったメッセージを送ることになりかねない。やはり、学校は学校であって、資本主義社会の企業とは別物なのである。

更にこうした個々のユニークな取り組みが、公教育のなかに点在することが正常の姿とは思えない。そこで私は、他の校長先生方の考え方を聞いてみたい。賛同して追随した話を聞かないからだ。おそらくスタンドプレーとして冷たい視線を向けていることだろう。

また、地方にいる者にとって、彼の取り組みは理解できないことが多い。部活動はどうなっているのか、PTAはどうなっているのか、スペシャルに参加できない貧困家庭の保護者はどう考えているのか等確認すべき事柄は多岐にわたる。いずれにせよ、全く汎用性をもたない手法であり、地方では、経済的にもあるいは物理的にも真似ができない。

たまたま地域本部の支持を得られても、本来の形は30人クラスを作り、よりきめ細かく生徒に対応することであるだけに、かなりの反対論もあることは想像に難くない。

マスコミはアンチ学校なので藤原氏に好意的な扱いが多いようであるが、マスコミ受けする人物にろくな奴がいないというのが私の正直な感想である。(ただし、彼が校長職を「上がりのポスト」と定義しているのは賛同している。)

マスコミが流す学園ドラマは大抵管理志向の校長や理事長がいて、それを持ち上げる教頭がいて、そこに新任の熱血教師が入ってきて、生徒たちの心を苦労しながらつかみ、彼らが沈滞ムードの学校を活性化するというストーリーである。個性が重視され、自由を謳歌することは善であり、画一的あるいは一律・強制は悪であるというのがマスコミの価値観である。臨教審のゆとり教育もまさしくそういう価値観で始まった。

そこには、さらに欧米企業をキャッチアップし、「JAPAN AS NO.1」と持ち上げられた経済界の意向も働いていたように思う。臨教審は「前川リポート」と同じ80年代であること、85年のプラザ合意を契機として、アメリカの露骨な内政干渉が始まった時代であることを理解しておく必要がある。

グローバルスタンダード=アングロサクソンスタンダードに合致しない日本の独特の制度・仕組みはことごとく排斥された。外圧がなければ日本という国は変われないという声もあるが、本当にそうだろうか。変えるべきところ、変えてはならないところ、の峻別が間違ったとしか私には思えない。

特に、教育に関する改革はすべて失敗だったと思う。いわゆる「ゆとり教育」、週休2日制、総合学科の新設、教員免許更新制度、新昇給制度、英語教育等の学習指導要領改訂・・・

私はこの改革の理念の前提がそもそもの間違いの始まりであると最近考えるようになった。間違いに気づいたら、躊躇なく元に戻すのが常道というものだ。

ところが、全く反省することなく、教育のプロたる文科省の役人が「見識」を磨かないことに怒りすら覚える昨今である。

3年生向け進路講演                                          平成20年4月30日 

              「進路決定に向けて」

1.フリーターと正社員、大企業と中小零細企業

 ・生涯賃金=月例賃金+期末手当+退職金

 ・1000円×8h×25日×12ヶ月×40年=9.6千万円の意味   実際には5千万円

 ・大企業正社員 2〜4億円  中小零細企業正社員は 約60〜70%(1.2〜2.8億円)

 ・大企業の製造子会社や流通子会社も約70〜80%  これを日本経済の二重構造という

 ・一人当たり県民所得(2006年)  東京:4,556千円 岩手:2,363千円

2.21世紀型の貧困問題

 ・非正規労働者 全労働者の1/3を超える 特に15〜34歳労働者では1/2を超える

・ワーキングプア  (年収200万円以下) 増加 

 ・名ばかり管理職   過労死     ・パートや派遣労働   

・ひきこもり ニート ネットカフェ難民  パラサイト(親に寄生) 

3.中央と地方

 ・生涯賃金と生活水準は必ずしも連動しない  例えば東京は家賃2〜3倍

 ・地方のよさ:稼ぎ手を増やす工夫 3〜4世代同居 近所づきあい 農業+アルファ

4.雇用される能力(エンプロイアビリティ)とは

 ・おじさん、おばさんが「一緒に仕事したい人」 服装・挨拶・礼儀・・・

           正直であること、誠実であること、素直・謙虚であること

           日本語が通じる人、日本語が書ける人、計算ができる人

           学ぶ姿勢のある人、考えて自分から仕事を工夫する人

           人や社会に関心のあること(仕事への関心に通ずる)新聞を読め

 ・30歳以上になったら、それなりのスキルがあること(3年以内はキャリアに入らない)

             履歴書にストーリーがない人は面接すらしてもらえない。

5.「経済的に自立できること」は「幸せになること」の必要条件

 ・必要条件の意味?

 ・お金は決して目的にはなりえない。しかし「衣食足って礼節を知る」のも事実。

6.会社の選び方     (進学の場合も上級学校の出口を確認のこと)

 ・初任給や休日の多さで選ぶのは愚の骨頂

 ・「どういう教育計画を立てて新入社員を待っているか」を学校で調べる

 ・「従業員を大切にしているか」 生涯賃金や35歳・50歳年収を学校で調べる

・「どういう強みを持っているか どこで勝負しようとしているか」が 明確か。

・「どういうことで世の中のお役に立とうとしているか」という経営理念が 明確か。

7.「思考は現実化する」・・・どういう人生を歩みたいのか、「志」をもって人生設計する

          やりたいことが見つからない・・・とりあえず何ごとかに熱中せよ。

 

中学生の皆さんへ                      平成20年7月28日  

 中堅の技術者を育てるというのが、盛工の建学の目的です。それでは、中堅の技術者とはどのような人のことをいうのでしょうか。私は次のように考えます。

大企業でいえば、職長クラスであり、例えばひとりで海外子会社に技術指導できる人というイメージです。最新鋭の技術と、現場の知恵の集積たる技能を、結びつけることができる人という言い方もできます。中小企業でも、工場長や製造部長といったクラスが同じような機能があるのではないか、と思います。日本の製造業の強みは、実は現場力であって、これを担ってきた人材がこの「中堅の技術者」であると考えています。

