著作集より

経営品質という「ものの見方・考え方」

4つの経営理念

1.生徒本位 

生徒本位とは生徒に迎合することではない。生徒を十分理解するということである。

その上で、すべての制度・仕組みが「生徒のしあわせのために」なっているかどうか。学校の主役は生徒であって、先生でも県教委でもありません。

2.独自能力

  盛工は岩手県工業高校の中心です。それにふさわしい学校になっているでしょうか。

  当校はどのような特徴をもっていて、どこが他の工業高校と違うのか。また個人においても、先生方はどういう能力を鍛えて学校における存在価値を出そうとしているのか、明確になっているのだろうか。

3.教職員重視

  学校における付加価値は生徒との接触現場でしか発生しません。いかに感化力のあるいい先生を揃えるかが学校経営の要諦です。そのための人材育成の仕組みは整備されているでしょうか。

4.社会との調和

  学校を取り巻く利害関係者にバランスよく良好な関係を維持していくことが肝要です。

  そのための目配り・気配りは組織的にできているでしょうか。

 

8つのチェックポイント(内容は例示)

1.管理職のリーダーシップ

  校長は学校経営方針を明確にして、周知徹底を図っているか。

2.社会からの要請への対応

  産業人材の育成という県政課題に、学校は積極的に取り組んでいるか。

3.生徒・保護者への理解

  生徒理解が図れるような仕組みが、いくつもの方法で存在するか。

4.学校方針(戦略)の策定と展開

  重点的に取り上げるテーマが明示され、計画的に実践されているか。

5.個人と組織の能力向上

  テーマ展開に必要な能力の習得について、学校は個人に便宜を図っているか。

6.P―D―C―Aの着実な運用

  時系列的にビジネスサイクルが、きちっと回っているか。

7.情報の共有化

  教育実践や施策展開に必要な情報は、速やかに交換されているか。

8.活動成果

  期待していた活動成果が、どの程度達成されたか。

 

教育再生の必要性について                  平成19年10月5日

教育は、再生しなければならないほど荒廃しているのだろうか。また、そうだとすれば、その原因はどこにあるのだろうか。

高校教育に携わるようになって3年半、常にこの問題意識を抱きつづけてきた。

確かに、今の生徒たちは、勉強しない。一説によると、家庭学習ゼロの高校生は6割に及ぶという。また、扱いの難しい子供たちが増えている、と年配の先生方は口を揃える。そのような中で今の教育現場は、授業料督促、生徒のカウンセリング、理不尽な保護者対策、上からの調査報告依頼等々、先生方の多忙化の要因に事欠かない。従って、先生方は自衛ということもあって「前例踏襲・思考停止」状態を決め込んでいる。

文科省の方針も、揺れ動いている。学校現場というのは、人も予算も制限され、上意下達のシステムに組み込まれており、そうそう急速には変われない。総合的学習も、軌道に乗りかけた途端の方針変更、というところが多かったのであろう。離脱しようとしている「ゆとり教育」やアメリカの圧力で早めた「週休2日制」は、現場の生態系を理解していない者の発想である。昨年、教育界は未履修問題で多いに揺れたが、これはコンプライアンスの問題というよりも、切羽詰った学校の確信犯的対応と考えてよい。それは、言ってみれば、文科行政への不信の現れである。教養のない「経済人」と称する人たちが、現場実態も把握せず、日本の教育の特徴も理解せずに、教育の世界に口出しするようになってから、おかしくなってきた。90年代中曽根内閣の臨教審で「個性を伸ばす教育」だとか「独創力をつける教育」だとかいって、「ゆとり教育」やら「週5日制」やらを導入してからではないか。国際化に対応することは必要である。しかし、それは日本という根本があって、そのアイデンティティを前提としている。日本そのものをアメリカ化することではない。アメリカは、日本が見習うべき社会ではない。80年代に、欧米企業を日本企業がほぼキャッチアップしたとして、以降の日本企業は独自技術の開発の必要性に迫られていた。そんななかで、教育界への注文が、「個性・独創力・・・」となったのである。現在も、「教育再生会議」と称する会議がある。メンバーを見れば本当に情けなくなる。市場原理主義的発想で競争を導入しようという提案もあるようであるが、言語道断である。そんなことで教育がよくなった例など、世界中見渡しても皆無ではないか。

子は親の鏡という。学校は社会の鏡なのだ。どこの学校も学力差は著しく拡大している。学力は正規分布ではなく、高原型または双こぶラクダ型になっているという。おそらく、親の所得格差が家庭の希望格差となって、子供たちの意欲格差に繋がっているのだろう。

加えて、学校の先生の問題もある。私は、世の中で一番勉強しない社会人は学校の先生ではないか、と思うときがある。子供は大人の背中を見て育つ。周囲に勉強しない大人に囲まれていると、勉強嫌いになるのも理の当然である。

さて、日本の教育は、一律と強制を旨とし、学習指導と生活指導を車の両輪と位置付けてきたのである。その結果、世界的に見て極めて優秀な労働者をつくりだし、それがメーカー各社の現場力となってアメリカに継ぐ経済力の源泉となったのである。

日本のホワイトカラーの生産性は、凡庸な位置に留まっている。これは、大学等の高等教育課程に問題があるのだろう。特に、エリートと称される政界、官界、経済界等の人たちの知性劣化と倫理観・歴史観欠如が著しい。2世3世が多くなったから、とまでは言いたくはないが、とにかくエリート教育を再興する必要があると思う。個性や独創力の問題はこうした層にこそ必要なのであって、これを、教育課程全般に及ぼそうとしたことに、間違いの源があったと思う。事実、私の知る範囲のエリートは、知識の幅も深さも足らず、これでは創造力もさぞかし貧困にならざるをえないと思われる人士が多い。大学は、もっとアジアをはじめとする海外留学生を受け入れるべきだろう。彼らは、ハングリー精神を持ち、日本人のなくしてしまった「身を立て、名を上げ」という健全な上昇志向をもっており、日本人を多いに刺激してもらえばよい。今後の日本は、科学技術や学問、芸術で外国から尊敬される国をめざすべきだろう。

10歳から15歳ぐらいにかけてを臨界期といって、人間の一番吸収力の盛んな時期である。この時期に私はもっと知識を詰め込めといいたい。知識を得れば得るほど知識欲は出てくるものである。実質義務教育化している高校の卒業までに、知的テイクオフをさせてやらないと、生涯学習社会なのに学ぶことの意義も理解できない親になり貧困の再生産をしかねない。「学ぶ」ことに運も寸もない。生きることの意義は、生きてみないとわからないのと同じである。一律と強制の教育は、貧しいけれども極力効率的に教育を普及させなければならない先人が、教育の本質を見極めていたから、なし得たものである。そういう歴史的意義も日本の教育の特徴も理解していない経済人の教育に対する不見識な提言は、「教育再生会議」だけにとどまらず、いろんな場面でみられる。教育現場はそれなりに生態系として存立している。それを上からの方針で混乱させてきたというのがここ数十年の歴史であろう。子供を一番見ているのは、学校の先生である。年年歳歳、読み書き計算能力が劣化しているのは、百も承知している。学ぶ姿勢や考える習慣、人間関係構築能力やコミュニケーション能力等の社会性の著しい減退に頭を抱えながら授業を工夫している人は、工夫している。ただ多忙化のなかにあって意欲的に取り組むことは自分の首をしめる事になることを皆よく知っている。極めてフラットな給料体系のなかで毎日毎日そんなにがんばれないのである。現場から発信しても上意下達型の組織は滅多に取り上げることはない。それで管理職も「学習」するのである。未だに「校長先生はえらい人、県教委は恐いところ」の意識転換がなされていない。

