著作集より

みずほの国の教育理念の確立を 

1.はじめに

 自分の子供に「こういう人間になれ。」と教育できる親がこの日本に何人いるだろうか。多くの親たちは、激変する社会にたじろぎ自信を喪失しているように思える。また、社会変化に晒されていない恵まれた職業の親は、考えることを放棄して「ゆでがえる」状態である。いずれも子供の自主性を尊重するという名目の下に、子供を放任しているように思えてならない。

戦後の学校教育も60年を迎え、総括する必要があると考える。個性尊重の自由主義・個人主義的教育理念が何をもたらしたか。社会の理不尽さに対する耐性に欠けた青い鳥症候群みたいな若者ばかりを作り出してはいないのか。社会性の欠如した自己中心主義者ばかりを作り出してはいないのか。私は、しっかりした教育理念に基づいた道徳倫理教育に立脚しつつ、品格ある国家の構成員を育成する必要があると思っている。品格ある国家の経済的・社会的基盤は、技術・技能であり、知識と知恵であり、文芸と学問である。

そのための知育は、ゆとり教育という曖昧模糊な概念やアメリカに強いられた週5日制が支障となっている。国際競争社会の教育を論ずるのに、教育委員会や学校という内向き組織のみで対応していていいのだろうかと最近考える。教育は、本人のしあわせを考え、本気になって教え育てることだと思う。同時に、社会のニーズ、国家戦略も踏まえてあるべき姿を模索しなければならないものだと思う。そのためには、正しい歴史認識に沿った教育理念がしっかりと社会に定着していなければならない。多くの人が支持していただける教育理念をまず確立することが肝要である。

 

2.近代日本の歴史認識について

日本は明治以降、西洋先進国の文物・制度を取り入れ、急速に近代化を図ってきた。

殖産興業・富国強兵の二大コンセプトを掲げ、官僚主導で国を引っ張ってきたのである。そして、開国50年で帝政ロシアを打ち負かすだけの体力をつけた。明治初期の国を牽引したエリートたちの働きは再度注目してよいと思う。植民地化という国の危機に際しての彼らのパワーは何に由来しているのか、もっと研究されてよいと思う。江戸時代末期の教育システムがすばらしかったのではないかという仮説を私は立てている。鎖国制度のなかでも、かなりの知的レベルは高かったものと思われる。因みに、最近では、脳科学の発達によって「読み書きそろばん」が前頭前野を鍛えること、前頭前野は他人を思いやるというような精神活動、クリエイティブな精神活動を司ることがわかってきているという。当時の識字率は世界でもトップレベルにあったし、藩校や寺子屋での教育は、読み書きのみならず、儒教や仏教による人間教育も実施していたものと思われる。

そして、両大戦間で更に近代日本の形が決まってきた。普通選挙が行われ議会制民主主義制度ができ、政党政治がスタートした。近代産業の発展による熟練工の不足から、終身雇用・企業内組合・年功賃金といった日本的労使関係が構築された。財閥を中心とした株式の持ち合いは既にこの頃から始まっている。昭和に入って金融恐慌が発生し、それに続くデフレ不況は、経済規模や通貨制度の違いはあるものの90年代の日本に似た様相を呈していた。未だ家計にストックのなかった昭和初期には庶民の生活が破壊され、そういう背景の下で軍部の台頭を許した。市場を求め原燃材料を確保したい経済界も彼らのブレーキ役にはならなかった。

ところで、この時期の教育理念は教育勅語であり、靖国をはじめとする国家神道が精神的支柱であった。幕藩体制から明治へ転換していく際、廃仏毀釈により天皇制を神道と融合することで国民を統合しようとしたのである。苦境に立てば立つほど神の国日本が強調され、選民思想が蔓延った。戦争する相手を冷静に分析することなく、精神主義が跋扈した。戦時体制におけるすさまじいまでの標語の数々がそれを物語る。

敗戦後は、明治憲法、国家神道や教育勅語が廃止され、日本国憲法の下で、自由と民主主義そして個人主義の価値観による教育制度がスタートした。しかし、財閥は解体されたものの株式の持ち合い構造は残ったし、戦犯追放はあったものの官僚制度はそのまま残った。そして戦後復興にむけて傾斜配分方式等の社会主義的官僚主導経済がスタートした。復興期・高度成長期・安定成長期の1985年までの40年間は、この官僚制度がよく機能した。大蔵省の護送船団方式で金融が安定し、間接金融を通じて家計の余剰資金を企業に供給した。企業は通産省の産業政策に従い、設備投資をおこない需給をバランスさせた。農林省、運輸省、厚生省等当時は、部分最適を考えて自己増殖しておればよかった。経済規模が拡大し、少々の失敗は経済の拡大のなかで埋没してしまった。もともと教育システムは完備され知的レベルは高い国民である。高度成長時代の労働力不足は、農村から都市への移住という形で供給された。特に、メーカーでは技術が現場技能に裏打ちされてはじめてその真価を発揮するが、私は現場労働者のレベルの高さが最も日本の強みだったのではないかと考えている。

しかし、1985年以降は状況が違ってくる。プラザ合意が潮目の変わり目である。アメリカが露骨に干渉してくることとなった。まず、円高誘導である。10年後の95年には一時期1ドル80円を超える超円高になるのである。そして内需拡大圧力である。資金がだぶついている時期に低金利政策をとった。大義名分は日米の貿易不均衡である。この結果はバブルの発生、特に不動産価格の暴騰であった。その後の暴落と長期低落は現在でも続いている。次は、構造協議である。日本の規制や商慣習が公正でない、非関税障壁であるとするものである。アメリカは自己の強みの発揮を邪魔立てするものについては容赦がない。金融がその代表である。何せ国家戦略なのである。トラのシッポを踏んでしまったのである。  

 アメリカには個人金融資産が3700兆円ある。(日本は1400兆円)これが、年金財団、投資信託、ヘッジファンドとなってあらゆる市場で利ざやを求めて暗躍する。金融工学といわれる手法はアメリカの独断場である。このストックマネーは一国の経済を壊滅させるぐらいのパワーを持っている。まさしく「国際化とは支配的な力をもつ国が、自国が優位に立つ状態を確立し、永続化するためにおこなう世界的な制度づくり」なのである。

さて、日本は失われた10年といわれる90年代、アメリカとの貿易不均衡を是正するため、またデフレ不況を克服するため財政支出を拡大した。その結果、770兆円といわれる負債が政府・地方自治体に残った。(平成17年9月現在)政府独立行政法人等の赤字を入れると1000兆円にもなるという。GNPの2倍である。この額は、戦争、革命、ハイパー・インフレ以外で解消した例はないとする経済学者もいる。加えて、少子高齢化である。財政に明るい話題は極めて乏しい。どこに曙光があるのか。

私は、極力若い世代に負担をこれ以上かけないようにしながら、未来を託す子供たちに期待したい。自信と誇りをもって自分の将来を切りひらく。そういうたくましい個々人の集積に日本の将来も展望できるのではないかと考えている。教育改革、これこそが明るい未来への架け橋になると信じる。教育現場にいて常々考える。子供たちに「こういう人間になれ。」と胸を張って自信をもっていえる教師がもっと必要である。時代を見る目、人を見る目、そして凛とした精神を兼ね備えたリーダーがもっと必要である。

わからなくなったら原点に帰れという。正しい歴史認識から、国家百年の計を考え国家像を明確にしていくことが肝要である。 そして、その中での地域戦略として、教育理念を確立する必要がある。子供たちをしっかり見据え、かつ社会ニーズの変化に機敏に対応しながら「何を教えなければならないか。」を考える必要がある。稲穂が黄金色に輝くこのふるさとで、人々が平和に明るく暮らしていけるよう、日本の原風景ともいえる中山間地から情報発信したいと思う。

 