これからは更に、技術・技能を修得したあと、ふるさとへ帰って起業するぐらいのバイタリティあふれた人材を育成したいと思います。 

日本のメーカーは、国際化の進展にあわせ製品をどんどん高度化させ、汎用品から付加価値商品に切り替えながら実力を蓄えつつあります。これから、日本メーカーの黄金時代がくるだろうと思います。団塊の世代の後任に、優秀な人材をどんどん供給していきたいのですが、工業高校の現実は企業側の要請に充分応えられていません。 

ものづくりは人づくりとよくいいます。ものづくりをうまくやっていくには、人づくりから始めないといけないということと同時に、ものづくりをやっていると自然と人づくりになっているということがあります。すなわち、ものづくりは人を成長させるという面を持っています。

製造現場では、起こっている現象は事実としてそのまま受け入れる必要があります。理論上おかしいといっても事実が優先します。そこに素直で謙虚な精神が醸成されます。

そして、そういう現象がなぜ起こるのかを追求しなければなりません。原因を究明するために、なぜ、なぜ、なぜ・・・と深くものを考える習慣が身についてきます。

また、ものごとというのはそう簡単にうまくいくものではありません。失敗の連続で絶望的な状況に追い込まれることもあります。「プロジェクトX」は日本の製造現場のあちこちにあるわけです。そこで打たれ強さとか粘り強さが醸成されるのです。 

日本の製造業の新商品開発とか新技術開発は、経営者と技術者と労働者が同じナッパ服を着て同じ食堂でメシを食いながらチャレンジします。そこに日本の製造業の強みがあります。日本は欧米のような階級社会ではありません。また、事業を簡単に売ったり買ったりするような価値観では割り切れない何物かがやはりあるのです。会社は最終的には、株主のものではあっても、社員や取引先などのいろいろな会社を取り巻く関係者に気配り心配りをして、社会との調和を図らなければ長期的には企業は存続しえないという、伝統的な価値観があるのです。近江商人の「三方(買い手・売り手・世間)よし」の商人道が典型です。 

盛工は、8学科ありますが、入学したら学科変更は認められません。卒業したら学科ごとに同窓会があります。職員室も20もあり、いわば8つの高校の集合体のような学校です。3年間同じクラスにいるわけですから、高校の友達は一生のかけがえのない友達になりえます。しかし、逆に人間関係が壊れたら学校に通学するのが苦痛であるというケースもありえます。どうか、盛工へ希望する生徒は人間関係にタフな、少なくとも標準以上のレベルであることを学校側として希望します。

また、工学の基礎を勉強しますが、すべての学科において数字が出てきます。論理的に、理詰めにものごとを考えていくときにどうしても数学を使います。少なくとも数学や理科は、中学校の時代に興味を持って人並み以上に取り組むことが必要です。

盛工は、皆さんよくご存知のとおりクラブ活動が大変盛んな学校です。できるだけ伸びやかにクラブ活動ができるように学校も配慮しています。クラブ活動により、学ぶ姿勢・考える習慣や人間関係構築能力などの社会人基礎力をつけています。そんな盛工へ来て是非たくましさを身につけてほしいと思います。

盛工は、今年創立110年になった伝統校です。それだけ、先輩が実社会で活躍しているということです。社会に出てからいろいろな場で盛工のありがたさを感じる人が多いようです。

県は、財政難のなかでも産業人材、ものづくり人材の育成に力をいれています。工業高校は普通科より先生の数は5割増で配置されています。私たちも、それだけの値打ちを出さないといけないと考えています。職場で必ず頼りにされる、技術と技能をつなぐしっかりした中堅の技術者の育成にまい進する所存です。

職員会議資料                       平成20年12月16日

日本の社会と数学教育

先日、数学の授業力向上研究授業が盛工で行われ、後の検討会に立ち会った。そこで普段数学教育について考えていることを、県教委指導官に伝えるという機会を得た。そこでの私の意見陳述の概略は以下のとおりである。

1.工業高校における数学教師の役割

  工業高校は工学の基礎を勉強するところである。ところが、入学試験の数学の点数を見ると、工学を勉強しようという生徒なのか疑問符をつけざるをえない者も受け入れているのである。そういう工業高校の数学教師が、一度も専門科目の教科書を見ていないという。実に怠慢である。生徒本位という理念が未だに浸透していないことに、失望を禁じ得ない。

  タテ・ヨコ・ナナメの情報交換をしっかりして、生徒に付加価値をつけてくれという年初の校長方針も充分達成できていないことも意味している。

  工業高校における数学教師は、生徒の専門科目の修得にも関心を持ち、工業科の先生方と連携を図ることを使命と理解してほしい。

2.入試対策としての数学教育

  一般入試で大学受験する者がほとんどいないので、盛工ではあまり考慮に入れる必要はないが、数学が一番差の開く学科であることを数学教師は意識しなければならない。

  中学校で週3時間しか授業がないという話だが、何を寝ぼけたことを言っているのかと中学校側に言いたい。学習塾が普及してないのだから、倍の6時間ぐらいを確保すべきだと私は思う。そうしてやらないと、岩手の子供たちがかわいそうだ。

3.科学技術の前提としての数学教育

  一般的に官民を問わず日本の組織は、建設的な議論がしにくい組織風土であることが多い。反対論をぶつと人格まで否定されたと思う人が多いからだろう。農耕民族のムラ意識がそうさせる。特に教員世界は、校長でも過去を否定するような発言をすると、「誰のおかげでおまえは校長になれたのだ。」という圧力が、退職校長からかかるムラ社会なのである。しかしこれは日本人が意識して変えていかなければならない点だと思う。そのためには、数学教育をもっと充実させる必要があると私は考える。数学でもっと論理的思考力をつけないと国際化の時代、特にアングロサクソンと対峙していけない。彼らは都合が悪くなれば、実に巧妙にルールの変更をおこなう。しかも一見するともっともらしいのである。日本人ももう少し論理的にやっていける民族になる必要がある。

  校長仲間と話していても、この人、高校時代は余程数学ができなかったのだろうなと思う人と出くわすことがある。発言が感情的・情緒的なのである。日本全体で、科学技術の基盤でもある数学教育を充実させることが肝要だと考える。