経営品質の考え方が、教育現場を変えると信じ、折に触れて普及に努力しているが、「日暮れて道遠し」の感が否めない。

教職員各位 

   成績会議を終えて 

1. 卒業証書を校長は自分の名前で出す。このとき、本当にこれでよいのか。世間様に対して、充分指導して立派な人間にしました、と胸が張れるか、という忸怩たる思いから開放されたことがない。やっぱり、しっかり人材としての品質保証できるようにしてほしい。

2. 高校は義務教育ではない、という視点が必要だ。生徒は全員、盛工で勉強したくて来ている、という前提であるべきだ。3科目以上の赤点者は基本的に学ぶ姿勢がないのではないか。もし、そういうことであるなら早めに進路変更させてほしい。3年で後ちょっとということになると、情において忍びがたくなってくる。1年生からしっかり指導してほしい。

3. 悪貨は良貨を駆逐するという経済学の法則がある。(グレシャムの法則) 集団に関しても同様である。生活指導、学習指導とも、しっかり取り組んでいただきたいが、万一指導に乗ってこないのであれば、遠慮なく報告してほしい。学校全体で取り組むべきであるし、学校だから3度はチャンスをやるが、それでだめならやめてもらう。

4. 勉強しなくていい学校、赤点とっても、運動さえしておけば何とかなる学校、という空気が一部にあるという。学校の態勢として、授業を大切にしない雰囲気がある、定期考査が年間スケジュールで決まっているのに公欠とは何事だ、という先生もいる。労働者を育成するのだから、ということを言う先生もいるとか仄聞した。とんでもないことである。何のために私が国際化の話をしてきたのか。中国の10倍も給料を払うのに、頭つきの労働者でなければ、日本人はいらないと経営者はいうだろう。

5. 付加価値のある学校にしたい。すべては縁あって出会った子供たちの幸せのためにである。学校教育では、4つの積み木をしっかり積むことがすべてである。方法論については、先生方の知見を生かして、いい方向へ学校を変えていきたい。

 

経営品質向上のために 

1− 組織プロフィール(どういう戦略を策定するか)

生徒が「良き公民」になるには、どういうことを重点的に指導しなければいけないか。

学校の位置付けが明確になされているか。

地域や保護者から、どのような学校であることを期待されているのか。

強みとして学校がもっている資源は何か。

反対に弱点は何か、どうすればカバーできるか。 

2− 経営理念(ゆるぎない、組織運営の考え方)

  生徒本位・・・生徒の目線でモノを考える。甘やかすのではなく、知悉する。

  独自能力・・・組織としても、個人としても、強みを強化しゆるぎない地歩を確保。

  教職員重視・・・教職員が資質を向上させ働きやすい環境を整備する。

  社会との調和・・・ステークホルダーに対し、バランスよく対応する。 

3− 評価基準(組織のどこをチェックするか)

  校長は、学校のあるべき姿を明示し、その実現に向けてリーダーシップを発揮して

いるか。

   管理職は、風通しのよい、自由闊達な組織風土づくりに努力しているか。

  管理職は、社会と交流して、社会が何を望み何を期待しているかを察知し、それを教職員に伝える役割を果たしているか。

  生徒理解を深めるために、教職員は最大限の努力をしているか。また、生徒理解を深める仕組みづくりができているか。

  学校の重点施策について、第一線の教職員の声が組織的に汲み上げられ、生かされているか。悪い報告が速やかに管理職にあがるようになっているか。

  教職員は、教材研究や授業力向上のための自己研修に熱心か。また、そういう研修を支援するような組織風土になっているか。

  保護者と学校が、生徒の教育に関してのベクトルを一致させる努力がなされているか。PTAや同窓会の学校に対する支援活動は活発か。

  生徒の問題行動があったような場合や不登校、いじめが発生したような場合、教職員間で、縦、横、斜めのコミュニケーションが充分になされ、そこから学校の取るべき対応策が決まっているか。

  学力は着実に向上しているか。

   進学実績はどうか。

   就職実績はどうか。

   部活動実績はどうか。 

 

同窓会誌投稿原稿 「徒然なるままに・・・」          平成19年11月2日 

学校玄関から二階職員室へ上がる階段の踊り場に、過去のラグビー部の戦績が、木製の額にして掲げられている。ここに、「一即一切」と書かれてあるが、どういうことかわからなかったので調べてみた。

一即一切とは、華厳経に出てくる仏教用語で、個と全体が有機的に統合する壮大な宇宙観を示す言葉である。あらゆるものがひとつにつながり、関わりあって存在しているという意味なのだそうだ。自分の肉体といっても、もともとは親から授かったものであり、出来上がった後も、排出と吸収を繰り返しながら肉体を維持している。分子生物学的にいえば、原子や分子のレベルでは、人間は数日間で入れ替わるという。そう考えれば、自分という存在は外部と不可分に繋がっているし、大きな宇宙の一部を構成しているに過ぎないわけだ。何か、輪廻転生に通ずる仏教の世界観を思わせる。

ラグビーというスポーツは、イギリス騎士道精神を色濃く反映している。その精神は「One for All  All for One」と「No Side」で代表される。日本の武士道にも通ずるこの騎士道精神は、「他人にやさしく、自分に厳しく」というノーブレス オブリージュ(支配者の義務)にも繋がる。このラグビー精神を「一即一切」という仏教用語一語でまとめあげたのであれば、すばらしい慧眼であると思う。

昨年来から「千の風になって」という歌が流行している。9.11事件で亡くなった方たちへの鎮魂の歌である。日本語に訳されているが、もともとは英語の歌という。あの歌詞は明らかに輪廻転生の仏教思想そのものではないか。グローバル化、市場原理主義、自己責任とかいって、日本社会になじまない要素が経済の世界を席巻し、これでいいのかと疑問を呈すると「抵抗勢力」にされそうな昨今であるが、アングロサクソンもアジアの民と共通する感性をもっているのではあるまいか、との希望をいだかせる歌詞である。

ところで、このように私はわからないことがあったら調べてみる。習い性となっている。わからないままでは気持ちが悪い。当たり前の神経だと思うのだが、どうも若い人を見ていると、そうでもないらしい。知らないことがあっても平気なのである。恥ずかしいとか情けないとかの感情が、どこかへ消え失せたような反応を示す。最近、話題になっている「他人を見下す若者たち」とか「オレ様化する若者たち」とかの表現に頷かざるをえない。

わかればわかるほど、わからないことがわかってきて、更にわかりたいと思う気持ちが強くなるものだ。知識が増えれば増えるほど知識欲も旺盛になり、一定限度に達することを知的テイクオフ(離陸)と呼んでいるが、そういう体験を一度もしないまま、社会人になる若者がどれほど多いことか。

私の経験からすると、小学校の高学年ぐらいから、早い子は離陸し始める。試験準備や与えられた宿題以外に、自主的に読書や勉強しているかがメルクマールになると思う。そうした経験をしないまま国際化した競争社会に出てやっていけるのだろうか。国際化した競争社会は即ち生涯学習社会なのである。

さて、子は親の鏡という。学校も社会の鏡である、とつくづくこの世界に入って感じている。家庭環境に恵まれず、傷ついた子供たちが確実に増えている、という実感を年配の先生方は口を揃えて指摘する。学力格差はどこの学校でも拡大の一途である、ということは県下の校長先生方の共通認識である。親の経済格差が子供の意欲格差につながっているような気がしてならない。刹那的にしかモノを考えられない日本の若者を見て、中国や韓国の若者を知っている私としては暗澹とした気持ちにならざるをえない。