3.山の国の教育理念

ここでいう山の国とは現代日本の旧態依然とした世界をさす。規制や談合、条例・通達の類でがんじがらめになった世界である。ウチに入れば、大変居心地のよい社会であり、ソトからみれば何とも特殊に写る社会である。要するに共同体なのである。具体的には、建築業であり、一昔前の金融業であり、公務員の世界、特に私のいる教育の世界はその最たるものである。この国の憲法は未だに17条憲法であり、第1条は「和をもって尊しとなす」なのである。言い争ってはならないのである。競争もできるだけ避けるべきである。話し合いを大切にし、どうしても決着しないときは人格者に裁断を仰ぐ。裁断に従わなかったら、村八分が待っている。人と人との繋がりがすべてである。

この国の精神的支柱は神道である。自然崇拝を基調とし、さまざまな自然に神々を感じる多神教がその原点である。多神教であるから、異教徒に対しても寛容である。仏教が伝来しても神仏習合という形で取り込んでしまった。もうひとつの特徴は、いろいろなものに怨霊の存在を感じるのである。ことばにも言霊の存在が信じられているので、相手をあしざまに言うことは慎む習慣になっている。従って、ディベートで鍛えられたアングロサクソン流には極めて弱い。外交下手はこの国の伝統である。一時は政・官・財の鉄のトライアングルをつくり、利益誘導型の保守政治の支持基盤でもあった。また、これを批判する革新勢力も既得権益にしがみつく保守主義者の集合体でもあった。政治的には55年体制というが、その命運も尽きた。財政という客観情勢が、利益誘導も既得権益も許さないからである。しかし、ウチにいて外部環境の変化に疎い者が「ゆでがえる状態」で未だ生息している。この国の教育理念は、「自然への感謝」「民主的な話し合い」「寛容の精神」「おもいやり」等々である。

この国の教育理念で育てられた子供たちは、極めて従順であり、その後の経済復興から高度成長期に企業戦士としてよく働いた。地方から都会へ出て、工場で骨身を惜しまず働いた。「おかげさまで」「おたがいさま」「おやくだち精神」という村落共同体の精神を体得し、労働者としての知的レベルは世界最高水準であったのである。彼らが、日本経済を支え70年代には「ジャパン アズ ナンバーワン」という状況をつくりあげた。技術を実際に運用する技能者である彼らが、日本の「ものづくり」を支え競争力の源泉となった。メーカーを中心としたこうした日本企業の隆盛は、アメリカに脅威を与えるレベルに至り、アメリカは日本の経済運営の仕組み分析や企業競争力の分析を国家プロジェクトとしておこなった。そして、国家戦略として打ち出されてきたのが、プラザ合意による為替調整であり、内需拡大圧力であり、日米構造協議なのである。学校の週5日制も、あまり知られていないが外圧である。なお、この時の日本やドイツの優良企業分析の結果がマルコムボルドリッジ賞となり、逆輸入されて日本経営品質賞となっているのである。

 

4.外圧の本質

先ほど「国際化とは支配的な力をもつ国が、自国が優位に立つ状態を確立し、永続化するためにおこなう世界的な制度づくり」(野村総研 福島清彦氏)と書いた。アメリカが自国の強みを発揮できる国際的ルールを確立することが、日本における「国際化」となっている。それは、取りも直さずアメリカに組み込まれることを意味する。

それでは、アメリカの強みとは何か。まずはドルが機軸通貨であることである。管理通貨制のもとでは、あれほどの双子の赤字を出しても信用崩壊がおこらないのは機軸である強みである。円がドルを支えざるをえない構造になっている。軍産共同体により軍事技術がずば抜けていることである。軍事技術がテクノロジーの発展の原動力となっている。この点では、日本の技術も寄与しており、宇宙開発における素材提供や軍需産業へのセンサー等電子機器分野への貢献は知られている。金融分野におけるノウハウの集積は他を圧倒している。マネーは自己増殖するものである。アメリカのストックマネーは利殖の場を求めて世界を闊歩する。一国の経済が破綻しようがしまいがお構いなしである。その他にも、医学・薬学や農学における生命工学であり、軍事で鍛えられたIT技術であり、農業における生産性等々であろう。こうした強みを知的所有権で法的に保護し、あるいは新古典派理論を貫徹するために、国際的な枠組みで相手国を縛り、優位性を維持・強化しようとしているのである。農業等について、場合によっては二重規範(ダブルスタンダード)となっているが、そこは国益を重視した国家戦略なのである。業界団体がロビースト活動を展開し、議員立法が成立するとその発動をブラフ(脅し)にして、タフ・ネゴシィエイターがやってくる。それが外圧の本質であり、この外圧により日本は山の国から海の国へと急速に転換を図らざるをえない状況となっている。

 

5.海の国の教育理念

 製造業とか商業の世界は国際化の中、規制が撤廃され完全競争下にある。優勝劣敗の厳しい世界である。これを海の国という。この国の神さまは「市場」である。市場がすべての財の分配を適正化してくれる。付加価値を生み出すこと、儲かることは善であり、社会にその分だけ貢献しているからこそ人々から評価され利益を生めるのである。この前提が山の国の住民にはなかなか理解されない。この国では、イノベーションによって他者の到底及ばない技術を確立するとか、新しいビジネスモデルを創造して顧客を獲得するとかの独創性が重視される。そしてリッチマンになること、そのことがとりもなおさず立身出世であり、社会貢献と同義語となるのである。ただし、結果の平等は保証されていないが、機会の平等だけは保証されていることが前提である。そして、自由で公正な社会でなければならない。基本的人権と民主主義、自由主義という価値観を共有することが善であり、これを世界に普及させていくことが役割だと認識されている。一元的進歩主義とでもいわれる価値観がこの国の社会的規範となっている。「市場」という神様を信奉しているため、これに異議を唱えることはタブーである。独占・寡占、外部不経済、情報の非対称性等のいわゆる「市場の失敗」はあまり議論されない。何せ20世紀に東西冷戦に勝利したのである。東西冷戦後は、「文明の衝突」があるが、優越なる西欧文明は他の7つの文明を啓蒙していかなければならない。一番うまく啓蒙できているのは日本文明圏であり、一番問題なのはイスラム文明圏であり、今後の衝突の可能性が高いのは儒教文明圏である。こうみてくると、ある程度の経済発展が伴わないとうまくいかないし、また逆に脅威となるほど経済発展してくる前に頭をたたくのが肝要である。資本の論理が貫徹しているわけである。日本では、すでに東証1部上場企業の株式の20%以上を外資が所有している。彼らはリターンを求め経営に情報開示を求めてくる。日本の経営者は説明責任が問われている。株式会社もこれまで以上に、透明性を確保し運営されなければならない。契約社会であるからルールが大切である。法令遵守が叫ばれている所以である。ルールが自分たちに不利になると、正々堂々とルールを変えればいい。スポーツの世界でできることが政治の世界でできないハズがない。背景には強大な軍事力がある。戦争も外交の一手段であり、政治学的には海の国は極めて「普通の国」なのである。従って、ここでは競争力のある個人を育てるということが本人にとっても、国家にとっても大切なことである。英才教育をし天才児の能力を最大限引き出すことがイノベーションに繋がる。99%の一般庶民はメシが食えるように職業教育をしっかりすればよいのである。この国の教育理念は、「個性を大切にすること」「独創性に大きな価値をおくこと」「競争に耐える心身をつくること」である。

 

6.みずほの国の教育理念

私は決してアメリカ嫌いではない。むしろ今後、偏狭なナショナリズムが台頭することを恐れる。アメリカは国益に従い、国家戦略を明確にしているだけのことである。また、アメリカも様々な意見があって極めて多様である。日本に国家戦略がなさすぎるのである。どんな国家像を描き、そのためにどんな人材を重点的に育成するのか、現在の制度仕組みをみて、施策展開をみて、文科省や教育委員会に見識がなさすぎるとしか思えない。

 私は、山の国と海の国の関係は、弁証法的止揚が必要だと思っている。山の国からは早く脱却しなければいけないと思う、かといって、海の国がすべていいかというとそうではないと思う。海の国に軸足を移しつつも、日本らしさが欲しい。特殊といわれても、独自の文明圏を持つものとして、世界に説得力のある理念国家であって欲しい。そしてそれを「みずほの国」と称し、その国の教育理念を提言したい。また、それは岩手県が今後とも住みやすい平和で豊かな地域でいられるようなものでなければならない。