職員会議資料                         平成20年7月8日 

「大人の学力不足」            

 随筆家の沢口たまみが、幼稚園児に自然のすばらしさを教えてくれと言われて、どうしてよいかわからず困っていた。とりあえず身近な虫箱を用意して、いろいろ幼児言葉で虫に話しかけながら説明しようとした。そのうち、虫を触れなかった女の子が平気で触り出した。どうして触れるようになったの、と聞くと「だってあのおばちゃん、あんなに楽しそうに虫さんとお話しているんだもん。」と言ったという。「そうか、うらやましがらせるといいんだ。」と思ったという。

この話、教育の原点を教える上で、示唆に富んでいる。学ぶの語源は「まねぶ」であるという。背中で教えるというか、子供たちは大人の様子を敏感に感じ取っているのではないか、と思う。勉強というのは、自分でするものだ。孤独な行為を繰り返すことでしか身につかない。その行為が持続するということは、なんらかのインセンチィブがあるからだ。大抵の場合、あこがれとか尊敬とかのリスペクトが原動力だ。ああいう風になりたい、一歩でも近づきたい、という存在は、単調な作業の後押しになってくれる。教育の現場は「そったくどうじ」が原則だ。授業は親鳥の誘導でしかない。しかし人間にはその誘導が大切だ。誘導できてこそ「教壇に立つ」値打ちがある。生徒の一段上にいることが絶対条件である。歴史の先生は、歴史を勉強することの面白さを目を輝かせて語ってほしい。数学の先生は、思考のプロセスを生徒と同じ目線でたどってほしい。そして解を見つけたときの感動を知らしめてほしい。工業の先生は、ここまで人間わざでできることを自慢してほしい。そうした授業から、生徒はきっかけをつかみ、自主的に勉強するようになる。「知的テイクオフ」の始まりである。知識は更なる知識を要求する。技能のレベルアップは更なる極みへと誘う。教える内容の五倍は知識がなければ、面白い授業はできないはずである。ところが、教育の世界へ入って5年、実に多くの専門性の欠如した勉強不足の先生に遭遇してきた。網野善彦を知らない日本史の先生、塩野七生を語れない世界史の先生、住宅性能表示制度を知らない家庭科の先生、腸腰筋を知らない体育の先生・・・。

また、高校の先生は自然科学系と人文科学系と体育会系ばかりで、社会科学系がいないことも問題だ。人の育成に関心があって教員になったはずである。人の集合体である社会にも関心があってしかるべきである。しかし、これほど社会に無関心な集団もめずらしい。進路指導など世の中のことがわからずにできるはずなどないではないか。加えて学校には裁量権がほとんど存在しないから教員はコンセプショナルスキルが磨かれない。上意下達に慣れきって自ら考えて提言するという経験がほとんどない。開かれた学校という方向が出ているにもかかわらず「ステークホルダー」という言葉を知らない校長たち、県が自動車産業を誘致し産業振興し雇用確保しようとしているのに「産業クラスター」という言葉も知らない工業高校の校長たち・・・普段、新聞を読んでいたらそんな言葉ぐらいいくらでも出てくるではないか。経営に関する裁量権の少ない「教員ギルド集団」にはしっかりと世の中の風に当たるシステムが必要だ。

先生は上から下まで教員免許にあぐらをかいていると世間では思われている。そういう世論を背景に免許更新制度ができた。膨大な労力をかけるのであれば、是非こういった点を考慮したプログラムにしてほしいものだ。

岩手県は、子供の学力不足を云々する前に、大人の学びを話題にした方が早道かもしれない。先生だけでなく経営者の人たちの勉強不足も強く感じているからだ。いなかは世襲企業が多い。2代目、3代目の教育プログラムを作ったほうがよさそうに感じる。

国際化は、社会を「生涯学習社会」にする。その意味合いをこうした人たちに周知させないといつまでたっても地域経済は低迷したままだ。いいものがあれば世界に発信せよといいたい。浮世絵も伊万里も和風建築もアニメもカイゼンも、日本で当たり前のものを、海外が驚嘆し、大きな評価を与えた。

先生方と話していると、高校の話は多く話題に上る。先輩だ後輩だといってもほぼ全員が地域一番の進学校なのである。その高校に入学したことで、もう安心してしまっているのではないか。地域で暮らすにはもう高校だけで何らかのステータスになるのではないか。

IBCの高校対抗OBゴルフコンペなど、都会ではちょっと考えられないイベントがある。そういうものが成立する土壌が、学力不足の原点のように思えてならない。「土の人」はどっぷりと地域の風土に浸かっているからわからないかもしれない。「風の人」は違和感には当然敏感だ。だからこうした発信が私の仕事であると割り切っている。参考にしてもらい、それぞれ自分の頭で考えてほしい。

生徒会誌原稿                      平成20年12月18日

 「おい あくま」

昔、営業していたとき、ある問屋さんの社訓に「怒るな、威張るな、焦るな、腐るな、負けるな」というのがあった。その頭文字を集めて私は「おい、悪魔」と覚えた。

 それから20数年経ったが、人生経験を積むたびに自分への戒めとしていい言葉だなと思うので、生徒諸君にプレゼントしたい。

「怒るな」 世の中には理不尽なことも多い。一生懸命努力しても報われないときもあるし、平等であるべきところがそうなっていないことも多い。しかし、だからといってすぐに投げ出してしまっては元も子もない。我慢すべきところは極力我慢しなければならない。特に就職して社会に出る人は、多少理不尽なことがあっても3年間は我慢しろと言いたい。仕事のおもしろさがわかるのに、それぐらいの時間はかかるし、履歴書のなかで3年未満の経歴は、キャリアとして見なされないのが一般的だ。中途入社で入れる会社より、高校

から直接入った会社の方が処遇面でいい場合が多い。職場の人間関係で悩み、我慢できずにすぐに辞め、職場を転々として30歳にもなると、求職のため履歴書を送っても面接すらしてもらえない。履歴書にストーリーがないと見なされるからである。