「学ぶことに何の意味があるのか。」と子供たちに聞かれれば、「そんなことは学んでから考えろ。」と答えるべきある。何のために生きるのか、という解答は生きてみなければわからないのと同じである。ウンもスンもなく勉強させる。頭の柔軟な時期にすべきことをきっちりしておくことの大切さを親も子もしっかり認識すべきだと思う。そういう認識を共有し、価値観を確認するためにPTAがある。親と教師がベクトルを一致させてこそ、教育効果があがるからである。ところが、最近の親は学校は教育サービスを購入するところだとでも思っているのか、信じられないような言動がある。モンスター・ペアレントなる言葉も誕生した。マスコミも教師の不祥事の報道には熱心で、権威失墜に拍車をかける。しかし、指弾はしても建設的な提言などマスコミから聞いたことがない。

教育は国家百年の計である。その教育が揺れている。何事でも同様であるが、わからなくなったら原点に返れである。江戸時代から寺子屋で読み書きそろばんを教え、明治初期には文盲率はゼロに近かったことがその後の日本の近代化を支えた。日本の教育は伝統的に教科指導と生活指導を車の両輪として運営されてきた。特にも、生活指導の一環として部活動まで学校が関与して、人間教育をおこなっているのである。これらはどのようなことがあっても頑固に守り、維持していくべき日本の教育の原点である。そんなことすら、理解していない経済人の、目先の我が利益優先の口出しに負けてはならない。県のものづくり人材の育成に関する議論も、テクニカルなことばかりが先行している。うっかりしていると改革という名の破壊に組しかねない。ここは現場でしっかり事実を把握して、更に見識を磨いて、本当の学校改革に取り組んでいきたい。先輩諸兄のご意見を伺いたい。

 

「工業教育」巻頭言                      平成20年11月7日

  エートス(民族の倫理規範)再興の大切さ 

全工協総会出席のため、山口県まで出張してきました。新しい産業教育振興法制定への動き、全工協ビルの建設、公益法人化への準備等、話題に事欠かない総会でしたが、何か物足りないものを感じて帰ってきました。

帰ってからいろいろ考えているのですが、「地に足が着いていない」という感じと「筋が一本通っていない」という感じに集約されそうです。

「地に足が着いていない」というのは、東北工業校長会の研究協議題のような我々にとって喫緊なテーマがあまり議論されていないということです。少子化のなかで、いなかの学校はどこも再編成の嵐が吹き荒れているのです。また、工業高校の広域研究会の仕組みは、先生方の多忙化解消への要望が強いにもかかわらず、変えようとする動きもありません。足元の切実なテーマを取り上げ問題点の解消へ向け取り組むよりも、より大きな観点でテーマアップされているということです。

「筋が一本通っていない」というのは次のようなことです。文科省の挨拶がありました。学習指導要領の改訂についての説明です。技術の進展や時代の要請に合わせたものということです。例えば、ニートやフリーターが増えた、一部の若者に勤労観や職業意識が欠落している、従ってキャリア教育を充実させるために予算をつけた。国際化の時代である、英語をあやつれる人口を増やす必要がある、従って小学校から英語教育に取り組む。親殺しをはじめとんでもない若者の犯罪が起こる、道徳意識が全体として希薄になっている、従って道徳教育を充実させる。・・・・・

対症療法的な措置が、延々と説明される・・・そこには、理念も哲学も感じられない。咀嚼して自分の頭で考え自分の言葉で表現したものが何もない、という印象なのです。中央官僚からしてこの程度の知能レベルかとがっかりしました。中央教育審議会からの答申を錦の御旗にせざるをえないのだろうか、そこに議論の跡も感じられない。

事実をしっかり捉えて、共有化し、なぜを5回繰り返し本質に迫る、という訓練が全然行われていないらしい。ニートはどういう定義をしてどういう数値として捉えているのか、彼らはどういう経緯でそういうことになっているのか、フリーターはなぜこんなにも増えてしまったのか、彼らはどういう意識で働いているのか、・・・ということを解明すれば、私はまた違った処方箋ができるのではないか、と思います。

英語をあやつるとは、どういうレベルのことをいうのか、実際にあやつっている人はどのようにしてそういうスキルを身に付けたのか、語学教育全般にわたって日本の教育の課題は何か、ということを理解すれば、おそらく小学校からという発想にはならないと私は思います。

道徳教育にしても、青少年の凶悪犯罪は減少傾向にあるはずです。そのことと、今回の措置はどう整合するのか、一部のヒステリックな声の大きい委員のごり押しではないのか。  そこに教育現場を見ている人たちの「見識」が投影されているとはとても思えないのです。 

考えてみれば、政治家も似たり寄ったりの「軽い」政治家が多い。総理大臣からして、ここ何代も米国に迎合するしか能のない2世3世議員である。一本筋の通った人物に行きあたらない。経済界もそうである。アメリカの金融資本主義に毒され、成果主義賃金体系を導入し失敗した経営者が多い。国際化の時代にあって、彼我の精神構造が違うとして、自社の独自性をしっかり確立しようとした経営者のいかに少ないことか。ガバナンス、コンプライアンス、ハラスメント、などというカタカナ言葉を流行語のように垂れ流し、会社の収益構造を損ねた経営者は、自分の教養のなさを猛省する必要がある。

森嶋通夫氏が、80年代から日本のあらゆる分野のリーダーが、戦後教育を受けた者に取って代わられたことを、日本衰退の主要因としている。(「なぜ日本は行き詰まったか」) 戦後教育にしっかりとしたエートスが欠如していることに着目しての記述である。説得力のある本である。

ブッシュの経済政策を批判したオバマが、アメリカの第44代大統領になるという。ブッシュと仲良く蜜月状態を維持し、「日本を壊してしまった人」やそのチルドレンたちが、今後どういう変身を遂げるのか、見ものである。そして、メディアを通して「劇場型政治劇」を演出してきた、「第4の権力者」=マスコミの対応も、じっくりと腰を据えて見物したいと思っている。何せ彼らは、アメリカ=市場原理主義であり、アメリカの持つ多様性についてほとんど言及せず、スティグリッツもクルーグマンも、アンチ米財務省グループの経済学は、ほとんど紹介してこなかったのである。

このようにあらゆる分野で、日本人としての価値観の希薄な、コンセプショナルスキルの磨かれていない人たちに覆われてしまったので、今後数十年は、ジリ貧状態を日本国は覚悟しなければならないだろう。「日はまた昇る」ようにするには、教育の現場からしっかりとした価値観(民族としての価値観=エートス)をもった人材を育成するしか他に方法がないように思うのである。だからこそ私は、職員会議でいつも「檄を飛ばす」のである。

 

生徒会誌「北光」原稿                     平成19年11月29日 

感謝、そこからすべてが始まる 

盛岡肴町の一角に東屋という蕎麦屋がある。名物の「わんこそば」もあり、結構有名な店なので、東京から来た著名人も寄るらしい。著名人が来ると色紙を残すことが多いようで、そのうちの1枚に永六輔のものがある。

「生きているということは、誰かに借りをつくること。

生きてゆくということは、その借りを返してゆくということ。」とあった。

まことに含蓄に富んだ言葉であると感心したので触れてみたい。

われわれは、衣服をまとい、3度の食事をし、快適な寝床で睡眠して、それを生活と称している。ところが、私など、食材を生産したことも、衣服を編んだことも、柱一本建てたこともない。お金を払っているとはいえ、世間さまにお世話になりながら生きながらえてきた。これからも生が続く限り、お世話になりながら生きていかざるをえない。だから、自分の強みを磨いて、何らかの形で世の中のお役に立とうという気持ちが生じてくるのである。人間が社会的存在といわれる所以である。そして、労働問題は自己責任と放置されるべき問題ではなくまさしく社会問題であり、それゆえ税金を投入してでも公教育を実施し、若者を支えているのだ。世のため人のため、と大上段に振りかぶる必要はない。「一隅を照らす」という言葉もある。自然や人々、身の回りのものに対する感謝の念が基本である。それがあれば、自分にできることを更に訓練してプロといわれるまでになろうという気にもなる。そうすると、世間さまが評価をしてくれる。そして生活ができるように報酬をくれるようになる。