まず、日本とは何か、不易すなわち変えてはいけないところは何か、そして現在の強みは何か、という分析から入る必要があろうと思う。組織のなかにどっぷり浸かっているとこうしたところがみえなくなる。当たり前にできておれば強みに感じないけれど、外部からみれば大変な強みだったりするのである。改革ブームであるが、この認識のない改革はとんでもない不幸をもたらす。厳に戒めるべき事項である。

阪神・淡路大震災を取材した外国人記者があれだけの大災害であるにもかかわらず、略奪・暴行が一件も発生しなかったという事実を奇跡的なこととし日本人の教育レベルの高さを賞賛していた。最近話題になっているアメリカ・ニューオーリンズの水害に比し格段の相違である。これなど神道を基本として仏教や儒教をも包含した「日本教」ともいうべき精神風土のなせるわざではないか。日本の原風景である村落共同体における「おかげさま」「おたがいさま」「おやくだち精神」が阪神・淡路地方にも脈々と持続していたのではないかと考える。日本人はやはり農耕民族なのである。アングロサクソンのような狩猟民族とは違う。国際化の本質はいかに自国の特殊性をルールのなかに織り込めるかであって、単に与えられたルールに従うことではない。自己主張のない国は、「顔のない国」として尊敬されないのは最近の日本外交をみて明らかである。国も人もこの点は同じである。いかに経済人で他国から尊敬されている人が少ないか、考えてみる必要があろう。

日本は、2000年の歴史がある。そのなかで、古典といわれる書物(古事記、万葉集、源氏物語、徒然草、平家物語、方丈記、奥の細道・・・)のなかに、人生の深淵にふれる慧眼を垣間見ることができ、これらは未だに精神的支柱になりうる新しさが存在する。歴史の重みは、先人の知恵とその堆積によって成り立っているものである。文学や芸能の分野は、日本の誇るべき知恵の伝統と胸をはれるものである。

近代のテクノロジーに関しても眼をみはるものがある。トロンに代表されるITソフト、電器メーカーが持っている「ものを小さくする技術」更にナノテクノロジーといわれる分野、自動車メーカーに代表される生産管理技術、環境や省エネ技術、アニメ等のコンテンツ産業、材料工学や発酵技術、世界的中小企業の持つ独自技術の数々・・・・・日本は、ノーベル賞受賞者の業績を、すべての分野にわたり国内で解説ができる希有の国なのである。それだけ学問の幅と深さがあるということである。

こうしてみてくると、強みを意識した国家戦略が自ずと明らかになってくるのではないか。それは、技術立国であり、知識と知恵の国であり、学問・文化・芸術等に大きな価値観をもつ「品格ある国家像」であろう。

それを支える経済の豊かさが必要であるが、これは世界の「海の国」と協調していかねばならない。堂々と市場を通じて競争していけばよい。しかし、市場オンリーではなく、国々の経済的発展段階、自然環境、宗教や文化の実情を充分考慮したものである必要があろう。現状の国際化は南北格差を拡大し、貧困がテロの温床になっていることに気づくべきである。住友本社の家訓に「浮利を追わず」というのがある。やはり、品格ある国家の行動基準として、他国の経済を壊滅させるような投機は制限していくべきであろう。また、知的所有権で優位を確保しつつも、地球家族のために奉仕すべきものは奉仕するというスタンスも必要である。「世界が全体、しあわせにならなければ、自分のしあわせもない。」のだ。日本国憲法の精神、特に25条「すべて日本国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」は世界に敷衍されるべき概念である。

日本は、どの国でもそうであるように、特徴があり、独自の文化・宗教観がある。唯一の被爆国であり、日本食文化があり、捕鯨の伝統もある。自然崇拝・多神教の国、そして森の国、狭い急峻な国土を切りひらき棚田をあちこちにつくり、人の営みと自然を調和させてきた民族である。24節気という細やかな季節の移ろいに「もののあわれ」を感じ続けた民族である。みずほの国の教育理念は、「競争に耐える知識・スキル・心身をつくること」と共に、やはり「おかげさまで」「おたがいさま」「おやくだち精神」の涵養ということであろう。そういう意味で、学力向上と精神教育の再興は焦眉の急の課題と考えるのである。

 

試験問題 

次の文章は、ある会合における佐藤教育長の挨拶の一部である。文章をよく読んで、設問に答えなさい。各設問ごと400字前後にまとめること。

「さて、今日、学校教育を取り巻く環境は、国際化、情報化、少子高齢化などが急速に進むなど、大きく変化してきております。このような中で、主体的、創造的に対応できる資質や能力を持った生徒を育成していく必要があります。

また、新しい学習指導要領では、ゆとりの中で特色ある教育活動を展開し、基礎・基本を確実に定着させるとともに、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」を育み、生徒一人一人の興味関心や進路希望などに応じて、個性や能力を存分に伸ばしていくことが求められております。

(中略)

これからの社会の期待に応えていくためには、指導する先生方が、自らの専門的知識・技術を高め、使命感を持って教育にあたり、意欲のある人間性豊かで有能な人材を育てていく、その指導力の向上が重要であると考えます。」

設問1.国際化とはどういうことか。また、高校教育に与える影響について述べなさい。

設問2.情報化とはどういうことか。また、高校教育に与える影響について述べなさい。

設問3.少子高齢化の原因は何か。あなたの考えを記述しなさい。

設問4.主体的に対応できる資質や能力とはどういうことか。例示も入れてわかりやすく記述しなさい。

設問5.創造的に対応できる資質や能力とはどういうことか。例示も入れてわかりやすく記述しなさい。

設問6.特色ある教育活動は千厩高校でできているか。あなたの考えを述べなさい。

設問7.基礎・基本とは何か。あなたの考えを述べなさい。

設問8.「生きる力」とはどのようなことか。具体的に記述しなさい。

設問9.個性を存分に伸ばすには教育者はどのようなことをすればいいのか。あなたの考えを述べなさい。

設問10. 自らの専門的知識・技術を高めるためにあなたはどのようなことをしているか。

設問11.人間性豊かとはどういうことか。あなたの考えを述べなさい。

設問12.指導力の向上について岩手県で実施されている制度・仕組みを説明しなさい。また、指導力の向上に関して県に対する要望があれば、記載しなさい。

解答事例 

設問1.

国際化とは、「支配的な力をもつ国が、自国が優位に立つ状態を確立し、永続化するために行う世界的な制度作り」(福島清彦による)である。ソ連邦の解体、中国の開放政策等により旧共産圏諸国が市場経済化し、多くの消費市場と安価な労働市場が国際経済に組み込まれた。また、市場原理主義を信奉する国際機関の指導で各国は資本取引の規制緩和がなされ、金融資本には世界的投機の機会が整備された。製造資本は安価な労働力を求め、あるいは消費地立地の観点から、グローバルに事業活動を展開するようになってきた。そしてこの変化が、資本間の激烈な競争を促している点で大競争時代といわれている。徹底的なコスト競争、技術開発競争が展開されており、弱肉強食の様相を示している。社会の変化は、労働市場に典型的に現れており、デフレ圧力により雇用形態が多様化している。人材ニーズも付加価値を生むスキルが重用されるなど変化している。しかし、教育界に危機意識が薄い。今必要なことは、先生方の意識改革であり、生徒一人一人の立場にたって「生きる力」を育むコンテンツは何かを見極めることである。 

設問2.

情報化とは、コミュニケーション手段の多様化・高度化のことである。IT技術のおかげで、地球上のあらゆるところから極めて安価に情報を入手できる。また、多くの人に自分の考えを発信できる。そういう時代に生きる人間として必要なことは、情報を選択できる能力、独自の視点からものを考えられる能力である。よくいわれる「個の確立」ということである。従来のように、個の属する共同体規制に身を委ね、それに守られるだけでなく、個人としての倫理観を持ち、正邪を判断する力を身につけなければならない。そして、自分とは違う価値観の他人に対して寛容でなければならない。そういった判断能力や他者理解力は知識がベースになっており、文明が発達すればするほど高学歴化は時代の流れになる。また、学校を終えても生涯教育の観点から、学ぶ姿勢が肝要である。私が、当校の目的の基礎固めとして、「豊富な知識・論理的思考力」「考える習慣・学ぶ姿勢」「人間関係構築能力」をあげている所以である。 

設問3.