「威張るな」 調子よくうまく何事も運んでいるときにルンルン気分でいると、思いがけないところで失敗することが多い。得意泰然としていなければならない。しかし、これは案外むずかしい。部活で運動をやっていた人ならわかると思うが、平常心で本番に臨めることはあまりないはずだ。自分との戦いに勝たないと勝利はつかめない。敵は自分の心のなかにもあるものだ。

「焦るな」  逆に調子が悪いときにあまりジタバタしても成果が出ないものだ。大きな壁にぶつかったときなど、その壁の前でウロチョロしておればいい。そのうちに風向きが変わる場合もあるし、思わず自分自身に新しい発想がわき出すこともある。壁の前にいるときや大失敗の後には大変な大発見が待っていたりするものだ。そういった幸暁に期待し、「果報は寝て待て」ぐらいな図太さが大事だ。

「腐るな」  自暴自棄になったり、事実から目をそらすのが一番いけない。待てば海路の日和あり、という言葉もある。逆風は逆風としてありのまま受け止め、じっと我慢をすることを覚えた方がいい。サラリーマンのいわゆる「赤提灯」は生産的とはいえない。後の日のためにじっくりと実力を蓄える心がけが肝要だ。

「負けるな」  人生レースは長い。死ぬ間際になって「俺の人生、結構おもしろかった。」と言える人生が一番いい、と私は思う。平々凡々でもいいし、波瀾万丈でもいい。どちらが自分に向いているかなぞ、神のみぞ知るのである。自然流でやってみればいい。ただし、「自分さがし」などといって若い頃に無駄に時間を浪費するのは感心しない。青い鳥症候群の若者が多いが、現在の仕事にあわせていく努力がまず必要だし、向き不向きなどは、人生の最終段階でもわからないことの方が多いんじゃないかと思う。漠然と生きるより、小さくてもきちっとした小目標を持ち、ステップバイステップで向上心をもって進む方が幸せになる確率は圧倒的に大きいと思う。

110周年記念誌挨拶文                   平成20年12月30日 

開校110年に寄せて  (明治31年と平成20年) 

明治31年(1898年)、本校は現在の中の橋のたもと、盛岡城跡公園内で開校した。今も記念石がひっそりと置かれているが、それを知る人は少ない。

明治31年とはどのような時代だったのだろうか。歴史をなぞりながら時代の雰囲気を想像してみたい。朝鮮の支配権をめぐって日清戦争が勃発したのが明治27年(1984年)8月、翌28年4月には下関条約が締結されている。ところが、ロシアは直ちにフランス、ドイツを誘い三国干渉をおこない、日本に遼東半島を返還させた。「臥薪嘗胆」という言葉が、さぞかし新聞紙上を賑わわせたことだろう。ロシアを仮想敵国に見立て、賠償金をつぎ込んで日本は富国強兵に励んだ。明治30年には、賠償金を元手に官営八幡製鉄所が設立され、明治34年(1901年)には操業を開始している。これ以降、従来の製糸業や紡績業などの軽工業に加えて、石炭、鉄鋼、機械、造船などの重工業も飛躍的に発展、鉄道や電力等の産業インフラが急速に拡大を遂げていくのである。明治31年という年は、正に日本の産業革命前夜だったのである。

言論界では、福沢諭吉を中心として盛んに「脱亜論」が叫ばれた。近代化の努力をしない国は欧米諸国によって分割されても仕方がないが、日本だけは近代化を進めて独立を守り、更に欧米諸国とともに東アジアの分割に加わるべきであるという主張である。また、教育勅語に示されている通り、日本人としての価値観や家族制度を守る意思を明確にした。そして富国強兵のため、優れた西洋の技術を導入しようとした。「和魂洋才」が、時代のキーワードであった。

教育関係では、明治23年教育勅語発布され、同27年に高等学校令、同32年に実業学校令、高等女学校令が公布されている。着々と近代国家への準備が整えられてきた。努力して坂道を登る、その先にはぼやっとしていてもあこがれの「雲」が見えていたのである。そういう時代背景のなかでの盛工のスタートであった。

さて、それでは110年後の平成20年という年はどういう時代の雰囲気であるのか。現在は、グローバルスタンダードが「錦の御旗」である。覇権国たるアメリカと違う制度・習慣は日本のアンフェアの象徴のようになってしまった。産業界では欧米にキャチアップできたので、「これからは個性を尊重し、独創力が大きな価値を持つ時代だ、これまでのような画一的な教育を廃し、ゆとりの中で個性を重視していく必要がある。」とされた。ゆとり教育については見直しが進んでいる。そして市場原理主義的な新自由主義的な発想が強まっている。私は、無教養な財界人の教育現場への口出しが教育現場の混乱を生み、政策のブレが学力の低下を招いたと思っている。

社会全体でみてもプラザ合意以降の20年余り、日本は良い方向に進んではいない、と私は思う。いろいろな面で格差は拡大し、非寛容なヒステリックな社会になってはいないか。アメリカ流の資本主義を優れたものとして、日本流を排斥してきた。グローバルスタンダードに合致しない日本の制度仕組みは悉く変えなければならないものとされた。

そこへ、このアメリカ発の金融恐慌である。いままで、あまり報道されなかったデタラメ金融資本主義の実態が、事が起こってからようやくマスメディアが取り上げるようになってきた。政治家も財界人もマスメディアも、見識不足を反省するべきだろう。

失敗の原因は、はっきりしている。アイザイア・バーリンも指摘している通り、ナチスの時代から権力者がスローガンを掲げて社会を変革しようとしてうまくいった例はない。現場の生態系を理解していない理念先行の改革は必ず失敗する。民間でも同じことだ。生活実感の希薄な、上意下達の改革は必ず失敗する。角を矯めて牛を殺す類の改革が、国際化への対応という名の下に行われたのである。

明治31年にあって、平成20年の私たちがなくしてしまったもの、それは民族としての矜持であろう。そして今、必要なのは将来へのビジョン、国家戦略であろう。政治でも経済でも教育でも、和魂から生ずる「めざすべきあるべき姿」が大切である。何よりもまずエートス(民族の倫理規範、価値観)を、再度確立することから始めなければならない。それは、学び自分の頭で考えることでしか得られない。それを実現させる方策としては、教育の現場では、現場主義の徹底、私の主張する「経営品質の手法の普及」が肝要であると常々考えているのである。