おかげさまでという感謝の気持ち、おたがいさまという相互扶助の精神、そして何らかの形で社会参加してお役に立とうという姿勢が大切で、農耕民族である日本人は、古くからこういうことを「当たり前の姿」として子供たちを教育してきた。そうして共同体を維持してきたのである。

ところが最近、ニートや引きこもり、ネットカフェ難民といった社会から阻害された若者のことが社会問題化している。そして、その原因のひとつとされているのが、職業意識の欠如ということである。しかし、私自身を振り返ってみて社会人になるときにそんな職業意識があったかどうか、甚だ疑問である。そりゃ月謝を払っていた立場から給料をもらう立場になったのだから、多少しんどい仕事もあるだろうし、いやな目にも会うだろう。それぐらいの覚悟はできていた。それが職業意識なのだろうか。そんなものではない。職業意識なんてものは、仕事をしていくなかで、自ずと醸成されていくものである。ただし、学ぼうとする姿勢や考えるという習慣が前提である。学ぶためには、職場の先輩や上司から教えてもらわなければならない。そのためには、人間関係を築きコミュニケーションする能力が必要になってくる。また、読み書き計算の基礎学力がなければ、仕事の習得に必要な参考書を教えてもらっても理解できず、物覚えの悪い奴というレッテルを貼られて辛い立場になってしまう。いやになって会社を辞め、一旦正社員でなくなると手っ取り早く職にありつけるのはフリーターと呼ばれるアルバイトである。会社も福利厚生費がかからないから気楽に採用する。そこには、人間として成長していく実感も、仕事をしたという充実感もない場合が多い。そして、職を何の脈絡もなく転々とする。30歳になってそういう状態になると、普通の会社からは正社員要員としては見向きもされない。私には、社会から阻害されている若者の多くが、その人の性格や意欲のせいではなく、学校時代に基礎学力や社会人基礎力を身につけずに卒業してしまったせいではないか、と思えてならない。だから、しつこいと思われたかもしれないが、「やるべきときにやるべきことをしっかりやること。やるべきことはすべて学校にあること。時間だけは誰にでも平等であり、若い時の時間は頭が柔軟であるから貴重であること。」を繰り返し訴えてきたつもりである。

さて、いよいよ君たちは社会へ出る。大学等の上級学校へ進んでも、いずれ社会へ出る。本当の勉強はこれからだということは肝に銘じてほしい。学校の勉強は、社会での勉強ができるようにするためのトレーニングである。盛工で充実した3年間を過ごした君たちは、きっと後になって、しっかりトレーニングをしてきた有難さを、わかってもらえるものと信じている。

 

県高野連機関紙「熱球」原稿                 平成20年1月16日

 社会人基礎力ということ 

30年前、私は採用係だった。配属予定課の課長のところに行って「どんな人材を採用すればいいですか。」と聞いて回った。多くの人が、「成績はほどほどでいいから、しっかり部活動をやってきた人物を取って来い。」という。「うちの職場のリーダーは、みんなそんなやつらだ。」

部活動を熱心にやってきた人間が、なぜ社会に出てから伸びるのか、その因果関係を理解しないまま、ただ苦情を出したくないという一心で高校を回った。「成績は上位3分の1ぐらいでいいですから、クラブ活動に熱心に取り組んできた生徒さんがいたら、是非紹介してください。」

今、校長という立場で学校の部活動を見学している。県高野連会長という立場で高校野球の公式試合を見る機会が多い。そして、どうして部活動が人を大人にしていくのか、考えた。その結論が「社会人基礎力」という概念である。

何事によらず、うまくなるには学ばなければならない。理屈で理解するだけでなく、反射的に体が動くよう訓練しなければならない。繰り返し繰り返しの努力が必要だ。そういう訓練を厭っていればその道のプロにはなれまい。こうして「学ぶ姿勢」が醸成される。

試合に勝つには、相手の弱点を見出しそこを突き、自分の強みを発揮できる状況をつくりだし、そこで勝負する。つまり「自分の土俵で相撲を取る」ことが肝要だ。そのためにはどうすればよいか考える。試合の都度反省し、次の試合へ向けての糧とする。そういうチームは時間がたてば、必ず実力を発揮する。ことのほか野球という競技は頭を使う。こうして「考える習慣」が醸成される。

私も体験したが、部活動というのは楽しいことばかりではない。むしろ不愉快なことの方が多いかもしれない。上級生や下級生との関係、指導監督との意思疎通、レギュラーになれた者となれなかった者との関係・・・多くの人間関係をうまく処理していかねばならない。野球が好きだからこそ我慢ができるという人もいるかもしれない。こうして「人間関係構築能力」が醸成される。

私はこの「学ぶ姿勢」「考える習慣」「人間関係構築能力」の3つを社会人基礎力と称し、社会へ出てから威力を発揮する、とても大切な能力だと気づいた。社会へ出れば理不尽なことも多い。それを当面耐えながら、自分に有利な状況へうまく転換していく知恵も必要だ。部活動というのは、学校教育の一環として、そういう貴重な体験を生徒にさせているのである。高校野球の指導にあたっておられる先生方には、実態を知れば知るほど本当にご苦労さまと感謝したい。子供たちの成長と未来を信じて、今年も多いにご活躍されるよう期待しています。

 

工業部会会誌「工業教育」第40号原稿            平成19年12月3日 

            工業教育の魂ということ 

先日、福島県で開催された「日本工業教育経営研究会東北支部会」に行ってきました。そこで、会の目的を聞いたところ、「ベテランから若手教師へ工業教育の魂を伝えるためです。ですから、ここではお互い肩書き抜きで議論しますし、みな手弁当でやっています。」ということでした。まことに志のある、立派な会の趣旨であるのですが、残念ながら青森県は会員ゼロとなっていますし、岩手県でも会員数はあまり多くはありません。特にも経営ということばがそうさせているのか、肝心の若手教員が全然加入していないという現状です。

来年、岩手県でこの東北支部会は開催されます。それまでに高教研工業部会長としてどう取り組むのか、考え方を整理したいと思っています。そこで先生方にも考えてもらいたいと思います。ベテランから若手へ教員どうしで伝承すべき「工業教育の魂」とはどういうことでしょうか。

 私は、工業教育の魂とは「ものづくりの心」ではないか、と思うのです。まず、ものをつくるというとき、使う人の立場になって精魂こめて作ります。何の機械でも装置でも道具でも同じですが、使い勝手とか使ったときの感触までも計算して設計しなければ、お客さまから喜ばれるものはできません。また最近は、消費者の思いもよらない使い方まで想定して、安全対策を講じておかなければなりません。こうしたお客さまを中心に据えて、設計・開発し、ものづくりをしていくことを顧客本位といいます。顧客を充分知悉するということが基本です。

 次に大切なこと、それは科学的態度だと思います。現場・現物・現実を重視し、客観的なデータに基づいて、議論を活性化して課題解決を図ろうとする姿勢です。不具合な事実があれば、いろいろな角度から、なぜ、なぜ、なぜ、・・・と追求します。ものごとを深く考え、本質に迫るという態度こそ、卓越した技術力の差を生み出します。他が追いつけないほどの卓抜な力の差を独自能力と呼んでいます。特に、国際化し競争激化している現在の経済環境下では、価格競争に巻き込まれない大きな要素といえます。