戦後、復員者を中心にベビーブームがおこり、団塊の世代が形成されたが、この世代が2007年をピークに定年退職を迎える。この子供たちが20代後半になっているが、出生率1.29と戦後最低を更新し続けている。これはなぜか。私は、エートス(社会集団が歴史的に保ち続けてきた道徳的な慣習・雰囲気)の喪失 教育費の増大と雇用不安の拡大 子育て環境の整備不足をあげたいと思う。

戦後の教育改革はアメリカを手本になされた。自由主義と個人主義の改革といってよい。しかし、アメリカにはキリスト教という宗教があり、ウェーバーのいうとおりの資本主義の精神が脈々と息づいているのに対し、日本には、自由主義や個人主義に整合するエートスが存在しないのである。かつての儒教的エートスに包含されていた「家」意識も子孫繁栄の価値観も放棄され、新しいエートスが確立しないまま今日に至っている。また、バブル崩壊後、両大戦間に熟練工の囲い込みから始まった日本的労使関係(終身雇用・年功賃金・企業内組合)が大競争時代に入って大きく崩れてしまった。漠たる雇用不安が若者に浸透し、親が子供の教育費捻出に苦労しているのを目の当たりにしているのである。加えて、公共の保育施設が不足していることから、若い共稼ぎ所帯は出産に二の足を踏むのだろう。 

設問4.

経済学の祖といわれるアダムスミスは自分の学問を道徳哲学と認識していた。問題意識として「人間はどのように生きるべきかという術を考える」ことにあったのである。社会科学は社会現象を研究するのであるから、社会の一員である個人の行動も包含される。社会から影響を受ける個人がいて、逆に個人は社会のメンバーとして何らかの形で働きかけているのである。そして、神々の見えざる手として「市場」の機能を重視し、個人の合理的判断の集積が社会を進歩させるとしたのである。こういうアダムスミスの態度こそ主体的というのである。主体的の反対語は従属的・評論家的といえば、主体的の意味がわかりやすい。評論家は集団の外部にいて安全なところから「評論」するのである。人は何らかの組織のメンバーとなるが、組織の問題について自分の問題として考えるという主体的態度はメンバーシップの大切な要素である。 

設問5.

創造性は何に由来するか。それは知識である。知識の詰め込みが、さも創造性を阻害するような論調がまま見受けられるがそれは明らかに間違いである。いかに、多くの知識があり、それが構造的に整理されているかで創造力は左右される。更に、世の中の進歩に貢献した発明者の自伝等を読むと、その前提として志と努力があることがわかる。志とは世の中をこうしたいとか苦しんでいる人を助けたいとかの強烈な使命感である。また、仮説を立てるときには幅広い知識が必要であるが、実験等で帰納的に思考するときにはコツコツとした気の遠くなるような努力が必要である。また、新しいビジネスモデルを構築するときに、仮説を立てて実行するその行動力と、事実をありのまま観察する素直さが必要条件になる。いずれにしても、幅広い知識が構造的に整理されていて、それがコーディネイトされ仮説を立てることができることが創造性発揮の出発点である。 

設問6.

千厩高校は普通科の他に、農業系・工業系クラスを持つ併設校というところに特徴がある。しかしその特徴を生かし「特色ある教育活動ができている」とは言い難い。統合後の融和を最優先してきたからであり、統合完成年度でもある今年、3年間を振り返り検討すべき時期にきている。また、当校は地域に根ざした高校である。従って、地域の人材ニーズにも耳を傾ける必要がある。学校評議員ができて制度的にスタートしたが、まだまだ軌道に乗るところまでいっていない。ただ、制度ができても教職員の意識が変わらないと、改革の実をあげられないので「外へ出よう」運動を展開したい。いろいろな外部の人の話を聞いて先生方がその気にならないとうまくいかない。現在、産業技術科の事業コンセプトづくりから始めている。来年度は、全科原点からカリキュラムマネジメントを構築し直すつもりである。 

設問7.

高校教育の目的を「生徒が幸せな人生を歩めるように基礎固めをすること」と定義した。

そして、基礎固めの意味を(設問でいう基礎・基本)

 新聞雑誌が読みこなせること

 考える習慣・学ぶ姿勢を身につけること

 人間関係を構築する術を身につけること   とした。

新聞・雑誌を読みこなすには、幅広い知識が必要である。そして、論理的に文章を組み立てていく能力がなければ、議論できないであろう。こうした能力は授業で鍛えられる。すぐに役立たないような知識こそ、じっくり効いてくる知識である。

また、社会人になってからは、学齢期よりも長い時間がある。この期間に自問自答するかどうかで随分能力に差異が生ずる。先生方の考える習慣・学ぶ姿勢の有無が、生徒の今後の人生に与える影響は甚大なものがある。最後の人間関係は教育不能と思う。学校はクラブ活動や生徒会活動等の場を提供することで育つことを見守るのである。 

設問8.

「生きる力」とは、確かな学力・健康体力・豊かな人間性の3つからなる。確かな学力とは、幅広い知識に加え、学ぶ意欲を持ち、自らで課題を発見し自らで調べ考え、主体的に判断・行動できる資質や能力のことをいう。健康や体力は心身ともに逞しさを身につけていることをいう。豊かな人間性とは、感動する心・正義感や公正さを重んじる心・人権を尊重する心・他人を思いやる心・自立心や自己抑制力・異質なものへの寛容さなどをいう。

変化の激しい時代にこれらの資質や能力を総称して「生きる力」といい、バランスよく育成していくことが大切であると中央教育審議会が答申して以降、学校教育現場のキーワードになっている。 

設問9.

個性は育てられるか。私はノーといいたい。できることは、せいぜい異質に対する寛容さの大切なことを教えて、育ちつつある個性の芽を摘んでしまわないことである。社会集団にはそれぞれ独自の規範・道徳や価値観が存在する。近代国家にはその規範・道徳や価値観に合致するように教育体系が形成される。自ずと社会の期待される人物像ができあがる。その期待される人物像を前提として、学校現場ではさらに細かく運営上の必要からモラルとルールを策定する。このようにして教育は人をある型にはめ込もうとしているのである。いわば「教育は強制」なのである。そのことにより、社会の維持・発展に貢献すると信じられている。現に教育は、受益者負担だけでなく税金が投入されており市場原理の埒外に置かれているのはそうした社会的要請があるからである。しかし、なぜ個性を育てようとするのか。日本人は、欧米人とは違って、個性を強調しないと皆同質的な人間が育つという人間観があるからである。しかし、独自能力を持たなければ、社会で通用しない時代が到来しており、あえて個性を教育の場で強調する必要はないと私は思う。 

設問10.

およそ知的生産技術とは生涯にわたって、聴くこと読むこと考えること(特に効果があるのが書くこと)の3つしかないと考える。校長という職にあって、マネジメント能力を発揮して、成果を出していかなければならない。下記のとおり、Visionは、示せたが、本格的に実効があがるのは来年度以降とならざるをえない。今後とも知的生産技術を駆使して「いい学校づくり」に邁進したい。

事業目的を明確にすること・・・「生徒が幸せな人生を歩めるように基礎固めをする」

経営理念を徹底すること・・・日本経営品質賞の理念を準用する

経営戦略を立案すること・・・作業見直し、授業ブラッシュアップ、生徒と向き合う時間

経営方針を立案すること・・・授業評価、学力重視、文武両道、個別指導、広報強化、

学校評価 

設問11.