職員会議資料                       平成20年10月16日

試験問題: 

次の式辞を読んで下線部に関する設問に答えよ。

式辞:               

本日は、盛岡市長さまをはじめ、数多くの来賓の皆さまにはご多用中にもかかわらず、ご臨席たまわり誠に有難く、厚く御礼申し上げます。

ここに、岩手県立盛岡工業高校110周年記念式典を執り行うことができますことを、まずもって、皆さまとともにお喜び申し上げたいと思います。

本校が設立された明治31年(1898)という年に思いをはせていただきたいと思います。3年前の明治28年(1895)に日清戦争が終結しましたが、すぐにわが国は三国干渉に遭います。

本校設立3年後の明治34年(1901)には、清国からの賠償金で設立された官営八幡製鉄所が操業を開始しています。以降、電力、鉄道、石炭などの産業インフラが急速に整備されていくことになります。正に本校は、日本の産業革命の黎明期に、殖産興業のための近代産業を支える、有為の人材を育成すべく設立されました。爾来、時代の流れとともに、場所も校名も幾多の変遷を経ておりますが、110年の長きにわたって、都合2万3千名余の卒業生を輩出しております。

日本という国は、資源を輸入しそれを加工、完成品にして輸出し、それを生業としてきました。鉄鋼、自動車、電機、工作機械等々国家経済の牽引車は、ものづくり企業が中心でした。太平洋戦争後も復興の中心的役割を演じてきたのはものづくり企業でした。そのものづくり企業の強みは日本の場合は、現場力です。外国企業との違いは、現場を支える人材の優秀さにあります。必ずどこの現場でも、技術と技能をつなぐ現場リーダーが必要です。そのリーダーを育成してきたのが、一環して工業高校でありました。戦後ここまでの経済力を持ち得たのも、盛工をはじめとするわが工業高校の卒業生たちの活躍のおかげと言っても過言ではありません。

現在、就職希望の3年生が続々と内定をもらっていますが、県内外において本当に優良企業が多いように思います。これも先輩たちが、それぞれの会社で活躍しているからだと考えています。伝統の力、ブランド力といえますが、在校生は先輩たちに感謝し、自らも後輩のために、しっかりとした社会人になれるよう研鑚してほしいと思います。

さて、私は度々英文卒業証明書にサインしているという話をしてきました。就労ビザ用と考えられますので、海外子会社へ技術指導に行くか、海外プラントの建築指導に行くのでしょう。卒業生たちが活躍している様子が、目に浮かぶようです。同時に、国際化の波が、わが盛工にも、ひたひたと押し寄せていると実感しております。

それでは、皆さん、国際化とはどういうことでしょうか。国際化に対応するということは、どういうことでしょうか。グローバルスタンダードとかいって、アメリカの金融資本主義に組み込まれることではないはずです。市場(マーケット)などという失敗ばかりしている仕組みに、我々の将来をゆだねることではないはずです。

世界は多様です。さまざまな人たちが、違った価値観の下でくらしています。そういった多様な価値観や文化特性に寛容になれること、そして自らの価値観を改めて認識し、世界へ向けて発信していくことこそ、国際化への対応策として肝要です。ましてや、これからの世界はどんどん多極化していきます。栄枯盛衰は世の習いなのであります。君は君、我は我なり、されど仲良き、という関係が理想です。そのための知恵が必要です。国際化すればするほど、自らが寄って立つ基盤をしっかりと見据えなければならない。

ここ盛岡の地は、幸いにもそうした基盤に恵まれています。情感豊かに素直に感情表現をした石川啄木、21世紀のあるべき世界理念にまで到達していた宮沢賢治、日本民族の倫理規範を世界へ発信した新渡戸稲造、少数民族の文化を記録・伝承した金田一京助を育んだ土地柄です。また、愚直なまでの生き方を貫いた原敬や米内光政の育った地でもあります。いいものがいっぱいあるんだということを改めて認識してほしい。そして、しっかりとふるさとの先人のことを、もっともっと勉強してもらいたい。

また、国際化は世の中を生涯学習社会にします。これからひとつの仕事を覚えたからといってそれだけで一生安泰に過ごせるとは限らない、そういう時代になっています。それだけ変化の激しい時代になっています。教育の現場は、そういう時代環境の変化に対応していかないといけません。文科省も「生きる力」ということを言っていますが、まさにそのとおりと考えます。ただ、人間理解が不十分というか、教育のプロの見識が生かされていないといううらみがあります。部外者の勝手な言い分が何の抵抗もなく採り入れられ、現場が混乱してきたというのがここ十数年の実態です。私は、型にはめようという力、強制力のない教育環境からは、決して「個性」は育たないと思います。創造力を発揮し、クリエイティブな仕事をしていくには、豊富な知識、豊かな教養を身につける必要があると考えます。これからは、知識を基盤とした高度情報経済社会になっていきます。こういう社会を生き抜くためには、従来よりもより一層、基礎基本に力を入れていかねばならなくなっています。すぐに役立つような知識は大した役には立たないのです。本当に生きる力は、いろいろな力を組み合わせるしかないのです。私は、それらを、人間としての基礎基本、読み書き計算の基礎学力、学ぶ姿勢、考える習慣、人間関係構築能力といった社会人基礎力、の3つの積み木の上に、一般常識や専門領域の基礎知識をバランスよく乗せることだと考えています。社会人になる前に、これらをしっかりと積み上げることが肝要です。

110周年にあたり、そうした4つの積み木がしっかり積める学校をめざし努力していくこと、そうした中から、今後とも引き続き、有為な産業人材を育成していくことを内外の関係者の方々にお誓い申し上げ、私の式辞といたします。

設問1.

「技術と技能をつなぐ」とは具体的にどういうことか、例示せよ。 

設問2.

アメリカの金融資本主義はどういう特徴をもっているか、あなたの考えるところを記せ。

設問3.

価格と量は市場での需要曲線と供給曲線で決まる、とする経済学の公理がある。しかし、市場での均衡理論が機能しないケースを「市場の失敗」と呼ぶ。身近な実例を挙げよ。

設問4.