 ものづくりの現場では、毎日のように製造環境が変わってきます。気温や湿度はいうまでもありませんが、例えば自然素材ですと産地により微妙に成分や粒度が違うのです。多くの変数に囲まれているなかで、安定的に品質を確保していくための製造条件の設定は、まわりが考えるほど簡単ではありません。文章化できるスキルを技術といいますが、実際の現場では、主に五感や永年の勘がものをいう暗黙知たる技能が幅をきかせることが多いのです。だからこそ、日本の製造業では、現場を重視し、技能の伝承に留意しているのです。と同時に、現場の権限は欧米の企業とくらべものになりません。例えば、日本の企業では、ラインスピードの調整まで現場職長に任せているのです。また、社長や工場長と現場の一作業員が同じ食堂で同じ定食を食べるなんてことは欧米の企業では考えられません。こういう従業員重視の姿勢こそ日本の製造業の特徴であり、強みなのです。

 企業の寿命は30年とよく言われます。それを永久のものとしていくには、相当の努力が必要なことはいうまでもありません。企業は環境適応業なのです。企業でも人間でも、「生かされている」という感謝の心からスタートすべきでしょう。世間さまから、その存在を評価してもらえているのであったら、存立の基盤である収支は、安定しているはずです。もし赤字になったということは、周りから退場勧告を受けたと受け止めるべきです。そんなとき、虚心坦懐に周りのステークホルダーの声に耳を傾けるべきです。周りの期待がどこにあるのか、何を優先して取り組むべきなのか、が明確になってくるはずです。こうした外部にアンテナを張り、情報を絶えず入手しながら自分たちの組織の方向性をかじ取りしていくことを、社会との調和といいます。

 現在、実物経済の何倍もの投機マネーが利ざやを求めて、株式、為替、商品先物等の市場に押し寄せ、実体経済を混乱させています。アングロサクソン的というか、ユダヤ的というか、そういうばくち打ちのような品位のない市場原理主義が世の流れと思っている人がいるかもしれませんが、こうした風潮と「工業教育の魂」は無縁です。反対に、われわれは、実直に、上記4つの理念を忠実に実行していきたいと思っています。

この4つの理念こそが、「工業教育の魂」であり、工業の教員のなかで、先輩から後輩へ

伝承されるべき価値観であると思うからです。

もう皆さんはお気づきになったでしょう。この4つの理念こそ、経営品質の精神でもあるのです。1980年代、ジャパン アズ ナンバーワンといわれた時代、競争力のなくなったアメリカ企業の復活が米国商務省の課題でした。そのためにアメリカは国家プロジェクトを組んで日欧の企業研究を行いました。その成果が、当時の商務長官の名を取ったマルコム・ボルドリッジ賞であり、これが逆輸入されたものが日本経営品質賞であります。研究対象はトヨタなどのエクセレントメーカーでした。そうした企業の組織運営の基本的考え方・ノウハウを徹底して調べました。従って、経営品質の精神は、当然のことながら、「ものづくりの心」が反映されていないはずがありません。

経営品質の理念こそがわれわれが伝承していくべき『工業教育の魂』であり、日本をここまでの国に押し上げてきた経営品質という考え方を、工業高校の範囲に留めて置くのではなく、広く教育全般に普及させることが、われわれ工業教育に携わる教員の役割であると私は考えます。

 

研究紀要 巻頭言                    平成20年1月22日 

   戦略を立てるということ 

 戦略とは捨てることである。よく選択と集中というが、両方とも捨てるということだ。何を捨てるかを議論することは難しい。捨てようとする分野を生きがいにしている人が必ずいるからだ。成熟していない組織はそういう人に遠慮して何も改革できないでいる。そして多忙化を生み、全体のパーフォーマンスを悪くする。「忙」という字は心をなくすという意味だ。重点志向して、精選された仕組みのなかで、子供たちに必要な生きる力を付けていかなければならない。思考停止の集団が前例踏襲ばかりしていて、何の改善も何の辛い議論もせず、世の中の変化に取り残され滅び行く姿は歴史上枚挙にいとまがない。

 教育の現場というのは、先生が自分の信念に基づいて、自由にのびやかに教育実践をしていけばいいと思う。管理職はそれを支援する。教育実践の効果は数値化するのがむずかしい。従って、教育制度には、「おおらかさ」が必要だ。営利企業と教育現場の相違ぐらいはわかっている。しかし、そういう理想へ進むには、前提がある。メンバーのひとりひとりが成熟していることである。先生が成熟しているとはどういうことか。まずは常に子供たちに付加価値を付けられているのか、謙虚な態度で内省できるかどうかである。そしてその反省を踏まえて、より良き教師へと努力できるかどうかである。更に、自助努力を前提として、組織としての問題を冷静かつ論理的に問題提起し、衆知を集め問題解決に向かわせるような行動をとれるかどうか、である。

 どんな組織も運営の基本は同じである、と思う。経営品質の精神を教育の世界の隅々にまで浸透させること、そこに職業人生の最後を賭けていることをご理解願いたい。

 

職員会議資料:                     平成20年 1月22日

  日本の強み 

前回の会議で、「日本の製造業は強く、わが国が経済大国といわれるまでに発展してきた原動力である。その原点が現場力であり、それを支えたものが、工業高校卒業生らの技術と技能をつなぐ技術者たちである。」という話をした。また、その製造業を支えてきた理念は「ものづくりの精神」であり、この精神は工業高校の教員が、脈々と伝承していくべき価値観であるということを強調した。

それでは、なぜ日本に「ものづくりの精神」が定着し、日本の製造業が1980年代に、アメリカが研究対象にするほどの国際競争力を持ち得たのか、その背景を考えてみたい。 

1.日本は決して単一民族とは言えない。縄文人とその後渡来した弥生人との混血である。また、アイヌや琉球人など未だに伝統文化を維持している少数民族もいる。最近の研究では、母系のみに伝承されるミトコンドリアDNAの型は16通りだということなので、弥生人もいろいろなルートがあることがわかってきている。しかし、標準語といわれる日本語ならば、日本全国に通じるということは事実である。これは実に効率的なことである。1,2億人以上の人間が、同じ言語を用い、宗教上の配慮をすることなく、ほぼ同じ価値観でいることの有難さは、一歩外国へ出てみればその優位性は痛いほどわかるはずである。農耕を2000年にわたって継続してきたわが民族は、自然観や宗教観といった基本的価値観が、大きくずれることはないという幸福な立場にある。あうんの呼吸や空気を読むなどという日本語が、幅をきかせる所以である。

2.江戸時代以降、藩校や寺子屋といった教育制度が発達し、明治に入って学制が整備され、明治中期にすでに識字率がほぼ100%を達成していたと推定される。そのことが、富国強兵・殖産興業の新政府の政策を支えたということに異論はあるまい。そして、唯一アジアで欧米列強の植民地支配を免れたこと、開国から50年足らずで軍事的にロシアを破ったこと等の歴史的事実をみれば、国民の学力レベルは、他のアジア諸国と比べて格段に高かったと言える。学力が高いことに優位性がないはずがない。現在でも、ノーベル賞が出れば、その受賞理由の解説を外国人に頼らずに行える数少ない国であるということだ。それだけ学問のすそ野が広く多くの分野でノーベル賞に近い活躍している人がいるということである。

3.阪神・淡路大震災のとき、あれだけの大災害でありながら、略奪暴行の類が一件もなかったことに、外国特派員が驚き、日本の治安の良さと日本人の道徳観念が発達していることを本国に報告していることは意外に知られていない。財布を落としてもそのままの形で返ってくることがありうる国である。日本の常識は世界の非常識ともいわれるが、いい意味でそうありたいと思える事象である。海外進出企業は従業員による資材の窃盗に注意を払わないといけないが、日本人ばかりの工場ではそんな神経を使っている工場はあるまい。それだけ日本人は総じて道徳的なのである。農村の共同体規制に由来していると考える。