「人」は字形からわかるとおりお互いもたれ合う(社会的分業)社会的動物であることを表している。それでは「間」は何か。私は天使と悪魔の間にあるのが人だと解釈している。教育現場では、人間は一生かかって豊かな人間性獲得(天使)へ向けて努力すべき存在だと解釈したい。豊かな人間性とは、人間が本来持つべき次のような特性をいう。

美しいものや自然に感動する心などの柔らかな感性

正義感や公正さを重んじる心

生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的な倫理観

他人を思いやる心や社会貢献の精神

自立心、自己抑制力、責任感

他者との共生や異質なものへの寛容 

設問12.

特例法19条に規定されているとおり、教員は研修する義務を負っている。研究と修養は教員が職務を適正かつ効率的に行うために、必要かつ不可欠と考えられているからである。

研修の種類として、「命令研修」「承認研修」「自主研修」の3種類ある。命令研修には、初任、5年、10年、15年等の階層別研修のほか、適宜その都度目的別研修が負荷される。承認研修には長期研修、教科毎研修等がある。自主研修はあまり活発でないようである。

しかし、そもそも人事制度の一環としてみた場合、人事評価のない世界で研修制度がまともに機能するはずがないともいえる。配置・育成・評価は三位一体であるからである。当校では、できるところからという観点で育成の目的で授業評価をスタートさせた。そして、ベンチマーキングを是非導入していきたいと考えている。県にご支援をいただきたい。 

注釈及び補説:

大競争時代

国際的なルールが決められ、その中で多国籍企業が活躍し、インターネットを通じて情報が瞬時に世界を駆け回る時代になると、国家の役割が縮小してくるのではないかという人がいる。とんでもない認識違いである。現在の国際化はアングロサクソン化でありアメリカの国家戦略に基づいているのである。これから、ますます国家戦略の重要性が増してくると考えている。ことのほか重要なのが、教育と技術開発である。 

共同体規制

日本は「みずほの国」である。農耕民族であり、共同体の原点は村落共同体である。掟破りは村八分(共同体からの放逐)で制裁し、同質的な行動を要求した。アングロサクソンは狩猟民族である。常に他人と違う狩猟方法を開拓しないことには獲物にありつけないのである。掟破りは人権の制約(自由の制限、生命の奪取)で、常にルール(契約)を尊重、そのルールを他民族にも押しつけた。我々が、国際化に違和感を覚えるのはこのような背景からではないか。 

エートス

適切な日本語がないので、ギリシャ語のまま使用した。倫理・道徳は存在すべきもの、エートスは存在しているもの。パトスは、即時的に対処する感情や情感、エートスは持続的な心のあり方、文化としての精神。新渡戸稲造の「武士道」は外国人にはわかりやすい日本人のエートス解説書であったのだろう。国際化時代にふさわしいエートスとして、感謝・相互扶助・奉仕・勤勉・誠実・寛容・平和をあげたい。 

市場

需要と供給が均衡し、価格や生産量が合理的に決定されるとする経済学上の抽象的概念。

市場原理主義ともいえる新古典派学派を経済政策理論に据えているのは、アメリカ共和党、

イギリス保守党等であり、世界の趨勢では少数派である。「市場の失敗」という言葉もあるとおり、特に後進資本主義国家は国家戦略に基づいた産業保護政策をとっている。

(日本も需要が年々歳々増え続ける右肩上がりの経済環境下にあって、よく官僚制度が機能したといわれている。ただし、設問挨拶にあるとおり、国際化・情報化・少子高齢化で需要が伸びない環境下で、かつての強みが弱点になっているのである。これは制度そのものの持つ縦割り組織・無謬主義・自己増殖等の特徴に由来する組織文化に起因する。)

更に認識すべきは、英米流の強者の論理(市場原理主義)は、世界的にますます南北問題を深刻にしつつあることである。 

使命感

生徒の就職活動を見ていて、使命感を持っている人物が少なすぎると感じる。豊かさからくるのか、エートスの崩壊からくるのか。求人票を見るのは、まず初任給、そして休日数とくるのだそうだ。何をやっている会社で、どういう経営理念を持ち、そこでどういう仕事が待っているのかは二の次と聞く。「人はその心で考えるごとき者となる」ことから教える必要がありそうだ。 

全科(普通科、生産技術科、産業技術科)

地域に根ざした学校というコンセプトを採用する以上、地域で必要とする人材を育成する必要がある。医者や弁護士等の知的専門職も一定割合必要だろう。そして何よりもなりたい職業につかせてやりたい。目標に向かって努力する生徒にしたい。

また、地方経済の活性化を考えると、起業家マインドの醸成も必要だろう。全科・全学年にわたって、カリキュラムの見直しをしたい。 

先生方の考える習慣・学ぶ姿勢

これからの時代、同じ会社で慣れた仕事で一生暮らせるという人はほとんどいなくなるだろう。社会へ出れば、自問自答しながら考え、そして学ぶ習慣を是非ともつけることが必要である。そのクセのない生徒は幸せな人生は歩めないと思う。それで、先生方に背中で教えてくださいといっている。専門分野を深堀すること、伝達スキルを磨くこと、そして何よりも自分の頭で考え、学ぶ姿勢を生徒に示すことが肝要である。 

異質なものへの寛容さ

アメリカの社会思想は、一元的進歩主義ともいえるもので、異質なものには基本的に不寛容であるが、日本は歴史的に外来文化を巧みに取り入れてきた伝統をもっているので、寛容であるはずである。しかし、戦前の一時期、権力が危機意識を煽り、結束力を強化するために大変不寛容になり、それを大衆が無批判に迎合した時代があったことを忘れてはいけない。 

ベンチマーキング

優良企業のいいところを、いろいろなデータを駆使して見習うこと。マネジメント手法のひとつ。ここでは、授業に定評のある先生の授業見学を随時おこない、ノウハウをマネブこと。

 

随想 「旭硝子という会社」

大学で経済学を学んだ。あまり熱心な学生ではなかったけれど、「経世済民」の意味やHot Heart & Cool Brainの精神は身につけたつもりでいる。そして、経済学の始祖とでもいうべきアダム・スミスは自分の学説を経済学というより、「道徳哲学」と位置づけていたことを学んだ。社会現象を分析するのに自分を含めての社会しかありえず、畢竟「人生いかに生きるべきか」というテーマにならざるをえないのである。

社会人になってからも仕事を通じて実践的に学んできた。学生と社会人の一番大きな違いは、他問自答から自問自答せざるをえないことであろう。誰も問題を出してはくれないのである。社会人1年生で配属されたところは工場労務であった。いわゆる集団的労使関係を司るセクションで、いわゆる職工さんの心情理解のため、彼らの独身寮に舎監として住み込んだ。当時4組3交代の勤務シフトが標準であったので、その勤務シフトも体験した。2場所8年程労務で勤務し、労使関係管理、採用、社内教育を実践しながら

1. 工場には技術力だけではなく、現場の技能の伝承が暗黙知として存在すること

2. 現場メンバーのコミュニケーション能力(基本は読み書きそろばん)が大切なこと

3. 労使協議制度等の仕組みは所詮現場を「その気にさせる」仕組みであること

4. 労使関係が良好なことは、経営の発展にとって「必要条件」に過ぎないこと

5. 終身雇用・年功賃金・企業内組合は熟練工確保の経営上の必要から、大正時代から昭和のはじめに(両戦間期)かけて成立してきたものであり、そんなに古い時代からの日本の特徴ではない。

等の事柄を勉強した。

 続く建材営業では、顧客である問屋さんの経営を見てきた。そして、メーカーとしていかにチャネルオペレーションをするかという仕事に従事した。問屋さんには「看板を与える」ということでその地域での販売権を付与しつつ、メーカーに忠誠を尽くす仕組みを歴代の営業部隊が作り上げていた。他人資本にもかかわらず、財務諸表を提出させ、経営分析をおこない、経営指導をおこなうという行為は外国からすれば、メーカーの流通支配として認識され、排他的商慣習、非関税障壁としてヤリ玉にあげられた。考えてみれば、累進的リベートも後追い値引きも顧客事情を勘案した合理的方策であり、もっと抵抗すべきであったようにも思うが、当時の雰囲気は社内も通産省もこぞってアメリカの論調に与していたように思う。自動車用ガラス部門出身の事業本部長には、流通から発生する当社の「儲かる仕組み」も旧態依然の悪弊としか写らなかったようであるし、建築業界に供給する二次加工品も自前で製造することが一番当社の利益に繋がると言う理解しか持てなかったようである。特約店制度そのものが「儲かる仕組み」になっていたこと、建築における二次加工は付加価値が付かないことがどうしても理解されなかった。「生活実感」のない改革がいかに収益の柱を破壊したかの好例を作ってしまった。