啄木の歌で、あなたの好きなものを5首記せ。

 設問5.

ここでいう「世界理念」とはどういうことを言っているのか。

設問6.

ここでいう「日本民族の倫理規範」とは具体的にどういうことを指しているのか。

設問7.

ここでいう「少数民族の文化」の特徴はどういう風に考えられるか、

あなたの考えを記せ。 

設問8.

原や米内を愚直と言っているが、どういう歴史的事実について言っているのか、どちらかを選択してあなたの考えを記せ。

設問9.

あなたが、「人間理解」に役立ったと考える書籍を一冊あげ、それについてコメントせよ。

設問10.

「現場が混乱した」とはどういう事象を言っているのか、具体的な事例をあげ、あなたの考えを記せ。

職員会議資料                       平成20年11月20日              

解答事例 

設問1.

「技術と技能をつなぐ」とは具体的にどういうことか、例示せよ。

技術とは再現性がありマニュアル化できるものであるが、技能は人が永年の経験の中から五感により獲得したもので、文章化できないという特徴をもつ。人から人へとしか伝わらないノウハウであるので、この伝承についてはどの組織でも苦慮しているのが現状である。例えば、製造現場で新しい設備を導入するような事例を考えよう。新規設備のマニュアル通り操作しても、なかなかうまくいかないケースが多い。そこに現場技能者の知恵と工夫が要求されるということが一般的である。そうした問題解決に中心的な役割を担うのが現場リーダーであり、ここでいう「技術と技能をつなぐ」という意味である。 

設問2.

アメリカの金融資本主義はどういう特徴をもっているか、あなたの考えるところを記せ。

アメリカは覇権国家である。覇権とは戦争によらず外交的手段で相手国を従わせることができることであるが、その背景には強力な軍事力があることは言うまでもない。覇権国家がその立場を維持していくためには、本来多様な民族の文化に対する寛容さ(Torelance)が必要である。しかし実際には、非寛容で自国のルールをグローバルスタンダードとして押し付け、かつそのルールもダブルスタンダード(相手や分野によりルールが変わる、あるいは、立場が悪くなれば平気でルールを変える)であることが多い。プラザ合意でドルを基軸通貨とする体制の維持をめざし、為替市場の国家による協調管理や、貿易不均衡に対する各国の取り組みについて合意した。しかしアメリカは、自身の過剰消費体制をそのままにして各国の内政にも口出しするようになった。特に日本に対しては、日米構造協議という手段で内政干渉し、金融ビッグバンを強いて時価会計やBIS規制などを国際会計基準と称して日本に押し付けた。(現下の金融危機に対し時価会計の緩和を認めている)以降、毎年「年次改革要望書」なるものが日本政府に届けられている。― アメリカのこうした方針に追随し、一人当たりGNPを世界2位から18位にまで後退させ、かつ格差社会を現出させたのは、新自由主義経済思想である。

アジア通貨危機を始めとする一連の経済問題についてもIMFの指導は、新自由主義経済思想に基づくものであり、地域の個別事情を考慮せず危機を深化させ、中南米のアメリカ離れを引き起こしている。こういったアメリカのやり方は、早晩行き詰まりをみせ政治的に多極化時代の幕開けとなることは必至である。

設問3.

価格と量は市場での需要曲線と供給曲線で決まる、とする経済学の公理がある。しかし、市場での均衡理論が機能しないケースを「市場の失敗」と呼ぶ。身近な実例を挙げよ。

価格が下がると供給者が減り供給量が減って価格が上がる、というが、市場からなかなか撤退しない供給者が多い。営業赤字が出てもまず経費削減を図り生き残りを模索するのが常套手段である。なぜなら、人間というのはそんなに器用に商売替えなどできないからだ。そうすると、経費のかからないビジネスモデルが市場を席巻することになる。世界一のスーパーマーケット会社「ウォルマート」の従業員は85%が非正規従業員である。こういう状態を放置しておくと、労働条件は下ぶれしたままの状態で固定化され、貧困層を増産する。日本でも規制緩和後のタクシードライバーが好例である。

食糧、石油、金、為替、株式、等々の市場において、組織的に関与する会社は情報収集力において卓越している。スティグリッツの指摘するように情報の非対称性がある以上、市場をあまりにも偏重することは公正に反する。ましてや、アジア通貨危機のときのように、小規模な経済の国の通貨を、世界のストックマネーがレバレッジ(梃子)を使ってまで売り浴びせるようなことは言語道断である。特にも、食糧までも投機の対象になっており、ますます南北問題は拡大している。投機マネーの規制について、ヨーロッパを中心に議論されているが、私も何らかの規制は必要と考える。

その他、身近なところでは、公共交通機関や医療・福祉、環境や教育の世界では「市場」を活用することは、有効な手段にはならないケースが多い。ところが、構造改革と称して、市場原理主義が蔓延ったがために、さまざまなところで格差問題が生じている。

設問4.

啄木の歌で、あなたの好きなものを5首記せ。

東海の 小島の磯の 白砂に

    われ泣きぬれて 蟹とたわむる

人がみな われよりえらく 見えし日よ

     花を買いきて 妻と親しむ

働けど 働けど わがくらし

    楽になりざりし ぢっと手をみる

不来方の お城の草に 寝ころびて

    空に吸われし 十五のこころ

たわむれに 母を背負いて そのあまり

      軽きに泣きて 三歩あゆめず

設問5.

ここでいう「世界理念」とはどういうことを言っているのか。

賢治の思想のベースは法華経である。それは、農民芸術概要綱要のなかにある「世界が全体幸福にならなければ、個人の幸福はありえない。」という記述でも伺える。童話「グスコーブドリの伝記」にも自利利他の仏教精神はいかんなく表現されている。

その他にも、「雨ニモマケズ」のなかでは、農民指導者らしく「寒サノ夏ハ オロオロ歩キ」と言っているが、この文節は、自然の前での人間の小ささを哲学として体得しており、極めて現代的なテーマであると私は感じている。こうした感性をもっと世界へ発信すべきと思う。

設問6.