4.日本には貧富の差はあっても、社会階級はない。階級変動の激しい社会である。相続税が世界一高いという税制にも関係するが、人々の意識からして平等意識はかなり強い民族だ。例えば、工場には食堂もひとつであるし、トイレも男女の区分はあるが、基本的に差別はない。学歴のない田中角栄にしても松下幸之助にしても、丁稚からのたたき上げで総理大臣や大企業の社長にまで登りつめた。日本には数限りない立志伝が存在し、社会の流動性を証明してきた。優秀な若者は、その将来を期待して伝統的にその地域地域で大切に育ててきた。活力の生まれる理由である。

5.2000年にわたる農耕生活によって、勤勉で緻密な国民性が形成された。外国人が日本で驚くことのひとつに列車ダイヤの正確性がある。24節気という季節の変わり目を意識し、農作業の段取りをしてきたことによりその緻密さは形作られたと思う。

愛知の元地場企業である「トヨタ」の生産管理システムは、百姓の血が流れていると私は考えている。 

ものづくりの精神が定着した社会的背景としての日本の強みを5つ列挙したが、現在その強みが維持できているだろうか。 

1− 少子化がかなりのスピードで進んでいる。この分だと、外国人を労働力として当てにせざるをえない状況になってくる。事実、日本の結婚の5%は国際結婚である。あまり急速に導入を進めると、従来の優位性が薄らぐ可能性がある。

2− 若者の読み書き能力は著しく減退している。九州大学ですら工学部で論文がまともに書けない学生が増えて『日本語コミュニケーション』コースを開設したという。東京都世田谷区は「日本語特区」を申請し小中学校の国語教育を充実させている。

3− かつては、雇用調整弁としての田舎があり、都市への労働力供給源となり、近代工業の発展を支えた。都市と農村は共存共栄関係にあったわけだ。大企業の経営者もその恩義を忘れてはいけない。農村を切り捨てるがごとき論説は、日本の文化的基盤を放擲することにつながる。農耕民族としての道徳的規範すら、なくすことになりかねない。農村の共同体的規制を受けて育った子供たちが、大企業の発展を支えてきたのである。

4− よく言われているように格差社会のなかで、教育費に金をかけられる所帯とそうでない所帯の子供たちの学力差は開く一方だというのは、現場感覚としてとてもよくわかる。このままの状態が長引くと、社会階層が固定化され活力のない社会になってしまうのではないかと危惧される。政治の世界では小選挙区制になり2世3世議員が増えた。経済界でも地方は特にオーナー企業が多く世襲が一般的である。このことが、政治の沈滞や地方の衰退の原因になっていないことを願うが、社会の活力は常に念頭に入れるべき事項である。

5− 農業が稲作を中心に成り立たなくなっており、地方には「限界集落」という言葉もできている。農耕を中心に発達してきた文化や伝統行事が廃れるとともに、日本人の緻密な気質も失われることになりかねない。日本列島は急峻な国土を切り開いて農地を開墾してきており、米という国際商品の競争力など付くはずがない。農村の存続を図れるような政策が望まれる。 

こうして見てくると、私にはどんどん日本人が劣化し、日本社会がグローバル化の流れのなかで、これまでの成功要因である優位性が薄らいでくるように思えてならない。本来こうしたことは、国の為政者が考えるべきことであるが、日本の政治は三流といわれて久しく、望むべくもない。せめて国家百年の計といわれる教育現場で、従来の優位性を維持すべく、しっかりと理論構築をして明日の日本を下支えしていきたい。

 

図書館報「桐葉」原稿                    平成20年1月30日 

  中東の笛 

今日、北京五輪出場をかけて男子ハンドボールアジア大会の再試合がおこなわれる。ハンドボール協会は国際連盟とアジア連盟の対立が深刻化しており、今後の動向が危惧されるところであるが、その主な要因が中東の笛と呼ばれるアンフェアな判定である。私は、ハンドボールのルールには詳しくはないが、映像に残してはいけないとかの規制を加えているところなど、多分に胡散臭いように思える。日韓の主張の方が多分正しいのだろう。

ところで、こうした一方から見て理不尽と思われるようなことは世の中にはあまた存在する。グローバル時代を迎えて「フェア」であることの大切さを強調されることが多いが、公平であることは定義できないと私は思う。岩手山は盛岡から見た姿と雫石から見た姿はまるで形が違うのと同じである。

かつて私は、日米構造協議の只中にいたことがある。板硝子の流通がアンフェアであるというアメリカの主張に合点がいかなかったが、スーパー301条をかざして詰め寄るアメリカ側に押し切られたという体験を持っている。今でも理不尽だと思っているが、政治決着を早く図りたい人たちの思惑が優先するなかで、何を言っても始まらないという悔しい思いをした。それ以降、アメリカという国に注目し、なぜという疑問をもってニュースを見ている。例えば、アメリカはなぜ郵政民営化などのいわゆる金融ビッグバンを迫ってくるのか、アメリカはなぜ京都議定書を批准しようとしないのか、アメリカはなぜイスラム国家と仲が悪いのか、ということを考える。そうするとベルリンの壁崩壊後、唯一の覇権国家になったアメリカが、その立場を維持することに必死になっている姿が見えてくるようになった。ところが、栄枯盛衰は世の習いである。多極化はとめどなく進展し、アメリカの相対的地位低下は、今後数十年間続くことになりそうだ、ということがわかってくる。

学問とは、学ぶことと疑うことである。通説を本当にそうかと疑い検証することである。そこから進歩が始まる。科学的態度とは、事実を大切にし、事実に基づいて議論することである。工業高校で学ぶということは、そういうことを実践の場で生かせる人材になるということである。試験で優秀な成績を取ることのできる学力を狭義の学力といい、これに学び続ける意志と能力を足したものを広義の学力と、私は定義したい。盛工は、この広義の学力をつける学校、学問的・科学的態度を養える学校、であると胸を張れるようにしたいと思っている。

 

職員会議資料                         平成20年2月22日 

  日本人のエートスについて 

ある民族が永年培ってきた倫理規範をエートスという。大抵の民族は、宗教を持っており、その教えがエートスとして定着していることが多い。

マックス・ウェーバーはその著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで、資本主義の発達はキリスト教精神と密接不可分な関係にあると主張した。

勤勉な労働に基づく富の蓄積を、神のご加護として肯定的に捉えるという価値観がなければ、資本主義はこれほどの発達はみなかったとして、民族のもつエートスの大切さを訴えた。マルクスは下部構造が上部構造を規定するとしたが、上部構造が下部構造に影響を与えることもあるとした点で、ウェーバーのこの本はマルクス批判にもなっている。

農業高校にある農業クラブの信条のひとつに「努力して富を積み、そして社会を明るくする。」というのがある。この文章はまさしくプロテスタンティズムそのものであり、農業クラブの由来を知ってなるほどと合点がいった。戦後、日本の農業高校はアメリカの影響をもろに受けて再スタートを切ったのである。

さて、新渡戸稲造は英米人に「日本人の宗教は何か。」と聞かれて絶句したという。当時英米人にはキリスト教の教えという倫理規範があり、そうしたものを持たない民族を野蛮人と感じていることを知っていたからである。そこで、宗教に変わりうる倫理規範もありうることを英米人に知ってもらう必要を感じ、「武士道」を彼は英語で書いたのである。

日本人のエートスの解説書として真にすばらしい本であるが、その出身地の盛岡の教師たちが「惻隠の情」ということばも知らないということに、私は正直驚いている。岩手県はもっと胸を張って、先人教育に力を入れるべきだろう。