「儲かる仕組み」を失った旭硝子は営業経費の大幅削減で対応した。現在では、支店もなくなり、例えば東北地方には従来の課長級のエリアマネージャーと称するものが六県を束ねている。価格対応の事務処理とクレーム処理に追われていると仄聞する。そして、「フリーマーケット」と称して、自分で物件獲注に動いているらしい。私には信じられない変容ぶりであるが、これが改革を経た国内営業の姿なのである。建材営業からは、かつてのような立派な経営者は出てこないだろう。ひとを育てる仕組みそのものを失っているからである。

日米貿易摩擦とはまさしく貿易戦争(Trade War)であり、アメリカのガーディアンという会社によって、日本の3社がやり込められた図式といえる。国際化とは「支配的な力を持つ国が、自国が優位に立つ状態を確立し、永続化するために行う世界的な制度作りである。」(野村総研、福島清彦氏による)という定義は誠に当を得た表現といえよう。当時AFGを買収した旭硝子などをガーディアンは許せなかったものと思われる。そして、当時のクリントン政権のUSTR(アメリカ通商産業局)をロビースト活動により動かし、日本の業界慣習をヤリ玉に上げることにより日本企業の「儲かる仕組み」を破壊した。それが狙いであったのだろう。当時の通産省の対応は、個別業界の問題に押し込め、全体的な波及をくい止めるという作戦であったように感じた。

マイケル・ポーターによれば、業界の特徴は@商品の代替可能性A新規参入障壁B業界としての競争環境C販売先との力関係D仕入れ先との力関係 で決まるという。それならば、日本の板硝子業界ほど恵まれた環境にある業界はないであろう。それなのに、希望退職を募り固定費削減に追い込まれた「改革」とは一体なんだったのだろう。私は硝子建材事業本部の改革は失敗だったと総括すべきであろうと思う。

 その後の私の経験で出色なのが、出向社長の経験だろう。当時の出向会社にとっては、初めての出向者受け入れであり、相当の抵抗が予想された。しかも、後でわかったことだが、債務超過会社である。もちろん、自身の身分は保障されているし、資金繰りにいきずまったら、親会社にジャンプと叫べば何とかなることは承知している。しかし、それでは経営指導を手がけていた自分の名がすたる。私に与えられたミッションは経営分析し実態を明確にし、一日も早く出血を止めることである。銀行折衝しながら、大リストラを敢行し、半年で月次を黒字にした。お辞めいただいた方には申し訳ないが、そこまで無策だった無能な前任経営者のせいだと理解していただいたと思う。給料日を「もう感覚」―もう給料日か― ですごした日々はこのときがはじめてである。と同時に、世の中の多くの中小企業経営者の方々のご心労が少しはわかった気がしたものである。

 考えてみれば、28年間以上も給料をもらいながら、社会の仕組みを勉強させてもらった。経営というものをいろいろなケーススタディとして把握させてもらった。所詮、付加価値は人しか生み出せないという単純なことも理解できた。最後は国際化していく社内の流れに「何か違う」と感じながらも、自分の頭が整理できないまま希望退職に応じて会社を去った。鬱々と批判分子でいるよりも、新天地でこうして人を育てる職業についてよかったと思っている。後はこの30年間で身につけたものを、教育の現場で生かしていきたいと思う。幸い、日本経営品質賞という考え方に出会い、自分の経験を整理できたと思っている。竹中平蔵流にいうならば、山の国が海の国に環境変化を起こしていく中での「改革」がいかに難しいかを経験してきたわけである。公教育の世界はまさしく山の国の最右翼といってもよい世界である。環境変化に対応し「改革」はしなければならないが、旭硝子のような失敗だけはすまいと肝に銘じている。私自身イーハトーブの教育理念構築へ向けて更に課題はあるが、勉強していきながら自分の「教育学」を完成させていきたいと思っている。

 

巻頭言 

50歳を過ぎて、私は、2度失業した。いずれも就職斡旋業の方たちのお世話になった。その人たちと会話し、自らも中高年の労働市場を垣間見て、「生きる力」とは何か、どのようにすれば身につくのかを考えた。考えた結果を「学校経営方針」に反映させている。

誤解のないようにいっておくが、決して私のような生き方を勧めているわけではない。終身雇用・年功賃金の下で、安定した生活を営むほうがいいに決まっている。しかし、客観情勢がそれを許さなくなっていることも事実だ。私の場合は、建築という分野の未曾有の不況であったし、国際化のなかで、競争激化により事業の存続が危ぶまれている業種も多い。技術開発のスピードが速くなっていることから、勝ち組・負け組などという流行語もできている。そんななかで、君たちは生きていく・・・

失業しているとき、「職務経歴書」の書き方の指導を受けた。何をやってきたか、そしてその結果現在何ができるか、そして今後何がやりたいか、を整理して自分を売り込むのである。ある企業の採用責任者によると、中高年では「職務経歴書」を見て会いたいと思う人は100人にひとり、会って採用できる人は5人にひとりだ。それぐらい厳しい。しかし、どんな企業でも「できる人材」はどんな状況でも、のどから手が出るほど欲しがっている。

若いときは「できる人材」になりうる素材かどうかで判断されるから、まだ中高年ほど入口のところは厳しくはない。しかし、自分を磨くというクセをつけていないと、景気の変動にビクビクするハメになってしまう。学校経営方針に示した3つの基礎固めの要素をしっかりと身につけ、そして更にプロといわれるぐらいの専門性を持てば、どんな時代がこようと心配することはない。コア(中核)の人材は雇用調整とは無縁である。

千厩高校卒業生には是非そんな人材になってほしい。そのためには、充実した学園生活を送ることだ。進路を早く決め、目標を立て努力する。何かに集中し、みんなで実績を作る・・・ 世の中が要求するのは単に知識の量ではない。学び考える習慣や、目標を決め自主的に努力する、そういうスタンス(姿勢)である。先日、ジョブカフェの人たちから話を聞く機会があった。大学を出ても、更に大学院を出ても、何社受験しても合格せず相談に来る人が多いのだそうだ。目的意識からではなく、何となく偏差値だけで大学を選び、行きたい大学ではなく、行ける大学を選択してきた結果ではないかということである。

千厩高校生の進路は多様である。大学をはじめとする上級学校へ行く行かないはあっても、いずれ社会には出る。社会人からみれば、基礎固めの高校という学舎が、大変貴重な体験・学習の場であること、貴重な時間であることは、まちがいない。君たちに望むことは、その貴重な時間を有効に使って欲しいということである。

 

「轍」校長挨拶原稿   「採用する立場から」 

皆さんも知っているとおり、私はいわゆる「民間人校長」である。

ビジネスの世界から教育の世界にきたので、普通の校長先生があまり知らないことを話すことができる。その一番わかりやすい例が「採用する立場から」という話だろう。大学を出てすぐに就いた仕事が労務課で採用や社内教育を実施する担当であったし、その後管理者として多くの新入社員の方々と机を並べてきたからである。

高校からすぐに就職する場合、学校から調査書が手元に届く。採用する立場からするとチェックするのは、3つの具体的数値だけといってよい。成績平均点とクラブ活動実績と出席日数である。成績平均点はコミュニケーション能力と比例する。それはそうだろう。先生の話を聞いて、それを理解できたかどうかの指標が成績である。関東自工が成績4.0以上の生徒しか受け入れないとするのは最近、「日本語で書くこと」「人前でしゃべること」の極端に苦手な生徒、つまりコミュニケーション能力の鍛えられていない生徒が多いからだろう。