ここでいう「日本民族の倫理規範」とは具体的にどういうことを指しているのか。

「武士道」で解説されている儒教的な倫理規範を指している。仁・義・礼・智・信が

基本であるが、欧米人への解説書として書かれているので、彼らの倫理規範であるキリスト教の世界やギリシャ・ローマの神話の世界、はたまた近代思想史への造詣、博学ぶりには、恐れ入るばかりだ。

特に現代の世情を鑑みれば、「仁、惻隠の情」の復活を期待したい。何ごとに寄らず、日本民族はもっと「おおらかな」民族であったと思う。「和」を大切にした民族と思う。

設問7.

ここでいう「少数民族の文化」の特徴はどういう風に考えられるか、あなたの考えを記せ。

少数民族とは北海道、東北地方に住んでいた先住民族アイヌのことである。狩猟・漁労を中心にくらしており、宗教的には原始アニミズム(自然崇拝)である。即ち自然のすべてにカムイ(神)が宿るというもので、自然への感謝の念が顕著である。豊富な神話の世界を持っており、金田一はその精神的な豊かさに魅了されたことであろう。

設問8.

原や米内を愚直と言っているが、どういう歴史的事実について言っているのか、どちらかを選択してあなたの考えを記せ。

信念の人、米内をとりあげたい。軍人としては凡庸という説もあるが、リベラリストとしての米内の面目躍如となった歴史的な事実について、次の3点をとりあげたい。

1−2・26事件に際して、反乱軍とすぐに認定して動いたこと。今で言うシビリアンコントロールの大切さを理解していた行動と思われる。

2−昭和15年1月に総理大臣に就任したが、日独伊軍事同盟をめざす陸軍を一蹴し、それがために、畑陸軍大臣に辞任され、内閣は半年で瓦解した。

3−終戦処理にあたり、陸軍の本土決戦の主張を抑え、御聖断と15日の玉音放送にこぎ付けた。この際の阿南陸相との激論、勝手な行動をとった部下への叱責は有名である。

いずれの場面でも、時代の流れに迎合せず、自ら考えそれを貫いた。日本人は農耕民族であるので、他と異なる行動を取ると、白い目で見られ、村八分になりがちである。組織でも主流派に迎合する行動をとりがちである。しかし、時代を変革していくのは、常に少数派からである。また、新しい文明は常に辺境の地から勃興して、それまでの主流の文明を凌駕してきたという歴史を我々は勉強している。

特に、日本人は「いいかげん」なぐらい「おおらかさ」や「寛容の精神」を持っていた。そうした大切な要素が、この日本から失われつつあり、だんだんヒステリック社会になってきたと感じている。

設問9.

あなたが、「人間理解」に役立ったと考える書籍を一冊あげ、それについてコメントせよ。

フロイトの「精神分析入門」をあげてみたい。扱いの難しい生徒が増えた学校の先生のために、精神分析学のいろはを次に記しておく。

1− 人間の心は、意識されている部分は氷山の一角であり、多くは無意識の領域である。そこに欲動や感情を伴った記憶が抑圧された形で閉じ込められている。

2− 人間の心は、「エス」「自我」「超自我」の3つの装置によって構造化される。

   「エス」は無意識下にあり、現実、時間、秩序の影響を受けない一次過程であり、快楽原則が支配している。

   「自我」は、外界の現実とエスを仲介する領域で、社会に適応するために発達する。現実、時間、秩序を考慮した二次過程と言え、現実原則が支配している。外界やエスや超自我からの攻撃である不安を処理する防衛機制(メカニズム)を持つ。

  「超自我」は、幼少期における躾、教育、親の価値観により、「・・・してはならない」という良心の禁止と「・・・であれ」という理想を追求する役割を持ち、自我を監視している。

3− 「自我」に対し、「エス」や「超自我」が肥大化してバランスが崩れると神経症や精神病として表面化するという力動論に立つ。「自我」は、予防的な防衛機制を持ち対処するが、その行動が人間理解に役立つことが多い。

4− 防衛機制の例:

1)抑圧・・・都合の悪いことはすぐに忘れる

2)抵抗・・・何か「こと」を起こして注目を引き心の安定を図る

3)合理化・・・負け惜しみをいう

4)投射・・・浮気をしたいと、配偶者も同じ思いであると思ってしまう

5)摂取・・・親戚に有名人がいると自慢する

6)反動形成・・・好きな人にいじわるをする

7)退行・・・久しぶりに実家へ帰って親に甘える

8)転移・・・父親に叱られて、ストレス発散のため友達をいじめる

9)補償・・・勉強できない分、おしゃれに気を使う

10) 昇華・・・性欲をスポーツで発散

5− 私がフロイトから学んだこと:

   教育に必要なこと・・・・・ 愛情  強制(しつけ) 辛抱  寛容

   教育の現場へ入れてはいけないこと・・・無関心 放縦 迎合 恐怖 

設問10.

「現場が混乱した」とはどういう事象を言っているのか、具体的な事例をあげ、あなたの考えを記せ。

世情よくいわれるのが「ゆとり教育」とその揺り戻しによる混乱であろう。ゆとり教育については、円周率を約3としてよいとしたことに象徴される。文科省のレベルの劣化としかいいようがない。現在、ゆとり教育から離脱しつつあるが、教育現場はその後も決していい方向には向かっていない。人事制度や免許制度の改訂等、現場実態を無視した愚策が次々と打ち出されている。基本的には、新自由主義経済思想に基づいた改革であるので、根本に立ち返って考え方を改める必要がある。そうしない限り、現場は今後とも混乱し続けることになるであろう。

社会政策を充実させた市場経済である「混合経済」といわれる経済体制下で、日本の経済力は世界第2位となった。一番成功した社会主義国は日本である、とまで言われた所以である。ところが、角を矯めて牛を殺すがごとき「改革」のせいで、一人当たりGNPは18位にまで衰退した。しかも、格差社会が定着しつつある。

学校は社会の鏡であるとつくづく思う。親の経済格差が子供の学力格差に繋がっているとした分析が多いが、国がこんなに教育に金をかけないと、社会階層が固定化され、活力のない社会になる。ここ何代かの総理大臣をみれば、一目瞭然である。だが、それを選んでいるのは国民の方なのである。

 