ところで、私には日本人のエートスを語るとき、この「武士道」の分析は儒教に偏り過ぎているような気がしてならない。武士という支配階級は人口の5%であり、この層のみの倫理規範だけでは偏りがあるのは仕方がないのかもしれない。現代の日本人論とすれば、もともとの八百万の神々や古神道、6世紀に伝来したとされる仏教にも影響を受けていることは明らかである。また、永年の農耕民族としての農村共同体規制という文化的観点からもエートスを論じる必要性を感じている。こうした神道、儒教、仏教の価値観や農耕民族としての自然観・世界観が渾然一体となって、日本人のエートスは形づくられていると思う。私は今も、日本人の精神風土のなかに、そうしたエートスが存在すると信じていた。ところが、このエートスの喪失を危機として論じている本を最近読んだ。先般亡くなった森嶋通夫博士の本である。森嶋氏は1980年代を日本のターニングポイントに置いている。戦後40年経って、この時期にほぼ日本のあらゆる社会組織でのリーダーが、戦後教育を受けた者に取って代わられたからである。それまでは、儒教的価値観を基調に、国家神道に覆われた、強力なエートスに裏打ちされた戦前の教育があった。善悪は別にして、一本の背骨が通っていた。これが、敗戦により全否定されいわゆる民主化教育が施された。それに代わる、戦後教育の持つ英米流のエートスを教育されないまま、教師たちは教壇に立ち続けた。そこに最近の日本経済の低迷を博士は重ね合わせる。

確かに、90年代以降失われた10年といわれた時期を過ぎ、21世紀に入っても日本経済はかつての勢いは回復していない。政治的にも経済的にもアメリカに振り回されている観がある。新自由主義経済路線は、日本社会を中央と地方、大企業と中小零細企業、富める者と貧しい者に分断しているように思える。国富の7割を国民の1割が所有し、5千万人もが無保険状態に追い込まれている国の経済政策に組み込まれて、それをグローバル化と称している。金が金を生むという金融資本の論理を貫徹させる枠組みの確保を国是とする国と、8世紀初頭にムハンマドによって金利という概念を宗教として禁止した国とが互いを理解していくことは大変難しいことは想像に難くない。協調と共生を得意としてきた日本文化が真価を発揮する状況に近づいていると思うが、そんな発想をもった政治家は一人もいない。官僚もマスコミも質の劣化がおびただしい。

しかし、私は日本の将来をそんなに悲観していない。日本の教育の背骨にあたるエートスは、戦前とは違った形で承継されていると考えるからである。神道からは、自然への畏れから謙虚な姿勢を身に付け、「穢れ」といった概念から内省的な態度を覚えた。仏教からは、輪廻転生、栄枯盛衰、といった無常観を学んだ。無常のなかにも一隅を照らすという生き方のすばらしさを会得している。儒教からは、人として生きる倫理規範として、仁・義・礼・智・信をわれわれは学んだ。組織のなかで苦悩することの多い人間の、行く手を照らしてくれている。

また、農耕民族としての必要性から、おかげさま、おたがいさま、の精神は脈々として受け継がれていると感じている。特に地方に住んでいると、貧しいにもかかわらず、人々はおおらかである。日本人は世界のなかで、人口比からして決して主流派にはなれないが、世界を主導できる独自の存在として、これからも世界から尊敬を勝ち得る民族でありつづけることができると思っている。日本人の協調と共生の理念は、21世紀の指導理念としてふさわしいものであるし、科学技術は世界に冠たるものがあると信じているからである。ただ、そうした日本の強みが、最近薄らいでいることも事実である。

もうそろそろ意識してエートスを語っていかなければならない時期に来ているように思う。「長幼の序」ということばすら知らない子供たち、「武士道」を読んだこともない教師たちに囲まれて、教育の原点を見直す必要性をひしひしと私は感じている。

 

職員会議資料                        平成20年2月22日 

キャリア教育について 

筑波大学の渡辺三枝子キャリア支援室長は、キャリア教育を「生きるということは社会と関わり働くことが必須条件であることを理解させること。」であり、「若者が、自分たちの生きる場である社会の、創造に貢献できるようになる力と態度を養うこと。」と定義されている。この定義に従えば、私はキャリア教育とは、次の永六輔の言葉に尽きると思う。

「生きているということは、誰かに借りをつくること。

     生きてゆくということは、その借りを返していくこと。」

今まで育ててくれた両親をはじめとする人々に感謝し、命をつないでくれた自然に感謝し、そして少しでも恩返しをするために、人や自然にお役に立てる行動をすること、と教えた方が余程子供たちにわかりやすいと思うのだが、いかがだろうか。というのも、キャリア教育の解説書を読んでも本当にわかりにくいと思うからだ。「仕事観や就労観の養成・・」などと書かれていたりするのだが、そんなもの、高校生に必要だとは思えない。仕事が人間をつくるのである。あれこれ言わずに、飛び込んでみて頭を打たれながら仕事を覚え、仕事観ができてくるのである。それを、入口のところで理屈をこね回してみても仕方がない。そんな時間があれば、部活動でも読書でも熱中できるものがあれば、それに時間を割いたほうが、余程有効なキャリア教育になっていると私は思う。

どういう仕事に就こうが、普通の人は、人と組織の係わりであるとか、人と社会の係わりであるとかに関心を持ち、どうしたら効率的に組織目的を達成できるようになるかとか、どうしたら住みやすい良い社会がつくれるかとかに関心を持つものである。そういう関心の延長線上に、法律学や政治学、経済学や経営学、社会学等の学問が存在する。実践活動をしていくときに、役立つ理論がないのかと学問の世界を垣間見る。実践と学問の間を行ったり来たりして考え方を整理するのである。社会科学系といわれるこの分野を学んだ人たちは結構存在するのだが、如何せん学校現場にはほとんど見当たらない。偶に政治経済や倫理社会を教える経済学部出身の社会科の先生がいるが、地元で野球部の監督をしたいので教員になったという実質体育会系であったりするので、教員の世界は自然科学系と人文科学系に占拠されているといってよい。要は、社会科学的問題意識はまったくないのである。そこに学校の制度上の問題点がある。これは、先生に研修で教え込むしかない。組織運営の要にある校長などの管理職になってもマネジメントとは縁遠い発想しかできない人も多い。喫緊の課題は、生徒よりも先生のキャリア教育であろう。社会の風にあたり、実社会のありのままを感じること。そこから子供たちに必要な、本当の教育ニーズを捕まえること。そういう原点からスタートした方が、急がば回れで効率がよさそうだ、と感じている。私が、職員会議を重視している所以である。

 

朝日新聞投稿記事                      平成20年3月13日 

   マスコミにもの申す 

我が校でいじめ事件が発覚し、8名の生徒が特別指導中である、と昨日、Mテレビによって報道された。報道の内容は、報道機関にはめずらしく事実を逸脱するものはなく、何ら注文をつける必要はない。しかし、ここで問題にしたいのは、報道のきっかけが匿名のメールによるものであるという事実と取材記者の横柄な態度である。岩手県初の民間人校長として赴任して4年以上経過したが、この間マスコミの報道姿勢に関して、普段から感じることが多く、投稿するに至った次第である。

私は、生徒に対し仁・惻隠の心が人間最高の徳目であり、この心が育てば卑怯なことなどできないはずだ、と教えている。そして、匿名メールで他人を誹謗中傷したり、集団で弱い者いじめをしたりすることは卑怯なことであり、学校では絶対許さないと言ってきた。

今回の件は、卑怯な行為を正すべく特別指導していた学校の現状が、卑怯な行為によって報道されるに至ったということである。仁・惻隠の心の衰退ここに極まれり、という感がする。