クラブ活動では人間関係が鍛えられる。先輩からいやな思いをさせられたり、レギュラーになれなかったり、練習方法で先生とぶつかったり、3年間にはいろいろあるだろう。少なくともそうした経験をして、それでも3年間続けることができたということは、それなりに人間関係を構築するすべが身に付いているということだろう。そこを評価しているのである。

出席日数はいうまでもない。心身ともに健康であればそんなに欠席はしないだろうということである。

 それから面接はどこを見ているかというと、会話の中身よりもむしろ表情・態度である。私などは意地が悪いから必ず困るような質問をする。その時の受け答えの表情で採否を決める。長年の勘がそうさせるのである。ピンチに立ったとき、落ち着いて対応できるかどうかは、その人の長年培われてきた自信がものをいう。自信に裏打ちされた自己開示能力、自分をありのままに表現できる能力は、相手の話を積極的に聴く能力と同様、社会では大切である。

 中途採用は職務経歴書にストーリーがあるかどうかが決め手である。

3年以内の職歴はキャリアに入らない。つまり3年ごとに職を何の脈絡もなく転々としているような人は社会経験ゼロの評価しか受けないことは肝に銘じてほしい。社会経験ゼロということは、いつまでも新入社員なみの処遇しか受けられないということである。経済的自立は、幸せになるための十分条件ではないが、間違いなく必要条件である。

 国際化になって競争が激化し、各企業の経営環境も厳しくなってきている。それに伴い非正社員が3割を越えるなど労働環境も厳しくなっている。このままだと日本の少子化がどんどん進むのではないか、という危惧の念をもたざるをえない。しかし、どんな時代でも付加価値を生むのは人間であり、必要な人はいつでも、どこでも求められていることは忘れないでほしい。

 

土くれ原稿       「農の心」 

生産技術科のみなさんは、どうして生産技術科に入学したのでしょうか。農業をやりたいとか生活を科学したいとか農の心を感じ取りたいとかの志があったでしょうか。そういう志がなかったとしても、卒業する時点では是非「農」のすばらしさを語れる人になっていただきたいと思って私の農に対する想いを綴ってみたいと思います。

戦後60年、日本はいま 曲がり角にきています。アメリカ流が日本のなかでも主流となって、やれ自由貿易を損なう規制や産業の保護政策が問題であるとか、やれ人事制度は成果主義・能力主義でなきゃ効率があがらないとかの議論が盛んにされています。最初に改革ありきの結論があって、それに対し疑問を挟もうものなら抵抗勢力のレッテルを貼られそうです。また反対に、環境変化に対応すべきところが、内部構成員の居心地を維持するためだけの目的で、旧態依然とした状態が長く続いている組織もあります。そんな混沌とした状況に日本全体がありますが、大切なことは何を残し、何を変えていかねばならないか明確にしていくことです。その原理原則を確立し一貫性をもって対応していくことが肝要です。

私は、いろいろな考えがあるのはいいとしても、「農の心」だけは絶対に無くしてはいけないものと思います。日本の基本、国のアイデンティティ(自己同一性)がまさしく「農の心」だからです。考えてもみてください。戦後、めざましい経済復興をとげ、世界第2の経済大国になった原動力は何だったのでしょうか。高度成長期に工業の成長を支えた労働力はどこに由来していたのでしょうか。日本には、四季よりもさらに細かな24節気という季節があります。この季節の変わり目ごとに緻密な作業計画を立てて農作業をしてきたわけです。また、村落共同体ではお互いに助け合う仕組み(例えば結とか無尽)が構築され、精神風土としても「おかげさまで」という感謝の心、「おたがいさま」という相互扶助の心、「おやくだち」という支援の精神が醸成されていったのです。

そういった緻密な計画性、チームワークを大切にする精神風土が日本の強さの秘密であります。そのことを理解できない人たちがリーダーという立場にいて、「改革」と称しているのは困ったことだと考えています。アメリカという狩猟民族の論理は、日本という農耕民族の論理とは適合しないことが多い。子供のお仕置きひとつとっても、狩猟民族は倉庫や納屋に押し込んで自由を奪うのに対し、農耕民族は家族から放逐する(例えば勘当、家族全体への制裁は村八分)という形をとります。つまり、精神構造の根本が違うわけです。これを理解しない改革は必ず失敗しています。かといって、日本の従来通りのやり方がすべて正しいなどといっているわけではありません。日本人は内と外を明確に区別するがために、内に入ると居心地のいいようにするという悪弊があります。政官財の癒着であったり、談合体質であったり、馴れ合い・もたれ合いが度を過ぎる嫌いがあります。コンプライアンス(法令遵守)とかアカウンタビリティ(説明責任)だとか最近いわれているのはそういう体質を改めていくべきだというコンセンサス(合意)が出来上がってきたものと思います。これは大切なことで日本を変えるキーワードになっていると思います。また、もうひとつ言えることは従来のお役所文化を変える必要があるということでしょう。明治維新で武士文化を否定し、戦後は軍隊文化を否定してきたわけですが、現在は官僚文化を否定する時期にきているという歴史認識です。官僚文化とは経済の右肩上がりを前提に自己増殖し仕事やポストを際限なく拡大する、過去自分たちのやってきた施策については絶対過ちを認めない、縦割り行政でお客様よりも自分たちの都合を優先し誰も個人としては責任をとらない体制、等を特徴とするものです。いま、日本の農政を考えたとき寒々しい思いをしています。一戸当たりの経営規模を拡大し、「近代的」農業へもっていこうとしているようですが、日本のような高低差の大きい耕地の条件でそれで国際的な競争力がつくのでしょうか。もうこれ以上失敗を重ねるのは辞めてほしい。それよりも、品種改良とか二次加工を増やすとかして付加価値をあげる算段をすべきだと考えています。そのための技術開発に全力でとりくむべきです。そして何よりも、農業をしっかりと職業として受け継いでいく「志」をもった若者を育てていく、そういう施策が必要だと感じています。

日本は遺伝子工学や発酵技術等のバイオテクノロジーの先進国です。そうした技術を利用して新しい農業を起業する、そんな逞しい農業者がこの千厩高校から出ることを願っています。そして、そういう「志」を育むことのできる学校でありたいと考え、学校改革に取り組んでいることを皆さんにお伝えしたいと思います。

 

「恥の文化」再考 

 昔、ベネディクトの「菊と刀」を読んで、なんとなく違和感を覚えたまま随分と時が過ぎた。当時を思い出すと、「恥の文化」は共同体規制という外的要因が社会規範の基本になっているとし、「罪の文化」は神との契約、贖罪という内的要因が人々の行動規範になっているというように解釈した。そして何だか「恥の文化」は「罪の文化」より低レベルであるというように読めたからである。

 今、改めて調べてみると、やはり多くのベネディクト批判があり、そのうちの一人に作田啓一という人がいる。彼によると、「恥」という概念は二通りあるという。ひとつは優劣基準に基づいた「恥」で他人より劣っているので恥ずかしいとするものである。歌が下手なので人前で歌うのは、恥ずかしいのであり、試験の成績が悪いと恥ずかしいということである。もうひとつの「恥ずかしい」は善悪基準に基づいたものである。よく親が子に「恥を知れ。恥を」と叱るのはこの「恥」である。新渡戸稲造が「武士道」の名誉の章で書いている廉恥心もこちらの「恥」である。ベネディクトは後者の「恥」概念が理解できなかったものと思われる。自分の良心に照らして、恥ずかしくない行動をとるべきであると、多くの日本人は躾けられてきたはずである。

ところが、最近どうも善悪基準による「恥」が危うくなっているように思う。特に、エリート層による不祥事が後を絶たない。この背景にアメリカの市場原理主義による経済思想があるように思えてならない。豊かな社会には、ストックマネーがあふれている。マネーはそれ自身自己増殖機能を持つので、金融分野ではいろいろな市場でマネーゲームがおこなわれる。株式市場しかり、為替市場しかり、商品取引市場しかり、債券市場しかりである。このゼロサムゲームは詰まるところ「博打」であり、博打資金が健全な実物経済を歪めたりしている。アジア通貨危機がその典型である。