産業教育振興会70周年記念事業に参加して         平成20年11月28日

 標記イベントに参加して、おもしろい体験をした。学校の先生と企業の人事部長さんたちが、これからの時代のあるべき人材像をパネルディスカッションの形で語っていたのだ。

ミクニという製造業の人事部長さんは、最近の若者と接し「岩手県人は、勤勉で愚直ともいえるほどのまじめさはいいんですが、もっと自己表現力を磨いてほしい。」と言っていた。

ジョイスというスーパーの人事部長さんは、「新3Kといわれる若者が増殖している。新3Kとは、語らない、考えない、行動しない、の3つです。別の人は、関心がない、感動がない、行動しない、の3つをあげる人もいます。」と言っていた。

私は、観客席から思わず、「先生の思考停止状態が伝染してるんじゃないの。」と叫びたくなった。この5年間、職員会議で「砂漠に水を撒いているよう・・・」と先生方の無反応ぶりを嘆いてきたが、皆、岩手県で同じ思いをしているんだな、と感じた。

また、議長は資格取得についてどう評価するかを企業にたずねると、「参考にはしますが、ないからといって問題にするようなことはありません。むしろ、なぜその資格を取ったのか、その考え方を聞きたいですね。」という回答だった。専門高校の先生方は、この反応をどう受け止めたであろうか。東京本社の会社では、工業高校へ来て「学科は問いません。いい人材がいれば紹介してください。」と言ってくる。まともな企業は、自社で教育体系をつくり、独自能力を確保できるように人材育成を計画的にやっている。そして、すぐに役立つような知識は大して役に立たないこと、会社で必要なテクニカルなことなどはOJTで充分対処できること、を経験知で知っている。それよりも私のいう「4つの積み木」の内の下3つをしっかり学校で鍛えてくれ、というはずである。

即戦力がほしいという圧力が地元経営者からあるのだろうか、それとも企画するお役人のニーズの捉え方のピントが外れているのか、現在の産学連携は技能研修に随分比重が置かれている。しかも、それに対応する学校側も頭の整理をしないまま、手段と目的をはきちがえるようなことを平気で言っている。

現実世界は、理不尽なことも多い正解のない世界である。そんな世界で生き抜いていくための知恵が工業教育で育たないのか。普通科と違って、課題研究や実習、ロボット製作などの体験を通じて、子供たちは何を学ぶのか、そういった整理をすることから工業教育の特徴を明確にし、中学校をはじめとするステークホルダーにその存在理由を訴えかけることから始めなければならない。

 

「熱球」原稿                       平成20年12月12日

                                              県高野連会長  池田博男

アグレッシブになろう 

 岩手県の高校球児たちは、硬式・軟式ともよくがんばってくれた1年であったと思う。特に夏の県大会は、盛岡一高とか水沢高校の公立勢が盛り上げてくれた。秋も、東北大会で花巻東と一関学院が大活躍をしてくれた。今春の選抜は、どちらかが出場してくれるだろう。軟式でも、専大北上高が明石まで歩を運んでくれた。岩手県の野球のレベルは、決して低くはないと思う。ただ、甲子園で6年間も勝てていないということだけは残念である。それはなぜか、私なりに考えているのであるが、県大会を見ていて気になることがひとつある。ファーストストライクやワンスリーのカウントから滅多に打たないことである。甲子園の常連チームとの違いはそこにある。野球の基本は「好球必打」であろう。打ちやすい自分が得意とするところに球がくれば、思いっきりひっぱたけばいいと思うのだが、そういう選手は県内では少数派のようだ。そのために2ストライクになってから、きわどい球をひっかけるケースが多いように思う。また、例えば2アウトランナー2塁のような場面でもベンチの方を気にしている選手が多い。私など「君が打つしかないだろう。」と言いたいのだが、監督の先生方に聞くと、狙い球を指示する場合もあるのだという。野球素人の私としては、そんなことまで指示を受けているのかといささか驚いた次第である。これではまるで監督のために野球をしている、ということにならないか心配になる。

現在、校長という立場で同窓会をはじめ校外の経営者の方々からお話を伺う機会が多い。そういう方々から、最近の若者について辛口のご批判をいただくことが結構多い。先日は新3Kという言葉を覚えた。語らない・考えない・行動しない、ということらしい。別の人は、感動がない・関心がない・行動しない、とも言っていた。要するに積極性に欠けるいわゆる「指示待ち族が多い」ということなのである。

ところで私自身かつて採用係であったからわかるのだが、部活動をしっかりやってきた人物は社会に出てから伸びる。濃密な人間関係のなかで、他人に対する配慮や上司に対する対応を自然に身に付けている者が多いからであろう、職場でかわいがられて仕事の習熟が速いという。野球も奥の深いスポーツだから、常に学ぶという姿勢と、考えるという習慣ができる。いずれも職場では、大切な社会人基礎力である。

さて、全国で17万人の高校球児がいるという。これだけ多くの球児たちが、学校教育の一環としての部活動をしており、それを先生方が面倒みているわけだ。そしてチームを強くするために、あこがれの甲子園めざして練習試合のスケジュールを組む。冬場グランドを使えない東北地方は、3月からの過密スケジュールが組まれる。毎週土日は練習試合に明け暮れるという状態が半年続く。野球部顧問の先生は大変である。本当にご苦労様と言いたい。しかし、高校は野球学校ではない。

部活動顧問の先生方にお願いしたい。部活動は教育の一環である。野球で飯が食えるのは1万人にひとりもいない。野球と縁がなくなっても、野球を通じて培われた積極的な姿勢とか謙虚に学ぶ姿勢とかが大切なのである。また、読み書き計算といった基礎学力がなければ、後で困るのは生徒の方である。昔から文武両道とか経文緯武とかの表現はそうした戒めである。人生、山あり谷ありだろう。どんなときにも岩手の球児たちにはアグレッシブな態度で堂々と生きていってほしい。そのための厳しい練習である。指導者の先生方には、勝利至上主義に堕することなく、勉強面にも配慮した練習にし、学業とのバランスを常に考慮してほしい。3年間しか生徒の面倒をみることができないということを銘記すれば、学校の先生ならそうならざるをえないはずである。

                             

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