 ところで、私は県高野連会長も兼務しているが、高校野球部の不祥事の報道も誠にマスコミ報道はいただけない。多くが同じように部活動の指導者をよく思っていない保護者からの匿名の情報提供がきっかけになっていると仄聞する。きっかけがきっかけだけに事実がゆがめられやすいし、また事実だとしてもなぜこの案件だけ報道され大事になってしまうのか、全体を見ている私としては首を傾げたくなるのである。バランスを全く欠いている。報道関係者は、なぜ匿名でそうした情報が送られてきたのか、記事にすることでどういう影響がでるのか、想像力を働かせてほしい。報道すること自体が卑怯者に荷担するケースもあることを理解し、取材しても報道しない勇気をもってほしい。傷つきやすい思春期の子供たちを預かっている教育現場なのである。子供どおしの関係に一番気を使う。心無い報道をされた後の関係者のご苦労を慮るとき、誠に心が痛むケースが多い。

極秘の入試要綱が報道機関に送られ、それを地方紙が大きくとりあげ教育現場の信用失墜につながったが、これなどその後判明した事実を考えると、言語道断である。報道機関は何ゆえに学校や教師の信用失墜にばかり血眼になるのか、と思う。

ただでさえ得か損かしか「ものさし」を持たない家庭で育った子供が増えているのである。「他人を見下す若者たち」とか「オレ様化する若者たち」とか表現されるミーイズムの増殖を前に、むしろ先生方の権威を回復させ、例えば世の中には正しいこと、正しくないことという「ものさし」もあることやしっかりと学ぶという姿勢を植え付けてやらないと後で困るのは当の子供たちである。マスコミ関係者にはそこのところを理解してもらいたいと思うのだが、今回の事件の取材に来た若い記者に接して絶望的な気分になった。匿名メールを真に受けたのか最初から私をまるで犯罪者のように詰問をするのである。「なぜ、そんな長い間放置していたのですか。」「暴行を伴っていてけががなかったとなぜいえるのですか。」「なぜ、未だに県教委に報告していないのですか。」対人感受性が全く欠如したこの記者は、正義の使者気取りで不遜を絵に描いたような人物であった。この手の知性欠如、情緒力不足、前頭葉発育不全がマスコミの世界を跋扈しているのである。

考えてみれば、4年半前初の民間人校長ということで土砂降り取材を受けた。それ以後「先生、どうですか。やっぱり職場環境が違えばいろいろ大変でしょう。」ぐらいの気の利いた言葉で接近を図り、新たな教育問題の視点や改革へ向けての糸口を探ろうという勉強熱心なマスコミ関係者はひとりもいない。ペンの力で世の中を良くしようという志のある若者は皆無なのか。マスコミの社員教育の充実を強く希望する。

こうして実名で現役校長が投稿することのデメリットを充分認識している。周囲の制止を振り切って投稿しようと決意したのは、読者諸兄にこの怒り、この心情を伝え世論の後ろ盾を切に期待するからである。

 

卒業式式辞                    平成20年3月1日 

 本日、ここに多数のご来賓の皆さま、並びに保護者の皆さまのご臨席をいただき、平成19年度卒業式を挙行できますことは、誠によろこびに耐えません。衷心よりの御礼を申し上げます。

 さきほど、呼名いたしました 機械科36名 電子機械科38名 電気科38名 電子情報科38名 建築科30名 土木科34名 工業化学科31名 デザイン科36名 定時制工業科4名 合計285名 の卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。心よりのお祝いを申し上げたいと思います。

また、この日を心待ちにされていた保護者の皆さま、来し方を振り返りますと感慨もひとしおのことと存じます。改めましてお祝いを申し述べたいと思います。ご卒業 おめでとうございます。

 さて、卒業生の皆さん、君たちは多くの先生方に見守られ、薫陶を受けながらこの3年間乃至は4年間を過ごしました。そのなかで必ずや知・徳・体にわたって成長し、大人に近づいてくれたものと確信しています。特にも私の持論でもあります4つの積み木、即ち 人間としての基礎基本、基礎学力、社会人基礎力、その上に一般教養と専門実務知識をしっかりと積み上げてもらったものと信じています。これで皆さんとは、同じものづくりを志す、同志となったような気がします。どうか、胸を張って卒業してください。

今まで度々申し上げたと思いますが、日本経済を支えてきたのは、ものづくり企業です。そして、ものづくり企業を支えているのは、現場力です。われわれの先輩が、一所懸命働いて技術と技能をつなぎ、それぞれの企業の国際競争力を維持・発展させてきたのです。そして、長い経済の低迷期にあっても、独自能力を磨き、ますます優位性を発揮している企業が数多くあります。私は、これからの日本はものづくり企業の時代になると信じています。上級学校へ進学するにしてもいつかは社会に出て、組織の一員になります。多くの先輩が歩んでこられた道筋を、皆さんも負けないように努力して、切り開いていってください。

国際化の時代に、解決すべき課題は、先輩たちの時代より数多く存在します。また、スピードも求められる時代です。どうかこの良き日をスタート台にして、それぞれの道で更に研鑚を積んで周囲から信頼される人間に成長していってもらいたいと思っています。

学ぶべき事柄は必ず身近にあります。しっかりと取り組み、仕事のおもしろさ、学ぶことのおもしろさを実感できるように努力してください。そのためには辛抱も必要です。

仕事のおもしろさ、学ぶことのおもしろさを感じるところまでいくのに、私の経験では、最低3年はかかると思うからです。

君たちが何十年か先に、工程内で品質をつくりこむ責任者として、現場のリーダーとして、あるいは商品企画やプロジェクトチームのリーダーとして、はたまた海外工場の従業員の技術指導員として、活躍している姿を想像しながらお別れしたいと思います。

皆さんのなかには、ロボット製作に打ち込んできた人がいると思います。ロボットは何を目指しているか。それは人間です。150億個の脳細胞を持ち、記憶や思考をするだけでなく、五感からくる感覚といままでの体験などを総合して「勘がはたらく」という極めて高度な精神活動までおこなうのが人間です。ロボットの開発に莫大な巨費が投じられていますが、逆にいうとそれだけ人間はすばらしいということです。更にすばらしいことには、人間には個性というのがあって、皆さんひとりひとりがすべて違うということです。

可能性を皆さんすべてが持っている。その可能性の花を開かせるのは、皆さん自身の志とこれからの研鑚です。

この3年間にも、いろいろな困難に遭遇した仲間もいます。卒業するんだという強い意志と、これからの人生への志がそうした困難を克服したのです。これからも高校時代のがんばりを糧として、力強く生きていってください。

そして、支えてもらったご両親、ご家族の方々、先生方、友達等々に感謝の気持ちを忘れないでほしい。

また、皆さんが育ったこのふるさとを、大切にしてほしい、と思います。ここ盛岡の地は、賢治や啄木の先進性や情緒力、新渡戸稲造や金田一京助の志の高さ、米内光正や原敬たちの愚直な生き方、等 先人から多くのことが学べます。そういう偉人を多く輩出している土地柄であることは、無形の財産です。目には見えない精神風土が、君たちにも知らず知らずのうちに浸透しているのではないか、と思います。そして、いつかの時点では、このふるさとを支える人材になってほしい、と期待しています。

最後に、旅立ちの日にあたり、皆さんがそれぞれの進路で、さらに飛躍することをお祈りしながら、皆さんを送り出したいと思います。

ご来賓の皆さま、本日はご多忙のなか、ご臨席をたまわり誠にありがとうございました。今後とも本校教育の発展のためにご支援・ご協力を賜りますようお願い申し上げ、式辞といたします。                                    

 

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