住友本家の家訓に「浮利を追わず」とうたわれており、本業に専念し信用を重んずる精神は商いの道とされていた。農工の世界では、額に汗することを尊いとする勤労観や「おかげさまで」「おたがいさま」という表現に代表される感謝の心・相互扶助の精神が存在していた。また指導者層には儒教をベースにした倫理観が存在した。そうした日本の精神性が、希薄になってきたように思う。

アニミズムを原点とする多神教たる神道、輪廻転生の世界観を広めた仏教、家族のあり方や指導者の心構えを説いた儒教が日本精神のバックボーンである。国家神道や教育勅語の過ちを完全否定するとともに、一方で戦後のアメリカ流の価値観だけではカバーしきれない「日本らしさ」を探求することから、新しい時代が開けてくるように思うのである。     教育の現場で日々子供たちと接している者にとって、そうした精神性の復活は焦眉の急であると感じる今日この頃である。

 

同窓会誌原稿           「素直ないい子」考 

1年近く千厩高校生をみてきました。そして感じることは、素直でいい子が多いということです。なぜだろうと、当然考えました。2つの仮説が考えられます。ひとつはこの地域はまだコミュニティが成立していて、地域の教育力が保持されているという観点です。もうひとつは、祖父母との同居が多く、子としての親を見、嫁姑問題をはじめとする多面的な人間関係になじんでいるという観点です。検証する余裕はありませんが、当たらずといえども遠からずという気がしています。

素直であるということは、それだけで価値があり、今後伸びる要素を内包しています。こうした長所は是非伸ばしていきたいとおもっています。しかし、一方でどうも逞しさに欠けるような気がしてなりません。いずれ寒風吹きすさぶ社会に出て、そこで糊口の資を得て、一生を全うしていかなければならない。そうしたときに、果たして耐えていけるのだろうかとふっと心配になることがあります。特に、人間関係で落ち込む生徒が多いのが気がかりです。企業の方々からも「おとなしい、もっと尖った人材がほしい」と言われたりしますが、私も同感です。

もうひとつ気にかかることは、日本語での表現力が不足していることです。もっと読み書き、聞き話す訓練が必要と考えます。これは、マンガ文化の発達や携帯電話の普及と無関係ではないのでしょう。「うざい、きもい、びみょう」というような感覚的な「ひとこと言語」しか使用できないようでは困りものです。日本語で考え、日本語で表現することは、コミュニケーションの基本であります。国際化といわれる時代に、ますます必要になってくる能力要件であります。

さて、こうした現状認識の下で、学校改革を実施しようとしています。すべては、「生徒の幸せな人生のために」であります。現在、先生方と具体的方法論を論議していますが、同窓生の方々にも是非関心をもってもらい、積極的参画を期待したいとおもいます。

 

卒業式式辞 

 本日、ここに、菊地千厩町長様をはじめ、多数のご来賓の皆さま並びに保護者の皆さまのご臨席をいただき、平成十六年度卒業証書授与式を挙行できますことは、誠に喜びに耐えません。今まさに、この山迎台から旅立とうとしている 298 名の卒業生の皆さん、卒業おめでとうございます。心からのお祝いを申し上げたいと思います。また、保護者の皆さまにも、心からのご祝辞を申し上げたいと思います。お子さまの旅立ちの日に、来し方を振り返りますと、感慨も一入のことと存じます。改めてお祝いを申し上げます。

 さて、卒業生の皆さん、今年は、戦後60年であり、日露戦争終結100年であります。

この意味を改めて考えていただきたいと思います。戦後60年ということは、終戦後生まれた団塊の世代がこれからの数年間で続々と引退していくということであります。つまり世代交代が大きく進むということであります。この世代は、受験戦争をくぐり抜け、学生運動の洗礼を受け、好むと好まざるとに関わらず社会に眼を向けざるを得ない環境に育ちました。経済成長を支えながら、負の遺産ともいうべき公害問題・環境問題に直面し、バブルを体験、その後の崩壊と長期低迷を経験した世代です。国際的には、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁がなくなり、ソ連邦の崩壊・唯一の超大国としてのアメリカを経験している世代です。自ずと、社会と自分との関わりを意識せざるを得ません。そういう世代から皆さんはバトンタッチされるわけです。ですから、こういう世代の一員として言わせていただきたいことは、皆さんにもっと世の中のことに、関心をもってもらいたいということです。難しいことではありません。身近なことから考えてください。人間は、一人では生きていけません。「生かされている、おかげさまで、」という感謝の心、「おたがいさま、」という相互扶助の精神、そしてこの社会に何らかの形で役立とうとする奉仕の精神があれば、もっともっといろいろなことを知りたい、学びたいという気持ちが起こるはずです。そして常に問題意識を持ち、自問自答する習慣を身につけて欲しいと思います。

日露戦争は歴史的にどういう意義付けがなされているのでしょうか。明治新政府になり、「富国強兵」「殖産興業」の掛け声のもと、西洋諸国に追いつけと必死に努力したわけです。その結果、開国後わずか半世紀でアジアの後進国がヨーロッパの大国、帝政ロシアに勝利したのです。戦争を賛美するつもりはありません。逆に、もう戦争はあってはならないことだと思います。しかし、歴史的事実として、アジアの多くの国の人たちに「やればできる」という自信を与えたという意義があります。ヨーロッパ先進国とアジア後進国との力の差はそれほど大きくないとの認識が広がり、民族自立運動の精神的支柱となりました。人間でも、何かの目標に向かって努力しているときは、例え確かな手応えがなくても、結構成長しているものです。その後の日本の軍隊は組織として腐敗・堕落しました。内向きの組織文化がはびこり、外界と遮断されたところで、構成員の居心地のよい論理だけが通るようになりました。航空機の発達という状況の変化に対応できない組織、冷静な議論を、力で押しつぶす組織になってしまいました。そして、国土を焦土と化した太平洋戦争と続くのです。

「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と申します。どうか皆さん、こういう節目の時々に、「学ぶ姿勢・考える習慣」が本当に身に付いたのか、考えてみてください。

これからは一生、勉強です。個人を磨く大切さを忘れないで欲しいと思います。

 さて、皆さんの今後の進路はさまざまに分かれます。しかし、21世紀の社会は、どんな職業を選択しても、国際化・情報化・少子高齢化の影響を逃れることができないと思います。国際化すればするほど、自分の依って立つ基盤が大切になってきます。その基盤を自分自身で理解し、世界の人々にわかってもらえる能力が要求されます。

情報が手軽に、大量に入手できるようになればなるほど、情報を選択していく能力が要求されます。選択する際に自分自身の価値観、他人と違う独自の視点が大切です。そして、違う価値観、自分と違う視点からの意見を排除するのではなく、どこかに共通項を見いだしていく、そういう協調の姿勢が必要となってきます。

現在の日本の社会・経済構造はもう右肩上がりの成長を前提と出来なくなりました。少子高齢化といわれる現象が象徴的です。技術革新がなければ、成長はありえない。逆に言うと技術革新により、世の中が大きく変わる、そういう可能性をはらむ、変化の激しい時代になってきたと考えています。しかし、どのような時代になろうが、人と人とが協力しあって社会を構成していることには変わりありません。不易流行ということばがありますが、根っこの部分というのは案外変わらないものです。

どうか、卒業生の皆さん、この千厩高校で学んだ基礎・基本を大切にしてください。卒業したことに自信を持ってください。ともに学んだ学友を今後も大切にしてください。そして、皆さんを育んでくださったご両親、東磐井のふるさとを大切にしてください。これらはすべて皆さんの根っこの部分であるからです。

旅立ちの日に当たり、皆さんがそれぞれの進路で、更に飛躍していくことをお祈りしながら、皆さんを送り出したいと思います。

 ご来賓の皆さま、本日はご多忙の中、ご臨席を賜り誠にありがとうございました。

終わりに、ご来賓の皆さま、保護者の皆さまには、今後とも本校教育の発展のためにご支援・ご協力を賜りますようお願い申し上げ、式辞といたします。

                          

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